花と頭蓋

夏野けい

花は桜、

 変わらずすらりとした、けれどやわらかく消えてしまいそうなひとだった。僕が二十五になったのだから、今は二十七歳のはず。卵色のセーターを着たかつての先輩の背中は、やさしい午後の日差しを受けていた。住宅街の入り組んだ道はなだらかな登りになっていて、ゆっくりと確かめるように進んでいる。ゆるく結った黒髪が光に透けながらゆれている。平日の昼間、ほかに人の姿はない。舞台の上のことのようだった。僕は足を速めて追いつく。


「先輩、坂島さかしま先輩じゃないですか」

 先輩はコンビニの袋をかさりと鳴らして振り向いて、あの頃より疲れたほほえみで僕をみとめる。先輩の卒業から五年たらず、近しかった記憶はまだ鮮やかに残る。

「もしかして束田つかだくん? うわぁ、なつかしい! よくわかったね」

「すぐわかりましたよ」

 だって先輩はずっと憧れで、何も告げずに諦めてしまった人で。たとえおばあちゃんになっていてもわかると自信が持てるくらい、ずっと背中を見ていた相手だ。左の肩がすこしだけ下がる歩き方や力を抜いたときの指のかたち。隣に立つ勇気のなさは、かえって先輩のうしろ姿を記憶に焼き付けた。


「いま、何してるんですか?」


 結婚でもしたのかな、と気軽に問うたつもりだった。

「いま、ね」

 頬に触れるのは困ったときの癖だった。その左手の薬指に、指輪はない。

「死ぬ準備、かな」


 冗談とも思えなかった。大学生の頃ならたとえ半ば本気だったとしても笑って返せただろう。未来に立ちすくむばかりの学生だった頃なら。僕は大人になり、あっさりと社会の荒波ってやつに負け、だからこんな時間によく知らない街を歩いている。死はもっと切実で近しいものになってしまった。きっと、先輩にとっても。

「なんで、先輩が死ななきゃなんないんですか」

「決まったことだよ。残念ながらね」

 仕事を辞めたせいで変に気が大きくなっていた。踏みこんで話せなかった学生時代のかわりのように語気を強くする。

「教えてください。なんでそうなったか。僕はなんとしてでも止めるつもりですから」

 諦念を淡い笑みににじませて、先輩はうなずいた。


「母に連絡させて」

 と、携帯で電話をかける。後輩に偶然会ったからお茶をしてくる、遅くなるかもしれないけど心配しないで。なだめるような口調で回線の向こうへ告げた。長く息を吐いて、先輩は端末をポケットに押し込む。

「行こうか」


 統一感のない家々に紛れるように、入り口の小さな喫茶店があった。黒板に店名とメニューを書いたものだけが黒っぽい扉に下がっている。先輩はためらわずドアノブを握った。りぃん、と軽やかにベルが鳴った。中は仄暗く、赤煉瓦の階段が地下に続く。道しるべめいて灯された照明はどれも古めかしい。アンティークなのか、デザインは不揃いだった。コーヒーの香りが鼻をくすぐる。

 店内の明るさが階段の行き止まりにこぼれていた。まるでトンネルの出口。ピアノ音楽が耳に届く。食器が触れ合う音、低く人の話し声も。


 くだりきれば光は眩く僕らを包む。蜜色に磨かれた床板に並べられた重厚な調度品は年月の深さを感じさせる。カウンターでカップを拭いていた四、五十歳のマスターが黒々とした口髭を震わせていらっしゃいませ、と言う。

 一人でも十分に回せるだろう広さの店内。席はあらかた埋まっている。先輩は暗がりに隠れるような隅のテーブルにするりと座った。臙脂の布張りのメニューを僕に向ける。

「私は決めてるから」

 雰囲気からしてわかるように、メニューのほとんどがコーヒーのバリエーションだった。細かな差異を考える時間は惜しい。

「僕も決めました」

「そう」

 慣れた様子で手を上げれば、マスターがすぐに注文を取りにくる。先輩が僕に視線を送りながら口を開く。

「カフェオレと……」

「ブレンドをお願いします」

 答えはくぐもった声で返ってきた。カウンターに引っ込む背中を見送れば、ピアノと他の客のお喋りだけが僕らの周囲に残される。曲名もわからなければ話し声の内容も取れず、BGMとしては適切といえた。


「なぜ、と君は訊いたね」

 テーブルの上に指を組んで先輩は目を細めた。

「話せば長くなるんだよ。飲み物が来てから、詳しくね。それまでは君の話を聞かせてくれないかな?」


「つまらない話ですよ。普通に卒業して、普通に就職して。合わないって思いながら手も打たず、結局三年も持たずに辞めて。仕事探しに行くつもりで家出たくせに、知らない駅で降りてただ歩いてるんですから」

「でも、だから私は君に会えたんだ。運命的ともいえるね」

「僕の行為になにか意味があったなら幸せではありますけどね。でも、先輩に僕は必要ないでしょうに」

「あるって。あるある。大有りだよ。棺桶に片足突っ込んだ人間は過去を懐かしむものだからさ。わけあって青春の思い出に浸ってばかりもいられないものでね。そちらから歩いてきてくれるなら嬉しい限り」

 丸っこい陶器の砂糖入れの蓋に触れて先輩はおまけとばかりに言葉を継ぐ。

「若い時分の失敗は宝ともいえるんじゃないかな。私が言うと説得力ないか……うん、仕事探すつもりだったんなら心身は無事なんでしょ。ならいっそ勝者なんじゃない」


 先輩の前にカフェオレが、僕の前にブレンドコーヒーが置かれる。先輩がカップのふちをなぞる。その人差し指が、みずからのこめかみを静かに示す。


「ここに爆弾が埋まっているんだ。爆弾は花のかたちをしている。今はまだ蕾でね、開くとき私は死ぬ。枝は脳の隅々まで張り巡らされ、外科的に除去するすべがない。ねぇ君、花は何によって開くと思う?」

 気圧けおされて何も言えなかった。つややかな唇が、ふっとゆるんだ。

「消化されないまま溜まっていく思考が私を殺すの。言葉にならないすべてが私をむしばむの。吐き出すことが、書き続けることが唯一の薬。延命かなうかもしれない手段。笑っちゃうよね、書くことによって生きたいと思ったことは一度じゃないけど、こんな叶い方をするなんてさ」


「笑いませんよ」

「そうだね、君は……」

「優しいからなんて言わせません。他ならぬ先輩だから生きてほしいんです」

「なぜ?」

「酷なことをききますね」

 わかっているんじゃないですか、と僕はコーヒーに口をつける。先輩は答えなかった。

「僕はなんだってしますよ。先輩が許してさえくれたら」


「君は馬鹿だ」

 目を伏せる先輩の手を握ることすらできないくせに、僕は本気だった。好きだったとも好きだとも言えやしなかった。


 * * * * *


 ベランダから目を凝らすと薄紅色の桜並木が遠くに見えた。僕が借りたアパートは居間ともう一部屋あって、その四畳の和室を先輩のための空間にしつらえた。先輩は両親の説得のために僕と付き合っているという事実を捏造し、僕の願望はとんでもない飛躍の末に名目上叶ってしまった。しおりさんと名前で呼ぶときの緊張と言ったら。

 座卓とパソコンとプリンタとクッション、無数のぬいぐるみ、山と積まれた本。和室は先輩のためのシェルターと化した。僕はひたすら家事をこなす。買い物、洗濯、掃除。資料の調達、校正、ふさわしい応募先の選定、発送作業。その他先輩が求めるものならなんでも。


 作家になってしまえばいいと思ったのだ。


 書くことを仕事にする。幸い先輩には死をもたらすほどの発想がある。商業作家としてならば、編集者やその他専門職の人たちが支えてくれる。たとえ僕に何かあったとしても雑用には誰かを雇えばいい。マネージャーというやつだ。求められて書き続けて、もっと効率よく頭の中を吐き出せたなら。そうしたら先輩は頭蓋のなかの花を凍りつかせたまま命を全うできるかもしれないと思った。


「家から離れて筆が速くなった気がする」

 キーボードを打ちながら器用に先輩は呟いた。

「親の前だとやっぱりいろんなこと考えちゃうんだよね。申し訳ないとかさ」

「その点僕は、お節介の押し売りでここにいますからね」

「ここは静かだよ。私と、君と、物語しかない」


 今日二杯目のコーヒーを淹れる。ミルクと砂糖をたっぷりと。雨降りのリズムで打ち出されていく文字を肩越しに見た。物語が刻まれていく。学生時代には青くて硬い印象があった先輩の小説は、いまや香り高く熟れている。

 願望ではなく僕は信じ切っていた。これは世に広まるべき作品だと。先輩は広い海に漕ぎだしてしかるべきだと。

 流れていく、流れていく。黒い線の集積たる文字が白い画面を埋めていく。小説は時間。先輩の指は効率的なタイピングであらゆる時代を行き来する。姫が微笑み、異星人が握手を求め、生きるための吐露である証に脈絡というものがない。了の文字を打つやプリンタはうなりを上げて原稿を吐き出す。僕は日用品と一緒に毎日A4の普通紙を買う。

 単純な誤字脱字を見つけては赤で拾う。言い回しのおかしなところに疑問符をつける。先輩には時間がなかった。書き上げた原稿を悠長に推敲していたら確実に蕾は膨らんでしまう。

 原稿の直しは専ら食事中にした。彼女の両親が見たら泣くか卒倒するかどちらだろう。僕の呈する疑問にさくさくと答えながらパンやおにぎりを飲み込む。熱いものは冷まさないといけないから時間を食うというので、おかずはおひたしや冷めた煮物、豆腐のようなものが多かった。きりのつく時間もわからないのでお弁当にして置いておくようにもなった。

 食べ終わるとすぐに書きかけの文字列の続きを編みはじめる。体力が尽きて眠りに落ちるまで、先輩はほとんど止まらなかった。想像よりも軽いその身体を布団に横たえると僕はいつも深く息を吐いた。

 今日も先輩が生きていた安堵なのか、あらゆる余裕をそぎ落とした生活への憂鬱なのかはわからなかった。


 ご両親には、前もって連絡をして訪ねてきてもらうようにしていた。片付けが間に合うはずもなく、すさんだ生活空間に苦言を呈されることも多々あった。先輩はよく、これは治療だから、入院してるとでも思って。と説明した。納得はしなかっただろうが、死に瀕した愛娘の願いに従って、訪問の頻度は落ちていった。


 先輩は書き続けた。昼も夜もなく。タイピングの速さは頭打ちだった。迷う時間もほとんどない。吐き出し続け、生み出し続け、長いものも短いものも、果てしなく果てしなく文字へと刻まれていく。


 夏の果てる頃、毎月行っていた健診に行かなくなった。先輩が僕の前に脳味噌の輪切り画像をぶちまける。黒地に白の模様はCTの記録。その緩やかな光と陰の間に異様な形が映り込む。幾何学、植物、そのどちらとも言えそうな。複雑に入り組んだ細い枝が頭蓋骨内部を蹂躙じゅうりんしていた。あちこちに睫毛のような花柄かへいが伸び、先端に小さな丸が結ばれている。

「何の花が咲くかな」

「花といったら桜と決まってますよ」

 曲がりくねった枝と長い花柄は桜を思わせる。学生時代、最後に先輩と花見をしたのは先輩が卒業するまぎわだった。酒ばっかりで減らない団子やらクッキーやらを食べていると、ジャスミン茶のペットボトルを手にした先輩が声をかけてきた。


「束田くんは花より団子かい?」

「この人たちが残すからです。食べもしないのに花見団子なんて買って」

「君は真面目だな」

 満足そうにうなずく先輩が眩しくて、僕はそれ以上言葉を継げなかった。


「花はね、骨と一緒で焼いても残るんだって。薄いから脆くもあるけど。真っ白に焼けた頭蓋骨から桜吹雪が出てきたら、嘘みたいに綺麗だろうね」

「先輩は大丈夫ですよ。蕾のまま年取って死にますから」

「君の言葉は強いね。本当にそうなるんじゃないかって夢を見そうだ」

 また細くなった身体がパソコンに向かい、僕は話の続きを諦める。アパートの二間はキータイプの雨だれに包まれていく。僕はプリントアウトを整理しながら、先輩の作品が持つ大きなうねりについて考える。生み出されるひとつひとつは独立した小説だが、時期によって雰囲気に偏りがある。明るく、暗く、激しく、落ち着いて。僕の頭の中に保存されているグラフの波を思い描いた。

 危ういタイミングが近づいている気がした。作風が最も重苦しくなるとき、先輩の筆はわずかに鈍る。


 画面に文字が並べられていく。ひらがなの明るさと漢字の濃さがまだらをつくる四百字詰めの白い画面。僕は先輩の小説を読み続ける。ささやかなミスを拾い続ける。


 初雪が観測された日、短編で小さな賞を取った。デビューに至ることはないものの、選評の温かさは僕を勇気づけた。先輩はあまり関心がないようだった。夏の終わりを乗り越えたあと、紅葉の色づきに合わせて作品の華やかさは頂点を迎え、今度は乾いて散るように翳りを帯びてきている。

 大きく豊かであった波の反動を僕は恐れた。今度落ちたら、戻ってこられないのではないか。想像を何度も打ち消す。


 やっと得られた糸口を大切に握りこむように、選評を額に入れて壁にかけた。


* * * * *


 二月。雪の中を帰宅して、震えながら長靴を脱いだ。早くシャワーでも浴びようと買い物袋をキッチンに置く。


 いやに静かだと気づいた。毎日部屋に満ちていたはずのタイピングの雨が止んでいた。雪に音を吸われてしまったわけでもあるまい。血の気が引いた。ただでさえ冷えていた指先が凍り付く。

 先輩は画面に向かっていた。キーボードに手を添えていた。しかし動きはない。

 肩に触れる。壊れてしまいそうだった。ゆっくりと先輩は振り向く。頬が濡れている。静かに、それこそ音を失った世界であるかのように、涙を流し続けている。


「どうしよう」

 一度だけしゃくりあげて、先輩はとめどなく泣いた。

「どうしよう、書けない」

 書けない、書けない。死んでしまう。どうしよう。拙く装飾もなく色もなく物語もない言葉ばかりがこぼれてくる。

 なんで、どうして、書かなきゃ死ぬのに。自分の手を、頭部を、脚を、力いっぱいに殴る。殴る。己を痛めつける腕ごと抱きしめて止めようとすると、今度は僕の胸を拳で打った。外に出なくなって久しいけれど、加減をしらない暴力は息が止まりそうに激しい。

「書けないなら僕が聴きます。話してください。それだけパニックになるってことは、頭の中にはあるんでしょう、お話」

「形にならないんだもの。無理だよ」

「僕が質問しますから、ほんの欠片でもいいんです。ねぇ聴かせてください。大丈夫です、一日書けないだけですぐ死んだりしませんから。ちゃんと調べたんですよ、僕、病気の事。お医者さんにも訊きに行ったんですよ。大丈夫です。先輩は死んだりなんかしません」


 先輩の細い身体は腕の中でゆっくりと力を抜いて、やがてぽつりぽつりと言葉を吐く。ばらけた単語ばかりだったものが短い文に、短い文がひとつながりの詩に、詩が物語へと育っていく。僕が口を挟む余地はしだいになくなっていった。

 先輩は頬を赤らめて言葉を紡ぐ。語られる物語の中に光の予感を見つけて僕はやっと安心した。ここが底だ。あとは浮上するだけ。


 先輩の小説は再び明るさを取り戻した。自由で、果てしなく、軽やかな物語をいくつも書いた。僕はうっとりと読み漁った。摘み取ったばかりの果実は甘く、新鮮で、気を引き締めてかからないと酔ってしまいそうだった。

 僕は赤いペンを握り、先輩はキーボードを打ち続けた。


 春の兆しを知る頃に、先輩の眠りが長くなっていることに気づいた。梅の香りにあてられたように、しだいに起きてくる時間が遅くなる。医者に行きたがらない先輩のために往診を頼んだ。新しい病気は現れていないようだった。

 これ以上の検査は設備のある病院でなければできない。疑わしいのはもちろん頭蓋骨の中の花であるが、あれはCTを撮らないことには状況がわからない。先輩は首を振った。診断が下ったところで、余命が知れたところで時間が増えるわけでも改善の手立てが得られるわけでもない。ならば私はここで書き続けることを選ぶ、と。

「この人が期待してくれているから。信じてくれているから。一本でも多く書かなくちゃいけないんです。それに、書くことだけが私を永らえさせるんでしょう、先生?」


 先輩はいくらでも書き続けた。もう食事にすら席を立たない。少しずつ延びていく睡眠とたまにトイレに立つことと。人間らしい動きはほとんど残っておらず、僕は先輩の小説を通じてだけ魂に触れることができた。

 もう長くないということは、僕の目にも明白になってきていた。公募の結果は思うようにふるわなかった。最終選考に何度か残ったが、あと一歩が届かない。ある晩、ひときわ背中が小さく見えてたまらなくなった。手先の動きを妨げないように軽く肩を抱く。


「先輩、好きです。昔から、学校で馬鹿騒ぎしてた頃からずっと」

「台詞には使えそうにないほど陳腐だな。だからこそ君なんだけど」

「死なないでください、僕を置いて逝かないでください」

「ごめん、ずっと気づいてた。知ってた。ありがとう、助けてくれて。隣にいてくれて」

「僕はひどいことをしたんでしょうか。先輩からご両親や、外の世界との交わりを断ってしまった」

「私が望んだことだよ。これだけは断言させてもらう」

 会話のあいだも先輩のタイピングは止まない。春の夜気が忍び込む和室で、僕たちはただ体温を分け合う。

「束田くん、私の命を背負ったらいけない。約束して。忘れる必要はないけど、覚えてくれていたらうれしいけど、私の死後は君の余生であったらいけない。君の命が真に始まるのはこれからだから」


* * * * *


 これが先輩の遺言になった。長編に了の字を打ち終えた昼下がり、永遠に瞼を下ろした。長くなっていく睡眠の続きのように。部屋から見える桜並木はもう薄紅色に染まっていた。死んでいるなんて嘘みたいに整っていて、生きていたなんて冗談のように人形めいていた。

 ご両親は僕をなじったりしなかった。ハンカチで目元を押さえて頭を下げるお母さんに、いっそ蹴り飛ばしてほしいとさえ思った。僕はあなたたちの愛娘を連れ去って、物語をひたすら吐き出させて、あなたたちが死に目にすら会えないようにした張本人ですよ。

 実際の僕はただ顔を見られまいとうつむきつづけ、礼とも謝罪ともつかないものを垂れ流しただけだった。卑怯なことこの上ない。


 彼らはそればかりでなく僕を火葬にまで呼んだ。葬儀の日、桜は満開を過ぎて青空にきらきらと花弁を散らしていた。薄い化粧を涙に崩しながら、若い女性が何人も先輩との別れを惜しんだ。僕とちがってお友達がたくさんいたのだろう。僕はと言えば一年以上に及ぶ失踪中も誰ひとり連絡を寄越さなかった。母親でさえ、たまにくるメールに生返事をしていれば会おうとも言わない。

 先輩という光に触れた幸運を思う。届かないと諦めていた世界に身を置けた。先輩の輝きにずっと照らされていた。

 娘に、孫娘に、あるいは姪に先立たれた大人たちは悲痛にハンカチを握りしめていた。受け入れがたい理不尽の前に立ちつくすとき、人間はみな表情を失うようだった。


 親族ばかりが集う待合の席で、僕は誰とも喋れなかった。もしかしたらこれは罰だったのかもしれない。かわりに棺の中の先輩を思い出していた。化粧気のなかった一年間よりもずっと明るい、優しい顔をしていた。あの部屋で先輩はずっと言葉に憑りつかれていたのだ。もう一年永らえていたら、鬼にまで至ったのではないか。ぞっとした。

 焼き場から呼び出しがかかった。ステンレスの台にさらけ出された先輩の骨は白くしたたかで、頭蓋はおおよその形を残している。

 ひらいたところから花がこぼれていた。色のない桜の花だった。崩れた枝とほぐれた花弁と、まだ形を残す部分と。これが、こんなものが現実とは。小学生くらいの女の子と組んで骨を拾った。誰も花には触れなかった。手や足といったあたりさわりのない部分から艶やかな、陶器だか磁器だかの壺に収められていく。

 先輩は正しく死者としてのつとめを終え、立派な布の袋に収められる。精進落しの会場へ向かう車を待ちながら、斎場の入り口の桜の木を眺めていた。風に揺れてきらきらと花びらが降る。

 ポケットからスマホを出して一枚だけ、写真を撮った。骨よりも遺影よりも先輩に近しい感じがした。眺めていると手の中で急に震えた。画面には着信が表示されている。東京の市外局番。


「はい」

「えぇと? もしもし、坂島栞さまのお電話でしょうか」

「そうですが」

「わたくし、――という出版社で編集をしております、サイトウと申します。栞さま、ではないですよね?」

「私が代理人をしております。公募小説の件でしょうか」

「あぁ、さようでございましたか。失礼いたしました。坂島さまにご応募いただきました作品が佳作に選出されまして、ご連絡いたしました。今、お時間よろしいでしょうか?」

「いや、少し手が離せなくて……」

「そういたしましたら、また改めさせて頂きます。何時頃でしたらお時間を頂けますか?」

「可能でしたらこちらから折り返させて頂きたいのですが」

「承知いたしました。電話番号を申し上げても?」

 しわくちゃになったレシートを探し当て、キーホルダーにしていたミニサイズのボールペンを握る。

「お願いします」

 二度繰り返された番号は、先ほどディスプレイに表示されたものと同じようだった。電話が切れた。


 気が違いそうに空が青かった。雲が見当たらなかった。風がぬるかった。もう先輩はどこにもいない。そうか、今か。佳作か。先輩、やっぱりあなたはあと一年生きなきゃならなかった。鬼と化してでも永らえなくちゃならなかった。あなたの作品が世界に爪をかける瞬間を、僕ら以外の誰かから期待を、信頼を背負わせてもらえる瞬間に立ち会わなくちゃならなかった。

 花なんかより、整えられた死に顔より、あなたの命が欲しかった。たった一年で良かった。いや、もっと遠くに届くまで一緒に走りたかった。五年か、十年か。時間さえあれば、先輩の作品はもっともっと広く、激しく、晴れがましく迎えられたはずじゃないか。


 先輩。僕はあの人になんて返事をしたらいいんですか。坂島栞は死にました。もう戻ってきません。そのほかに、何を。

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