第三章 真実を穿つ雨音

 胸で脈打つ心臓を、口から吐き出してしまいそうな程の恐怖があった。

 額から溢れ出た汗が、ツ、と頬を伝い流れ落ちる。

 全身の筋肉が、まるで自分のものではないかのように動かなかった。奥歯がガチガチと鳴り、息すらまともに吸うことが出来ないなど、十代前半で迎えた初陣以来ではないだろうか。


(間違ってない)


 あの時、腹違いの弟を殺さなかった判断は、間違っていないはずだ。


(そうだ)


 これは好機。

 知りすぎた弟を始末すると同時に、なにも知ることのない父親を始末する。

 それを同時にやってのければいいだけのことだ。


直重なおしげどの」


 背後から、幼さを残す声音が自身を呼んだ。


「……直周なおちかか」


 怯えていたことなど微塵も感じさせない、傲慢な声がするりと唇から滑り落ちた。如何いかに同盟者と言えど、弱味を握らせるつもりなど毛頭なかった。ましてや、くだんの弟よりも年若く、昨日今日元服したばかりの童だと侮っている相手である。


「どうした?」


 穏やかさすら感じるほどの声音。

 否。

 事実、相手を侮っているからこそ憐憫の情さえも沸いているのかもしれない。


「いえ……、これから如何なさるのかと」


 直周は目の前で背を向け座する青年へと視線を落とし、訊ねてきた。けれど、直重は彼の父親ならばともかく、直周より自身の方が上だと言うように少年を振り返ることはない。

 お前など、背中を見せたところで臆する必要さえないのだとでもいうように、そのまま少年の言を背で受け、薄く笑いながら優しげな声音で残酷な言葉を紡ぎ出す。


「如何なさるもなにも……直鷹なおたかには早々に死んでもらうしかないだろう?」

「直鷹どのを殺めたことがわかれば、貴殿のお父上が動かれるのではないでしょうか? すでに計画の一部は露見しているのでしょう? 計画に差し障りが出るのでは?」

「構わんさ。父上にもどの道、近い将来消えてもらうことにはかわりはないのだから」


 どこか戯言のような響きを持たせながら、頬に軽薄な笑みを浮かべた。しかし、直重には自分の声がどこか水気が含まれたもののように感じてしまう。


(もうすぐ)


 自分が望んだ未来に手が届く。

 この国の主として君臨する未来。

 涙など流すだけの感情など、どこにもありはしないのに。

 知らず震えていた手を握り締め、頬に笑みを浮かべたまま瞳を伏せた。ふぅっとひとつ息を吐き出す。


「恐らく近いうちにまた本家の所領地あたりを、乳兄弟と一緒にフラフラとし始めるはずだ」

「直鷹どのが通っていると思われた女人にょにんは如何しますか?」

「あぁ、あの女か」


 直重は、弟が庇うように抱きしめていた痩躯の姫君を思い出した。

 自身が生きていくために時には男に成り代わって行動するような女も、今の時代少なくはない。男よりも器量に優れた女という存在も、稀にだが存在するようだ。

 そうでなくとも高貴な身分の女なら、いずれ何処ぞの大名家かそれに準ずる家に嫁ぐのだろうが、武家の妻ともなれば内々のことは全て仕切り、夫の不在時にことが起これば自分だけで判断し行動するだけの器が必要だ。

 けれど。


(あの女はそういう性質の女ではない)


 ただ弟に守られるようにして、怯えながらことの成り行きを見守っていた。

 父親に代わって謀叛を食い止めようとするような女ではないだろう。


(さすがはさかきむすめといったところか)


 直重は喉をくつりと鳴らし薄く目を開く。そして肩越しに振り返り、やや顔色を悪くした本家嫡男を見据えた。直鷹ごときに露見した事実がそんなに恐ろしいのだろうか。だからこいつは愚鈍なのだ。


(だがしかし、まだこいつの父親の力は必要だ)


 まだ、生かして自身の傍で働かせるだけの理由がある。

 だから。


「直周……。念のため訊くが、」

「はい」

「……お前の姉妹ではないのだろうな?」

「は?」


「あの女だ。お前の姉か妹ならば、景直どのの意向を聞かねばなるまい」


 十中八九、榊のむすめだと思っているが、念には念を入れる。

 今は曲がりなりにも「同盟者」であり、さらには近い将来に主として一瞬でも仰がなければならない人物だ。そもそも敵対する家柄の男と通じている時点で女側に落ち度はあるが、それでも我が子を黙って始末されて喜ぶ親などいはしない。


「いえ、私の姉はすでに他家に嫁いで子がおりますし、妹は何人かいますが、まだ十ほどの童ですから……」

「そうか。ならば、まずは直鷹。姫君のことは、のちのち調べてみるか」


 直重は、顎に指を当てながら独りごちた。唇の端が僅かに持ち上がり、頬が上がらないよう気を付けてはいるが、近い将来を考えるとどうしても頬が緩んでしまう。

 すでに、先ほどまで心の臓を冷やしていた不安は消えていた。

 口先だけの言の葉でも、強気を音に響かせればやがてそれは言霊になるようだ。

 直周は、相変わらず感情の見えない瞳を彼へと向けながら、


「では、そのように」


 短く呟き会釈をすると、そのまま踵を返していく。

 高い位置で結われた黒いたぶさが、うなじ近くでぷらぷら揺れた。

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