昼過ぎから再び泣き出した空は、その後止むことなく大地に降り注いでいた。

 阿久里あぐりは濡れた空へと縫い付けられていた視線を一度伏せ、ちらりと肩越しに背後を確認する。一瞬遅れて鼻腔へと届いた荷葉かようの香りが、湿った空気にふわりと淡く溶けた。

 浪乃に頼まれ焚いた香を、どうやら髪が抱きしめたらしい。

 寒河江城さがえじょうの中でも、普段人が滅多に寄り付かない本丸御殿のさらに奥――虎口こぐち(入口)からも搦手門からめてもん(裏口)からも離れたその場所には、非常の備えが保存された土蔵がいくつか建ち並んでいる。

 そのうちのひとつに、他のものよりやや小さく造られたものがあった。恐らく用途によってその大きさを変えているのだろうし、その大きさが重要度の差というわけではないのだろうが、それでも周りに比べて明らかに見劣りするそれは注意していなければ意識の端にも引っかからない程、目立たない。


(だからこそ、軟禁場所として適しているのでしょうけれど……)


 阿久里は手に持った膳を飛び石の上へとそっと置く。そして浪乃なみのから手渡された鍵を鍵穴へと差し込むと、冷たい金属音と共に重い戸がゆっくりと開かれた。


「浪乃か?」


 暗闇の奥から、掠れた声が響く。

 阿久里は胸の内で心臓が跳ねようとするのを何とか抑えながら、震える声で否と答えた。


「若いな……柿崎かきざき、ではないな。誰だ?」

「浪乃さまの、お言い付けにて……お世話させて頂きます」


 十中八九、中から零れ出たその声は、探し人であるこの城の主・水尾秀直みずおひでなおなのだろうが、それでも念には念を入れた方がいいだろう。阿久里が慎重に慎重を重ねた声を返すと、渇いた笑いが奥から溢れる。

 少女は入口付近にある燭台に火を灯し、膳を一度抱え直しながら声のする方へと睫毛を向けた。

 外から見たときよりも存外広く感じられるその場所には、床に六畳ほどの畳が敷かれた簡易牢が作られており、その中に四十をいくつか超えたと思われる男が褥に座していた。髪には白いものが僅かにあるものの、やや硬質そうな黒髪や意思の強そうな強い瞳、皮肉げに歪められた唇は、くだんの少年のものとよく似ている。


(間違い、ないかしら……ね)


 阿久里は緊張に固まっていた頬を僅かに動かし、震える唇をゆっくり開いた。


「殿さま……で、いらっしゃいますか?」

「お前のいう『殿さま』が誰を指すのかは知らんが、寒河江城主・水尾秀直だ」


 浪乃の言い付けという先ほどの言葉のせいか、どこか刺々しさを感じる声音に、阿久里は太い木で組まれた牢の前まで進むと膝を折り膳を脇へと置く。そして慣れた仕草で指を付きながら、おもてを下げた。

 ぽたん、と、髪から零れ落ちた雫が地面へと丸いシミを作り出す。


「ご無礼の段、お許し下さいませ。私は故あって御子息より殿の安否を確認してくるよう頼まれた者に御座います」

「息子……? 直家なおいえの帰郷は未だ叶っていまい。となれば、その下の息子たちの手の者か? 何れにせよ、お前が真実、俺の敵ではないという判断はどこでつければ良い?」


 野生の動物のような瞳でめつけながら訊ねる秀直に、阿久里は伏せていたおもてを持ち上げると、首の後ろで結ばれていた結紐へと手を伸ばす。そしてシュル、と若草色のそれを解くと、目の前にいる男へと渡した。


