第一章 紅い華

 カチャカチャと規則性を持って鳴り響く音に、少女はふと目を覚ました。褥に肩肘を突きながら身を起こすと、髪がさらりと肩先で零れる。

 障子戸を閉めているので外の様子は伺いしれないが、空が白み始め、月は空の端に落ちた頃だろう。けれど夜の帷はまだ完全に開けてはいないようで、耳をそばだててもほかに聞こえるものなど何もなく、耳朶に触れるものは闇からの返事ばかり。


(こんな時間に何で……?)


 眉を顰めながら、昨夜侍女が用意してくれていた打掛をそっと羽織ると、焚き染められた香がふと空気を揺らした。少女は白い両手をそのままうなじへと入れ、打掛の内側に流れる髪を一気に持ち上げる。

 背の中ほどでゆったりと結われた癖ひとつない豊かな髪が、細い肩を滑りながら、蜜が流れるかの如く背中へとすとんと落ちた。

 羽織った打掛の豪奢さも、彼女が座する柔らかな褥も、焚き染められた香も、その全てが彼女が庶民の出ではないと訴えていたが、反面彼女の動作は貴人のそれとは思えないほど、豪快だった。


(さすがに小袖を着る暇はなさそう……)


 打掛の下は夜着のままだが、この際仕方がない。先程から屋敷内の慌ただしい物音がどんどん大きくなり、この部屋まで近づいてくるのを鼓膜に受けながら、少女は溜息と共に障子を開けた。

 未だ春の訪れを謳歌するには早い冷たい澄んだ空気がすぅ、と少女の頬を撫ぜる。彼女が、そのまま長い睫毛を横へ滑らせると、六十路を過ぎたかに見える初老の男と、その後ろから諌めるように、けれど立場を考えるとそれも難しいといった表情を浮かべた若い女が廊下を転がるように歩いている姿が瞳に飛び込んできた。


阿久里あぐりっ!!」

「お久しゅうございます。お父さま。あ、お早うございますが先ですね。……文字通り、本当にお早いですけれど」


 狸のようなずんぐりとした体の父親を前に、阿久里は廊下へと腰を下ろし、そっと頭を垂れた。さらり、と髪が一房肩先から胸元へと零れる。声音こそ、まるで朝露が零れたかの如く透明な響きを持っていたが、唇を割って出る言葉は慇懃無礼という表現が相応しい。


「全く、相変わらず可愛げのない……」

「まぁ最初から、お父さまにそう思って頂きたいとも思っておりませんし……。して、その可愛げがないとわかっている私の許へをわざわざ夜明けも待たずにおとなう理由はなんなのでしょうか」


 廊下へと落としていた言の葉を引き上げるかのように、阿久里はす、と音もなくおもてを持ち上げた。父は、寄越していたなんとも形容しがたい視線をゆるゆると流しながら「いや……」と呟く。


「……いや、ここにいるのなら、いい」

「? いるのなら、とは?」

「数刻前に、城下で火事があった」

「火事、ですか。付け火ですか? それとも何かの」

「知らぬわっ! 知らぬ、が……、曼珠沙華を見た者がいるそうだ」


 聞きなれた怒声に阿久里が軽く小首を傾げると、父親たる老人もその視線に気付いたのか、庭に向けられていたそれを、娘へと向けてきた。交わる瞳に、老人の眉がさらに険しく、そして濁った瞳に僅かな怯えを含ませる。


「そなたの仕業では、ないのだろうな?」

「まさか」

「わかったものではないわっ! そなたならば、と疑われて当然ではないか!」

「……でしたら、私に訊く意味もないのではありませんか。そもそもいまは曼珠沙華の時期ではございません。葉や茎も、先日枯れました。秋口まで花は咲きません」


 曼珠沙華の花は秋の彼岸の入りあたりにその姿を見せるが、葉は花と同時期には姿を現さず、花が枯れた後にようやく顔を出す。茎と葉のみの姿で冬を過ごし、春を迎える頃には枯れてしまう。葉と花が同時にでないことから「葉は花を想い、花は葉を想う」などと色めいた表現すらされる。


