日頃よりお世辞にも口数が多いとはいえない老女の言葉に、阿久里あぐりは思わず我が耳を疑い、自身の手の中にある聞香炉ききこうろを落としそうになるほど動揺した。一瞬、自分の希望がそのまま空耳となり現れたのかと思ったが、彼女の視線が自身へと向けられていることからも恐らく間違いなどではないのだろう。

 先日、女主人の前での失態を庇ってもらって以降、阿久里は侍女頭である浪乃なみの付きの侍女として暮らしていた。彼女に仕える日常は、特になにか事件などが起こるわけもなく、柿崎殿かきざきどのの許での過ごした時間とは全く異なりただただ静かだ。

 彼女が奥侍女たちへ指示を出す傍に控えるだけであったり、彼女の伝言を別の場所にいる者へ届けたり。こうして特になにかあるわけでもない時間には、浪乃は阿久里に香を焚かせたり。

 恐らく、武家の妻女の傍近くに仕える侍女の、一般的なあり方がここにあった。

 この城に来た意味を考えれば、正直それでは困るのだが、秀直ひでなおの行方を知っているのが浪乃ひとりである以上、やはりこうして彼女の側近くにいるのが一番の近道なのだと思案していた、その矢先の出来事だ。

 ――浪乃から、耳を疑うような発言がなされたのは。


「あ、あの。浪乃さま。いま、何と……?」

「ですから、今日より殿のお世話を其方そなたに任せようかといったのです」


 浪乃は再度、阿久里へと同じ言の葉を繰り返す。少女は聞香炉を一度地敷の上へと戻すと、座を正し老女へと睫毛の先を向けた。

 なにを気負うわけでもなく、世間話のついでに出てきたかのような気軽さで、彼女の唇は告げてきた。


柿崎かきざきの御方さまのご不興を買った私が、殿さまのお世話を……、で御座いますか?」

「殿は厳しいところもある方ですが、なに御方さまほどお難しい方ではありませぬよ」

「でも……」


 秀直の安否確認という当初の目的を考えれば、浪乃の申し出は願ってもないことだ。しかし、ことの経緯を考えれば秀直は単なる体調不良ではなく、直重なおしげによって一服盛られた後、監禁に近い状況にいることは間違いない。

 そしてその片棒を担いだのは、恐らく直重の祖母である彼女であろうということも弦九郎げんくろうからの情報でわかっている。だからこそ、いくら亡くなった娘に似た年頃だからとはいえ、もともと「直鷹なおたか側」だった牧野家まきのけの人間を秀直に近づかせるなんて真似は絶対にさせないと思っていた。

 それとも浪乃の中では、直鷹亡き今、牧野家はすでに取り込んだものと安堵しているということなのだろうか。

 阿久里は眉を顰めながら浪乃を見遣ると、少女の表情を何か勘違いしたのか老女は薄くなりほとんど目立たなくなった眉尻を下げると、苦笑めいたものを頬へと浮かべた。


「なに、流石に殿も、ご寵愛の柿崎殿がおられるお城の中で、年端もゆかぬ其方にお手を付けようとなさるほど好色な性質タチでは御座いますまいよ」


 どこまで冗談なのか――否。冗談なのか本気なのかさえ微妙な発言だ。まさに好色が原因で年端もゆかぬ実の娘を失ったといっても過言ではないこの老女が、そんな発言をするとは思いもしなかった阿久里はどう反応していいのかわからず、言葉に詰まった。

 ふ、と逃げ出すように流れた瞳が、庭の草木が僅かに揺れたことを見留め、「雨」と珊瑚色の唇が知らず言葉を零す。


「あぁ、また降ってきましたか」


 浪乃は阿久里の呟きに、衣擦れの音をさせながら立ち上がると真新しい廊下へと歩を進め、障子戸へと手をかけた。カタン、という音が小さく部屋に響き渡る。

 この礼儀作法が小袖を着て歩いているような彼女が、無作法にも障子戸へと手をかけたことに驚き、阿久里は思わず彼女を追うように振り向くと、小さな背中をやや丸め、僅かに体重を障子戸へとかける背中があった。


「浪乃さま!?」


 阿久里が慌てて立ち上がり浪乃の背中を支えると、老女の小さな肩口から白いものが目立つ髪が一房さらりと溢れ落ちる。一般的な体格からいえば、華奢な部類に入る阿久里だが、その彼女よりも小さく軽い――まるで枯れ木のような老女の身体に、支える手のひらに力が篭った。


(小さい)


 気丈な性質ばかりに気をとられ、また身のこなしに無駄なところがないほどにキビキビと動く人なのでうっかり忘れそうになるが、この女性はすでに成人した孫がいるほどの高齢なのだ。


「相済みませぬ」

「いえ、それより……お身体が優れないのでは?」

「……ふふ。どうでしょうか。……ただ、いささか、疲れました」


 自嘲気味に頬を歪めながら笑う浪乃を支えながら、阿久里は室内へと促す。しかし、老女は軽く首を振り、それを拒否した。


「良い。良いのです……」

「ですが」

「人の生き死には神仏の領域なのだと……運命なのだと、そう思うておりました。娘が死んだのも、そう思うことで悲しみに暮れる日々を送らぬよう、努めて参りました」


 確かに、彼女の娘が十代で亡くなったことは不幸だ。

 けれどこのご時世、神の子として扱われる七歳までの幼子ばかりでなく、長じてからも長生きできる者ばかりではない。戦に出て討ち取られる者、嫁した後に子を産んだことにより儚くなる者。