「これ、は」


 秀直は手に受け取った結紐を見つめながら、目を大きく見開き呟く。


「いや……だが、あやつは死んだと。それにこのような結紐、手に入れようと思えばどうにでも……それこそ死体から盗ってくることさえ出来るではないか」

「その結紐の中程を解いていただくと、お分かり頂けるかと存じます」


 いぶかしげに阿久里を見つめながら、秀直はやや太めの結紐を無骨な指で解いていった。そしてカサ、という音と共に中から紙縒り状になった紙が取り出される。

 皺まみれの紙には、「鬼」の文字から作られた花押が記されていた。


「………………生きて、おったか……」


 しばしの沈黙の後に、震えるのを押し隠すように、紡がれる低い声。阿久里はホッと頬を僅かに緩めると、懐から銀色の鍵を取り出し、牢の錠前へと差し入れた。


「はっ。随分、用意がいいではないか。どうやって手に入れた? それも倅が用意したか?」

「いえ。これは、……浪乃さまが」

「浪乃?」

「……悔いて、おられるご様子でした」


 秀直は軽く目を見開くと「今更か」と、声に苦笑を含ませる。けれど、次の瞬間ギィ、という重厚な音と共に扉が開くと視線をそちらへと流し――一気に眉間にいくつもの皺を刻んだ。


(……な、に)


 壁が厚い土蔵の中にあっても、どこか通気口があるのだろう。聞こえていた雨音が一気に遠ざかっていく。胸の内側で大きく跳ね上がった心の臓が、まるで合戦前の陣太鼓のようにうるさく鳴り響き始めた。

 自身がこの土蔵に入ってきた時よりもさらに強い怒気が入口へと向かうのを追いかけるように、少女は肩越しに振り返る。一瞬遅れ、解いた濡れ髪が肩口を滑り落ちた。


「……っ」


 振り返ったその先に立っていたのは、彼の息子でもあり、牢の中に閉じ込めた張本人でもある、男――。

 阿久里とは違い、傘を使っていたのだろう。その身は少しも濡れてはいなかったが、けれどまるで長時間雨に濡れたかのように、顔色がひどく悪くそしてどこか呆然としていた。 


直重なおしげ


 秀直が低く唸るように呟くとハッとしたように肩を震わせ、そしてあの日聞いた春を思わせる朗らかな声を紡ぎ出す。


「父上――と、これは……」


 一旦区切り、宙を漂う何かを探すかのように視線を泳がせた。そして何かに気付いたように阿久里へと視線を縫い合わせる。


「この香り……。そうか、あの折の――廃寺の女か」


 阿久里は咄嗟に背けるようにおもてを伏せたが、その様子に気付いた直重の足が一直線に少女へと進んだ。そして、彼は阿久里の目の前までやってくると、強引にそのおとがいを捉える。

 ぎり、と鈍い痛みが骨に染みると同時に、濡れた髪が白磁の頬を叩き、雫が舞った。


「なるほどなるほど。随分お上手にお逃げになられたものです、姫君」

「何の、お話ですか」


 ガチガチと鳴りそうになる奥歯を噛み締めながら、阿久里は睫毛を息が触れ合うほどの位置にいる青年へと向けた。琥珀色の瞳に僅かに驚き、眉根を寄せた直重だが、恐らく自身の風貌を噂に聞いて知っていたのだろう。それ以上特に何も反応することなく、阿久里の手首を片手で後ろ手に持ち、拘束した。

 遠慮なく皮膚に食い込む力は、そのまま少女の細い骨を圧迫する。阿久里は、珊瑚色の唇から声にならない悲鳴を零した。


「あぁ、これは失礼。緩めて差し上げたいところですが……」


 直重は、チラリと牢の中で自身を睨む父親を見遣る。そしてもう片方の手で、錠前に差し込まれた鍵を器用にス、と抜き取った。


「父上を出そうとおイタされても困りますね」

「十日近くこんな場所で監禁され衰弱した俺が出たところで、お前の敵ではあるまいに」

「かつては『鳴海国なるみのくにの若虎』と渾名あだなされた貴方らしくもない物言いですね」


 外に降る雨よりも冷ややかな秀直からの視線に、どこまでも穏やかな笑みを直重は返す。けれど瞳の奥にあるものは、ただただ冷たい感情ばかり。こうして顔を突き合わせていても、亡くなった母親似なのか直重からは直鷹なおたかほど父親と似通ったところはところはなく、親子の会話というよりも憎しみあった宿敵同士にも思えた。

