「あの……浪乃なみの、さま」


 雨音が草木を叩く音が響く廊下で、数歩前を衣擦れの音と共に歩を進めていく老女の小さな背中へと阿久里あぐりは声をかける。ぴたり、止まった彼女は、肩越しに振り返ると、少女が両手に抱えた乱箱みだればこを引き取っていった。

 カチャ、と盆の中で、道具同士が軽くぶつかる音が水気を含んだ空気に響く。


「火傷はありませんね」


 ちょうど灰がかかり薄汚れた蔽膝へいしつへと視線を落としながら、確認するように訊ねてきた。阿久里が是と答えると、老女は軽く溜息を吐き、くるりと踵を返す。


「あ、あの……、お道具は」


 手慣れた仕草で翻された裾が、ばさりと小さく音をたて、少女の疑問に答えることなく、小さな背が再び廊下を歩き出した。気にするなという意味なのだろうが、この城で侍女頭じじょがしらをしている浪乃に雑用をやらせ自身は手ぶらで歩くなど、許されるものなのだろうか。


「御方さまの自儘はいまに始まったことではないにせよ困ったものですが……あなたもこのお城に仕える身なれば、少し言葉をお考えなさい」

「……申し訳、ありません」


 彼女のしゃがれた声が紡ぐその言の葉は、まさに正論としかいいようがなく、彼女の半分ほども生きていない自分が返せるものなど謝罪以外見当たらない。先ほど香道の道具を引き取り、阿久里へと返答をしなかったのも、叱責のため道具を取り上げたという構図なのだろう。

 けれど、咎める浪乃の声音が優しい響きに思われるのは、恐らく彼女自身主君の年若い側室に手を焼いているせいだろうか。


(違うわね)


 加齢のためか声も低く、見た目からすれば、とても気難しそうな老女に思える浪乃だが、その小さな身体の中には相手に対する確かな情がある。だからこそ、秀直ひでなおがこの城の奥殿の差配を頼み、側室の教育もまた任せているのだろう。


(まぁ、そんな人にさえ小言をいわせてしまうのだから、やらかしたというほかはないのだけれど)


 阿久里が浪乃の小さな背を追いかけながら、ふと濡れた灰色の空を仰ぎ見ると、どんよりとした暗い色をした空が遥か高い所に拡がっていた。


(せっかく香を聞くに適したい日だったのに、ね……)


 目的を見誤るつもりもないが、やはり侍女としての仕事をしながら香道に触れられるというのは、楽しみだった。その楽しみを自分で台無しにしたようなものだから、自業自得というほかはないのだが。

 阿久里がすぅ、と息を吸い込むと仄かに鼻腔を擽るのは雨の匂い。ここ最近、俄に陽射しが強くなり汗ばむ日が増えてきたが、それでも雨の日はしっとりとした空気が辺りを包み込んでいた。


(さて……気持ちを切り替えないと)


 浪乃個人としては阿久里に対し同情のようなものを抱いたのかもしれないが、城主の側室つまでありこの城の女主人でもある柿崎殿かきざきどのの不興を買ったのだ。ああまではっきりと「いらない」といわれたのだから、即刻城から追い出されても不思議ではない。


(まぁ、秀直どのの現状を知らない以上、彼女に近づく必要なかったわけだけれど)


 けれど、城まで追い出されては本末転倒だ。

 どうしたものか、と思いながら浪乃の背中を追っていると、阿久里の心情を察したかのように目の前を歩く打掛がピタリと止まった。


「今後のあなたの処遇ですが……」


 肩越しに振り返りながら、浪乃は視線を阿久里へと向けてくる。皺だらけの瞼の奥にある瞳の色に、少女は顎を僅かに引きながら背筋を伸ばした。

 ごくり、喉が上下する。


「あなたが城を出されるという事態だけは避けられるよう、取り計らいましょう」

「は、え……っ、あの……っ?」

「出自がしっかりとしていて、さらに香道の嗜みもある娘子むすめごですから。いずれ何かの役にも立ちましょう」

「あ、あの。身に余る光栄に、有難いことだとは存じますが、冷静に考えて私は自分がそこまで求められるほどの人材とはとても……」


 水尾家みずおけ譜代の家臣である牧野家まきのけむすめであり礼儀作法に問題がないとはいえ、城に上がって早々に主の不興を買うような者は、「いずれ」「何かの」程度で置いておくに相応しい人物ではない。

 新たな揉め事を引き起こす可能性の方が高いだろうし、積極的に使っていきたい人材ではないだろう。


(まぁ反対する皆に大見得切って来んだから、辞めさせられないのは本当に本当にありがたいことなのだけれど……)


 でも、何故。

 そういう気持ちが胸の内側で膨らんでしまう。

 主観としては、ただただありがたいの一言だが、客観的に見たときにどうしても感じてしまう違和感。

 何も考えず、それをありがたく素直に受け取れるほど、阿久里の置かれた境遇は愛に満ちた優しいものではなかったし、仮に愛に満ちていたにせよそこで疑いの眼差しを向けられないようでは主君としての素質に欠ける。


(まぁ……お父さま辺りはすぐに騙されそうだけれど……)


 だからこそ、彼が君主の器ではないという話になっていくのだが。


(もしかしたら)


 私の正体に気付いている……?


