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    1999年3月1日への応援コメント

    この手の旅行記は、女子学生視点のお祭り騒ぎになりがちですが、男子学生がいっぱい。男の子たちが、かのお城をかすめてアルプス(?)へ向かう。

    子供のころ背伸びして父の書斎にあった、志賀直哉『城崎にて』、内田百閒『阿房列車』、阿川弘之『南蛮阿呆列車』、北杜夫『どくとるマンボウ航海記』なんて目を通していましたが、思い出しましたよ。

    作者からの返信

    コメントいただきありがとうございます。

    高名な方々の作品と並べていただくには恐れ多いものがありますが、私自身が男子校出身者なので、こういうくだらないノリに居心地の良さを感じてしまいます。この旅の後、彼らとは互いに30過ぎるぐらいまで付き合いがあり、毎年みんなでノイシュバンシュタイン城を攻略した3月初め前後に1年分の話題を持ち寄って朝まで痛飲したものです。

    よろしければ引き続きお楽しみいただけたら幸いです。
    今後ともよろしくお願いいたします。

  • 1999年7月16日への応援コメント

    終始笑ってしまいました\(//∇//)\
    似ている(同姓同名も然り)って、本人と錯覚するのか、自然とハードルあげちゃいますよね笑

    作者からの返信

    コメントありがとうございます!
    マレーシアの「谷村新司」との出会いは衝撃的でした^^
    変態谷村新司とミホリンとの続編は、エピソード2の巻末で少々触れていますが、叶わぬ恋の行方の物語の結末やいかに!乞うご期待です^^

    アジア編のシンガポールからバンコクに到着するまでのストーリーは私も好きです。実際に旅先で出会った方々とのストーリーを織り込んでいますが、よくあんな旅をしていたなとこの年令になると空恐ろしくなります;

    失恋から始まった恋の行方の結末、そして新たな出会い――。
    もっとも油の乗っていた頃の私的探検の物語を、引き続きお楽しみいただけたら幸いです^^

  • 1999年3月17日への応援コメント

    ハウステンボスでもそうでしたが、オランダって結構美味しいチーズフォンデュがありますよねぇ🍉🍉

    作者からの返信

    コメントありがとうございます!

    かつてある番組で見たのですが、ヨーロッパ女子を集めたトークショーで「朝食に何を食べるか」というテーマにおいてオランダの女の子が槍玉にあがってました。

    「同じ北欧系だと思ってたけど、オランダ人のケチにはガッカリ!あたしだったらパンにはチーズとアボガド、ハムやトマトが当たり前だよ!」

    スウェーデン女子からの口撃に、「パンはパンの甘さだけで十分ですよ」とオランダ女子は言い返していました💦

    英語で「Dutch treat(直訳:オランダ人のおごり)」とは割り勘の意であり、ケチな人のことを「あの人はDutch(オランダ人)だから」と後ろ指を指します。国際感覚においてもオランダ人の質素さ(またはケチ)は認識されているようです💦
    ぜひ美味しいチーズフォンデュで、世界的に覆ったオランダ人のイメージに反論してほしいものです^^

    コメントありがとうございました^^

  • 1999年8月10日への応援コメント

    ぐおおおーーーーん……

    作者からの返信

    コメントありがとうございます。
    旅のきっかけとなった恋は結局失恋のままとなりました。
    恋を始めるのは簡単ですが、飛行機と一緒でよほど着地のほうが難しいですね。ましてや初めての恋となれば相当な傷を覚悟しなければなりません。
    それでも旅は続いてく。そんな無情を描いていけたらと思います。

    これからもよろしくお願いいたします!

  • 1999年7月21日への応援コメント

    ガイヤーンが食べたくなりました!

    作者からの返信

    コメントありがとうございます!
    ガイヤーン(タイ風焼き鳥)ですね^^

    「屋台飯」。なんて魅力的な言葉なんでしょう。
    やはり「屋台」と言えばお祭りを連想させるので、
    その線上でも何だか楽しそうな響きですね!

