涼やかな絹擦れの音をたてながら離れる影に、阿久里はほっと息を吐く。

 草むらへと散らばったたぶさの重みを気にしながら、肘を付き、自由になった身体を持ち上げた。

 ふわり、と宙を舞った髻から普段焚き染めている香が仄かに漂う。鼻を抜ける清涼感とは裏腹な現実が恨めしい。

 阿久里あぐりが「これか……」と思わず眉を顰めると、突然髻をくんっと引っ張られた。


「あぁ、香の出処はやっぱり髪か」

「……痛いんですけれど」

「悪い悪い。でも綺麗なものなら、触れたいと思うのが人情ってもんでしょ」


 漸く暗闇に目が慣れてきたせいか、眼前で楽しげに笑う遊女の姿がうっすらと確認出来る。阿久里は、美女には似つかわしくない無骨な指を軽く弾いた。


「お世辞は無用ですよ」

「世辞じゃないよ。癖ひとつないし、触り心地もよく手入れした馬みたいで綺麗綺麗」

「……あぁ、確かに……。というか、髻結ってると、ほら。なんていうか馬の尾みたいに見えますね」

「いやそこは否定しとこうか。なに自分からノってきてんの」


 阿久里が髻を揺らすように小さく頭を左右に振りながら呟くと、遊女の姿をした少年は、苦笑に頬を歪ませる。割と言い得て妙だと感心したのだが、どうやら彼の想い描いた反応ではなかったらしい。

 では一体なんと答えれば正解だったのかと、阿久里が眉間に皺を寄せ目の前の人物へと視線を貼り付けていると、それに気づいた彼は「あぁ」と、草むらへと座ったままの彼女へと手を差し伸べてくる。


(別に起こしてくれといっているつもりもないのだけれど……)


 タダで受ける恩ほど高いものはないと聞くが、まぁタダで受けられるならばそれに越したことはない。阿久里は差し出されたその手へとぺたり、自身の手のひらを重ねる。

 化粧を施した綺麗なおもてに反し、節だった指や袖口から零れる手首の太さにきっとそうだろうとは思っていたが、重ねた手のひらは想像以上に硬く、厚い。造作もないように、ひょい、と阿久里の身体は引っ張り上げられた。


「どうも、ありがとうございます」


 礼を口にしながら立ち上がった阿久里は、つ、と男たちが去っていった方向へと睫毛を向ける。


「というか、追いかけなくてもよろしいのですか?」

「あぁ、あいつらね。んー、逆に訊くけど、あいつらが火付けの下手人だと思ってる?」

「……そう、ですね。如何にもな風貌過ぎて、逆に疑う気持ちが揺らぎそうですけれど……。まぁ古の物語のように奇を衒っても仕方ないですし、ほぼ間違いなく下手人かと」

「ははっ、まぁ多分そうなんだろうねぇ」

「多分そうって……」


 目を凝らしても、すでに松明の灯りすら確認出来ない。この下らないやり取りの間にどれほど先に行かれたのか。人のことをいえた義理ではない気がするが、この空間に焦りの感情が全くないのは問題ではないだろうか。

 阿久里の心中を察してか、背後から妙にのんびりと間延びした声がかかった。


「ま、於勝おかつ……乳兄弟にあとを追わせているから、いまは追わなくてもいいよ」


 阿久里が肩越しに振り返ると、手の甲で乱暴に紅を拭う「遊女」の姿。


「で、あんたは今回の火付けに対してどの程度わかってるの?」

「……乳母子めのとごに調べさせた程度ですから、そんな大したことは。新月の晩に、火付けが起こること。あと、先月には曼珠沙華を見たものがいるとかいないとか」

「どっちよ、それ。っていうか、それでわざわざ大名家の姫さんが、お忍びで調べてたってわけ?」

「お父さまにお任せしたところで火事の解決しないのは目に見えていたので。こういうの、何て言うんでしたっけ? 兵は拙速を尊ぶ?」


 戦というものは多少まずいやり方でも短期決戦に出て大勝することはあっても、長期戦に持ち込みうまくいった例はない。という意味で、まさに阿久里の行動そのものなのだが、貴人の姫君である少女の口から大凡似つかわしくないような故事が飛び出したせいか、少年は「そこで孫子が出るか、普通」と呟き半眼となる。


