第二章 月影の、その夜に

 陽の光が、東の空を十分に照らす。

 朝、侍女が水をやったと思われる柔らかな色合いの若葉は、自らの生命力を誇示するかのように陽の光を弾き、小さな粒を光らせていた。

 やがて重さに負けたのか、水滴はツ、と葉の上を滑り落ちていく。葉の輪郭から離れた水の粒が、湿り気を帯びた地面へぽたん、吸い込まれた。

 鳴海国なるみのくに寒河江城さがえじょう――。

 直鷹なおたかの父親の現在の居城である。

 鳴海国の東西南北どの方角からしてもほぼ中央部に位置するその城は、真新しい木や畳の香りに包まれており、季節に相応しい瑞々しさがあった。駒木の屋敷の廊下は長年使い込まれ黒光りしていたが、こちらの廊下は踏み叩くことを躊躇わせるほど新しい。

 それもそのはず――この城は、ほんの一年ほど前に普請を終えたばかりだ。


(ま、別に踏むけど)


 直鷹はそんな城の真新しさなど知ったことではないといわんばかりに、眉間にやや皺を刻みながら、廊下脇にある観賞用の草木を指で弾く。キラキラと光を弾いた葉が、水気の多い空気に揺れ、それに釣られたほかの葉からいくつもの雫が滑り落ちた。


(あー、ほんっと遅ぇ……)


 先日、供をしていた乳兄弟の少年の姿はそこにはなく、無駄としか思えない一人の時間ばかりが積み上げられていく。

 ことがことなだけに、これから長時間拘束されるのは必須だろう。ついでに黙って自分の屋敷を抜け出して遠駆けしていたことも今後露見するのだ。その場に彼がいたら、確実に年寄り連中からお咎めを食らうため、火事の状況について調べさせていた方がいいと直鷹は判断したのだが。


(そうなると俺が父上から叱られるのか。……やっぱ、あいつを連れてりゃよかったな)


 苦笑と共に軽い後悔を胸に滲ませながら、不意に聞こえた足音に前方にある渡り廊下へと視線を滑らせた。すると、そこには足取り重そうな年若い侍女の姿があった。


「父上に取り次いでくれたか?」

「若君、あの、殿は……その~、あの~、え、っと……ですねぇ……」


 女は言葉を忘れたかのように語尾を宙に溶かした。はっきりとした答えが何一つ得られない取次など、父親の性格を過去に照らし合わせて考えれば、答えはひとつしかない。


「あー、もうわかったよ。んじゃ、どこかに通してくれ。で、父上に急用だからなるべく早くっていっといて」


 直鷹はやや早口で侍女へ告げると、怒りと呆れの感情を吐き出すかのように大きく溜息を吐いた。


(またか)


 父・秀直ひでなおは勇猛果敢な武将ではあるが、同時に英雄色を好むとも言われるとおり、側室、愛妾の数もそれなりに多い。今、父親がいるのも執務をするための書院などではなく、女子供の生活の場――所謂「奧」で、年若い側女と戯れている最中なのだろう。


(新しい側室おんなは、確か『柿崎殿かきざきどの』っていったっけ……)


 どういった経緯で父の許へ来たのかは詳しく知らないが、現在寵愛されている側室は二十歳ばかりの美しい女だという噂だった。

 「柿崎殿」という通称は、彼女の父親の姓をとって付けられたものだが、そもそも彼女は柿崎家の実子ではない。大方、市井で見目麗しい女を見かけ、側室に上げるために筆頭家老である柿崎家の養女という形をとらせたのだろうと直鷹は見ている。

 秀直には六男八女の子供がいるが、そのうちの男児で結婚しているのは長男のみだ。次男は隣国の姫との縁談話こそあるが、数年前に婚約を取り交わしたっきり未だに輿入れは済んでいない。三男である自分に至っては、嫁の「よ」の字も出てきたことがない。

 このご時世だけに、年齢を考えると自分はともかく兄は明らかに遅い。


(年齢を考えても、兄上に譲った方がいい年齢だろ、二十歳の女って……)


 呆れながら、直鷹は打ち掛けていた小袖を脱ぎ去った。馬で駆けてきたせいもあって暑かったという理由もあるが、どちらかというと父親の現状にやってられない気分になったせいだ。

 バサリ、と音を立てて廊下へと落ちた小袖に、ふと目を向ける。


(――曼珠沙華)


 無意識に廊下に落ちた小袖を拾い上げ、刺繍に手をやった。艶やかな印象の色合いを持つ花だと言うのに、人に与える印象は痛々しいほどに強烈だ。まるで、昨日「再会」したあの男装の姫君のようだと、直鷹は独りごちる。


「若君」


 いつの間に側に来ていたのか、先程の侍女とは違う老女――父親の奧を差配する侍女頭が控えていた。

 自分が乳飲み子であった頃より知っている侍女頭は、伏し目がちに視線を廊下へと落とし自分を見てはいないものの、直鷹はどこか気まずさを感じ刺繍に触れていた手をそっと離す。

 どうにか話題を、とふと髪を見れば、以前見た時よりも髪に白いものが増えている。恐らく、この城の年若い側室の我侭にでも辟易しているのだろう、と直鷹は半ば勝手に同情を寄せた。


浪乃なみの、久しぶり。少し、白いものが増えた?」

「ご無沙汰しております、若君。相変わらず太平のばさら大名のようななりをしておいでなのですね。浪乃の白髪が増えたのも、そのせいかもしれませぬ」

「……相変わらず口が達者で何より」

「有難う存じます」

「褒めてない」


 慇懃無礼、という言葉が何よりも似合う老女へ冷たい視線を投げかけるものの、古株の侍女は能面のような表情を崩さない。


(くっそ、さっき同情して損した)


 ガリガリと乱暴に結った髪に指を入れながら、胸中で老女に毒づく。寒河江城に来てから何度目かの後悔を胸に抱いて、直鷹は踵を返した浪乃の案内あないに従った。

 腹いせに、浪乃の背を流れる髪の中の白髪の数でも数えてやろうかとしたところ、ふいに彼女は足を止めた。ふわり、と木綿仕立ての打掛を翻しながら顔を彼に向ける。


「そう言えば……いまこちらに、直重なおしげさまもいらっしゃっておりますよ」

「兄上が?」


 予想だにしなかった長兄の名に、直鷹の語尾が上がる。思わず顰められた眉を見て、能面のようなおもてから薄く笑みが生まれた。


「直重さまも、お部屋にお通しした方がよろしゅうございますか?」

「そ、だねぇ」


 直鷹は顰められた眉をそのままに、口元に指を当てる。本来なら、当主たる父親だけにまずは伝えたかったが、兄が城内にいるというのであれば敢えて同席を断る理由はない。

 ――否。

 正確にいうのならば、兄が城内にいると知ってしまったからには・・・・・・・・・・・だろうか。


「兄上も、同席していただくよう取り計らってくれ」

「畏まりました」


 浪乃は近くにいた年若い侍女に直重へ伝えるよう指示すると、視線だけで直鷹を促し、絹擦れの音と共に再び歩き出した。

 老女の小さな背中を追いかけながら、直鷹は久々に会う長兄を思い出す。そして僅かに狂った計画に、浪乃にわからない程度の小さな溜息を吐いた。

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