    本項に登場する「真面目に作ったホッケンミー」は笑いました。
    実際マレーシア・ペナンの屋台村にメニューとしてぶら下がっていました。

    本シリーズでは時々こうした現地料理の紹介をしています。
    これからも引き続きお楽しみくださいませ!

  • ~Epilogue~2019年4月16日への応援コメント

    素晴らしいお話ですね!
    人間模様がたまらんです!

    作者からの返信

    エピソード1の完読ありがとうございました!!
    この物語は実際に私が大学時代に行ったバックパッカー旅行を基にした私小説で、今から20数年前の景色です。その後もエピソード2では「アジア縦断編」、3では「オーストラリア留学編」そして最終章の4では「ユーラシア横断編」と続きますが、今でも私にとって旅の思い出は宝物です。これからも引き続きストーリーを追いかけていただけると幸いです。今後とも宜しくお願いいたします!

  • 1999年3月19日への応援コメント

    素敵すぎますぞ!

    作者からの返信

    コメントありがとうございます^^
    失恋の傷心旅行も兼ねて出かけたヨーロッパで知り合ったサキですが、実はこの後の物語にも登場します。別作「ノンストップ・アクション3」で再び大きく登場しますのでお楽しみに!

  • 1999年3月15日への応援コメント

    ぐおおおーーーーん!
    いい話です!
    友情フォーエバー!

    作者からの返信

    コメントありがとうございます^^
    作中にもあるように、ヨーロッパ滞在中お米を食べたくなるとよく中華料理屋に行ったものです。私はたまたま大学の専攻が中国語だったため、お店の方にとてもよくしてもらいました。
    旅先での出会いは一生モノです^^この物語には色々な出会いがこれからも登場しますのでお楽しみに!

  • 1999年3月11日への応援コメント

    ホットビール!
    気になります!

    作者からの返信

    コメントありがとうございます!

    ちょうど今から24年前の明日ヨーロッパへ向けて旅に出ました。
    3週間程度でヨーロッパ一円をめぐるという過密スケジュールでしたが、
    その時立ち寄ったポーランドやチェコでこの「ホットビール」という飲み物を知りました。
    厳冬のこの時期、バーで「とりあえずビール」というと黙ってホットビールがテーブルに置かれます。日本の甘酒のような感覚なのかもしれませんが、
    黒ビールにシナモンやドライフルーツを浮かべて小鍋でコトコトさせたものが提供されます。「ホットビール_作り方」と検索するとレシピが出てきますので、よろしければお試しくださいませ!

    引き続き物語をお楽しみいただけると幸いです!
    それではよい旅を!

  • ~Prologue~2018年12月6日への応援コメント

    続きが気になるところ。
    また読みに参ります。

    作者からの返信

    素敵なコメントありがとうございます。
    ファンタジー系や転生モノなどが主流のWEB小説ではかなり異色ですが、
    本作は著者が若いころに実際におこなったバックパッカー旅行をもとにした私小説です。
    こんな時代だからこそ、文字で海外旅行を楽しんでいただきたいと思い作成しました。引き続きお楽しみいただけると幸いです。

    今後ともよろしくお願いいたします。

  • 1999年2月27日への応援コメント

    若い頃、一人で動き、一人で考えた「内省的時間」を数年持った人は、観察力、洞察力、思考力が長けるのでしょうか。筆者さまの文体から、そうしたものが伝わってきます。

    作者からの返信

    コメント頂きありがとうございました。
    過分なお褒めのお言葉をいただき恐縮です。

    本作は、私が大学生の時に行ったバックパッカーをもとにした私小説であり、今から20年ほど前のお話です。守るものが増え、とてもあの頃のように無鉄砲を楽しめない身となりましたが、ともすれば危険さえも魅力的に思えたあの頃を懐かしんでおります。

    あの頃がその後の人生において特に役立ったという感想はありませんが、無駄ではなかったかなと思います。

    「傷もないまま死ねるかっ!」というのは、映画『ファイトクラブ』でのブラッド・ピットのセリフで、当時はそれが格好いいと思っていたものですが、何かに突き動かされたあの頃は今でも大切な思い出です。

    今後とも宜しくお願いいたします!

