十一、暁闇(一)

 数度、障子戸をたたいた。

 長屋は、足音さえはばかるほどの静けさだった。足もとには月明かりが深く陰影をきざみ、その影は淡くにじんでいるかのようである。

 息をころすように待ったが、応えがない。

 斎藤は静かに戸を引いて中へ身をすべらせた。


「どなたですか」

 座敷の奥で身じろいだ人影が問いかけた。

「夜分にすまない。斎藤だ」

 人影はあわてて立ち上がると、土間へかけよった。

「どうなさったんですか。なにか……」

「一寸、尋ねたいことがある」

 四郎は首をかしげたが、

「お上がりください。今、片付けます」


 火打ち石から火花が散り、ぼんやりとした灯りが行燈にともった。

「どうぞ、斎藤さま」

 斎藤はすすめられるままに腰をおろすと、片頬に明かりをうけて正面に端座する四郎を見つめた。寝みだれた髪が、幾すじか白い頬にまとわりついていた。それをそっとかきあげる指のほそさが、背後の障子に長い影となって踊っていた。


 四郎はなにもしゃべらぬ斎藤をせかすでもなく、心持ち顔をうつむけ静かに待っていた。

「兄上が見つかったそうだね」

 ようやく斎藤がかけた言葉に、ほっとしたように微笑んだ。

「はい。江戸での知り合いが見つけてくれました。今はしばらく京を離れていますが、春には戻ってくるそうです」


 花がほころぶように笑う。

 斎藤は重なる面影に、思わず視線をそらせた。四郎の水に流されていくような、とどまることさえ諦めてしまった風情に、沖田の面影が重なることはまれだった。


──私は諦めがわるいんです

 あれは去年の夏だった。

 蝉時雨のふりそそぐ木漏れ陽のなかで、つぶやくように言って日ざしをふりあおいだ。はっきりとした意思をもってすえられたまなざし。

 その潔さをかれは愛したのだ。はりつめた心から時おりのぞく、結晶のような儚さに魅かれたのかもしれない。

 何がそうまでしてかれをそこにとどめているのか、おのれれにとってゆるぎない存在をもつことが、そこまで人を強くするものかと、胸底をこがすような嫉妬とともにかれは感嘆した。

 感嘆は、時をおいて静かな諦念に変わった。

 そう思っていた。


──おぬしの執着は、よろしくない。

 瑞応寺の智光に、言われたのはいつのことだったろうか。それを今のいままで忘れていたことに驚く。

(そうではない。俺は目を背けてきたのだ)

 諦めることなどできないとわかっていたはずではないか。

 手に入れることがかなわぬと知っていても、思うことはやめられなかった。沈澱していくだけの思いは澱となってよどみ、徐々にそのかさを増していくだけだった。見守るだけでよいと唱える一方で、妄念はかきたてられはけ口を求めていた。


──手をのばせば、とどくかもしれない。

 うすら寒いささやきが胸中をかすめはじめたのは、いつからだろう。

 死病に冒され、真夏だというのに寒風に身をすくます小禽のような姿。むりやり絡めとってしまえば、奪えるかもしれないとなにかがささやいた。

 しかし、そのあやうい境界を越えてた時、おのれはつちかってきたすべてを失うのだ。思ってみれば、ただ、それだけのことなのではないか。


 斎藤は、自身を侮るような微笑を浮かべた。

「斎藤さま?」

 細工もののような繊細な顔が心配げにのぞいてくる。暗い灯りにうるむ瞳に、吸いよせられるように釘づけになった。


 愛しい顔がそこにあった。

 深山の波立たぬ湖面のような瞳は、憎悪にもえることだろう。その瞬間、あの目はおのれしか見ないのだ。ほかのなにものもない。おのれのみにむけられ、おのれのみを認める。その場で斬りころされたとて、なんの不満があるだろうか。

(いや、あの白い首をこの手で絞めて、命が消えるその瞬間まで目を離しはしない。そうすれば、もう俺以外に微笑むことはない。最後の手に入れるのは俺だ。二度と自分の無力さに歯がみすることもないのだ)


「斎藤さま」

 声に促され、斎藤はのぞきこんでくる顔に焦点をもどした。

(いまさら何を考える。それは得ることではない。俺が欲しいものはそんなものではない)