 けれど。


「ふん……その虎をも討ち払わんとするのだから、血は争えんな」


 秀直から出た言の葉は、紛れもなく彼らが父子である証拠そのもので――。


「わかっていませんね、父上。貴方を討つのはただの足掛かりに過ぎません」


 水尾分家の棟梁の座などでは終わらせない。

 言外にそういい放つ直重の視線が、父親から腕の中に封じ籠められていた鳴海国治める血筋の少女へと落とされる。すぅ、と目が細められ、同時に青年から向けられるものは明確な殺気。

 阿久里は背筋に冷たいものが流れるのを感じ、直重の視線から逃げるように視線を横へと流す。視界の向こうには、先ほど自身も入ってきた扉があった。けれど子供の背丈ほどの扉はすでに直重の手により閉ざされており逃げ道はない。

 もしこの場で彼の手を逃れ、あそこまで走って土蔵の外へと出ようとしたところで、再び捕らえられる方が早いだろう。何よりそれは、せっかく辿り着いた秀直への道が、永遠に閉ざされてしまうことも意味している。


(なにか……なにか……)


 この状況をどうにか打破出来ないものかと視線を彷徨わせれば、入口付近の燭台で先ほど自身が火を付けた蝋がくゆり、その白いものが上へと伸びている。その煙を追うように睫毛を持ち上げると、天井近くの高い位置にやや小さな窓があった。

 常ならばあいていないであろうその窓は、秀直がいるためか換気口代わりにぽっかり口を開けていた。


(梁を伝っていけば窓には行き着きそうだけど、そもそも梁にどうやって登るのかしら)


 そもそも登れたところで、あの窓からの脱出はどうすればいいのだろう。

 最近出来た知己数人が聞けば、「そもそも何故その身体能力でそれを考えた?」と一斉に突っ込みを入れられそうなことを思案しながら、阿久里は太い梁を視線で辿る。そして、不意に梁の上で僅かに動く影に、眉を顰めた。

 一番太い梁にあったのは、二つの影。


(あれは――)


 天井付近には蝋燭の灯りは当然届かないので、はっきりとした形はわからない。

 だから、見間違えなのかもしれない。

 でも。


(いる)


 そう、確信する。

 直重に気付かれないよう、不自然ではない程度の動きで睫毛を再び元へと戻すと、口に鞘を咥え匕首を抜こうとする青年の姿があった。直重は銀色に光る刀身を抜くと、漆塗りの黒い鞘をその場でぺっと吐き捨てる。カランという渇いた音が、蔵の中で木霊した。


「フン。俺を殺し、守護大名をも追放し、大名にでも名乗りを上げるつもりか?」

「下剋上とは、そうしたものでしょう」

「だから血は争えんといっているんだ。それを為そうとした俺は、現にこうしてお前から討たれようとしている」

「つまり、だから諦めよ、と?」

「まぁそんなことで諦めて頂けるのでしたら、いくらでもいうのですけれど……」


 父子の会話の横で、ふと素直に思った言葉が唇からうっかり零れ落ちた。急にひんやりとした空気になったような気がして阿久里が視線を動かすと、何ともいえない表情の秀直と唇の端をピクリと引きつらせた直重の姿があった。


「どうも姫君におかれましては、御自分の立場というものがお分かり頂けていないようだ」

「腕が痛い、ということでしたら理解しております」

「………………腕が痛い、だけで済めば御の字では御座いませんか?」


 やや呆れた顔を阿久里へと向けながら直重が呟くと、くっ、と牢の中から声が溢れる。少女と青年が同時に見遣るとそこには拳を唇へと押し当て、笑いを堪えるこの城の主の姿があった。


「すまんな。下剋上だなんだと大層騒ぎ立てた割には、年若い女ひとりにおちょくられ良いようにあしらわれているお前が滑稽に思えてな」


 からかうような響きを声音に含めながら、秀直は牢の中で胡座をかく。けれど膝に肘を置き、やや前傾姿勢で長男たる青年を見据える目からは、遊びの色は一切感じられなかった。


