如何に一定の温度と湿度に保たれやすい場所とはいえ、土蔵は所詮は蔵。薬を盛られた上に十日もそんな場所に監禁されていた身体は思った以上に疲労が激しかったようで、回復にはそれなりの時間を有した。

 秀直ひでなおが肌触りの良い褥の上に膝をつきながら起き上がると、側に控えた年若い側室が胴服を肩へと羽織らせてくる。そして彼女が差し出してきた湯呑、粉薬を受け取ると口に含み、一気に湯呑の水を呷った。

 口内に苦みと生薬特有のにおいが広がり、秀直は知らず眉を僅かに寄せる。


「いい加減、そろそろ酒が飲みたいものだな」

「お持ち致しましょうか?」


 大人びた容姿に反し、どこか幼さが感じられる鈴の音が転がるかのような可憐な響きの声音だが、返答もまた常識が鈴の如く転がっていった内容だ。そもそも酒を飲みたいといい出した自分が悪いのだが、床に伏せている人間に酒を薦めるというのも如何なものか。

 秀直は先ほどとは意味合いを変えた眉の皺を、さらに一層深める。


(ほんの少し前ならば、この足りないところも可愛いとさえ思ったが)


 すぐさま酒の用意をしようと腰を高くする女に、「いや、いい」というと胸中に生まれた疲労の渦を溜息とともに吐き出した。


「殿、北の方さまがお越しに御座います」

「ん、な……っ!?」


 突如、廊下に控えていた侍女から声がかけられ、秀直の背はビッと固まった。特にいま側女と疚しいことをしていたわけではないのだが、何となく褥を正し余裕ある素振りを見せるために胡座をかく。けれど喉元までせり上ってきそうな心臓は、なかなか元に戻ってくれそうにはなかった。

 世に、戦場では恐れ知らずの猛将の話は数多くあり、秀直自身昂ぶりを感じることがあっても恐れなど初陣以来感じたことはなかった。けれど、そんな武将たち全てが唯一恐れる共通の存在モノが、――正妻よめである。


「殿、失礼致します」


 シュル、と耳障りのいい衣擦れの音をさせながら、二十数年前に娶った妻が部屋へと足を踏み入れる。こうして面と向かって顔を合わせるのは、正月以来――半年ぶりだろうか。

 こうして二十歳ばかりの側女と比べても、容色が見劣りするところは感じられない。いつぞや戯れに「この手も、この髪も、輿入れしたときのまま変わらんな」と揶揄うと、「あら。だって貴方は若い女子おなごがお好みではなくて?」と返され、年若い側室を囲う自身への悋気ゆえの女の意地に震え上がった記憶がある。

 彼女はちらり、と秀直の側に控える柿崎殿かきざきどのを見留めると、ス、と視線をそちらへと流した。


「柿崎殿、と仰いましたか」


 児玉御前こだまごぜんからの名指しの問いかけに、女は畳へと額を擦るように平伏する。さらり、と豊かな黒髪が零れ落ちた肩は、突然の正室のおとないに震えていた。

 それはそうだろう。正室と側室の関係は、本妻と愛妾という男を中心に考えるだけのものではなく、秀直の側室すべてはこの正室・児玉御前の配下にある使用人なのだ。如何に日頃寒河江城さがえじょうの女主人だと主張したところで、正室が一度足を向ければ彼女の立ち位置はたちまち下位へと転落する。


「あら。良いのですよ、わらわに平伏などなさらずとも。どうぞ、おもてをおあげになって」


 けれど、そんな彼女の怯えを優しく受け止めながら、柿崎殿の目の前まで来ると児玉御前は慣れた手つきで打掛の裾を捌き、腰を下ろす。本来は瑞々しさがある香が、彼女自身のそれと溶けあったのか、ふわりと柔らかな香が空気を揺らした。

 清々しさの中に感じられる丸さのあるにおいに、少し緊張を解されたのか。柿崎殿はようやく恐る恐る顔を上げた。

 秀直の正室たる女性は、まるで慈しむかのように年若い夫の側女へと目を細め微笑むと、形のよい唇へと弧を宿す。

 そして。


「ときに柿崎殿。知っていて? まだ子もない側女がすることなど、殿方のお世話くらいしかないということを」

「え……、あ、の……それは、そう、です……」

「あら。知っていたのね。それなのにそのお世話すら満足に出来ないのならば、一体何のためにこちらに身を寄せておいでかしら」

「そ、れは……」

「まだ子もなく、武家の棟梁の側近くに侍るのならば、殿の御命くらい己の命にかえてもお守りなさいな」


 声音の響きはどこまでも優しく柔らかいのに、その内容は驚くほど辛辣だ。思わず絶句する柿崎殿を内心気の毒に思いながらも、相変わらずの妻に秀直は思わず吹き出す。

 すると、微笑んだ瞳がそのまま褥の上の秀直に流された。


「あら。なにか面白いことでもおありになって?」

「……いや、ない。なにもない」

「そういえば、浪乃なみのがいない今、この城の奥はどなたが差配なさるの?」


 正式に側室として奥に上げたつまがこの城には柿崎殿しかいない以上、本来ならば彼女がすべき仕事である。しかし手馴れた奥侍女の介添えもなく、この年若いどころか「少し足りぬ」とさえ思う女に出来るわけもない。それどころか男の身勝手さ故に少々遠ざけようとさえ考えている状態で、城の機密を握る奥の差配を頼むことなどあり得ない。