  • 1999年8月10日への応援コメント

    お久しぶりです。
    繋がったかに見えた糸も、実はダマになり、絡れ、もう取り返しがつかなさそうな気配です。
    『思い出』とできるのか、ハラハラしますね。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます。

    小莉は、本シリーズ前半部分において横断的なテーマを提供し続けた元恋人でしたが、やはりきれいな着地にはなりませんでした。多分にわたしの体験談を含んでいるのですが、初恋の着地というのは往々にして尻もちをつく形になるのでしょうね。

    色々な経緯があって彼女には許嫁ができてしまうわけで、その意味ではだいぶ前に「千切れた糸」になっていたわけですが、主人公はその慕情に苦しみ、なんとか可能性を見出そうとしていました。ただ、すでに見込みがないことはわかっており、消耗するだけの恋愛が続いていました。

    さて、どのような結末になるのか。そして新たな恋は始まるのか。
    引き続き物語をお楽しみいただければ幸いです!

    改めましてコメントいただきありがとうございました。

  • ~Prologue~2018年12月6日への応援コメント

    誰しも十代や二十歳の頃の思いに、いつも揺さぶられます。今の家族と生活に感謝しつつも、あの時代の思いはまったく別物なんです。黒歴史みたいな側面もありますが、決して消したい思い出というわけでもないんですよね。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます!
    本作は私が実際に20代の頃行っていたバックパッカー旅行をもとにした私小説で、長らく何らかの形に残しておきたいと思っていたものを文字にしてみた作品です。
    不器用な恋愛、根拠のない自信に思い切り突き動かされていた20代を懐かしむとともに、今最もほしい活力が間違いなくそこにあったことを確認できます。

    おっしゃるように、現在という時間は過去の延長線上にありますが、色々役割を背負って必死に生きていくうちに、まるで違う主人公の話に切り替わっていました。

    このあたりの対比も織り交ぜて4つのエピソードを作りました。もしよろしければお立ち寄りいただければと思います。

    今後とも宜しくお願いいたします!

  • 1999年8月15日への応援コメント

    三角関係的な青春ですね。
    私はそんな経験はしたことがなくスムーズに恋愛は成就しました。
    でも、アスカさんのように複数の女性と交際が持てるだなんですごい羨ましいなと思いました。
    実は私は30歳になるまで彼女はいなかったんですよ。
    というよりも、分厚いメガネと気持ち悪い顔で全く女が寄り付かず、パチスロやキャバクラ、ピンサロに行っているのが社内でバレて噂になり、益々遠のいていきました…まぁそんな暗黒期でしたが、転職をして今の彼女と知り合い付き合ってもう9年目ですね。
    青春だなって回で、若い頃を思い出しました(^^)

    作者からの返信

    コメントありがとうございます。

    この物語には何人かの女性が登場しますが、後々振り返ってみて本当の意味で好きだったのは、北京の姉と呼んでいた于春麗だけだったと思います。彼女は中国外務省関係者であり、絵にかいたような美人キャリアウーマンでした。彼女はすでに30代で、当時大学生だった私からすれば、ただただ憧れでした。そうやって一生懸命背伸びすることが、当時のわたしの恋愛観だったのかもしれませんが、その後彼女との数奇な運命については、全く予想できないものでした。詳しくは最終章のepisode4に記載しております。

    ただまあ、後々振り返ってみると、果たして人生において「恋愛」が与えてくれたものがそれほど大きな意味だったか私には疑問です。シャオリーのところでも述べた通り、わたしはただひたすらナメ犬のごとく尽くすことでしか愛情表現ができず、結果として自失してしまい、後々においても大きな傷跡になることがほとんどでした。

    是非鴉さんには幸せになっていただきたい。心から応援しております!

