陸
組み立てられた狼煙台に、火がかけられる。
もう雨の季節は去ったのか、晴れ渡った空からの陽射しが目に痛い。直鷹は軽く辺りを見回すと、大きな楠の下へと手に持っていた
大きな木の影に入り込むと、先ほどまでの熱気は瞬時に消え失せ、すぅ、と涼やかな空気が肌を包み込む。それでも身の内側がどうにも熱気で炙られているのは、いままさに始まろうとしている戦闘に備えようとする武将としての
「このあとは、狼煙にあわせて城へと攻め込んできた敵さんを一網打尽にして、一件落着って感じかな」
「お、入ってきたっぽいね」
城下の辺りから地鳴りのような低い音が響き渡るのが聞こえると、直鷹は楽しそうにそちらへと首を向けた。恐らく景直率いる兵達がなんの障害物もないぽっかりと開いた虎口を突破したのだろう。
隣に立つ直周からの返事はないが、どうやら城下の声へと視線を向けているわけではなく、それを追う自身を見つめているようで形容しがたい視線が横顔に貼りついてくる。
直鷹が尚もそれを無視していると、視界の端で胴丸の影が静かに、けれど確実に小さく動いた。
「……とまぁ、ここであんたに本当に裏切られたら、って考えると怖いよね」
チャ、と少年の手が鯉口を切る音を立てたと同時に、直鷹の唇からまるで戯言を紡ぐかの如き声音で言の葉が零れ落ちる。ギクリと頬を強ばらせた直周へと、この青天には相応しくない冷えた視線を投げかけた。
「いまなら見なかったことにしてやらないことも、ないけど?」
「仮に――仮にもしそうなのだとしても、今この城にいるのは私の手勢が大半です。いまこの場で、私が
「んー、そうだねぇ。直周どの、耳はいい方?」
「耳?」
「まぁ親父さんが侵入してきたし、あんたの手勢も詰めてるから聞こえないか」
訝しげに眉を顰めた直周に、陽射しを遮るほど大きな楠の枝を指さしながら直鷹は笑う。憮然とした表情のまま、少年は彼の指差す方向へと睫毛を持ち上げた。
「……あれ……、は」
元より細い直周が、空高くへと伸びる大樹の枝を見ようと細まる。そして、次の瞬間、その細さが嘘のように一気に見開かれた。
直鷹が少年の視線の先へと自身のそれを向ければ、大きな枝に座し恐らく身体の細い直周にはとても引くことすら叶わないだろう強弓を軽々と引く男の姿があった。彼は、頭上の男の正体に気づいているだろうか。
彼がいつぞやの晩、あの廃寺にて切り捨てようとした連中の生き残りであるということを。
男には、自身の命でなくとも彼へと果たすべき恨みがあるということを。
(ま、気づくか)
阿久里が、直鷹が生きていることを突き止めたほどの少年だ。
気づかないわけはない。
木の上より弓を
「あの男、腕はいいよ」
知ってると思うけど。
直鷹が頬へと笑みを浮かべたまま、高見から傲慢にいい放つと、驚愕に見開いていた瞳が悔しそうに再び細められた。日頃、心にもない言の葉を吐くことに長けたその唇が、ギュ、と真一文字を刻む。
直鷹は、少年の表情から敗北を悟ったのを見取ると、軽く手を上げて「引け」と命じた。頭上の殺気が、矢じりが下げられると同時にふ、っと周囲の喧噪の中へと消えていく。
「いったろ? あんたと同じく、俺の腹も相当黒いって」
狩衣の袖部分に仕込んであった匕首を取り出し、手のひらを一度二度叩く。奥の手はなにもひとつじゃない。そしてそのまま白刃を鞘から抜くと、直鷹は切っ先を直周へと向けた。
「二度目はないよ」
「……相、畏まりました」
色をなくした唇が、震え声で言葉を落とした一瞬後、本丸へと通じる大門が大きな音をたてて開かれる。
「さぁ、最後の火消しに行こうか」
土煙を上げながら開かれた門戸を見遣って、狩衣姿の少年は唇の端を持ち上げた。
その日、鳴海国の守護代であった水尾景直は謀叛の咎で捕らえられた。
謀叛に加担した水尾本家の一族・家臣は尽く捕縛され、切腹、もしくは鳴海国追放となり、以降本家は唯一謀叛に加担しなかった嫡男・直周が継ぐこととなる。
そしてその時を以てして、鳴海国守護大名は榊鷹郷の六女・阿久里となり、ここに鳴海国初の女大名が誕生した。
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