「私も武家の女ですから、兵法くらい学びますよ」


 もちろん、親には内緒で独学なのだが。

 そう告げる少女に、少年の頬に苦笑めいた感情が貼り付いた。


「学ぶのと、実際行動するのはまた別問題だと思うけどねー俺は」

「いざというときに行動に起こせてこその、学問ではないですか」

「ま、そりゃそうなんだけどさぁ」

「もっとも、自分の体力を考慮してなかったのは大きな反省点です。噂を集めるためとはいえ、さすがに田島港たじまみなと近くまで歩いてきたことなかったですから」

「まぁ女の足で歩くと結構あるよな。で、そんなあんたが、なんで今もここにいるの?」

「逢瀬のお約束は頂きましたけれど、どちらでお待ちすればよいのか伺っておりませんでしたし」

「どうせ城抜け出してくるってことはあれでしょ。搦手門からめてもん(裏門)から抜け出てきたんだろ? だから、そこまで迎えに行こうかとは思ってたんだけどさ」


 少年は、ふ、と視線を遥か遠い空へと向ける。彼の睫毛の先を追えば、暗闇の中にぽつりぽつりと橙の灯りが灯されており、そこには確かに城があることが窺えた。


「というか、何故搦手門から抜け出してくるとご存知なのですか?」

「いくら榊さまとはいえ、虎口こぐち(正門)に寝ずの番を置かないなんてありえないし、そうなると出入り口はまぁ十中八九、搦手門だよね。それに、いったでしょ。昔、花咲城はなさきじょうであんたを見かけたことがあるって」

「あぁ、そういえば前、そのようなお話をされていましたね」

「そんとき見かけたあんたの住まう屋敷は搦手門の側だったし、あぁ、あのときもなんか抜け出そうとしてたな」


 昔を懐かしむように頬の位置を高くする彼に、阿久里は一度、睫毛を羽ばたかせる。彼にはどうやら自身の過去を知る記憶があるが、自分の記憶の中に彼はいない。

 暇を持て余した軟禁状態の生活の中で、幾度か――否。両の手の指では足りないほどの数、ひっそりと城を抜け出したことがあったが、その日々のどこかに彼がいて、気づかずともすれ違っていたということがなんだかたまらなく不思議だった。


「そんな頻繁に抜け出していたわけでも、ありませんけれど」

「そりゃそうでしょ。大名家の姫さんが、そんなホイホイお忍びで出かけてたら、城の危機管理上大問題だよ。下手しなくても見張りの者の首が飛ぶよ」

「そんな大問題だとわかっているのに、大名家の姫へと密会のお約束をされた方もいらっしゃいますね」

「男女の逢瀬っていったら、夜が定番じゃない?」

はかりごともでしょう?」

「……そうだね」


 く、と少年の唇の端が持ち上がり、僅かな含み笑いが宙に溶けた。


「で、さっきの話の続きなんだけどさ。火付けの被害に遭ったのは、何れも空き家。っていうのは、知ってる?」

「はい。城近くの、虎口に一番近い屋敷だったかと」

「城を眼前に見上げるような一等地なのに、重臣の屋敷ではないってのも不思議な話だな」

「あ、屋敷というよりも、もともと花咲城の出城といいますか……」


 数代前の当主が狩り好きで、大量の獲物を一度捌き処理するための場所として城外に屋敷を作ったのだと聞いたことがある。


「あぁ、だからいまは空き家なのか」

「全焼したにせよ、いまの当主であるお父さまが使うわけでもないですし、いくら榊の屋敷とはいえ被害者もなく、特に泣く人間もいないのならば、あまり大事には思われてない……ということでしょうか」

「まぁ、そんなとこ。とはいえ、曲がりなりにも鳴海国なるみのくに守護大名家の屋敷が火付けにあったことを『大事には思われていない』っていうのもどうかと思うけどね」


 つまるところ、火付けによる被害者がなさそうな現状からも、いま慌てて追う必要もないということらしい。阿久里は口元に手をやり、いまの情報を一度頭の中で整理する。しかし、不意に妙なことに気づき、眉を顰めた。