(いいえ、それはないわね)


 不意に浮かんだ考えを、即時自身で否定する。

 気づかれる要素というものは、ないはずだ。

 阿久里個人は浪乃という女性といままで面識はまったくなく、仮にこの見場みばが噂に聞く榊家さかきけむすめと似通っていることに気づかれたとしても、わざわざ寒河江城さがえじょうの侍女になる身分でもない彼女がここにいるなんて考えに及ぶわけがない。

 直鷹と榊家の息女が繋がっているという話も、知っている者が限られており漏れてはいないはずだ。


(あぁ、そういえば)


 直鷹の話によれば、浪乃という侍女は彼が生まれる前からずっと秀直に仕えてきたという。当然直鷹が鬼千代おにちよと呼ばれていた頃から知っており、彼にとっては頭が上がらない人物のひとりらしい。

 恒昌つねまさが直鷹の死をこの城に報告しにきているので、もしかしたら彼女が可愛がっていたという直鷹の死後、その乳兄弟の縁者に対し情をかけてくれているのかもしれない。


「そう、ですね……」


 老女は一度区切り、打掛の裾を足で捌きながら再び身体を少女へと向ける。そして腕に持つ乱箱を抱え直すと、すっと視線を遥か高い灰色の空へと流した。

 さぁさぁと空から降る雨の音が、真新しい廊下に響く。

 鼻腔に届くのは湿った水のにおい。

 老女は何かを探すかのように目を細め、そして薄い唇の端を僅かに持ち上げた。


「思い出すからかもしれませんね」

「思い出す?」

「私にも、あなたと同じくらいの年の娘がおりました」


 阿久里は軽く目を見開き、息を呑む。

 優しげに微笑けれどどこか寂しげなその表情と、今の言葉が過去を指していたということを考えれば、その娘は今はもう亡いということが嫌でもわかる。


「似て、いたのですか? 私と……」

「いいえ、顔貌かおかたちはさほど似てはおりませぬ」


 顔貌ということは、背格好か声か。

 もしくは、この色彩か――。

 何か、言葉をかけなければならないと思いながらも、どういうつもりでこの老女が自分にそれを告げたのかの意図がわからない。

 彼女の娘が亡くなったのが一体いつの話なのかは謎だが、自分に似ているということは二十歳になる前には亡くなったのだろう。浪乃との年齢差を考えると、生きていれば恐らく五十に僅か足りないくらいか。

 噂に、彼女にはもう身寄りがなく、だからこそ長年水尾家に仕えているのだと聞いた。しかし、娘がいたのなら、彼女さえ生きていたら、もしかすると孫に囲まれた生活もこの老女にはあったのかもしれない。


(人の生き死には、神仏の領域だとはいうけれど)


 親よりも先に逝くのは、親子どちらにも不幸なことだ。


「親を亡くす子の想いも辛いものと聞きますが、子を喪う親の心はそれよりも遥かに大きな痛みなのでしょうね」


 自分も不仲であった父親の安否が確認できただけで、安堵したほどだ。

 慈しみ育てた我が子を喪う親の気持ちは、恐らく想像することすら出来ないほど苦しいものなのだろう。

 恒昌の話によれば、この城の主・秀直も直鷹を亡くしたと聞いて倒れたということだ。実際、彼が倒れたのは恐らく一服盛られたことが原因だろうが、それとは別に過大な心労はあったことだろう。


(…………って、あれ。そう、いえば)


 いま、秀直は誰が――。


「話が少し、長くなりましたね」


 不意にかけられた嗄れた声に、自然と伏せられがちになっていた睫毛を弾かれたように持ち上げると、空を見つめていた浪乃の瞳と少女のそれが交じり合う。


「とりあえず、御方さまのご不興を買ったことは事実ですし、当分あなたの世話は私が見ましょう」


 主への礼節を弁えぬ貧乏武家出自の少女へかける言葉にしては、優しさばかりが感じられるそれが鼓膜へ届く。

 老女からかけられた言葉のひとつひとつが、まるで大地に降り注ぐ雨のように阿久里の身体へと染み込んでいく。それを紐解くように芽吹かせていけば、どうしてもひとつの真実に辿り着いてしまう。


(そんなわけ)


 ない、と思いたい。

 彼女は、長年秀直に仕え覚えもめでたい侍女であり、直鷹が自分の祖母のように懐いている女性だ。


(でも)


 阿久里は自分で出した答えに惑うように、眉の間に皺を刻む。


「……有難う、御座います」


 動こうとしない珊瑚色の唇を無理やりこじ開け、震えた声を雨の音が響く廊下へと落とした。けれど、それは言の葉として音を宿したものとはお世辞にもいえないほど掠れており、余韻も残さぬままに雨音に飲み込まれていく。

 けれど、浪乃は特に気にしなかったのか、いつも通りの能面のような表情で阿久里からのそれを受け取ると、もう一度何かを探すように一度空を見上げる。


「参りましょうか」


 浪乃の瞳に映る灰色の空から降り注ぐ雫が、気丈に振舞う老女の心を素直に表しているような気がした。

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