水面の影
濱口 佳和
一、出会い(一)
慶応元年(一八六五)正月二十三日。
京は夜半から雪になった。
一夜明ければ青空に雲ひとつなく、一面の雪に冬陽が真夏のようにきらめいていた。
斎藤一は中庭に面した広縁に出ると、両手をあげて大きくのびをした。久しぶりにとれた非番の一日である。何するとはなしに浮き立つものがあった。
「斎藤さん!」
聞き慣れた声に振りかえると、いきなり雪の塊を顔面にくらった。
「やあ、あたった、あたった」
「総司!」
悪戯のぬしは、庭の松の陰からひょっこり顔を出した。
美貌である。
細面の、どちらかといえば女性的な顔だちのなかで、大きな目が悪戯っぽくかがやいていた。肌はぬけるよう白い。白いというよりはそのまま血脈が透けてしまいそうな、そんな色だった。色の薄い瞳とおなじ、陽に晒すとやはり色が褪せる髪は細くしなやかで、たっぷりとした量感がある。しかし、何よりも青年らしい闊達が、それらから脆弱さを払拭していた。
「これからおでかけですか。今日は確か……非番ですよね」
沖田は雪のうえに下駄の跡を残し、軒下までやって来た。
「ああ。所用があってね。午後には戻るつもりだ」
「それはよかった」
沖田は廊下に上がると、そっと耳を寄せた。
「では、お戻りになったら、私におつきあいいただけませんか」
「これかい? めずらしいこともあるもんだ」
斉藤は竹刀を振る真似をした。
沖田は隊中一の剣の達人である。だが、隊中一の稽古嫌いでも知られていた。
「違いますよ。土方さんみたいなこと、言わないで下さい。実は、斎藤さんに見立てて頂きたいものがあるんです」
「おや?」
斎藤は人の悪い微笑を浮かべた。
「とうとう、総司にもいい人ができたのかね。それは重畳」
「わかってらっしゃるくせに」
沖田がすねた声で答えるのへ、斎藤は柔らかく目を細めた。
「江戸の光殿へだろう? 四つ刻には戻る。それからでもよいならば構わんが……」
「お願いします」
沖田は目が輝かせた。
と、軽い足音とともに、怜悧な目をした細身の男が姿を現した。
副長の土方歳三である。黒羽二重の紋付に見事な仙台平の袴を着け、黒々した豊かな髪を総髪のまま大髻に結いあげていた。
土方は沖田の姿を見つけると、役者のようだと騒がれる涼やかな目元をほころばせた。
「ここにいたか。これから黒谷へ行く。おまえも一緒に来い」
黒谷の金戒光明寺には、新選組の預主である会津藩の本陣があった。
「ご存じですか。私は今日、非番ですよ」
「そうかい。じゃ、頼まねえよ」
土方が気を損ねたように踵を返すと、沖田は聞こえぬほどの小さなため息とついた。
「……まったく。これじゃ、どっちが子供だかわからないですよ。私からお願いしたのに申し訳ありませんが、また今度お願いします」
「土方さんも、沖田君が警護についてくれれば安心なんだろうさ」
「そこまで私の腕を買って頂いて嬉しい限りです」
「鬼沖田、だそうだね」
「やめてください。斉藤さんまで」
「まあ、気をつけて」
斎藤は喉で笑いながら、当初の予定どおり玄関へむかった。式台を下りて長屋門をくぐる。門衛の隊士が急いで姿勢をただした。
(さて──)
南北へのびる白い道の上を、轍のあとが交差しながら続いていた。
京の冬は寒い。
山あら吹き下ろす風は、身体を芯から凍らせる。
斎藤は太陽を仰ぎ、眩しげに手を翳した。
そのまま坊城通を北へ歩きだした。
この年、新選組は上洛以来二度目の正月を京都で迎えた。
新選組は文久三年(一八六三)、京都守護職である会津藩主松平容保公御預として結成された浪士隊である。主に、市中の不逞浪士の取締りを職務とした。
昨元治元年(一八六四)六月に起こった池田屋事変で、新選組は一躍全国に勇名を轟かせた。
祇園宵山の夜、二十余名の倒幕浪士が参集していた三条小橋袂の旅籠池田屋へ斬り込み、浪士らを殺傷、捕縛したのである。後に、明治維新を一年遅らせたともいわれた、幕末史上名高い事件である。
以降、新選組の雷名に数多くの同志が結盟し、隊の概要は日を追うごとに拡大していた。隊士数も二百名を超え、常備兵力としては数万石の大名に匹敵する陣容となっていた。
また、昨年暮れには、北辰一刀流の遣い手であり、尊皇の志に篤く硯学な人物として名高い伊東甲子太郎が門弟八名を伴って上洛、加盟している。
隊長の近藤勇はこれを厚く遇し、自身に次ぐ参謀の地位で迎えた。
この伊東の参加は、武力一辺倒の集団であった新選組に微妙な変化をもたらしていた。
だが、隊の実務面を一手に握っていた副長の土方歳三は、言を弄することは隊の弱体化を招きかねないと危惧し、対抗措置として新たな職制案を温め始めた。
のちの油小路における伊東一派の粛清につながる、土方と伊東一派の内部抗争は、既に水面下において始まりつつあったのである。
京の北東部比叡山南西の麓、一乗寺清水町あたりから叡山へ向かう道がある。
古くは僧兵が通ったと言われるこの坂は、洛中より仰ぎ見ると、あたかも雲が立昇るごとくに眺められたという。名を雲母坂。別名不動大坂と言った。
その坂を半里ばかり上ったところに荒寺があった。本尊の見事さから察するに、元々は由緒正しい寺だったようだが、今では見るかげもなく荒れ果てていた。
斎藤の行き先はそこである。
昨夜からの雪で道はぬかるみ、溶けはじめた雪はちろちろ蛇行するちいさな流れとなって坂を下っていた。草履はいうにおよばず、ぬれてかたく縮んだ革足袋が指先に食い込んで、余計に足先が凍える。
壬生の屯所のあたりはまだしも、洛中ではすでに雪がかき分けられていた。
だが、四条大路を東へ抜け、白川通を北上したさらに北東。修学院に近づくにつれてあまりの道の悪さに辟易し始めた。
このまま雲母坂を上るか引き返そうか、斎藤は坂の下で首をひねった。
その時である。
突然、人影が角を曲がって飛び出した。
斉藤はとっさに身体を引いた。相手も驚いてたち止まろうとした。が、雪に足を取られて勢いよく転倒した。
「大丈夫か?」
「助けてくださいっ!」
弾けるように抱きついてきた身体をささえて、今度は斎藤がぶざまに尻餅をついた。
まだ華奢な少年の身体である。斎藤の着物を鷲掴みにした手が、ぶるぶると震えていた。
「どうした。放しなさい」
「た、助けてください!」
少年が曲がってきた角から声高な人声が聞こえる。泥雪を踏んで近づく気配に、腕のなかの身体が一層強張った。
「追われているのか」
せわしく首が縦にふられた。
(続く)
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