捌
甲高い音を響かせながら、格子戸がゆっくりと開かれる。
開かれた隙間から松明と思われる橙色の光が暗闇の堂内に入り込み、
「おい、若さんよ。ここでいいのか?」
嗄れた声が、埃っぽい堂内に響き渡った。先ほど、街道で聞いた声のひとつだ。阿久里は思わず懐に忍ばせた匕首を握り締め、知らず唇を噛み締めた。
紗の打掛を頭から被布のようにかぶり、黒髪の少年に頭を押さえられているため睫毛は暗闇の板間に向けられている。しかし松明の灯が爆ぜる音、視界の先に僅かに灯る橙の光に、
まるで鼓膜に心臓が貼り付いてしまったかのように、バクバクと鳴り響く音が煩い。
「……えぇ、ここです」
若い男の声――先ほども耳にした声だ――が、答える。どうやら嗄れた声の主に答えたわけではなく、外にいる人物への返事だったようで、幾分声が遠い。
「どれ、俺も一度見ておこうか」
「これから燃やす予定の仏を拝むのですか?」
「
クツリ、と喉の奥を震わせるように笑いながら、どこか春の風を思わせるかのような穏やかな声音が堂内に響き渡った。けれどその内容は、心穏やかになるようなものではなく、肌を刺すような冷たさがある。
(直周、って言うと……
鳴海国の守護代・
少女は眉を顰めながら僅かに
「この古い木の塊にご利益があるのなら、
残酷な言の葉が、仏像へと投げ掛けられた。「榊」という音を耳にした瞬間、心臓が再び大きく跳ね上がる。状況的にどう考えても味方とは思えなかったが、それでも自身への敵意を目の当たりにすると緊張で身体はこわばるものらしい。
どうやら声の主が堂内へと足を踏み入れたようで、穏やかな声と同時に板間がミシ、と乾いた音を立てる。
「……ん? なんだ、香でも焚かれていたのか?」
足音が止まり、同時に訝しげな言の葉が彼の背後へと投げ掛けられた。阿久里のこわばっていた身体がギク、と軋み、ツ、と背中に冷たい汗が流れる。
いまは、香は纏っていない。
(けれど)
風に髪が煽られただけで、香るほどなのだ。
(これだけの空間に篭っていたら、私の香が充満してもおかしくない)
先程、
「あぁ、先月何度か足を運んだ折、私が焼香致しました。恐らく、その時の残り香でしょう。沈香の香りが籠ってしまったようです」
先ほど、直周と呼ばれた少年の声が答えた。
「焼香? わざわざ燃やす仏像にか?」
「燃やすからこそ、無に帰す前にせめてもの償いを、と思ったまでです」
「無意味だな」
どこまでも柔らかい声音が、無慈悲に切り捨てる。いわれた方は特に気にする様子もないらしく、埃がやや積もった床へと少し視線を落としながら堂内へと足を踏み入れてきた。そして、目の前に立つ自身よりも大柄な背中へと話しかける。
「先月までは貴殿への狼煙の意味合いもありご指示のあった空き家を燃やしましたが、今回は自らお出ましになられたのですから、燃やす必要はないのでは?」
「この寺があっては搦手から城を攻める際に城への行程で死角が生まれる、兵を置くのに邪魔だ、寺ごと辺り一面を燃やそうと……そういったのはお前ではなかったか?」
「ですが」
「元より計画途中で何かがあった時、責任を被せるつもりで『下手人』の打掛を持ち歩いていたが、まさに当の本人が嗅ぎ回っているようだからな。祭りの前に、奴には今回の火付けの下手人として退場してもらわねばならん」
そういうと、男は白を基調とした肩裾模様の打掛を肩へとかける。シュルリ、という涼しげな絹擦れの音が耳朶に触れた。
「直周、まさかお前ここへ来て、臆病風にでも吹かれたか?」
「……いえ。榊さまを追放するのと同時に、父上が
「だろう? まぁ直鷹など正室腹とは言えど、元服したばかりの
何かに酔っているかのような――否。狂うことを愉しんでいるかのような台詞の後、突然、空を切るような音が堂内に響く。そして次の瞬間、カランという何かが板間に転がる音がし、堂内が橙色に染め上がった。
どうやら声の主は、付き従う男たちに目配せし、松明を投げ捨てるよう命じたらしい。キィ、という甲高い音をたてながら格子戸が再び閉ざされた。
堂内にはパチパチと松明の爆ぜる音が響き、僅かに焦げたような臭いが鼻腔にふわりと届く。阿久里は視線と共にゆるゆると頭を少し持ち上げると、紗の打掛ごと彼女を押さえつけていた少年の手のひらがするりと外れた。
「……火事、になりましたね」
「そうだな」
少年の声音は、常よりも音もその温度も幾分低い。
阿久里は被布状態になっていた打掛をそのまま肩へと下ろし、睫毛の先を隣に座する少年へと向けた。その視線に気付いたのか、入口の格子戸を睨むように見つめていた直鷹も阿久里へと黒曜石の瞳を滑らせる。
「今のは……水尾本家のご嫡男と……」
「俺の長兄だな。腹は違うが、兄だ」
どこか苦々しいものを含んだ笑みを鼻先に集めながら、直鷹が呟いた。阿久里は長い睫毛に縁どられた琥珀色の瞳を殊更大きく見開き、そして一度瞬きをする。
「
「なんだ、
「いえ。先日、水尾家を探った折に軽く調べた程度です」
「はは。さっすが棟梁娘」
