十四、漂泊(二)
知らぬはずがない。
「世間には善人として通っていますがね。数え上げればきりがないほどの容疑がある。ところが、一切証拠がない。おまけにその財力で、幕閣のお歴々も言いなりらしい。事実、私が相模屋を調べ始めてから色々と横車がありましてね。後押しして下さる方がいるものだから、こうして生き永らえていられますが」
斎藤どの、と溝口は真っ直ぐに視線をすえた。
「本間四郎は、相模屋を追い始めてようやくつかんだ糸口になのです。今までの経緯を考えると、その少年の身も危ない。私はその前に保護してやりたいと思っている。無論、犯した罪は償わねばなりませんが」
斎藤は、おのれの手には負えぬ一件であることを知った。
「定一は美濃屋の手代だそうだ。四郎が上洛したころ現れたらしい」
溝口の眉間が険しく寄る。
「美濃屋は相模屋の分家です」
「分家?」
「子分、と思っていただければ間違いない」
溝口は口許に指をあてて、しばらく思案していたが、
「……危ないな。私は所司代へまわります。申し訳ないが、斎藤さんは長屋を見てきてください。所司代で落ち合いましょう」
斎藤は自室へ飛び込むと大刀をつかみ、玄関へむかった。沖田がその後を追ってきた。
「どちらへお出かけです?」
「一寸出てくる。昼すぎには戻るから、土方さんへよろしく言っておいてくれ」
「服部さんと本間さん、どういういきさつなんですか? 定一って」
斎藤は足を止めて振り返った。
「あとにしてくれないか」
「斎藤さん」
一瞬、ひどく傷ついた瞳を見せた沖田に、斎藤は舌打ちした。
「急ぐのだ」
すまん、と小さく謝って、逃げるように身を翻した。
なにかが頭をよぎり、斎藤は目を瞬いた。
四郎が沖田に似ているのである。沖田と同じ顔をした四郎が、哀れでならなかったのだ。そうではなかったのか。
(今、俺は)
四郎と同じ顔をした沖田の蒙昧さに、舌打ちしたのではないか。四郎とくらべてあまりにも無垢に思えた沖田に、いらだちを感じたのではないか……?
斎藤は頭をふってその考えを振り払った。
(そんなことは、いまはどうでもよい)
しかし、考えてみれば、服部が本間四郎を知っていたのはあたりまえだった。四郎が定一を知っていたのも、服部と定一が面識を持ったのも、おそらく芳町の陰間茶屋であろう。京へ上り、沖田に会って驚いたのはむしろ服部の方に違いない。
(すべて偶然だ。偶然が重なりすぎて、俺は身にあるはずのない疑いを四郎にかけたのだ)
被害者はむしろ四郎だ。
過去から逃れようとする四郎を、その過去へと押し戻しているのは、ほかならぬおのれ自身ではないだろうか。
斎藤は、なかば駆けるように堀川通を五条まで下った。
戻っていてほしいと念じながら、上数珠屋町の長屋へ飛び込んだ。
四郎の住居はきれいに片づけられていた。
斎藤が出た時に、あれほど乱れていた座敷は整頓され、掃き清められた気配さえあった。
「四郎はん?」
顔見知りの女房が戸口から覗いていた。
「四郎はんなら、さっき定一と出かけはったえ。まだ近くにいるやないやろか」
「なんだと!」
斎藤は礼も言わずに飛び出した。
盲滅法あたりの道をのぞきこむ。通りがかりの者に、四郎と定一の風体を尋ねた。神社の境内、お堂のなかまで捜し回った。
(どこへ行ったんだ)
嫌な予感がした。
なぜ、定一は四郎を連れていったのだ。四郎が江戸で犯した罪を、定一は知っているに違いない。だからといって役人に引き渡そうというわけでもない。それをネタにゆすろうが、たいした金を四郎が工面できるわけでもないだろう。たとえ、再び色街に売っても、かえって足がつき、定一にも詮議の手はのびるだろう。
(ならば、なぜ四郎につきまとう)
定一が、四郎を服部に引き合わせたといっていた。
(あの時、定一は何と言っていた)
初めて四郎の長屋へ行った時、定一はすれ違いざまに四郎へ何と叫んでいたのだろう。
──いいか、忘れるんじゃねえぞ、旦那はとうに……。
(四郎は何に巻き込まれたのだ……!)