「まぁ、復讐心から大それた謀叛を起こすような莫迦ならば、さもありなんと言ったところか」

「な……」

「そうだろう? お前のことは別段人より劣るとも思っていなかったが、取り立て内政に優れているいうわけでもなかった。可もなく不可もなく。それが主としての俺のお前に対する評価だ。そんな男が謀叛を起こし大名になったとて、その後どんなまつりごとをするつもりだ?」


 かつて若虎と称された男は、その二つ名の通り野獣のような瞳で息子をめつけた。血を分けた実の親子の視線が交差し、そこに鋭く尖った空気が生まれる。


「お前はその出自故か、もしくはこの日のために敢えて目立たぬよう、凡庸な将であるという認識を周りに与えようとしていたのかもしれんがな。だが、自ら望んで凡夫たらんとするやからなぞ、それこそ下剋上の世の中だ。あっという間に誰ぞにその座を奪われよう」

「凡夫であろうと、大名として君臨出来ることは榊家さかきけが証明しているではないか! いや、凡夫どころかそれにも劣る暗愚ではないか……!」

「まぁそれは否定しない。現に俺は、それを大義名分にこの国を切り取っていったのだからな。だがお前が暗愚と見下す御方は、俺やお前が一生持ち得ぬ力を持っているからこそ、今もなお君主の座にいる。それを覆すだけの他の力があれば話は別だが……望んで凡庸たろうとするお前には、まぁ無理な話だな」


 秀直が一瞬チラリと阿久里へと視線を向けながら、氷水の如き言葉を青年へと浴びせると、彼は腹の中からこみ上げてくる何かを耐えるように頬を小刻みに震わせる。


「はっ、何をどう言われようと父上。貴方が今日ここで俺に殺される運命は変わらない。そして榊の血脈も、潰える運命も変わらない」


 彼は眉間に出来うる限りの憎しみを集めながら、後ろ手に拘束した少女の腕を引っ張り上げる。限界まで逆手に持ち上げられた細腕が軋むような痛みを訴え、阿久里は思わず小さな悲鳴を上げた。


「あぁ失礼、姫君。早く楽にして差し上げるべきでした」

「……開放して下さるという意味でしたら、嬉しいのですが」

「いまこの状況下でそのような戯言が吐ける姫君の度胸は買いますが、なるほどあのような父親をお持ちの姫君らしい、あまり賢いとは思えないお言葉だ」


 直重は少女の耳朶を舐めるように囁きかけると瞳に抜き身のような光を宿し、もう片方の手に持った匕首を振りかざした。阿久里は恐怖を忘れた表情でぼんやりと光る刃を見つめる。

 自身の命が、他者の一存によってきまってしまう場面だというのに、心は微塵も焦っていなかった。そのことが、自分自身ひどく不思議で、けれども同時に納得いくものだという声も脳裏に木霊する。


(……ここで終わる運命、って場面よね……どう考えても)


 せっかく、覚悟を決めたというのに。


(何も、成せぬまま)


 死ぬのだろうか。

 進むべき道が、漸く見えたのに。


(運命は自分で切り開くのだと)


 そう、教えられたのに。


  ――ま、俺としてはさ、あんたには遠慮してほしくないし、するつもりもないんだよね。

  ――今後も多分こういうことってあるかもしれないけど、お互いにお互いを助けにいくことに、理由をつけるのはもうやめようかなって。


 あの時のあの言葉は、信じていいのだろうか。

 助けてくれと、願えば。

 先ほど、見上げたふたつの影。

 願えば。

 乞えば――。


(助けて)


 くれるのだろうか。


「……っ、直、鷹っ」


 ――刹那。

 ドサ、という大きな物音が響き、それと同時に入口付近へと砂煙が舞う。土蔵にいた三者の顔が、弾かれたようにそちらへと向かった。

 砂煙の中から未だ成長過程にあるとわかる細身の少年の姿が垣間見え、青年は「牧野まきのの……っ!」と叫ぶ。

 少年の影がそのまま燭台へと向おうとした瞬間、今度は阿久里を抱く直重の背後に白い影が突如落ちてきて、一瞬で砂煙が舞った。もやがかかる視界の先で白地の中に艶やかに咲き誇る曼珠沙華の中から見知った顔が現れ、直重が舌打ちと共に振り返ると同時にチャ、という鍔鳴りの音が鳴り響く。