(花ですら、そんな情緒を想像されるというのに)


 実の親子でありながら、お互いを想う心などこの場には皆無だ。

 淡々と言葉を紡ぐ阿久里に、真一文字に引かれていた男の唇は悔しげな感情に歪む。


「それとも、その火事は狐火でも使われたのですか?」


 嘲るような表情を隠そうともしない阿久里の姿を、先程よりもさらに明るくなった空が、はっきりと映し出した。

 白磁の肌に、珊瑚色の小さな唇。形の良い眉に、長い睫毛の奧には、まるで宝玉のきらめきのように光を弾いている。細く華奢な肩と背を、絹のような手触りを思わせる豊かな――けれど、漆黒ではなく、栗の如き色素の薄いそれが流れていた。


「やはり、狐火を使ったのか!?」


 狸のような巨体を恐怖に震えさせる父親を半眼で見つめながら、その向こうで泣きそうになっている侍女の姿を目に留め、阿久里ははぁ、と本日何度目かの溜息を吐く。朝も明けたかどうかという時刻でこれほどまでに疲労するとは、今日は厄日に違いない。


「……まさか。阿久里が産まれて十六年。一度でも狐火を使ったのをご覧になられましたか?」

「あってたまるか! 恐ろしい……」

「でしたら……鳴海国の守護大名ともあろうお方が、曼珠沙華だ、狐火だと仰られては、家中に示しがつかないのではないでしょうか」

「う、うるさい! そもそもそなたが、そのような……稲荷どのがごとき姿で産まれなんだら良かったのだ!」

「そう仰せられましても、過去は変えられるものではありませんし」

「そもそも、そういった心持ちがどうかと儂はいっておるのだっ!!」

「それもまた生来のものですし」

「えぇい、憎らしいっ!」


 手に持っていたらしい蝙蝠扇かわほりおうぎをバシ、と自身の太ももに当てながら、男は苛立つ感情をそのまま吐き出した。京から取り寄せたらしいその扇は、なんでも有名な和紙を使った白扇なのだと以前なにかの折にいっていたような気がするが、そんな格式高い扇も苛立ちの捌け口に使われているのだとしたら哀れというほかはない。

 扇へと焚き染められていた香が、ふわり、朝焼けの宙に舞う。


「まぁ関係ないのならば、よい。そなたもよいか。関係ないことはわかったが、それならばそなたも今後、疑われるような行動は慎むように!」


 扇の先を阿久里へと衝きつけながらそういい捨てると、彼は踵を返しずんぐりとした身体を再び廊下へと転がしていった。


「勝手に疑って勝手に騒いで勝手に納得されたようだけれど……、一体なんだったのかしらね……」


 阿久里は父の去った後へとこうべを垂れていた乳母子めのとごの少女へと独り言にも似た疑問を落とす。少女はその声に伏せていたおもてを持ち上げると、くるりとそのまま膝頭を阿久里へと向けた。


「実は、いま城下で――」


 彼女が語り出した騒動に、阿久里の睫毛は上下する。


「……それ、そのまま『よい』で放置してはいけないのではないかしら……」


 阿久里は睫毛を伏せ、はぁとひとつ大きなため息を吐く。父親の手腕にはもはやなんの期待もしていなかったはずだが、それでもこうして落胆があるということはまだ彼になにか一縷の望みでもかけていたのだろうか。少女の白い肌に影が落ち、一見冷たささえ感じる程のおもてが一層際立つ。


「姫さま……」

「ちょっと久々に出かけて来るわね」


 そういって、打掛を軽く持ち上げながら、片膝をつき立ち上がる。

 さらり、肩口を流れていくのは、栗色の髪。


「準備、お願い出来る?」


 乳母子の少女へと向けた長い睫毛の奥にある色は、琥珀。

 琥珀の、瞳。

 まるで狐が化けたかのように美しい姫君の姿が、そこにあった――。

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