先程まであった苦々しい笑みをふっと吐き出すと、彼の黒曜石が阿久里へと向けられた。
「でも残念、あいつは直家じゃなくて
直重の場合、秀直が正室を娶る前の十代前半で戯れに通った女の許で生まれた子供らしく、酷い話だが正直誰の胤であるかが疑わしいということだ。そういう背景がある子供となれば、跡目相続問題などになった場合でも家督が回ってくる可能性はほぼないに等しかった。
「若っ!」
直重らが入ってくる前に、彼は阿久里たちとは逆方向の死角に潜んだらしく、仏像の裏にある通路から、
「そういえば……この状況ですけれど、如何なさるおつもりなんですか? 私、立場的にも個人的にもまだ死にたくはないのですが……」
「死にたくないのは、俺も同感だけどさぁ。すぐそこでほら燃えてるんだし、もうちょっと真剣に焦ろうか」
「一応、どうしようか、とは思っておりますよ。でも、なんといいますか……。先ほどまでのんびりと家庭事情を語っておられた方に、焦ろとかいわれたくないのですが……」
「本っ当、イイ性格してんなー」
呆れの感情を瞼へと貼り付け半眼となった直鷹が、阿久里を軽く睨む。
堂内は徐々に温度を上げ、火の勢いを増してきている。このまま火達磨になるのが先か、それとも煙で意識を失うのが先か。
この状況下においても、直鷹主従に焦りの感情は特に見られない。外連味ある彼だからこそ、こういった時こそ太々しくなるものなのだろうが、ハッタリを除外して考えてもきっとなにか考えあってのものなのだろう。
阿久里は睫毛の先にいる少年へと視線を尚も貼り付けていると、彼はふーっと大きく息を吐き出し、音もなく立ち上がった。額にかかる黒髪を乱暴に払いのけると、「ほら」と阿久里へと手を差し出してくる。
(掴め、ということかしら……)
一呼吸、黙ってその節くれだった手を見つめ、阿久里は先ほどとは違いその手を取った。触れた直後に感じた正直な感想はただ「硬い」その一言に尽きる。
事も無げに少女を引っ張り上げた直鷹は、そのまま彼女の痩躯を米俵のように肩へと担ぎ上げた。
「…………ですから、いってくだされば」
「担いだ方が早いんだって」
直鷹が、先ほどまでの重さが嘘のように笑いながら板間へと足音を転がし歩を進めると、ギ、ギ、と足が床を踏むたびに甲高い音が堂内に響く。背後には姿を大きく変え始めた炎が迫っており、パチパチと火の粉が爆ぜていた。
ゆらりゆらりと刃物のような紅が、宙で舞う。
その姿は、なるほどあの曼珠沙華によく似ている。
(色は違うけれど、焔に似た花を、天上の花と称されるのも不思議な話ね)
阿久里が体勢を整えながら肩越しに振り返ると、そこには堂内に大きな影を落とす仏像の姿。
「これから仏さまに、助けてくれるようお願いするのですか?」
「それって『切腹』とか『極楽浄土に行く』ってのと同意語だよね」
「若の場合、お願いしても極楽浄土にいけない気がしますけどね」
「地獄行きにはお前も付き合えな」
乳兄弟の軽口に悪戯めいた笑みで乗っていた直鷹の肩口から、阿久里の痩躯が下ろされた。そして彼の手は、彼女の栗色の髪を束ねる白い
さらり、と阿久里の頬や華奢な肩へと癖のない髪が散らばり、ふわりと清涼感がある荷葉の香りが広がる。
「?」
「ここから出たあと、ちょっと協力してもらいたくてね」
「……そもそもどうやって出るのですか? あっちもそっちも、火ですが」
「出口なんて、作るモンなんだよ」
ニ、と唇の端を持ち上げ笑うその表情は、彼がよくする外連味溢れるそれ。やはりなにか手立てを持っていたものらしい。
直鷹が乳兄弟の少年へと視線を向けると、それを受けた恒昌は軽く頷く。そして二人の足裏が、同時に床を離れた。
「え、あ……の?」
まさか、と少女の唇が音を刻むその直前に、少年二人がほぼ同時に仏像の台座に足を掛ける。
「いぃち、にぃの……」
日頃はやや高めの声音が、太々しさを感じる程に低く宙を這う。
「さんっ!!」
掛け声とともにそのまま巨大な如来像が、荒々しく蹴り飛ばされた。
阿久里の視界の先で、少年の髪を結い上げた色鮮やかな結紐が大きく揺れ、さらにその奧にある古びた如来像がまるで木の葉が枝から落ちるかの如く、ゆっくりとした動きで後方へと倒れ込む。
蹴り倒された仏像は、築数百年経つ寺の壁へと自身の重みをそのまま伝えた。ミシ、という音とともに、壁に亀裂が入り――そこを基点に仏像が一気にめり込む。そして、そのまま派手な音をたてながら、古びた壁が破壊された。
少女の髪を煽るように風が、堂内に入り込む。
堂内にたまっていた埃が、一瞬で風に煽られ広がった。
「地獄行き決定、おめでとうございます」
「……おうよ」
嫌味以外のなにものでもない阿久里の言葉に、直鷹の眉が皺を刻む。けれどその表情はどこか楽しげだった。
少年は半身引き、阿久里へと手を伸ばす。
応えるように差し出した指は、自分でも驚くほど素直に彼の手のひらに触れた。
相変わらず、硬い。
(でも)
力強い、と。
そう、思った。
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