「待って……」


 心臓が、とくりとくりと、胸の内側で大きくなっていく。


「誰も住んでいないような場所で……?」


 付け火ならば、なるほど誰が住んでいなくとも火事は起こるのだろう。

 けれど。

 女装した少年へと睫毛を向けると、彼は紅の取れた唇を三日月の形にしながらどこから持ち出したのか鍔鳴りの音を響かせ腰紐へと黒塗りの鞘を収めていた。

 そして髪に挿した簪をやや乱暴に抜き、その場に落としていく。カチャン、という高い音が響くほどに、脳裏に燻っていた疑惑の種火がじわりじわりと温度を上げていった。


「守護大名家の城の目の前にあるような屋敷には、ならず者が近づくわけもない……。それを逆手にとって火付けをしたにしても、じゃあ、辺りに誰も住んでいないのなら、『曼珠沙華』を一体誰が見たと言うの……?」

「それら引っ括め、これから確かめようって話でしょ」


 少年の唇がふ、と笑みの形を作る。

 彼は、自身の黒髪を結っていた絹布をシュルリという音と共に解くと、傍らに落ちていた木の枝を拾いそれを巻き付けた。そして小さな入れ物を懐より取り出し、その中にあった油を浸していたらしい紙を枝へとぺたり、貼り付ける。その後、器用に火打石を打ち付け火花を起こした。

 まるで一瞬で松明が作られたかのように感じるのは、日頃からこの少年がその手のことに慣れているためだろう。阿久里の目には妖術か何かを使っているかのようにしか見えず、驚きに睫毛を羽ばたかせた。


「そいやあんたの目、暗いところで見ると少し光ってるように見えるな。色が薄いから?」

「そう、なのです……か?」


 自身の目など、夜間にどう見えるか確認しようがないため知らなかったが、自分のこういった部分も父に忌み嫌われ疎まれる原因だったのか、と改めて思う。もっとも、今更そのことで傷ついたりするような繊細さは持ち合わせていないが。


「うん。神代かみしろに降臨した人外の女神たちってのは、そんな感じだったのかなってちょっと思った」


 今まで狐憑きと蔑まれることがあっても、この瞳を持ち上げられることなど今まで一度たりとてなかった阿久里は、思わず返事に詰まる。


「で、そんなあたりが原因で、榊の六女が父親と不仲って話を噂に聞いたけど、合ってる?」

「まぁ……概ね」


 榊では、正室からも側室からも男児が一人も生まれないまま、当主が四十を迎えてしまい、藁にも縋るような気持ちで神仏へと傾倒していったらしい。そして京から下ったという高名な坊主に頼み込み、なにやら有難い御札を貰い、男児が生まれるように祈願したのだと乳母から聞いたことがある。


「それで嫡男が産まれりゃ、世の中側室・妾は名目上はいらなくなるなー」

「普通はまぁそういう感想を抱きますよね」

「……で、普通じゃない殿さまはそれを信じて、その結果生まれたのがあんただった、と?」

「父は次こそ男児だ、と意気込んでいたようですが、結果が六人目の女児。いまもまぁ人並みとはいえませんが、赤子のころはもっと髪の色も薄かったそうです。こんな狐のような外見で生まれた赤子は呪われているに違いない! と大騒ぎして、これ以上畜生を増やさないようにという理由で、その赤子には『阿久里』と名付けました」


 「阿久里」という名前は、「これでおしまい」という意味から付けられることが多く、その願い通り幸か不幸か榊家にはその後、子は生まれていない。


「十六年前の、私です」


(あ、聞かれてもないのに言ってしまった)


 特別親しい間柄でもないのに、つい流れで自身のいみなを教えたことに気付き、阿久里はギクリ、冷や汗をかく。基本的に高貴な女性であればあるほど、諱を他者へと教える機会も少なく、それを知るのは親兄弟、もしくは嫁した家の人間くらいだ。

 まぁいってしまったものは取り返しがつかないので、それはそれでもうしょうがないと諦める以外にないのだが。


「なぁ、……えー。あんた」


 諱を知ってしまったものの、曲がりなりにも自分の主筋に当たる未婚の姫君の諱を呼ぶには少々抵抗があったらしい少年は、結局諱を知る前と同じく、けれどどこか気まずそうに「あんた」と呼んだ。