 そして黒鞘から白刃が一瞬走ったように思えた次の瞬間、辺りは突然闇に落ちた。まるで今この瞬間あったことが夢幻の如く静寂が場を支配し、鼻腔に蝋燭のくゆりが届く。


「……やはりお前も生きているわけだ。鬼千代おにちよ

「直鷹、ですよ。兄上」


 直重は拘束する阿久里の両腕を一層きつく締め上げると、彼女の身体をそのまま自分の身体へと押し付けた。そして振りかざしていた匕首をそのまま彼女の白い首筋へと押し当てる。チリ、とした鋭い熱が少女の首筋に走り、栗色の髪が幾筋かさらさらと小袖を滑り落ちていった。 


「灯りを消した、ということは……なるほどな。目を閉じたままあの高さから飛び降りたとは恐れ入る」

「兄上の目はまだ暗闇に慣れていないでしょうからお伝えしますと、俺は次の瞬間にも貴方の首を刎ねることが出来る状況ですね」

「やってみるか? 三途の川の水先案内人がこの姫君ということになりそうだが」


 殊更阿久里の身体を自身へと押し付けながら、直重は笑う。けれど、より大きな的の方が牽制に使えると判断したのか、刃を少女の白い首筋から離すとそのまま背へとそれを回した。

 ぬるりとした生暖かい感触が、少女の白い首筋を這う。


(すっごくすっごくすっごく痛いけれど……傷としてはそんな深くないはず)


 阿久里は軽く息を吐くと、抱きすくめるように自身を捕らえる青年を見遣った。恐らく背後で刀を構える弟、そして入口付近にいるその乳兄弟に神経を向けているのだろう。先ほどまで阿久里へ向けられていた鋭い殺気が、興味を失ったかのように自身の周りからは霧散していた。


(武器も持たない非力な女ひとり、どうとでもなると思われているってことなんでしょうね)


 事実そうなのだから、彼の危機管理としては正しい。

 正しい――が。


(思ったよりも、きつく拘束されてる……感じかしら)


 少しでも身体の自由が利くようにと身を捩るが、抜け出すことはおろか身体の向きさえも変えることが出来ない。さらに首筋を離れたとはいっても刃は背中をいつでも刺せる状況だ。


  ――男に押さえ込まれたら、逃げられないでしょ。


 幾分慣れた目が、闇の中青年の肩の向こう側で刀を構える少年の姿を捕らえると、先日彼からいわれた言の葉が、脳裏で蘇る。


(そうね……確かに逃げられない)


 でも。

 阿久里は少年から再び自身を捕らえる直重へと視線を合わせると、なんとか自由の利く首から上を振り、僅かに首の角度を変える。そして、僅か一寸先にある青年の耳朶へ琥珀を縫い止めた。


  ――人体には、絶対に鍛えられない急所ってのがあってさ……。


 あの日、橙色に染まるその部屋で、自身へと影を落としながら告げてきたその声が教えてくれた「一撃必殺な外道の技」。まるで恋人や夫婦が睦言を囁くかの如きその距離で、阿久里は珊瑚色の唇を音もなく開ける。そして吸い寄せられるように青年の耳朶へと唇を寄せ――。


「っっっっっっっっっ――――――――――!!」


 力の限り、鍛えようのないその場所へと歯を立てた。

 噛みついたその歯をギリギリと食いしばれば、何ともいえない不快感が口の中いっぱいに広がっていく。それとほぼ同時に青年が大きく息を呑み声なき悲鳴を上げながら、少女の痩躯を捉えていた腕の力を緩めた。

 拘束されていた少女の腕が解放され、刃物が背中から離れる。


「ッッ、き、さまぁッ!!」

「っ、阿久里っ!!」


 直重が怒りに任せ匕首を振りかざした瞬間、直鷹の怒声にも似た声が響いた。

 阿久里が僅かに離れた直重の身体をさらに後方へと押しやると、頭に血の上った身体は腕を振り上げたまま硬直し、片足が一歩、後ずさる。

 彼の草鞋の裏が地べたを舐める音が早かったか、それとも白刃が闇を走る方が先か。ビッという絹を裂いた音が響いた後に、先ほどまで優雅に笑っていた青年のものとは思えないような濁った絶叫が辺りに響く。