  • 1999年8月13日への応援コメント

    中学って学歴社会だと聞いてましたが、さすがにここまでとは凄いですね(^^)

    このインリンさんはもしかしたらアスカさんに惚れてたんじゃないすかね?そんな気がします。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます。

    本稿でも記載した通り、わたしは高校生の頃東京都の親善事業で2回中国を訪れました。交流事業では、北京からのホストファミリーとして厳選された高校生が用意されており、その中の一人がインリンでした。

    そこに参加した中国側の高校生はみんな秀才ばかりで、その後みんな一流大学へ進学しています。当時実際にインリンからもらった手紙には「朝は5時から勉強、学校で20時まで自習室で勉強し、帰宅してご飯を食べたら10時まで勉強」というすさまじい内容が書いてありました。

    そんな彼女だったので、とにかく奥手で大袈裟なところがありました。今から考えればもう少し接し方があったかなとは思いますが、いい意味でのすれ違いとなりました。

    改めまして、コメントありがとうございます!

  • 1999年8月12日への応援コメント

    ここまで閲覧させていただきました^_^
    カンフーバカの回、面白かったです。
    昔はやった少林サッカーやカンフーハッスルを思い出しましたね。
    私も実は柔道を数年やっていたのですが、どうも自分に合わずに辞めたのです。初段は持ってません。働きながらだったので、練習時間がままならず、残業と夜勤が当たり前だったので心身のバランスが崩れて柔道を続けられなくなったのです。練習ができなかったから当然強くなれなかったですね。痛みに弱いという致命的な欠点も露呈したので。
    なので、格闘技をできる人は尊敬しますね(^^)

    シャオリーさんの事は閲覧させていただきましたが、恋愛をしていても結局は金に負けてしまうんだなとわかりました。ただ二股をかけてるのはどうかと思いましたが、彼女のアスカさんにかける思いは嘘ではなかったのではないかと思います。彼女がどんな人生を歩んでいるのかはわかりませんが、少なくともゼロコロナで中国の経済は滅茶苦茶なので、会社が倒産してるかもしれないすね…赤字は必死でしょうね。

    作者からの返信

    いただいたコメントへのお返事遅くなり申し訳ございません💦

    episode2の横断的なテーマとして「格闘技」を掲げており、
    「合気道篇」「ムエタイ篇」「カンフー篇」そして「テコンドー篇」と続いていきます。シンガポールで知り合ったディランや、香港で紹介されたアランとの八卦掌の修行は、とてもよい思い出となりました。彼らのその後については、例によって巻末のepilogueに掲載しており、その後彼らはカナダでカンフー道場を開きました。

    「傷もないまま死ねるかっ!」

    作品全体のキャッチコピーとして使っているフレーズですが、これは映画『ファイトクラブ』でブラッドピッドがいうセリフです。当時から好きな言葉ですが、まさに無鉄砲だった若いころをよく言い表している言葉ですね!

    シャオリーとのことについても、後先構わず突き進んで重傷を負ったわけですが、この後の展開に大きな影響を与えてくれました。

    引き続き今後ともよろしくお願いいたします!

  • 1999年7月28日への応援コメント

    カッコいい…!
    エマさんがこうなってしまったのは、時代に翻弄されてたからですね。
    昔こんなことがあったのは全然知らないというか、忘れてしまいました。

    作者からの返信

    コメントありがとうございました。

    彼女はとても生き急いでおり、元来の聡明さもあって、
    周りがスローモーションに見えてしまう欠点があります。

    タイといえば美しいビーチやにぎやかな市場をイメージしがちですが、最近もそうですが、実はかなり長い間軍事政権だった国で、今でも政治が行き詰まると軍部によるクーデターが発生する国です。

    そうした時代の波に翻弄されてきた彼女とその一家のストーリーについては、もう少し続きます。
    引き続きお楽しみくださいませ!

