細く爪で引っ掻いたかのような月が、夜空に転がっていた。

 ほんの数日前まで夜間は少し肌寒く感じる日さえあったというのに、今夜は妙に寝苦しささえ感じるほどに、蒸している。

 阿久里あぐりは喉の渇きを癒そうと褥に肘をつきながら起き上がると、枕元にある水差へと手を伸ばす。カチン、と陶器がぶつかり合い、その後コポコポと涼やかな音が部屋に響いた。

 阿久里は白磁の器に注がれた水を、一気に勢い良く嚥下する。すぅ、と冷たさが喉から胃の腑へと入り込むが、それでも少女の不快感は消えないようで唇から軽く溜息を零す。


  ――俺は一度、地獄に行くべきなのかもな。


 不意に、脳裏に蘇る声。

 瞬間、阿久里の柳眉は皺を刻み、長い睫毛は白磁の肌に影を落とした。


「……同盟組むと言ったっきりそのまま音沙汰なしって……。せめて死んだかどうかくらい、連絡してくれてもよさそうなのに」


 かなり無理がある要望をぼそりと呟く。

 火事の下手人であり、謀叛を企てているらしい輩――くだんの少年の兄らしいが――と古寺で接触してから早十日。

 あれから後、城の搦手からめて(裏口)まで送られ連絡を待てといわれたきり、かの少年からの連絡どころか生活にすら何の変化もなかった。


(こうして暗いと、髪の色も目立たないのよね)


 大蛇のように渦を巻く豊かな髪を見つめながら、独りごちる。

 阿久里の狐毛のように色素の薄い髪は、一般的に考えて美しいとは言い難い。黒髪が大昔から続く美人の条件であり、手触りなどは二の次だ。もしこの髪が緑なす――、とまではいかずとも、一般的な色合いだったのだとしたら、きっといまこうして眠れぬ夜を過ごす自分はいなかったのだろう。

 けれど――。


  ――綺麗なものなら、触れたいと思うのが人情ってもんでしょ。

  ――じゃあ、さかきは俺と同盟でも組もうか。


 自身の髪が視界に触れるたびにあの少年を思い出すのは、遠慮なく人の髪に何度も触れてきたような人物だったからか、それともその髪が要因となりこの境遇となっているからか。

 阿久里は褥に横たわったまま、乱れ髪箱の中の髪を一房掬う。癖ひとつない髪は指の間をさらりとすり抜け、ふわりと香りを空気に舞わせた。


(何故なのかしら、ね)


 胸がキリキリと何かが突っかかったような感覚に襲われる。

 連絡すると言ったっきり音沙汰がないから、こんなにも気になるのだろうか。


(側にいないから)


 瞼裏まなうらに想い描いてしまうのだろうか。

 けれど、側にいても息がしづらく、やはり苦しい。

 阿久里は、胸の内にある何かを満たそうと深く息を吸い込む。けれど、どれほど息を吸い込んでも、どこか息苦しさを感じた。


「…………あら?」


 阿久里は、鼻先に自身の香以外のものが掠めたことに気付き、眉の間に皺を刻む。ゆっくりと吸った空気はやはりどこか重々しい。


(最近、こんな息苦しさがあったような……)


 そう。

 彼と――、水尾みずお家の三男と一緒にいた時のことだ。

 彼に突拍子もないことをされたときの驚きからの息苦しさではなく、もっと物理的な息のしづらさ。

 シンと静まり返った室内に、僅かに何かが爆ぜる音が届く。息を潜め、意識を耳に集中させると、パチパチという破裂音が部屋の外から聞こえてきた。

 これもまた、聞き覚えのある音だ。

 もう、間違いないだろう。


(……火事)


 彼との密約が決まってから、乳母子めのとごは安全のためにも先日より親類の家へと宿下がりをさせている。日頃よりこの屋敷には彼女と自分しかおらず、食事はすべて他の家族の住む本丸御殿で作られ運ばれるため、火の不始末という可能性はありえない。

 阿久里は褥に手を付き立ち上がると、衣裄いこうに掛けられていた若竹色の打掛を夜着の上に羽織り、襟を合わせ橙の細帯を二重に巻き締めた。足元へとまとわりつく打掛の裾を、鬱陶しそうに持ち上げ、帯の上へと被せるように長さを調整する。

 幾度となくお忍びという名の許に城下に出ていた経験が功を奏したらしく、身支度をひとりで早急に行うのはお手の物だ。あっという間に脱出する手筈を整えると、少女は軽く唇へと歯を当てた。


(あの時は、うまくいったと思っていたけれど……)


 直鷹なおたかが対応していたこともあり、取立てあの場では自分の正体がバレないようにおとなしくしてはいたが、考えてみればあの少年が通っていることを大々的に出来ない身分の女など、そうそういるものではない。


(榊のむすめだと知れても、不思議はないわね)


 阿久里は打掛の内側を流れる長い髪を一気に掻き出しながら、障子へと手をかける。カラという音とともに、むっとした空気が頬を撫ぜた。視界の端に飛び込んでくるのは、曼珠沙華の花の如き色をした、燃え盛る花――。