 まして、無様なさまを晒したくはなかった。


「ひとつ尋ねたいことがある。今日の午の刻ごろ、君はどこにいた」

 途端、穏やかに微笑んでいた四郎の表情が凍りついた。

「所司代配下の者が、君を長香寺で見たそうだ」

 無論、わざわざ尾行していたとは言わない。あわてて目をそらせた四郎へ、斎藤は続けて問いかけた。


「服部武雄を知っているね」

 大きく震えた。懸命に平静をたもとうとしているのか、見開かれた目と反対に膝におかれた手は着物をつかんで震えていた。


「もうひとつ。美濃屋の定一とはどのような知り合いだ。服部とどこへ行ったかは知らん。だが、私が新選組と知りながら、なぜ、服部を知っていると言わなかったのだ」

 四郎は唇を何度かしめし、ゆっくりと言葉をつむいだ。

「あの、存じあげなかったのです。服部さまが上洛されていたとは知らず、偶然にお会いして……」

「あの定一とかいうさんしたが君を服部に引きあわせたのではないのかね」

「あ、はい……」

「定一と服部が知り合いなのか? あの男は江戸者だな」

「はい」

 斎藤は大きく吐息をついた。

「なにを私に隠している。君と服部が知り合いであろうとなかろうと、無論私が口をだすことではない。だが」

「大丈夫です」

「大丈夫ではない。第一、その定一とかいう男は信頼できるのか?」

 四郎は、またうつむいてしまった。

「私にはとうてい信用できる男とは思えん」

「兄をさがしてくれました」

「定一が、嘘をいっているということもある」

 斎藤はゆっくりと視線をそらせた。

「信用せんほうがいい。なにが目的かは知らんが、利用されるだけだと思う」


 言わぬ方がよい。明日、本間小十郎が処刑されることは伏せておいたほうがよいのだ。

「でも.兄はいま……長州さまのもとで大事なお役目についているのだそうです。元気でいると教えていただきました」

「教えていただいた……?」

 繰り返された斎藤の低い声音に、四郎ははっとしたように口を押さえた。

「それを誰が言った。服部か!?」

 事実ならば、伊東甲子太郎ら一党が新選組へ加盟したのはなんだったのだろう。

「服部が言ったのか!」

「ち、違います!」

 掴みかからんばかりの斎藤の勢いに、四郎はあとずさった。

「言え。言ったのは服部であろう」

「違いますっ!」

 身を翻した四郎の袖をとらえ、斎藤は床にひきたおした。

「なぜ逃げる。おまえは長州の間者なのか?」

「違います!」

 のがれようとあばれる身体を押さえつけると、思わぬ激しさで抵抗した。

「離してくださいっ」

 身をよじるうちに夜着の衿が乱れ、薄ぼんやりとした行燈の明かりに胸元があらわになった。そこに散る紅い痣が目を奪う。それを上へとたどり、四郎の見開かれた目と出会った。

 四郎が渾身の力をふりしぼって身をよじった。

(そうだったのか……)

 斎藤は、なぜかひどい徒労感を感じ、押さえつけた手首を離した。


 戒めがとかれると、四郎は荒く息をしながら素早くかべぎわに下がり、衿元をかきあわせた。

「お帰りください」

 肌の感触が手に残っていた。

「お帰りください!」

 わが身を抱くように叫ぶ四郎は、半身を闇に埋めて、濡れたように瞳を光らせていた。灯りに刻まれた陰影が、やわらかな容貌を際だたせていた。


 闇に咲く夕顔のようなこの少年を、服部が組み伏せたのだろうか。

(これだけの美貌だ。めずらしいことではない)

 その相手が、たまたま服部武雄だっただけのことだ。顔が沖田に似ていたのも、偶然だろう。だから服部は沖田にかまうのだ。そう考えれば納得がいくではないか。服部が沖田に慣れ慣れしいのも、四郎が服部の言葉を信じるのも納得がいく。初めから入りこむ余地などなかったのだ。


(入りこむ……?)

 斎藤は、否応なく脳裏に浮かんだ二人の痴態に身を強ばらせた。消し去ろうとすると、ことさら生々しく甦ってくる。のけ反る喉元に食らいついているのは、あれはせん。


(ただ、気になっただけだ)

 ふと見せる表情のなかに、かすかなうしろめたさとともに見慣れたそれを見いだす喜び。

(総司にしてやれないぶん、役に立つ自分を示したかったのか)

 だが、それもおのれの役目ではなかった。

(このまま放っておくのか? 偽りを信じる四郎をこのままにして。いずれ真実は知れる。その時こそ)

 斎藤は浮かんだ浅ましい考えに身震いした。だが、それは甘やかな誘惑となって心中を満たしていく。逃れようとするには、一刻も早くこの場を立ち去らねばならない。


 斎藤は、足を引きずるように戸口へ向かった。

 もの音ひとつしない背後に、かれは負けた。

 のろのろと振り返ると、座敷の隅で四郎はこちらを見つめ、声もなく涙を落としていた。

 人形のように目を見開いたまま、しずかに泣いていた。

 斎藤は座敷へ駆けあがると、その身体を抱きしめた。

 あがらうのを封じるように深く抱き込めると、やがて四郎の身体から力が抜け、かすかな嗚咽さえもらしはじめた。

「なにがあったのだ」

 目の前にさしのべられた白い項が震えていた。肩口が涙でぬれる。伏せた顔はただ横にふられ、かみ殺すように口唇は閉ざされたままだった。

 あたたかくしなやかな身体の熱さに、斎藤はおのれの腕に力がこもるのを感じていた。

 それは、奇妙な眩惑だった。

 この腕のなかで身を震わせているのは、だれなのだろうか。

 伏せられた目元も、頬の線や着物に取りすがる指の先まで、今までかれが幾度となく目でなぞったものと寸分違わないのだ。あざやかにその端々までを瞼に描くことができるほど、脳裏にやきついた姿そのものだった。



(続く)


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