  • 1999年7月27日への応援コメント

    なかなか熱い展開すね。
    こんな体験をしているアスカ様が羨ましいです(^^)

    作者からの返信

    コメントありがとうございました。

    この後エマとの展開はepisode4まで続きます。
    モデル人物はいますが、没落貴族のお嬢様という設定です。
    若い頃でしたので色々ありました💦

  • 1999年7月19日への応援コメント

    え!?事故っすか!?後遺症とか大丈夫でしたか?
    ひどいオヤジだなあ…

    作者からの返信

    コメントありがとうございました!

    これも実際にクアラルンプールで巻き込まれた事故でして、だいぶひどいアザにはなりましたが、何とか骨などには異常はありませんでした。

    東南アジアは想像通りのバイク天国であり、そこを歩く人間はボーリングのピン程度の扱いです。現地でタクシーに乗っていると、必ず交通事故を見かけるほどです。それにしても緑の数珠と良縁を架けてには腹が立ちました💦

    コメントありがとうございました。

  • 1999年3月20日への応援コメント

    閲覧させていただきました。
    ドラマのような展開ですね。
    中国の方は、良縁のために金を配るという事をするのですか、初めて知りました。
    金持ちと結婚するために、金の力を使うのはちょっと日本では考えられないですね…
    彼女は、その後は幸せな人生を送れているのかと気になりました、偽りの恋愛で、DVとか受けてないといいすね…

    作者からの返信

    たくさんのコメントいただきありがとうございました!

    これは実は本当にあった実話でして、私にとっての苦い初恋でした💦
    中国でも農村部ではいまだにこうした”袖の下文化”が普通に存在し、就職も結婚もよりよい条件を勝ち取るために、コネや賄賂を捲くこともあるようです。

    彼女とのその後については、episode2およびepilogueにて書かせていただきました。この話から数年後、東京で主人公?と再会しています。心配通りの結末となっております💦

    改めまして、コメントありがとうございました!

  • 1999年7月16日への応援コメント

    (*≧ω≦) ププブッ (笑) 谷村新司似のマレーシア人。23才。お熱の相手はミホリン48才。そりぁ、日本のお義父さんは大喜びで、マレーシアのお父さんは大反対するでしょう。
    今頃、マラッカ海峡で二人はハンドイン・ハンドして二人でスバルを歌っていることでしょう。
    この回は、お笑いネタですね。アスカジョーさんはお笑いのセンス有り・有りですね。面白かったです。(笑)

    作者からの返信

    コメントありがとうございます!

    これも実話でして💦
    一緒に写真撮らなかったことを、20年たった今でも後悔している案件です(笑)実はこの谷村新司とミホリンとの悲しい恋についてはその後もトレースしており、episode2の巻末epilogueにその結末が書いてあります。
    さて、谷村新司はマラッカ海峡に沈む夕日を背に恋のバラードを熱唱できたのか、そして玉の輿狙いのミホリンはいかに??彼らのその後について、是非お楽しみに!

  • 1999年3月20日への応援コメント

    辛らい。胸が苦しくて切なくなるような別れ……親やお金が絡むと実際に、ありそうですね。やりきれない気持ちになります。
    。゚(゚´Д`゚)゚。

    作者からの返信

    いつも素敵なコメントありがとうございます!

    実はこれ作者の実体験なんです💦
    中国では、両家との縁談のための袖の下という文化が根強く残っており、そういう意味でも子供は親のメンツのために従わなければならないケースが発生します。

    大学で中国語を専攻していたのも事実で、その背景にはこの重すぎる初恋がありました。この年齢になると、「もう少し賢く恋愛できなかったものか」と少し呆れた気持ちになりますが、初めてできた恋人のため、全力で大切にしていたあの頃について改めてこうして見直してみると、やはり私自身の成長の上で必要だったのかなと思います。

    誰かも言っていましたが、初恋は離陸より着地のほうが難しいです。状況的にどう考えても見込み無しなのですが、どうやって終わらせたらいいかわからない。その悶々としたエネルギーが本長編作を生むきっかけになっています。

    今後「エピソード2」で、この恋愛の結末が登場します。舞台は上海。どうか引き続きお付き合いのほどよろしくお願いいたします!