 そしてその一歩遅れて、「何か」がドサリと落ちる音と、カラコロという涼やかな音が土蔵の中に転った。


「若っ、ご無事ですか!?」


 恒昌つねまさおぼしき声が土蔵の奥へと飛ぶと同時に、閃光にも似た光が辺りへと走った。阿久里は眉へと皺を刻みながら、反射的に閉じた瞳をゆっくりと開き辺りへと視線を這わせていく。


「……ッ」


 先ほどまで確かに少女を拘束していた腕が、こぽりと未だ断面から鮮血を吐き出しながら転がっていた。


「おう、俺は無事。――兄上、申し訳ありませんが、多少手荒くなります、ね」


 直鷹は地面へと伏す兄の横へと腰を落とすと、やや殺気立ったものを声に滲ませながら口早に告げ、懐から取り出した綿紐で赤いものが滴り落ちる腕の少し上をきつく縛る。


「どう……いう、つもり……だっ……。生かす……つもり、か……俺、を」

「俺は水尾家の家長じゃないんで」


 直鷹の視線が牢の中にいる父親へと向けられ、いつもの通りの笑みを頬へと浮かべた。


「兄上のことは、『殿』にお任せ致しますよ。兄上のことは、ね」

「莫迦者が……」


 どちらの息子に向けられたものか、秀直は眉間の皺を深く刻みながら呆れた感情を隠すことなく呟く。彼の長男が、先ほどまでの態度を一変させ視線を父親に向けることなく苦しげに睫毛を伏せる中、三男の少年は出会ったころのまま、なにも――なにひとつ変わらない笑みを頬に浮かべていた。


  ――あなたは、なにがあっても、なにが起きようと、あなた自身がぶれることがないな、と感じたのです。

  ――……うーん。まぁ、そうあろうとは思ってるかもね。出来ているかは、わかんないけど。


 彼に告げたあの時の想いは、いまだ塗り替えられることなくこの胸にある。


(本当に)


 強い。

 けれど――。

 ぼんやりと瞳へ直鷹を映していた阿久里の視線に気づいたのか、直鷹は一度軽く睫毛を上下させると、「あぁ」と手を差し出してくる。

 どうやら立てないと思われているようだ。


「首、大丈夫? ごめん、怪我させない予定だったんだけど」

「え? 首? あぁ……いえ、そんな深い傷じゃないですから」


 硬い声音でそう呟くように言いながら、一向に差し出された手を取ろうとしない阿久里に直鷹は首を傾げる。少年の茶筅を結う色鮮やかな紐がゆらりと揺れた。


「あぁ、そういえば……結紐、有難う御座いました。お父上さまに、あの結紐のお陰で信じて頂け」

「なに、まさか腰でも抜けたの?」


 少女の言葉に被せるように、直鷹は語尾を持ち上げ訊ねてくる。その多分に笑いを含んだ声音に、最中は全く意識の外にあった鉄の味が、急に阿久里の口の中で自己主張を始め出した。


「何か、口の中が気持ち悪いです」

「そりゃそうでしょうよ。兄上の耳、思いっきり噛み付いたんだから」


 大して力も目方もいらない一撃必殺的な外道技を伝授して欲しいと頼んだのは自分だが、まさか実行後にこんな事態に陥ることになるのなら、あらかじめ教えておいてほしかった。言外にそう視線を向ければ、「悪い悪い」と微塵もそうとは思っていない声が謝罪を紡いだのちに、秀直のために用意された膳から水差しを取り出し、阿久里へと差し出してくる。