(かといって、他の城から別の側室おんなを連れてくるのも……)


 柿崎殿と連れてきた側室で妬み嫉み諍い合う日々が待っているのは明白だった。それどころか、奥の侍女たちを巻き込んで勢力争いにすら発展しそうだ。

 そして奥の乱れは、表の乱れへとやがては発展する。側室たちの背後にはそれぞれの実家がある。女同士のくだらない争いから表の男たちへの争いへと移行されては、家中の統率が取れなくなる。


(……となれば)


 側室風情が何人いようとその影さえも踏めないほどの権力と人望、そして器量持った人物が奥を差配する必要がある。


「ぬい」


 秀直が娶る前から呼んでいたを呼ぶと、児玉御前は微笑んだ頬に、さらに大輪の花を咲きほころばせながらくるりと膝を夫へと向けた。

 打掛の内側で暖められたにおいが、ふわり、宙へ溶ける。


「殿。わらわが寒河江に身を寄せても良くってよ」


 秀直が口を開く前に、にっこりと微笑んだ艶やかな唇が、彼が希望した言葉そのままを紡ぎ出した。本来、夫婦という対等な立場ではあるものの、やはり女は嫁いだ以上、夫に、婚家に尽くすことが美徳とされる。

 だからこそ、児玉御前は夫から命じられる前に、彼の希望を口にしてその恩を高く売る。夫の命によって動くのではなく、自身が敢えて尽くしているのだと。あくまでも対等である自身が、それをしてやっているのだと。

 言外に、そう伝えてくる。


「ただ……わらわ、奥の差配には厳しくてよ?」

「……直家なおいえが戯れに侍女に手出しすら出来んといっていたな」

「まぁ。母の目を盗んでは、夜中城を抜け出しているくせに……。あの子、好き勝手遊んでいてよ」


 現在彼女は嫡男である次男の城に住んでいるが、未だ正式な妻を持たない彼は母の目を掻い潜るためにそれなりに苦労をしているらしい。思えば元服前の直鷹なおたかも兄の城内――母の傍近くで暮らしていたため、母の監視から逃れるために苦労したとぼやいていたことがあった。

 良くも悪くも、自分を含めた当家の男は、この正室の支配下から如何に脱出出来るかが独り立ちの目安となっているらしい。

 もっとも、自身は逃げ出した結果また絡めとられた気がしなくもないが。


「まぁ、奥のことはそなたの仕事だ。好きにせよ」

「あらそう? じゃあ、手始めに……自分の仕事も満足に果たせないような粗忽者には、お城を出て頂こうかしら」


 苦笑を食んだままの秀直から言質を取ったとばかりに、売った恩を即効で買い戻すべく肩越しにちらりと年若い側室を見ながら児玉御前が呟いた。呆気に取られたままだった柿崎殿の美しい顔から一気に血の気が引く。

 元はといえば、柿崎殿を遠ざけようとすることも、児玉御前に奥の差配を頼むのも秀直自身の考えで間違いはない。けれど、何故か全てはこの妻の手のひらの内で転がされているような錯覚さえ感じてしまう。

 奥を治める女の器量とは、きっとそうしたものなのだろう。


(女、か)


 思えば、あの少女もそうだ。

 不意に、先日土蔵で出会った少女を思い出す。

 結果からしてみれば、権力を持ちすぎた重臣に謀叛を起こさせ粛清し、暗愚と評判の不仲な父親から家督を奪い君主となった。

 恐らく、少女が無意識に長年思い描いていただろう世界が、紡ぎ開かれた。


(そしてその手伝い一部始終を、本来目障りな敵である水尾家うちにやらせるとはな)


 そもそもその謀叛に自身の長男が関わっており、その対象は榊家さかきけだけではなかったのだから、命あって万々歳と思うべきなのか。けれど、それがなくとも恐らくあの三男は彼女のために動いたことだろう。


(莫迦め)


 女のためだけに動くなど、大儀ではない。

 そう思うと同時に、こうしておんなの手の中で転がる自分を面白くも思う。


「女は怖いな」

「なにか仰って?」

「いいや? なにも?」


 く、く、と喉の奥を震わせながら湯呑を妻へと差し出す。そして、「また一から仕切り直しになるかもしれんな」と若虎と称された武将は独りごちた。

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