 もっとも、諱を呼ぶのと「あんた」と呼ぶそのどちらが非礼に値するのかは微妙なところではあるが。

 しかし呼び名に関しては特に何も感じなかった阿久里は、少年からの問いに軽く首をかしげる。


「とりあえず、この先に馬用意してあるからそこまで歩いてくれる? んで、そこから先は馬で行くから」

「……あの、先程……というか、以前も思ったのですが。この見場の悪いなりが恐ろしくないのですか? 狐憑きだとか、なんとか」

「は? その眼の色は知らんけど、青い目をした異国の商人なら与兵衛のところで見たことがあるし、そもそも水尾の先祖は神主だからなぁ。狐やらなんやらは、むしろ氏神の眷属だし恐れるもクソもないっていうかむしろ敬うべきもんだし。ってか俺に恐れて欲しいの? あんた」


 現在でこそ水尾家は武門の家柄だが、その先祖は北の地方で神職を生業とする一族だったという。その末裔すえが鳴海国へとやってきて、そこでやがて武門の家へと転身したが、今でも神に仕えていた一族であるという先祖を忘れず、氏神を祀る神社を手厚く保護しており、代々の棟梁は神人かみびととしての任も兼ねていることが多い。

 今まで自身に向けられた視線の多くが「恐れ」「蔑み」――時により「憐憫」であった阿久里は、そのどれとも違う――けれど、今までのどの視線よりある意味酷いのではないかという「面倒くさそうな視線」を受け、思わず言葉を飲み込んだ。

 そもそも阿久里の色彩を持つ動物の狐と、神の遣いと云われる稲荷きつねは本来別物である。前者は人を化かす害獣として忌み嫌われ、片や後者は古くより神の遣いとして祀られてきた神獣だ。


(それを同じ「きつね」扱いって……)


 聞く人が聞けば、卒倒しそうな程度には常識から外れた発言である。阿久里もそれほど世間を知ってはいないが、この少年は確実に一般人の規格ではない。


「で、歩く気あんのかないのかどっち? こっちの都合で悪いんだけど、今後もあんたとはちょっと話があるから、担いででも連れて行くけど?」


 少し間違えれば人攫いともとれるような言葉を向ける少年に、少女の眉は僅かに皺を刻む。


「といわれましても……。行くって……あなたの乳兄弟どのがどちらにおられるのか、ご存知なのですか? あ、狼煙で合図するとか?」

「いやいや、昼間ならともかく、夜中に狼煙あげるってことは、火付けだよ。火付けの下手人探してる人間が火事を起こしてどうすんの」


 それどころか、こんな状況下で火でも起こせば間違いなく城の警護を司る人間がやってくるだろう。


「確かに。本末転倒ですよね」

「だから、そうならないように……って、狼煙……?」


 少年は、ふっと眉を顰めた。先程まで戯言の色を滲ませていた黒曜石の瞳が鋭く光り、無骨な指が、後れ毛を煩そうに払う。


「なるほど……狼煙、ね」

「水尾さま?」

「もしかしたら、火事の理由はそこかもな」

「え……?」


 少年は、母親に隠れて悪事をする童のような悪戯めいた輝きを瞳に浮かべ、片頬を吊り上げ笑った。その表情が、言葉が示す答えがわからずに軽く小首を傾げた阿久里へ、彼の腕が突然伸びてくる。

 そしてそのまま少女の腕を捉えると、肩へと軽々担ぎ上げられた。まるで俵のように抱えられ、少女の視界は常よりも遥かに高いところに持ち上げられる。


「ちょ……っ」

「あんた歩くのトロそうだし、もう馬のところまで担いで行くってことでいい?」


 訊ねられたものの、阿久里からの返事を待つことのないままに、少年は少女の身体を担いだまま小走りで街道に歩を落とし出した。しっかりと抱えられているせいか体勢的に不安定さは感じないものの、精神的不安定さは生きてきた中で断トツ一番だ。

 阿久里は、足をばたつかせ、何とか地面に降りようと藻掻く。


「みっ!! みみみ水尾さま……っ!」

直鷹なおたか


 騒ぐ少女へと視線を向け、少年は名を告げた。阿久里は一瞬、足のバタツキを止め、少年へと視線を合わせると、少年の肩口で黒曜石と琥珀色の瞳が交わり合う。


「え……?」

「俺の名前だよ。水尾三郎直鷹みずおさぶろうなおたか寒河江さがえ城主・水尾秀直みずおひでなおの三男」


 覚えてね。

 そう言い再び視線を前方へと移し走り始める直鷹の横顔を、阿久里はもう暴れることなく黙って見つめた。

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