  • 1999年3月18日への応援コメント

    サキにも悲しく辛い過去が会ったんですね。でも、憎めないっていうか、良いキャラしてるじゃないですか?
    この旅が終わったら、再会なんて……
    ( 〃▽〃)

    作者からの返信

    コメントありがとうございます!
    旅を読み進めていただいて光栄です。
    今からちょうど23年前の今頃のお話しということもあって、感慨深いものがあります。

    さて、本作は小莉という上海人の彼女との失恋から始まりました。
    そして今回登場したサキですが、お察しの通り今後重要な役割を担います。
    詳しくはエピソード3となりますが、サキとの出会いは失恋を違う方向に向かわせるきっかけとなっていきます。もったいつけてしまい申し訳ございませんが、ぜひそちらもお楽しみいただけたら光栄です。

    わたしはこういう物おじしない感じがタイプです。
    まもなくエピソード1が幕を閉じますが、果たしてこの失恋旅行はどんな結末を迎えるやら!引き続きお楽しみいただけたら光栄です!

  • 1999年3月11日への応援コメント

    カッブメン野郎と愉快な仲間達!
    ジャッキー・チェンと間違えられる。とは、……酔八拳や、蛇拳で、凄い盛り上がった事でしょう。
    想像すると、笑えそうですね
    (´^ω^)

    作者からの返信

    コメントありがとうございます!

    当時始めての一人海外旅行だったこともあり、主にユースホステルを利用していました。そこには様々な団体が集まるのですが、中には首を傾げてしまうような連中もかなり高い割合で遭遇しました。その一つがプラハで出会ったスペイン人たちの集団です。そこで知り合ったのが今回作中に登場する政治思想集団でした。

    政治思想集団と聞くと、何やら恐ろしい連中を連想しますが、その辺りはさすがスペイン人で、色々な意味でおおらかな連中でした(笑)

  • 1999年3月10日への応援コメント

    150万人入る、アウシュビッツ強制収容所。歴史的にとてつもなく、恐ろしい場所ですね。
    スケールが違いますが、ウクライナで惨劇が起こってます。多くの犠牲者の事を思うと、心を痛めます😢

    作者からの返信

    いつもコメントありがとうございます!

    奇しくも今から23年前の今日あたりにアウシュビッツ強制収容所に訪れました。作中にもありますが、その日はみぞれ混じりでして、東ヨーロッパの遅い春はまだまだ底冷えするような感じでした。当時、このぬかるみを裸足で歩課されていた人々のことを思うと何ともいえない絶望感が胸に広がりました。

    強制収容所について歴史的観点や人道平和的な意味での解釈は十分にされていますが、たまたま直前に知り合った美大生のおかげで、構造建築学的に見るという珍しい試みができました。
    基本的に人間が居住することを前提としていないので、換気用の窓の少なさや採光に関する配慮の無さなど、そういった切り口からも当時以下に非人道的な扱いがあったのか想像させられました。

  • 1999年3月8日への応援コメント

    電波少年のマツモトアキコですか?何気に見てました。懸賞生活のナスビ🍆も居ましたね(笑)
    当時のポーランドで人気だったんですね。デ・カルチャーですね。
    Σ ゚Д゚≡( /)/エェッ!
    国が違うと、何が受けるか分からないとは、この事ですね。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます!

