石炭と水晶 或いは自転車泥棒と文明の迷路

小稲荷一照

石炭と水晶

機関船グレカーレ

 セレール商会の次期当主が約されているグレン・セレール氏がローゼンヘン館を訪れたいと手紙を送ったのはヴィンゼにとって少しばかり気分が上向いてきた伸びてきた日差しが夏の暑さを思い出させ覚悟を求める時期だった。ついては下の娘を連れてゆこうと思うがよろしいかという内容であった。

 概ね十日に一度の頻度で船を出しており、石やら鉄やら石炭やらを買っている。片道二日の不自由もあるかと思うが、お出でが四人までならその舟に便乗いただいても構わない。と返事を受け取った。


 ユーリ・セレールが父のグレン・セレールと共にローゼンヘン館に赴いたのは、彼女の強引な希望だったからだ。グレンはユーリが夕餉の席で学校が休みになる時期に合わせて遠出をしたいといい出したのに取り立てて反対しなかったし、自分がローゼンヘン館に赴く用事があることまでその席で振ってみせた。

 当然に妻は良い顔をしなかった。


 セレール家は学問所での席次を女児に求めるような家柄ではなかったし、学志館も初等科のうちは席次という概念がほとんどない。読み書き算盤が正しく出来て、どこになにがあるかわかるくらいの知恵がつけば良しと言う程度のものだった。

 信用ある商いに携わる良家の子女に必要な資質は、そういった机の上の正しさではなく、実際にその正しさを誰がどの様に使っているかをみせることだとグレン・セレール氏は考えていたから、娘が自分の意志で物見遊山にローゼンヘン館につれてゆけと言い出した事自体は、彼女自身の幼い決断として良い学習機会になるだろうと判断した。


 娘がローゼンヘン館の主ゲリエ・マキシマジンと恋仲になるとはツユほども思っていないけれど、ああいう論理の牙城のようなものがデカート州の辺境で魔王の城のごとくそびえており、物語の悪魔の如き驚異の人物がいることをわきまえておくことは大事だと思っていた。

 現当主である父ゼィド・セレールと態度は違えども、おそらく驚異を脅威と理解したことはグレンは知っていた。しかしそれならなおのこと自分はある程度、今のうちに確かめる必要があると感じていた。




 もちろん妻は幼い娘が荒れ果てたヴィンゼまでの道のさらに北の果ての道を行けるはずもないだろうと言う理由で娘に正面切って反対したが、そのことも結果としてグレンにとっては好都合だった。

 ユーリは意固地になって旅に行くことを決意したし、その道程が失敗することは殆ど無いだろうとグレンは知っていた。

 グレンの妻は愚かではないが、あまりに常識的すぎた。




 ローゼンヘン館のグレカーレという名の機関船は一般的な櫓船や帆船とはちがい、見た目よりも重たい船だった。積み荷の量は四人だけと言われたが、セレール家の商家にありがちな振る舞いすぎの土産物も積むだけなら詰める。という塩梅で、執事を樽かトランクかのように扱いたくないなら連れてくるなということかとグレン氏は理解した。

 船旅はこういうところに面倒がある。


 二枚貝を起こしたような幅広の布切りバサミの刃のような船型は外洋船では多いけれど、川船ではあまり見られない形で、流れの深いところだけを狙うようにまっすぐ走り抜ける大きな船だった。細い船形だと櫓方を並べにくくなるし、フネの腰がバタつきやすくなる。

 グレカーレは機関が重く、船足の速さにかかわらず舵の効きが流れに対して落ち着いていて、ときに横切る船を先にゆかせたりもするが、あまりに川の流れを気にしないままに進む船だった。

 後ろに大きな曳船をひいているというのによろけもしないで進むのは、頼もしいを通り越して不思議ですらある。だが、あの曳船のお陰で土産の全てを載せることが出来た。


「川底の様子が見えているのかね」

 流石にあまりに無造作に進んでいるように感じたのでグレンは船頭に訊ねてみることにした。

「以前はいくつかヤバい瀬があったんですが、ダンナがさらっているんでそのあたりは大丈夫です。今後も大水が出るたびに都度さらう手はずです」


「さらった瓦礫はどうするんだ。河原に積んで護岸にでもするのかね」

「あ、いやいま。ダンナが館から川口まで道を敷いてまともな港にしようとしているんですよ。で、適当に水抜きながら引っ張って上がってる感じっすね」

 ユーリには規模も意図もわからないけれど、大きな大工仕事が始まっているということだけはわかる。


 船の上で湯を炊くことについても贅沢におこなっているようで、船員は好き勝手に茶を飲んでいるようだったし、セレール家一行にも自分たちのついでに振る舞い、ついには執事であるワングに湯と茶の入れ方を教え好きに使えといい出した。

