十五、驟雪
「斎藤さん、そろそろでかけませんか」
沖田総司が障子越しに、幾分遠慮がちに声をかけてきた。
「すぐ行く」
仕上げに羽織の紐を結ぶと、斎藤一は大刀を片手に廊下へ出た。
その眼前を、白いかたまりがふいにかすめ、独特のにおいが懐かしげに鼻孔をついた。
「雪……か」
「ええ、さっき降り始めました」
一寸ちかくもあるぼたん雪が、はたり、はたりと音をたてながら、見るまに風景を濡らしていく。
「これでは帰るころは、大変なことになっているかもしれませんね」
庭を見やる沖田の横顔から視線をはずし、斎藤は後手に障子を閉めた。
「行こう」
「はい」
気づかわしげに沖田は微笑み、斎藤に従った。
玄関で小者が差しだした傘を広げ、二人は雪の舞う中を祇園へと向かった。
今宵、隊長の近藤勇が宴席を設けてくれるという。試衛館以来の仲間達だけの、ごく内輪なものだった。慰労会という名目ではあったが、それが誰のためでもなく、おのれのために設けられたものであろうと、斎藤は察していた。
一月晦日、本間四郎が失踪してから十日ばかりがたった。
(それほど俺は気落ちしているように見えるのだろうか)
むしろ、その逆ではないかとさえ思う。
あの日、三条河原で少年の姿を見失った時の安堵感を、どう説明すればよいのだろうか。
後ろめたさとないまぜになって、少年の姿を捜し続けた。決して見つかることはないという確信があればこその行為だったと、誰に言えようか。
奇妙なことに、あの三条河原には溝口も沢もいたという。
斎藤が来る以前に捕手を手配りし、本間四郎が姿を現すのを待ち構えていたというのだ。
(だがな、現れなかったよ)
沢は偽りを言ったのだろうか。
(では、あの四郎は、俺が見たあれは何だったというのだ)
目の錯覚などではない。確かにあの場に少年はいたのだ。
それだけは断言できる。
そして、溝口健吾は三日もたたぬうちに江戸へと発った。
いまとなっては、何故そうまでして役人が四郎を追っていたのか、服部武雄との関わりも、定一という男のこともどうでもよくなっていた。
あの日以来、四郎のことを話題にする者はいなかった。初めから存在しなかったかのように何ひとつ変わることなく日々が過ぎていった。
斎藤は、かたわらを行く沖田の端麗な横顔に再び目をやった。
この顔だった。
失われ、輪郭さえ薄れてしまった少年の面影を重ねようとして、あまりの馬鹿馬鹿しさに小さく嗤った。
「斎藤さん?」
向けられた笑顔のおだやかさに、かすかな苛立ちさえおぼえる。
その瞳。深く澄んだ哀しみをおびたまなざし。
これは誰のものなのだろうか。それと知らず、これを少年のうちに映して、そしてその映したものこそがあの少年のものであると思いこむ。そんなあるはずのない幻を追っていたのだろうか。
沖田の高下駄が軽快な拍子で響き、袴の裾が勢いよく雪をはらっていった。
──あの時、腕に抱いたものは何だったのだろう。
手をのばせば、あの時と同じ顔、同じ肌にふれ、その声を聞きながら抱きしめることができるのだ。
(だが、それは)
突然、沖田が立ち止まった。斎藤もつられて前方を見る。すでに鴨川も近い。四条大橋の上に人だかりができていた。
「なんでしょう」
目で斎藤を促すと、沖田はにわかに厳しい顔つきになって足をむけた。
前を行く沖田の背が、いつのまにか激しさをました雪に飲み込まれるように消えていった。斎藤は傘を傾け、その雪を顔にうけた。睫毛に落ちかかると、見るまに水となって目にしみた。
「斎藤さん!」
沖田が閉じた傘を片手に走ってきた。斎藤の腕とると、有無をいわせずに引っぱった。
「どうしたんだ」
「いいから来てください」
橋からそれ、川べりへ下る石段へ連れていく。河原にしゃがみこんでいた黒羽織の男が立ち上がって、こちらへ手をあげた。
沢清十郎だった。沢は手にしていた十手を刀の後ろへはさみこむと、近くでなにやらいそがしげに動き回っていた目明かしを遠ざけた。
沢の背後にある筵をかけられたものに、斎藤は嫌な予感がこみあげ、ためらった。
沖田を振り返ると、かれは斎藤からゆっくりと視線をはずし、意味もなく空をふり仰いだ。
筵の端から、おぼえのある着物がわずかにはみ出していた。
(四郎なのか)
飛び出した細い足が、命が失われたもの特有のかたい透明さを保ち、砂利の間をぬうように黒髪が流れていた。
斎藤は筵へ手をのばし、それが無様なほど震えていることに気がついた。
「やめな」
沢がその手を制した。