 屋敷を出るための唯一の通路が、火に包まれていた。

 侵入者対策用の石が鳴らなかったことを考えると、恐らく少し離れた所から火矢でも射掛けられたのだろうか。パチパチと火が爆ぜる音が生温い風と共に耳朶へと触れ、息がしづらいほどの熱風が鼻腔へと流れ込む。


(これが原因ね……)


 先ほどの息の仕方さえもわからなくなるほどの胸のつかえは一体なんなのか、と疑問だったが、とりあえずいまはあの少年は全く関係なく、鼻腔へと煙の臭いが辿り着いていたからだろうと結論づける。

 阿久里は慌てて踵を返すと部屋の中へと戻り、枕元へと置かれた水差へと手を伸ばす。大した量ではないにせよ、ないよりマシだ。少女は水差の中でたぷんと揺れる水を一気に自身の頭からひっくり返した。

 ツ、と頬に幾筋もの透明な雫が滑り落ちる。若竹色の打掛が水に濡れ、肩模様があるかのように色を濃く染め上げた。そして、乱れ髪箱の中にあった結紐を手に取ると、濡れてまとめやすくなった髪を項辺りで結いまとめる。


(舐められたものね)


 曲がりなりにも都の将軍家より守護大名職を賜った榊家の居城に、計略とは無関係にただ謀が露見した恐れのある女への処理として、火矢を射掛けるとは思っていなかった。


(本当、舐められているわ)


 榊も。

 自分自身も。

 阿久里の狐の如き色の瞳が、鋭く尖る。

 やや小走りで部屋を抜け出し、火の手が広がる廊下へと出るとそのまま庭先へと裸足のまま降り立った。

 視界の端にはチラチラと熱を帯びた剃刀のような花が燃え盛っている。阿久里は睫毛を庭のさらに向こう側――自身の背丈よりも遥かに高い垣根へと向けた。


(こんな火事で)


 殺せるような女だと思われていたとは、心外だ。

 ――否。

 確かにあの時の阿久里の様子を見ただけなら、そう捉えられても不思議はないだろう。あの場で目立ったことをすれば、己の素性すら相手に知られる恐れがあった。だからこそ、借りてきた猫のようにただ黙ってことの成り行きを見守っていた。


(でも、私はそんな女じゃない)


 頬を流れる雫を手のひらで拭いながら、阿久里は垣根へと足を進めしゃがみこむ。水を含み重くなった髪が、地面へとポタポタ雫を落としながらとぐろを巻いた。


(そういえば)


 ここから屋敷を抜け出すのはいつ以来のことだろう。

 垣根には一体いつ壊れたのか、十くらいの童なら通れるくらいの穴が開いていた。昔はよくここから脱出し、城下へと繰り出したものだ。

 流石に長じてからは抜け出ることが困難となり、本丸御殿の侍女たちの目を掻い潜ることにも慣れてきたので堂々と出入り口から外へと出るようになっていたが。

 阿久里はその穴へと手をやり、強度を確かめるように何度か古びた板を手のひらで押す。長年穴が開いたまま放置されていた垣根は、どうやらその一体がすでに腐っていたようでグニグニとした何とも言えない感触を手のひらに伝えた。


(あの日も)


 こうしてこの垣根の穴へと手をやり、外の世界を見ようとしていた。

 あの、初めて外の世界を知った日。

 自分を取り巻く世界が、意味を変えた日。

 垣根の向こう側にはスルリと伸びた細い緑の茎が見え、そこから天を仰げばまるで火の粉を巻き上げたかのように赤い花が咲き誇っていた。

 人々から無条件で敬われる自分自身の価値が知りたくて。

 家柄という価値をなくした自分の存在がどれほどのものなのか、それを知りたくて。

 ひとり、「外」へと抜け出そうとした――あの日。


  ――鳴海ここはそんなおっきい国じゃねぇけんど、殿さまのお膝元ってことでまだまだ活気があっていいことだなぁ。


 かつて、耳にした声が鼓膜の奥で蘇るのは何度目だろう。

 城下で付け火があったと聞いたときは、榊家の権威をこれ以上貶めることがないように、自身で解決しようと城を抜け出した。


(でも)


 私はそんなに強くはない。

 そう思う。

 自分の身の丈を、知っている。


(私は)


 長年、この館で軟禁に近い形で閉じ込められていたため、体力はないに等しい。


(だけど)


 まだ榊の家を失うわけにはいかない。

 それにはまだ早い。

 そして何より――。


  ――出口なんて、作るモンなんだよ。


 あの日、古寺でどこか楽しげに紡がれた言の葉が、耳の奥で木霊する。

 阿久里は立ち上がり裾をたくし上げると、細い背で結われた髪が雫を弾きながら揺れた。白く細い足が、夜の帷が落ちる庭へと浮き出される。

 草履を取りに行く時間はすでにない。

 自分の体力のなさを考慮すると、失敗に終わるかもしれない。


(いいえ、やってみせる)


 出口は、作るものだと。

 運命は自分の手で作るのだと、そう教えてもらえたから。


(そんな人間で、私はありたい)


 まだ終われない。

 終わらない、その為に――。

 阿久里は舞台で猿楽を舞うかのように足を大きく振り上げる。


「まだこんなところで死にたくないのよ、私は!」

「吼えるね」


 空から降ってきた声音が、阿久里へと大きな影を落とした。

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