 茶の飲み過ぎで男たちはひっきりなしに艫に立っては立ち小便をしている。


 航海が順調である間は船員の仕事は甲板上を歩き回って周囲を見張ることだから、そういう意味で無意味ではないのだけど、立ち小便に並ぶわけにゆかないユーリとしてはそうもゆかない。

 艫で尻を剥いて花を摘むなどというのは、乙女にとって耐え難い屈辱ではあった。

 ユーリは必死になって夜まで我慢してせめて見えない暗がりでやるようにした。

「お嬢様」

 ついてきてくれたメイドのマリーが簡素な杉の箱を持ってきた。

「なに?」

 額から汗を垂らしながら、ユーリは尋ねる。

「これに用を足されますよう」

 中には杉のおがくずが入っており、濡らされたワタの玉が用意されていた。

「こんなのどうしたの?」

 簡素だがオマルであることは分かる。

「女衆が乗るならと、船の方がご用意くださったようです。こちらの船はこのくらいのものなら釜に焚けるからと」

 ユーリはもう返事もせぬまま、慌ててその場でオマルを使った。


「それで、これはどこに持ってゆけばいいって?」

「下に機関室というところがあるそうですが、そこは本当に危ないらしいので、箱を船員に渡して燃やしてくれと」

 ユーリはマリーと一緒に船員を探す。


 探すと言って大きく歩き回るほどのことはない。

 機関船であるグレカーレは比較的あっさりとした作りをしていて荷物をくくるための甲板が前後にあり、真ん中に人が集まる高台のような船室があって、二人しかいない船員は、一人が舵を取りつつ船釜の様子を確認し、釜の様子が安定しているときは、航路川面の様子を確認するような有り様でグルグル船の中を巡っていたから、船員に会いたければ、船室を目指せばいい。

 ユーリが船室を離れたのは、手に持っているモノのせいだった。


「お、お嬢様、顔色が治ったようで良かった。申し訳ないな。男所帯なもので準備までしたところで、すっかり忘れていた」

 船頭が歯をむいて笑う。髭面だが鼻の通ったハンサムなのは間違いない。

 ちょっと歳がいっていることを除けば、冒険物語の主人公のような風貌の人物ですらある。

「おかげさまで恥をかかずにすみました」

「なに。旅なんてのは恥をかきにゆくようなものだ。歳を取れば恥で死ぬこともあるが、若いうちは恥をかいて覚えることのほうが多い」

 言葉遣いも、なんか冒険小説の登場人物のようだと、ユーリは内心笑った。


「お名前伺っても」

「もちろんだ。おれはマークス・ミソニアン。よろしく。セレール家のお嬢さん」

 ミソニアンは手を拭ってから手を差し出してきた。

「ユーリ・セレールです」

 ユーリは握手をする。


「おい。ミリズ。オマエもこっち上がってきてお嬢さんに挨拶しとけよ」

 ミソニアンが扉を開けて階段の下に怒鳴る。

「オレいま、手、真っ黒なんだけど」

 上がってきた男は両てのひらをユーリに向ける。

 手どころか顔まで真っ黒だ。

 ユーリは驚いて自分のてのひらを相手に向ける。

「うん。それで挨拶はいいや。オレは、エイズ・マー・ミリズ。よろしく。アンタは?」

 あっさり答えた素朴な男性は鉄砲打ちとか童話の狩人みたいな雰囲気のちょっと世間離れした雰囲気の人だったが、悪い人には思えない。

「ユーリ・セレールです。よろしくお願いします」


「うん?それ使ってみたのか。どうだった?ダンナの姐さんがお嬢方に使わせたときにいい感じだったからいくらか作っといてって言ってたやつなんだけど」

 ミリズは自然に手を伸ばしてユーリはその手にオマルを渡した。

 その動きもごく自然で、ユーリは自分がなにを初対面の男性に手渡しているのかぜんぜん気にしていなかったことを少し後になって気がついたほどだった。


「おかげで助かりました。その旦那さんのお姉様という方にもお礼を」

 そう聞くと二人の男は大笑いし始めた。

「すまねぇ。まぁそうなるな。姐さんは今は共和国軍にお勤めだ」

「お戻りはいつなのですか」

 ユーリは二人が大笑いした理由がわからず真剣に訊ねた。


「さてな。共和国軍てのも因果な商売だからな」

 ミソニアンが達観したように言う。

「おんなじ振り回されるんでもオレはこっちのほうが性に合ってるよ」

 そう言いながらミリズはオマルを持って階下に降りていった。



 ダンナの姐さんと呼ばれる女性、リザ・ゴルデベルグという人物が、ゲリエ・マキシマジンの求婚相手で猛烈な激情家でローゼンヘン館を巡って決闘寸前の裁判までした女性であるという話をユーリが聞かされるのは、この旅行から帰った後ちょっとしたサロンで知り合った詩人の時節詩の一節からだったし、そのあとソラとユエから二人が実際に館の裏手で決闘をしていたみたいだ。と当時のローゼンヘン館を巡る事情を聞かされて仰天したものだった。

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