「頂いても、よろしいのですか?」


 阿久里がちら、と秀直へと睫毛を向けると、軽く目を見開く男がいた。

 彼の妻――つまるところは直鷹の母の面立ちは知らないが、こういう表情はこの父子本当によく似ている。


「ご自身でお持ちになられたものであろう。勝手になされよ」

「――だってさ」


 少女は「では」とそれを受け取ると、何度か口を濯ぎ、懐紙へと吐き出す。手のひらの中の懐紙がじわりと薄紅色に色付いた。

 ガチャ、という金属音が響き、そちらへと視線を流せば、恒昌が牢の鍵を開け秀直へと手を差し伸べており、ほぼ同時に「殿」と入口付近から声がかかる。恒昌が呼んだのだろう城に詰める男たちが数人入って来て、床に転がる直重を捕らえる者、秀直を支える者で土蔵の中が一気に騒がしくなった。

 ここに足を踏み入れたそのときは、雨の音さえも聞こえるほどの静寂があった。

 その後の展開はあっという間に過ぎ去っていき、ふ、と気づけばいまこの状況だ。


(終わった、のかしら)


 阿久里は水差しを再度膳へと置き、薄汚れた地面へとそのままペタリと再び座り込む。


「なによ、本当に腰抜けた?」


 直鷹が笑いながら少女の腕を捉え引っ張り上げると、少女の身体がまるで雑草を抜くかのよう持ち上げられ、その後大きく傾いだ。濡れた栗色の髪が少女の小さな肩から零れ落ち、ふわりと荷葉の涼やかな香りが舞う。

 尋常ならざる痛みからか、呻き声を上げ続けていた直重は、それでも城の者が来たことで忘れかけていた矜持を取り戻したらしい。阿久里がたてたその香りに気付き、青ざめた顔をゆるゆると持ち上げ阿久里へと視線を合わせてきた。


「ひめぎみ」


 血の気の失せた渇いた唇が、阿久里を呼ぶ。少女は直鷹に預けていた身体を起こすと、直重へと睫毛を向け、声なく返事をした。


「貴女は、謀叛の種を、摘み……助かったと、そう、お思いでしょう……。けれど、貴女が助け出し、そして助けを乞うたのは、私よりも先に榊に……牙を剥こうとしていた男の息子です。私で……なくとも、水尾・・が……牙を剥くことには、何も変わりなかった」


 痛みからか、掠れた途切れ途切れの声が鳴海国の主たる血筋の少女へと紡がれる。その言の葉に、恒昌の手を借り牢から出てきた水尾家当主の眉の間に皺が刻まれ、瞳が一瞬で暗い色に染まった。


「それは、血筋に胡座をかき、のうのうと暮らしていたことへの罰だと受け入れております」

「断言してもいい、姫君。今後……第二、第三の私が……現れるでしょう。この、下剋上の世は、もう止まらない……榊へと、牙を剥く、謀叛の種は……いくらでもある……。榊さまが、鳴海国の……大名である、限り……」

「兄上」


 直鷹が兄に向けて言葉を発するのを、少女は視線は直重へと向けたまま手だけで制止する。直鷹が軽く驚き目を見張る空気を感じながら、阿久里は一歩進み出て直重へと身体を向けた。


「はい。ですからせめて民草からは、暗愚との評価を頂かないよう、努めたく存じます」

「はっ、ま……まるで、ご自身が……」


 少女の白磁の肌からはすっかり血の気が失せ、疲労の色が濃く出ていた。けれど長い睫毛の奥にある琥珀色の瞳には強い意思が宿っており、直重の唇が「まさか」と音を零す。


「ばか、な……女、の身で……どうする、おつもりか」

「民の暮らしを護り、国を富ませ、豊かにしようと思っておりますよ」


 漁師が、明日も魚を獲れるように。

 商人が、明日も売るものがあるように。

 職人が、自分の望むものが作れるように。

 農夫が、田畑を耕し米や野菜を作れるように。

 水晶に波紋を描かせたような、透明な声音が直重を刺す。

 直重は青白い頬を小刻みに震わせながら、忌々しげに舌打ちすると阿久里からの視線を断ち切るように顔を背けた。


「貴方さまのお陰でその覚悟が決まりましたので、その点は御礼申し上げます」


 阿久里は珊瑚色の唇に三日月を貼り付け、僅かに面を下げる。

 さらり、と柔らかな栗色の髪が、少女の肩口から溢れ白磁の頬へ影を落とした。

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