終章

 どこまでも高く広がる空に、白い綿のような雲がそびえ立っていた。

 小高い山の上にあった城でさえ夏の暑さは体力のない阿久里あぐりの身体には堪えたが、それよりも下界はさらに過酷だった。

 痛いほどの陽射しの温度をさらに上げるかのような蝉の声に、阿久里ははぁ、と何度目かの溜息を零すと汗ばんだ首筋へと手のひらを当てる。傷は既に癒えているものの、結い上げられたたぶさが肌へと貼り付きベタベタとするのが何とも気持ち悪い。


「なに具合でも悪くなった?」


 前方を歩く直鷹なおたかが、肩越しに振り返り訊ねるのへ、「いいえ」と残された力を振り絞り頬へと笑みを浮かべた。


「体力って、どうやってつきますかね」

「まぁ鍛えるしかないよねー地道に。一発逆転の外道技なんて、もうないよ?」


 水尾景直みずおかげなおの謀叛から、約一月後――。

 鳴海国なるみのくにの新大名として阿久里が最初に始めたことは「国を知ること」だった。

 浪乃なみのが長年囚われていた恨みが薄らいだどころか、そんな相手にさえも心を配るようになったのは、秀直が「娘をかどわかした男」ではなく「仕える主」となったからだろう。

 人はその立場になってみないと、本当のことなどわからない。

 阿久里が棟梁の器ではないと断じた父にしても、彼の立場になってみなければ見えないもの、わからないものはあるはずなのだ。

 だからこそ阿久里は、大名として最初にすべきことをそれに決めた。

 本当の姿を知らなければ、きっと本当に人々が望むものの形などわかるわけがない。

 これまでのように知った事実を持て余すのではなく、口先だけで終わらせるのではなく。全てを知り、その形を認識しながら、零れ落ちる幸せを掬い取りたい。

 当主となり、まつりごとの蓋を開けてみれば、この国は流石は京の将軍家から直々に守護大名を命ぜられた一族だけあって、それなりに家臣の質は整っていた。勿論、主が無能であったからこそ、配下の者が精進しなければ国を治めることが出来なかった一面というものがあるのだろうが、想像していたよりもまっとうに各部門の働きは正常だったのだ。


(もしそこも腐っていたら、こうして巡行も叶わなかったでしょうし……幸いだったわ)


 とりあえず、内政は今まで通り家臣にある程度任せておき、何かあれば自分へと決を仰ぐように指示を出した。そして彼女は「水尾直周みずおなおちかの縁者である宮司」を御伽衆おとぎしゅう(相談役)として身近くに置き、こうして自らの目で国を歩き、見て、確かめている。

 ――が、ほぼ軟禁状態で育ったためか、それとも生来の質なのか。体力のなさから、こうして巡行が時折難航を極めることも多々あったりもする。


「榊、あそこ」


 直鷹が葉が青々と生い茂った桜の木を指差してくるのへ頷くと、阿久里はその木陰へと足を運んだ。直接陽射しが降り注がないので肌を刺すような刺激がない分、体力的にかなり楽だ。

 少年の腰紐にぶら下げられていた竹筒が少女へと手渡され、それを受け取りながら睫毛を向ければ、「あっちぃ」と呻きながら曼珠沙華の小袖を脱ぎ、桜の枝へとひっかけていた。

 花咲城はなさきじょうへ「御伽衆」として登城する際は狩衣かりぎぬ立烏帽子たちえぼしという神人姿で他の家臣への態度も真面目、外連味など一切感じさせない清廉な少年宮司だが、一度城を出たら今まで通りばさら大名さながらの奇抜ななりで飄々とし、まるで一瞬ごとに表情を変える空のように気まぐれなままだ。


「というか、この季節に小袖打ち掛けて歩くとか、大好きな太平のばさら大名でもしなかったんじゃないですか?」

「誰が大好きだ、誰が」


 阿久里が受け取った竹筒を傾け一口二口飲んだ後、絹仕立ての白い打掛を仰ぎ見て眉を顰めると、打掛の持ち主である少年は頬に苦いものを含ませ、竹筒を荒々しく奪い取った。

「だって曼珠沙華はまぁそろそろ季節外れではないですしいいですけれど、この季節に外出時にわざわざ小袖を打ち掛けるって、おはらを召すのと同意語じゃないですか」

「いつでも腹を召す覚悟ありって感じでいいんじゃないの。しかも季節外れじゃないし」

「常識外れなことは気にされないのですね」

「今更」


 何故か誇らしげにしたり顔で笑う少年に、そもそも季節外れな時期にすら打ち掛けていた小袖なので、今更常識外れなことくらいこの少年には大した話ではないのかもしれない、と阿久里も勝手に納得した。

 炎天下では呼吸さえも苦しいほどの熱気だが、こうして木陰にいると先ほどまでは感じられなかった風が、微かに頬を掠める。

 ふわ、と高い位置で結われたたぶさが背で揺れる。

 この季節に下ろし髪のまま長距離移動するのはもはや拷問に近い。小袖を頭からかぶる被衣かづきをやめ、髪を結い上げ、足元を絞ったくくり袴に小袖という男装にほど近いなりで巡行をし続けた結果、いつしか頭痛も起こさなくなっていた。


(何事も、地道に頑張ることが大切ってことよね)