「お前さんに見られちゃ、仏も悲しかろう」
白い足の、色を失った爪先へ雪が重なっていく。溶けもせず、次第に積もりゆく様を、斎藤は踞ったまま凝視し続けた。
どれほどたったろうか。
肩におかれた手のぬくもりにふり仰ぐと、沢が傘をさしかけていた。
「仏の様子だがな… 、たちの悪い奴にいたぶられたんだろう。かなり酷い。とどめに前袈裟に斬られている」
一太刀で絶命したろうからあまり苦しまずにすんだろう、と沢は静かな口調で言った。
だが、斎藤は不思議なほど平静なおのれに、苦笑せざるをえなかった。すべてが他人事のように焦点が結んでいかないのである。
(こうなるとわかっていた)
四郎が姿を消してほどないころ、雲母坂の瑞応寺を尋ねた。万が一、四郎が寄ってはいないかという淡い期待は、やはりかなえられなかった。
──もう、生きてはおるまい。
顛末をかいつまんで話すと、智光坊はそう言って深く吐息をついた。
──あの者の目には、生への執着がなかった。それにしても、芳町にいたとはな。
酷いものだ、と智光は歯の欠けた口許をゆがませた。
確かに、これではあまりにも酷い結末なのだろう。
だが、この少年をあの時ひきとめることができたとしても、なんの意味があったのだろうか。主人殺しとして、兄同様に首をうたれるのか。とうまる駕籠に乗せられ、さらし者となってわずかの日々を生きながらえることでよしとするのか。
「斎藤さん」
沢はどこか遠くにに目をすえたまま言った。
「ついでに言っておくが、例の定一だがな、奴もおととい死人で見つかったよ」
「そうか」
「心の臓を前からひと突きだ。得物は、どすか脇差しだろう。恐らく、顔見知りの仕業だ」
沢は鴨川の水面に視線を投げた後、ぽつりとつぶやいた。
「仇を、討つつもりかい」
川のせせらぎが今さらのように耳につく。
斎藤は、無言で立ち上がった。
それを合図にしたかのように戸板を担いできた下引きが、手慣れた動作で骸を移した。勢いをつけて持ち上げた瞬間、ずれた筵からのぞいた片手に目をうばわれた。すでに硬直がとれていてさえ、おとずれた断末の凄まじさに指先が引き歪んでいた。
(仇、か)
ある男の浅黒い精悍な顔が浮かぶ。
沢が、斎藤へ小さな包みを差し出した。
「これにおぼえはねえかい」
丁寧に懐紙に包まれた金平糖を、斎藤は表情の消えた目で見つめた。
「あの子が……な、大事に握っていたもんだ」
すでに大方が溶け、小さな豆粒のかたまりのようになってしまった砂糖菓子を、斎藤は手に取ることができなかった。
(あの男だ)
それは確信だった。
証拠など、どこにもない。
だが、あの男がこの少年を殺したのだ。
押しつけるように沢に渡された懐紙から、金平糖が風にあおられ、薄く積もった雪の上へこぼれていった。あわてて手を伸ばしながら、斎藤は既視感にふとその手を止めた。
(大事なものか?)
問いかけに、少年はあきらめたように首をふった。
あの時と同じように、みる間に砂糖菓子は雪のなかで溶けていく。
(あの男を討たねばならない)
ようやく湧きだしたその決意が、あえなく消えていくのを恐れるかのように、斎藤は心中深く抱きこんでいった。
あの男を、討たねばならない。
だが、それは、今ではないのだ。
息をつめ、好機を狙い、必ず仕留めねばならない。
し損じは、決して許されない。
(誰が許さぬというのだ)
斎藤の迷執をあざ笑うかのように、風に惑った雪片がうねりとなって押し寄せてきた。
視界のなかで粉雪が横なぐりに吹きつけ、鴨川の水面に散っていく。
幾千幾万の雪は、おのれをうつす水鏡と重なりながら消え、河原の小石を白く埋めた。さしかける傘の重みは刻一刻と増していくようだ。
「斎藤さん」
沖田のつぶやきに、斎藤は固く目を閉じた。
──斎藤さま。
四方を雪に閉ざされた世界に、少年がひとり佇んでいた。
「総司、先に行っていてくれないか。あとから必ず行く。近藤先生にすまないと伝えてくれ」
沖田は無言で頭を下げた。
砂利を踏みしめる音を背中で聞きながら、斎藤は傘を閉じて水ぎわへふみだした。
鴨川のおだやかなせせらぎが、足元を濡らしていく。
水面にうつった薄れゆく輪郭に、よく似た面ざしが重なり、そして、消えた。
すべてを覆い隠す白雪の帳のなか、斎藤は瞑目して天を仰ぐ。
雪が、激しくなった。
(了)
水面の影 濱口 佳和 @hamakawa
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます