伍
久々に澄み渡った空が広がっていた。
抜けるような青い空を、たっぷりと水分を含んだ若い葉が仰ぐように見上げている。
「どうかなさいましたか?」
それに気づいたのか、数歩前を歩く黒髪の少年も同じく足音を留め、その場で肩越しに振り返る。直鷹は「いや」と三日月の唇から歯を零し、再び歩を埃ひとつ見当たらない廊下へと落とした。
少年の頭上で円筒形の立烏帽子がゆらりと上下し、橙色の
いわずと知れた鳴海国守護大名・
(さぁ、のるかそるか)
一世一代の大博打の始まりだった。
「殿の御成りに御座います」
小姓と
ドスドスというお世辞にも上品とはいえない足音と、それとは裏腹に耳障りの良い衣擦れの音が耳朶へと届き、豪奢な褥が敷かれた上座へと影が座った。
「榊さまの御尊顔を拝し奉り、恐悦至極に存じ上げます」
同時に、
「
「は」
首筋の凝りの原因である立烏帽子をゆっくりと持ち上げ、慕しげな表情を貼り付けたまま上座へと睫毛を向ける。畳へと付けられていた拳を橙色の狩衣の袖へとしまうと、組まれた胡座の上へとそっと置いた。
気持ち顎を引き、やや上目遣いに上座の人物を見遣れば、数年前元服の礼を述べに訪れたときよりもやや年を刻んだ主筋の男の姿があった。太い眉にぎょろりとした大きな
どちらかといえば涼やかなさらりとした印象が強い
「
チラリと側に控える
「何代か前に分かれた傍流となりますが、今は水尾家氏神を祀る神社にて
嘘の中に真実を練り込みながら、直鷹は自己紹介を始める。水尾本家はともかくとして、分家である直鷹の家が氏神を祀る神社を保護していることは事実だ。もっともその神職としての任も現在は彼の父・
「して、その宮司どのが何用か」
「聞くところによれば、昨今城下では付け火をする不届き者がいるとか。そして恐れ多くもこちらのお城でも火の手が上がったと。そして、その折に姫君の姿が見えなくなっているということで御座いますね?」
「う……む」
貴人特有の傲慢さばかりが目についていた老年の男の顔に、急に後暗い影が差す。その表情を垣間見て、直鷹は唇の端を持ち上げた。
「話は変わりますが、実は先日、私の夢にて氏神の眷属が国を興すと吉兆とのお告げが御座いまして。翌日に我が神社にて保護した方がいらっしゃるのですが、この方こそまさにお告げの方ではないかと」
「……どういう、ことだ?」
突然風向きを変えた話題に、毛虫のような眉毛を器用に片方だけ持ち上げながら、鷹郷は訊き返す。その
如何に日頃一国の主たる器ではないと影で噂されている暗愚であろうとも、暗に付け火はお前の不徳の致すところなので国を渡せといってるに等しい少年の言葉は、気分を害するのに十分だったようだ。
直鷹は広間の空気を真冬のように一瞬で冷やした上座の老人からの視線を、全く気にすることなく受け流すと、スッと半身を引き横へと席を移した。そして果てしなく続きそうな空が見える入口へと瞳を向けた。
「姫君」
外連味じみた表情と声音で、呼びかける。
一瞬の後、背後でガタ、と上座の男が太い腕を華美な脇息からずり落とした音が響いた。一段高く設けられた上座から脇息が下座の畳へところん、と転がる。
「……ぐ、り……」
老人の唇が、震えながら名を刻んだ。
その声の行きつく先――青空の
白地の小袖に橙色の片裾模様を滲ませて紅色の帯を締め、金糸かと見まごう栗色の髪をゆったりと背へと流すその少女は、先日この城から姿を消した六の姫その人で――。
「お久しぶりです、お父さま」
ゆっくりと広間へと足を踏み入れ、直鷹が譲った場所へと腰を下ろす。さら、と癖のない髪が細い肩から一房零れ落ちた。
ふわ、と鼻腔を擽るのは、この青天のように清々しい
「そなた……い、生き――」
「残念ながら、生きております」
我が目を疑う父親へと、愛情の欠片も見当たらない言の葉をぐさりと突き刺すが、常日頃からそのようなやり取りをする親子であったようで、上座の老人は特に何も感じなかったようだ。
「久方ぶりの再会とあっては積もる話も多いとは存じますが、そろそろ本題に入っても宜しいでしょうか?」
「……ほんだい?」
直鷹が未だ夢か幻を見ているかの呆け顔を上座で晒す鷹郷へと声をかけると、間の抜けた声が鸚鵡返しで繰り返された。
「先ほど申し上げた国興しの件です」
「くにおこし……、あぁ、先ほどのあの話か」
鷹郷の表情がすっと引き締められ、太い眉の間に皺が刻まれる。
直鷹は半身を引いたままになっていた身を再度上座へと向けると、袖から拳を少し出し畳へと押し当てる。そして
「我が
「な……!? は??」
「姫君のお姿はまさに眷属のお遣い……否。稲荷大明神の化身と言えるのです」
「は?? けし……? あ、い、いや……そ、そもそも女が家督を継ぐなど」
「
もっとも、前者は跡取りがいない時に限った一代のものであるし、後者に関しても家中が跡目相続の騒動に巻き込まれた結果という、恐らく臨時的なものではあるのだが。
直鷹はまるで水が高い所から低い所へと流れるかの如く、一度の言い淀みもなく唇から次々と言葉を紡ぎ出す。呆気に取られる鷹郷から視線を横へ座る少女へ流しながら、「それに」と声を落とした。
「私からいいます」
直鷹の視線を受けて、
「お父さまは、近頃城下で起こっていた不審な付け火を覚えておいででしょうか?」
「む、無論」
「それと同じく先日城で起こった火事――私の屋敷が焼かれたあの騒動の犯人が同じ者であるということはご存知ですか?」
「……無論だっ」
同じ言葉を二度繰り返しながら、鷹郷の視線が阿久里の脇に控える直周へと動く。批難めいた色に大きな瞳が染まったのは、城下の火事については彼の父親に一任していることであり、阿久里の屋敷の件は直周自身に任せていたことだったからであろう。
しかし城主からの視線など知らぬ顔で、直周は稲荷の化身と称された少女から視線を逸らさなかった。その瞳は、
(本当、鼻が利く……どっちが狐なんだか)
直鷹は唇の端を微かに持ち上げ、鼻先へと薄い笑いを集めた。
「では、その付け火を指示していた人物が
「な……、景直じゃと?」
「そして、その火付け騒動に乗じてお父さまを追放もしくは弑逆し、この城を乗っ取るつもりだったということは、ご存知でしたか?」
「待て待て、待て。待て待て待て待て。しばし待て」
鷹郷は驚きに目を見張りながら、ずんぐりとした熊手のような手で阿久里を止める。そして困惑の感情をそのまま表しながら直周を見、震える声で「
直周は姿勢を正し上座へと体の向きを変えると、能面のような表情のまま是と答える。
「姫君の仰られたことに相違御座いません。父・景直は此度の火付け騒動に乗じて、この国を乗っ取る算段でありました。それを誰よりも先に察知された故に姫君が狙われ、屋敷に火を射かけられた次第に御座います」
そう答える少年がまさか自身の城へ火を射かけた張本人であるとは当然思いもせず、鷹郷は色を失った唇を震わせる。突然湧いて出た悪夢のような現実に、男は視線の先が定まらず、濁った白目の中で何度も黒目が泳いだ。
忠臣と信じていた者から裏切られたこと。
その裏切りを、その見場の悪さゆえに生まれた頃より疎んじていた
それらも、確かに君主として
(でも――)
如何に
(けれど)
この疎んじてきた
気づいてしまった。
己が、その器にないと見限られているということに――。
ふと気づいたように、鷹郷の視線が部屋をくるりと流れ出した。この部屋には、
反面、彼の盾になる者は小姓がひとりのみ。鷹郷の片頬が今更恐怖を知ったようにピクリ、と震えながら丸まった背を小さくする。
(国を興すと吉兆、か……)
自分でいったことながら、随分
きっと、これが人生においてこの守護大名たる男が一番莫迦にされた発言になるに違いない。
(なんせ、これこそが――)
「謀叛人のようではないか」
上座の男の唇が僅かに音を刻むと、下座に控えた少女は今まで見たことのない形容しがたい笑みをその頬へと浮かべ、そのまま白く細い指を畳へと付き深々と
「その悪名、是非とも謹んでお受け致しとう存じます」
外の空の色に負けないほど透明な響きの後に下げられたふたつの頭は、すでに上座を向いてはいなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます