三、過去の声(一)
巡察を終えた斉藤一が壬生の新選組屯所へ戻ると、すでに申ノ下刻(午後四時)をまわっていた。
式台を上がった途端、浅葱の隊服を翻して同僚の原田左之助が目の前を横切った。
「左之さん、何事だね」
原田は二、三歩すべってから振り返り、にやりとした。
原田左之助は伊予松山藩の中間あがりで、宝蔵院流の槍術をよく遣う。隊長近藤の道場であった江戸試衛館の食客だったが、近藤らと共に上洛、現在十番隊の組長を務めている。物事にこだわらない豪放磊落な男だった。
「緊急の手入れか?」
原田は太い眉をしかめた。ぐいと近づけた顔の目が笑っていた。
「見せ物だ。一さんも早く来いや。久武館は大騒動だ」
「なんだ、それは」
「総司と土方さんがやっとうの稽古してんだよ」
「それはめずらしい」
「ここんとこ、土方さんと言えばモグラみてえでさあ」
だから見逃せねえのさ、と原田は勢いこんで駆けていった。
江戸にいた頃の土方は、ひどく稽古熱心だった。腕前はというと、近藤の自流である、天然理心流の目録を認可されているのみである。
が、強い。
道場ではさほどではないが、実戦となると数段の冴えを見せた。土方自身それを承知していたので、最近は道場で竹刀を握ることもない。稽古に出ても、鬼副長と畏敬されている土方に挑んでくる隊士がまれだったこともある。
それが沖田総司と久しぶりに稽古をしているというのだから、江戸からの事情を知っている原田などには、恰好の暇つぶしだったのだろう。
(新選組も暇なことだな)
斎藤は、原田の消えた方へ目をやった。
久武館は、新選組が屯所とした壬生の前川荘司邸の庭に建つ。南北八間、東西三間半の道場では、剣術師範が交代で隊士に稽古をつけていた。
その剣術師範の筆頭を勤めるのが、沖田総司である。
沖田は江戸の近藤道場で幼いころから内弟子として過ごし、現在では新選組の十ある戦闘小隊のうち、最も精鋭を集めた一番隊の組長となっていた。
二十才そこそこの若年ながら、隊中一の遣い手として天才剣士の名を欲しいままにしていたのである。
だが、欲というものにおよそ無自覚で、配下の平隊士にさえ先生呼ばわりされるのを嫌がり、おのれの立場の自覚がないと、土方に小言を言われる始末である。
斎藤が行ってみると、すでに久武館の周囲には人があふれ、入りきれない隊士が武者窓から覗き込んでいた。鹿島、香取両神宮を正面に祀り、上座には原田が胡座をかいて陣取っていた。
「一さん、来たな」
原田は片手をあげて手招きした。
「なんだこの見物人は」
「一さんこそ物好きじゃねえか」
「土方さんがやるのが、そんなに珍しいかねえ」
土方と沖田は防具をつけず、木刀を握っていた。正眼に構えたまま静かに対峙している。
「総司だよ」
原田は思いのほか改まった声音で言った。
「総司?」
「力量を見てやろうっていう魂胆さ。普段の稽古じゃ、総司にかかると、まるで餓鬼扱いだ。それなりの技のある者には、同等の力量で応じてくる。それがおそろしいほどにぴったりと沿うものだから、錯覚するのさ。自分は、あの沖田にかなうかもしれねえとな。
だが、後でよくよく考えみれば、それが総司の稽古のやり方だとわかる。一番隊の連中にしたって、総司があまりにもやすやすと敵を倒すもんだから、つられて実力以上の力を出す」
「はたして、沖田総司の実力は奈辺にありやというわけかね」
「まあな。皆ある程度腕に自信があるから、新選組なんぞに入ってくるんだ。よく言えば後学のため。はっきり言えばおいらみたいな野次馬根性だな」
「総司も土方さん相手では、手を抜くわけにもいかんからなあ」
幼い頃より竹刀を交えてきたのである。加減をすれば、それこそ土方の逆鱗に触れるだろう。
土方が動いた。
木刀が打ち合う丸く固い音が、しわぶき一つない道場に響いた。
沖田は土方の打ち込み受けながら下がり、最後の一打を流してまわりこんだ。
向き直り、互いに間合いを計りながら呼吸を整えていく。
突然、土方が甲高いかけ声をあげて打ちかかった。
周囲が息を飲んだ。
沖田は扇を返すような優雅さで下段から小手を返し、そのまま土方の切っ先に吸い込まれるかと思われた瞬間、あざやかにはじき上げた。
木刀が、土方の手を離れて舞い上がった。
「見事なものですね」
背後のささやき声に斎藤は首をめぐらせた。
原田は勝負がついたのを見届けると、立ち上がった。
「伊東先生も見物かね」
伊東甲子太郎が、門下の服部武雄をしたがえて立っていた。御所人形のように整った色白の面をほころばせ、丸みのある声で朗らかに笑った。
「服部君が、面白いものがあると言うので来てみました。沖田君は失礼ながら、近藤さんと同流とはとても見えません。惜しいものです」
斎藤は、初対面よりどうもこの男が好きになれなかった。穏やかな風貌の下にしたたかさが見え隠れするのである。
「勝負はついたようですね」