 一発逆転の道なんて、そうそうあるわけではない。

 体力づくりも、国づくりも、一歩ずつだ。


「そろそろ行ける?」

「あ、そうですね」


 木陰で水分を摂り休んだおかげか、体力も大分回復したようだ。

 阿久里はやや伸びた草を踏みしめながら立ち上がると、ふと桜の木を挟んで反対側に天を突くように真っ直ぐ伸びた花茎があることに気付いた。枝も葉も節もないその独特の形状は、見覚えがある。


「曼珠沙華……」

「まだ花は咲いてないみたいね」

「あと一月ひとつきもしたら、つぼみが出て、一気に花開きますよ」

「ふぅん。城のは、まだ?」

「あちらはここよりも気温も低いですし。この前の火事でどうなったことやら……茎も葉も花も出ていない時でしたし、土が踏み叩かれたわけでもないですから、案外大丈夫なんじゃないかとは思っていますけど」

「あぁ、葉と花が一緒に出ないとかそういや前いってたねー」


 あの日、廃寺で出た話題だ。件の火付けの下手人が「曼珠沙華」であるという噂が元で知り合ったのが縁の始まりだが、お互い砕けた口調にもう何年も知己として付き合っているような気さえする。


「『花は葉を想い、葉は花を想う』なんて情緒的に語られることもありますけれど、そんな花に囲まれた屋敷に住む私は、父とは想い合えずに家督だけ頂きましたけどね」


 日頃見ていた苛立ち顔とはまた違う、呆けたような、それでいて胸中の苛立ちを抑えきれないかのような父の表情は、きっと一生忘れられないだろう。幼少の頃より蔑まれてきた自分の、細やかな仕返しである。

 きっと今浮かべている笑みは、意地の悪いものに違いない。阿久里は頬を持ち上がらせる感情を笑いながら、未だ花の咲かない曼珠沙華を見て呟く。父・榊鷹郷さかきたかさととはあの日以来、顔を合わせていない。けれどもともとまつりごとを家臣に任せきりであった父は、存外自由気ままに趣味に時間を費やし楽しんでいるらしい。

 それを聞いて、素直に良かったと思えるほどには、自分は彼の娘らしい。


「ふぅん……『花は葉を想い、葉は花を想う』ね……」

「まぁ、それでも私の父には変わりないので……。いつか、そうですね……お父さまが亡くなる前にでも、夕餉でも共に出来る日が来ればいいんですけれど」

「で、城の花・・・はいつ咲く予定?」


 かつては認めるどころか意識すらしなかった父への想いに、先ほどとは違う種類の笑みへと変じた阿久里に、直鷹は彼女の話など聞いていない素振りでもう一度先程した質問を繰り返す。


「は? ですからまだ……」

まだ・・咲く予定はなし?」


 直鷹は腰を屈め阿久里の顔の高さまで視線を持っていくと、息が触れ合うほどの近さで再度訊ねてきた。久々に射抜くような少年の視線を受け、阿久里の心臓が身体に良くない弾み方をし始める。


「…………えぇ、と……待っていれば、多分、そのうち……?」

「了解」


 満足そうに、けれどもどこか意地が悪そうに頬の位置を高く持ち上げると、直鷹は真っ赤に染まる少女から視線を外し、枝にかけられた打掛を手に取った。そして流石にこの暑さの中、もう羽織る気にはなれなかったのかバサリと肩へかけ、「さ、そろそろ行きますか」と陽によって白んだ街道へと歩き出した。


(ま、また……)


 息の仕方を忘れるのは、この茹だるような暑さのせいか。

 未だドクドクと派手な音を奏でる心臓を叱りつけ、阿久里は直鷹の後を追う。


「おぉ、若さまじゃねーですか。此度、殿さまから神社の宮司さまをお継ぎになったってぇ聞きましたけんど」


 緑色の海になっている田んぼから、直鷹の顔見知りらしい農夫が顔を出した。直鷹は片手を上げ、それに答える。


「武家の方は勿論今まで通り嫡男あにうえのものだけどね。色々あって、宮司の方は俺になった」

「そりゃあまぁ、おめでたぁことで。お社の稲荷大明神さまのおかげですかいねぇ」


 真っ黒に焼けた顔をくしゃくしゃにしながら笑う農夫に、直鷹はちらりと肩越しに阿久里を振り返った。少年からの視線に阿久里が軽く目を見張ると、熱気を孕んだ風が街道を緩く走る。


「やー、『稲荷大名』のおかげ、かな?」


 少女の栗色の髪が光を弾き宙を舞うのを眩しそうにしながら、意味ありげに直鷹が頬の位置を高くする。

 阿久里は風に弄ばれた髪を手で抑えながら、同じような笑みを少年へと返した。






 時は戦国――群雄割拠の時代。

 京の都で将軍家の跡目相続問題を引き金にして起こった長い長い大戦が終わりを告げたのは、今からはや二十年前の事。

 都の荒廃は地方へ飛び火し、将軍家の息のかかった守護大名は長年の戦にて力をなくし、その配下であった者や豪族、さらには商人、百姓でさえも力さえあれば上へ上へと高望み、そして主の座に食らいつく。

 そんな時代に、年若い女の身でありながら一国を背負って起った少女がいた。

 神社に連なる家柄の少年を御伽衆に加え、民の暮らしを護り、国を富ませ、豊かにするため奮闘したその少女を、のちの人は「稲荷大名」と敬意を込めてそう呼んだという――。

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戦国稲荷御伽草子 笠緖 @kasaooooo

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