 親よりも長生き出来ない人間は巨万ごまんといる。

 そして、子に先立たれた者はみなきっと、浪乃のように思いながら生きていくのだ。


「いまは……、違うのですか?」

「どうでしょうか。けれど、きっと心のどこかでそれを納得していなかったからこそ……悪夢に囚われるように、なったのでしょうね……」


 孫である直重に頼まれたからこそ、孫可愛さで、この頑固な女性は長く仕えた主へと牙を剥けたのだと思っていた。けれど、彼女の中にも飲み干せていない苦い感情が、いつまでも舌先に転がり続けていたのだろうか。

 けれど、浪乃はさらに「でも」と話を続けた。


「それでも……それでも、どなたであっても出来うる限り生を望んでしまう私は、きっと愚かなのでしょうね……」


 まるで独白のような老女の言葉に、少女の肩が僅かに揺れ形の良い眉が皺を刻む。言葉を刻むほどにだんだんと苦痛に満ちた表情になる老女に、阿久里はせめて、とその場で腰を下ろさせた。

 ギシ、と床が軋みながら、枯れ木のような老女の身体を受け入れる。


「嫌なこと……この年になって、なお、若い方の死を望むだなんて……」


 庭に落ちる天からの雫をひたすら見つめる老女を支えながら、阿久里は浪乃が零した言葉を脳裏でゆっくりと転がした。


(誰であっても生を望む、と)


 確かにそういった。

 誰であっても――。

 例え、愛しい子供を失うその原因となった男だとしても――。


(もしかして、後悔しているのかしら……)


 謀叛に、加担したことを。

 彼の死を、願ったことを。

 死にゆく運命にある、主への命を。


(永らえさせたい、と)


 そう思っているのではないだろうか。

 まさか、とも思う。


(でも)


 人の心とは、簡単なものではない。


(私だって、お父さまがご無事と知ったときは、嬉しかった)


 好きか嫌いかで言えば、はっきりと後者だと言い切れるほどの関係だった父親だが、それでもやはり無事だと知ったときは、心のどこかがほっと溜息をついて安堵した。

 憎いと思っていた相手でも、やはり情が芽生えることもある。

 自分でも知らない心の柔らかな場所で、育っていることもあるのだ。

 浪乃も、そうなのではないだろうか。

 直接的ではないにせよ、娘の死の原因となった男。

 その娘の子が庶子として扱われていることからも、恐らく彼女の存命中は妻と呼ばれることもなかったのだろう。

 最愛の娘に、そんな、軽い扱いをした男。


(でも)


 長年仕えた主だ。

 憎しみや恨みの感情ばかりではなかったのかもしれない。

 交わした会話が、上っ面だけのものではないときもあっただろう。

 形ばかりの忠節が、本当になっていたときもあったのだろう。


  ――どなたであっても出来うる限り生を望んでしまう私は、きっと愚かなのでしょうね……。

  ――嫌なこと……この年になって、なお、若い方の死を望むだなんて……。


 嗄れた声が漏らした、老女の本音。


(死んで欲しくないと)


 願う気持ち。

 人を人間ひととして見て初めて気づくことがある。

 最初は「娘をかどわかし、命を奪う原因となった憎い男」だったはずが、顔を合わせ言葉を交わしていく段階で、いつしか「水尾秀直」というひとりの人間ひとであることを知り――そして。


(人は人間ひとなの、よね……)


 自分も、それを知った。

 この国に生きる人々を、知った。

 きっと今までの人生、ろくな歩み方をしていないだろうに、意外と心根が真っすぐな粗野な大男だとか。

 人の好さそうな笑顔の下に、意外と腹黒いものを抱えているという商人あきんどであるとか。

 好き放題に生きる主の許で苦労も多そうなのに、それでもニコニコと彼の後ろを歩き続ける少年だとか。


(それと)


 ばさら大名さながらの派手な風貌に外連味ある笑みを浮かべ、口調はどこか軽々しいのに、意外と思慮深くそして義理堅い一面もある。黒い髪に、黒い瞳。

 ――水尾、直鷹。


(私も、知った)


 彼を。

 彼らを。

 この国に生きる人々を。

 人が人間ひとであることを。

 そして、同時に湧き上がった想いは、ただただ「死んでほしくない」の一言だ。


(漁師が――)


 明日も魚を獲れるように。

 商人が、明日も売るものがあるように。

 職人が、自分の望むものが作れるように。

 農夫が、田畑を耕し米や野菜を作れるように。


(全て、生きているから叶えられる願いなのよ)


  ――もっと言えば、あんたに榊の当主になってもらいたいくらいだね。


  先日、ばさら者の少年から告げられた声が、心の一番深いところで響く。


(私は)


 国に生きる人たちが、人間ひとであることを知った。


わたしが、)


 ひとを知りたい望めば。


  ――だからこそ、私たちは彼らを……民を、護ることをしなければならない。そう、思うのです。


 いつしかの自身の言葉が、俄かに熱を帯び始める。


(それは、つまり――)


 阿久里は行きついた答えを飲み込むと、どこか宙を彷徨っていた視線を浪乃へと向けた。


「長年お仕えした殿を、私は……私は」

「浪乃さま」


 老女の嗄れた声に苦痛の色が混じるのを、阿久里は敢えて遮る。


「お話、謹んでお受け致しとう御座います」


 雨の匂いが満ちる空に、少女のどこまでも透明な声音が波紋を描いた。

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