行きましょう、と伊東は傍らの服部武雄を促した。
服部は播州浪人。江戸の伊東精一道場で北辰一刀流を修めた。伊東甲子太郎はこの伊東家の女婿であり、前名を鈴木大蔵という。現在九番隊組長となっている鈴木三樹三郎は実弟に当たる。
服部は浅黒い体躯の見るからの大丈夫だが、武辺一辺倒の者にありがちな粗野な雰囲気はない。彫りの深い南方諸国の出身を思わせる相貌には、いつも穏やかな笑みを浮かべていた。かといって鈍重な印象ではなく、どちらかといえば線の細い伊東の後ろで、主を守るかのように控えているのである。
服部は促されながらも、道場の中央で木刀を拾う沖田に視線を据えたままだった。
沖田はにがりきった土方へ木刀を手渡しながら、何事かをささやいた。すると土方の表情から険しさが消え、沖田を苦笑しながら小突きはじめる。
「ああしてると、変わらねえんだがな」
原田はその様子を見て、肩をすくめた。
「さあ、見世物は終りだぞ!」
原田に追い立てられるように、隊士達も三々五々と散っていく。
軽口を言いつづけている沖田の横で、土方は目を細めたまま相手をしていた。斎藤は見慣れた情景に背を向け、出入口へ向かった。
「斎藤さん!」
呼び止められて振りかえると、沖田が手を振っていた。
「いらっしゃってたんですか?」
駆けてきた沖田の白い頬が、うっすらと上気していた。
「相変わらずだね」
「ええ、相変わらず土方さんはお上手です」
「総司!」
黒い刺子の稽古着を諸肌脱ぎにして汗を拭いている土方が叫んだ。
「おお、こわ」
沖田は手しにした木刀を斎藤へ差し出し、
「どうです、一本」
それを横からひょいと取る手があった。服部武雄である。沖田はおのれより一寸ばかり背の高い服部を見上げ、小首をかしげた。
「私では役不足かね」
「とんでもない。喜んで」
沖田は、服部の傍らに立つ伊東に一礼した。
「斎藤さん、お暇だったらあとで一寸お付き合いください。この間、土方さんに邪魔された買物を手伝ってほしいんです」
「いいよ。ゆっくりやんな」
沖田は輝くような笑顔になって、道場の中央へ戻っていった。服部もその後を追いかけたが、斎藤の傍らでふと足を止めた。
「何を熱心に見ておられるのかな」
ゆっくりと服部を振り返った。
「何を言いたいのかわからんが」
「そうですか」
服部は楽しげに喉で笑った。
「沖田君、お手柔らかに頼む」
斎藤は背後に木刀の打ち合う音を聞きながら、久武館を後にした。
カラコロと高下駄の音が響いた。
深草色に屋号を染めぬいた暖簾を勢いよくわけて出てくると、沖田は恥ずかしげに斎藤へ笑いかけた。
寺町京極の小間物商の店先である。沖田は老舗で求めた品を大事そうに抱えて、ぺこりと頭を下げた。
「一緒に来ていただいて、本当に助かりました。どうも私はこういうものを選ぶのが苦手で」
「なにも私ではなく、土方さんに選んでもらえばいいじゃないか」
からかいを含んだ斎藤の声音に、沖田は困ったように眉を寄せた。
「それがね、土方さんはみたてはいいんですが、あの人とくるとそれ以外のことでああでもない、こうでもないと、選ぶ前に日が暮れてしまいますよ」
「それだけ心配しているんだよ。有難いと思わなくてはいけない」
「斎藤さんまで井上さんみたいなことを言うんですか? 私は幾つになっても子供ですから、みなさんで好きなだけお説教してください」
おおげさにため息をついて歩き出す。
「今日、飛脚をたてたらどのくらいで江戸へ着くでしょうか」
「お光どのからの書状がもどるまで、まあ、十日もみておけばよいだろう」
「そんなんじゃありませんよ」
沖田が求めたのは、江戸にいる姉へ贈るかんざしだった。
沖田は幼いころ父母を亡くし、十以上はなれた姉夫婦を親代わりに育った。
しかし、九才より現在の新選組隊長である近藤勇の道場の内弟子として過ごしてきたため、ひと一倍この実姉への思慕が強い。上洛して以来すでに数度、斎藤はこうした沖田の買物に付き合わされていた。
「そう、お光どのはとても美しい方だから、そのかんざしの細工が映えるだろうね」
「そう、思いますか?」
嬉しそうにふり返った笑顔に、斎藤は眩しげに目をほそめた。
斎藤が、江戸小日向柳町にある天然理心流道場〈試衛館〉を尋ねたのは、今から六年前だ。
播州明石藩の軽輩だった父が浪々の身となり、江戸表へ出てきたのと前後して亡くなると、係累がないのを幸いに、賭場の用心棒や寺侍の真似事をして暮らしていた。腕利きの同業者をうち負かしてしまう腕っぷしの強さが知れわたり、仕事の口に不自由しなかったのである。
神道無念流皆伝を受けていた剣術を種に、近頃の騒然としたご時世に、雨後の筍のように林立する道場を尋ねては、おのれよりも達人──と思われる──に教えを請うた。
つまり、道場破りである。
(続く)
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