いつのまにか、時を告げる梵鐘が鳴っていた。
思いのほか時間を浪費したことにようやく気づき、斎藤は来た道を引き返す。
所司代で溝口と落ち合うことになっていた。
四郎がもし所司代へ行っていれば、かれらが引き止めていてくれるはずだ。
力みすぎた脛が、歩くたびに痛んだ。
堀川丸太町の所司代屋敷へかけ込むと、見慣れた門番が実直そうな顔を覗かせた。
「沢さんはどこだ!」
かみつかんばかりの斎藤の勢いに、門番はおどおどと目をしばたたいた。
「溝口さんと沢さんだ!」
「へ、へえ」
斎藤がしめあげる衿口を必死ではずそうとした。大きくむせながら、懐から書付を出した。
「沢さまからです。捕手を連れて、四半刻ほど前に行かはりました」
ひったくって開くと、ただ、三条河原で待つとだけ走り書いてあった。
「なんでも、三条河原へ急がなあかんいうてましたわ」
斎藤はそれを懐へねじ込みながら、門番へ尋ねた。
「明け方に誰か来なかったか?」
「へ、へえ。きはりました。まだ空が白みはじめた頃や。開門の時刻やないのにかまわず叩くんで、わてが出ましたんや」
「それで」
「まだ十六、七のお若いおさむらいさんでした。なんでも今日お仕置になる兄さんに会わせてくれ言うてききませんのや」
「それで!」
「それでって、どうしたもこうしたもあらしまへん。押し問答を四半刻ばかりしてましたんやけど、あきらめて帰りましたわ。でも、あんまり気の毒なんで、首が三条に晒されるいうことを教えたんやけど。ほな、沢さまの三条いうんはそのことやろか……」
斎藤は門番の言葉を最後まで聞かないうちに、再びかけだした。
(三条河原だ)
兄の首が晒されている。
そこには、四郎がいる。溝口の話が本当であれば、必ずいるはずだった。
斎藤は、御池通を東へかけた。すでに脚がいうことをきかない。必死で走っているつもりが、からくり人形のようにぎくしゃくとしか動いていかなかった。しかし、疲れ切った身体とは反対に、頭は明瞭に澄んでいくようだった。
(行ってどうするのだ)
見つけ出し、その腕をとらえ、おのれを見上げる瞳にむかって何をいうのだ。おのれの仕打ちを懺悔し、許しを乞おうとでもいうのだろうか。そして、兄はもういない、追ってきた人は、そこで骸になっていると、あの少年へ叫ぶのだろうか。
(そこまでして何が欲しい)
あの顔に振り向いてほしいのか。あの瞳におのれだけを映してほしいのか。あの口唇がおのれの名だけを呼び、あの命がおのれとともにあればよいのか。
(あれと同じ顔、同じ瞳、同じ──)
もう二度と手離したくない。諦めたくない。かなわぬものと歯噛みして、おのれの無力さに慙愧しながら失われていくのを眺めてなどいたくはなかった。
(ならばいっそのこと、俺の目の前から消えてくれ。いまさら、なぜあれが俺の前に現れなければならないのだ……!)
失うことには、耐えられなかった。穏やかに微笑む白い顔。なめらかな頬。やわらかな口唇はおのれの名をつむぎながら、涙を睫毛の深いかげからこぼした。そして、そのはだは──。
斎藤は手を握りしめた。掌に残る感触にいたたまれず、ふいに大声でわめきたい衝動にかられた。
(俺はなにをしているのだ!)
自身の理性にすがるように自問しながら、ただ駆けた。額に汗が吹き出し、目尻をつたって首筋へ落ちていく。胸が痛かった。吸い込む冷気も感じていなかった。
ようやく三条小橋をすぎたころ、前方に人垣が見えた。
大勢の見物人が、幾重もの輪になって刑場を取り囲んでいた。幾つかの首が台上に並び、罪状を記してあるのだろう、高札が数本立てられていた。
斎藤は、そのなかに確かに四郎を見た。
少しづつ引いていく人々に取り残されるように、華奢な背中が竹囲いをつかんだまま、じっと無惨な義兄の姿を見つめていた。
「四郎!」
少年は、おのれの名が呼ばれたのに気づいたのか、ゆっくりとした動作で顔を上げ、四方を見回した。
「四郎!」
斎藤を認めた瞳がゆっくりと焦点を合わせた。茫然とした表情に生気が甦り、口唇が何ごとかをつむぐ。
「四郎……!」
斎藤はそれを聞きとるすべもなく、人々をかき分けるように前へ進もうとした。
そして──。
斎藤は、その瞳を一生忘れることはないと思った。
その瞳の色に呪縛され、押し寄せてくる人波に押し戻されながらも、視線をそらすことができなかった。
何も映さない深山の湖面のような、さざ波さえその裡に吸い取ってしまいそうな底知れない静けさ。
あの瞳におのれの姿を映したいと、これほど望んだことはなかった。
それは憎しみでもいい。侮蔑でも、嘲りでも、哀れみでさえよいと思った。
ただ、ここにおのれはいるのだと、あの少年に知らしめたかった。
(俺はここにいるのだ……!)
「四郎!」
いたたまれず、叫ぶ。
押されてよろめいた老婆の身体が押しつけられた。それをささえ、目を転じた。
(な…に……?)
四郎は、消えていた。
ぽっかりとあいた空白はすぐさま往来のなかに消え、幻のようにその残像が斎藤の眼底に残っていた。
四方の人頭に視線をめぐらせた。
「四郎っ!」
いまのは錯覚だったのだろうか。
あわてて否定する。
(俺を確かに見た)
しかし、必死に少年の姿を求めながら、一方で、おのれが許しがたいほどの安堵感に包まれていくのを感じていた。二度と会うことはないと、朧気な確信さえあった。
(もう、これで心煩わされることはない)
封じた思いを無理矢理にこじ開けられ、自身の醜さに相対せずともよい。手がとどかぬとわかっているものを、もう一度求めたりせずともよいのだ。
(ならば、なぜ探す)
あとはただ、忘れればいい。
いままでしてきたように、目を背け、忘れたふりをすればいい。
狂ったように夢中で少年の名を叫び続けるおのれを、どこか高みにいるもう一人の自身が静かに俯瞰していた。
(これが偽善というものか)
無様なほど取り乱す姿を見下ろしながら、もうひとつの醒めた頭が考えた。
失ったとわかった瞬間、こどもが玩具をほしがるように惜しくなったとでもいうのだろうか。
おのれの仕打ちを繕い、いいわけと逃げ道をつくるためにこの無駄な行為に没頭しているふりをしているだけなのか。
(俺は)
それでも、失われた姿を求めずにはいられなかった。このまま自分自身を許すことはできなかった。
その日より、本間四郎は消息を絶った。
(続く)
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