    ここに登場したミロスワフとの交流は続き、後に『電波少年』が終了となる2003年までふたたび日本に留学し、今ではワルシャワにある日本の広告代理店で偉くなっています。

    とにかく彼は日本一の美人にマツモトアキコを挙げていました。日本留学中に見た『電波少年』で一目惚れしてしまったようです。はい、あのマツモトアキコです💦たぶんポーランド中探しても、日本人美人にマツモトアキコをあげるのはミロスワフただ一人だと思います💦
    (あ、そうそう。後にその名もアキコという名の日本人女性と結婚し、幸せに暮らしています😀)

    ポーランド人みたいなすましたクールビューティーより、歯を出して豪快に笑う松本明子のほうがいいそうです。松本明子が聞いたら泣いて喜ぶでしょう💦

  • 1999年3月6日への応援コメント

    ネオナチスって、名前からしてヤバそうですね。異国の見知らぬ地で 夜に襲われたら、そりゃあ少年でも ヒャってなりますよ
    (^_^;)

    作者からの返信

    コメントありがとうございました!

    これは実話で、実際にベルリンでスキンヘッドの少年たちに襲われました。遠くからビール瓶を投げつけられ、無我夢中で走って逃げました💦ホテルに到着した後に右の脛にガラス片が刺さっているのを見てビックリしました💦

    今ウクライナ戦争の話しでもちきりですが、当時旧東ヨーロッパには少なからずこういう不良少年集団がいたものです。
    共産圏から資本主義社会に移行したのはいいことですが、「自由にやれと言われても何をしたらいいのか全くわからない」という人が一定数居ました。それが東ヨーロッパ全体の高い自殺率の因果でもあります。

    当時私自身も怖いもの知らずだったので「やったるわい!」みたいなノリでしたが、今から考えればゾッとする出来事でした。

  • 1999年3月2日への応援コメント

    降りやまない雨はない。明けない夜はない。も、しかり。失恋は人を大きく育てると、どこかで聞いたような……。
    そのお陰で、マジシャン・アスカジョーさんの今が有るかと思います。
    (偉そうに、スミマセン😢⤵️⤵️)

    作者からの返信

    コメントありがとうございました!

    初めてできた恋人との物語をどう終わらすか――。
    誰でも乗り切らなければならない大きな壁だと思います。

    今から考えると随分無駄なエネルギーを使ってしまったと思いますが、私には、これを決着させるためだけにこれほど大袈裟な一人旅が必要でした。

    この後新しい恋や出会いがありますが、この小莉との物語はまだまだ尾を引いて続きます。今後どのような放物線を描いていくかお楽しみに!

  • 1999年2月28日への応援コメント

    なんと、大変な目に遭われたのですね。Σ(*゚д゚ノ)ノ
    老キャッアイに二駅前に降ろされたり、バーでビックマックと、オバチャンのセットメニューにぼったくられるとは!
    とはいえ、軽妙なギャグセンスかジョークが上手くて、ツボにはまって笑っています。(((*≧艸≦)ププッ
    上手いなぁ~!

    作者からの返信

    コメントありがとうございます!
    お褒めの言葉ありがとうございます。

    考えてみれば恐ろしいことをしたものです(笑)。
    単にバイト先の先輩にそそのかされて、勢いだけで一人旅に出てしまいましたが、何の伝手もなく、いきなり大きな旅に出てしまいました。

    このぼったくり事件は実話です。ヨーロッパの主要駅周辺は治安が悪いことが常識で、当時はそんなことも知らず旅に出て初日から高い授業料を払うことになりました。

    この後ベルリンではネオナチスに襲撃され、続編マレーシアではオートバイに撥ねられるなど、なかなかのアクション活劇に巻き込まれました。

    楽しんで頂けて本当に光栄です!

  • ~Prologue~2018年12月6日への応援コメント

    初めまして
    回想から始まるシーンが、すぅ~と頭に入り込んで、映像が垣間見えた気がしました。洗礼された文章ですね。楽しく拝読させて頂きます
    >^_^<

    作者からの返信

    コメントいただきありがとうございます!
    本職はマジシャンで、文筆は本業ではありませんのでつたないところもあるかもしれませんがお楽しみいただければ幸いです。

    本作は私が大学生だった頃のバックパッカー旅行を元にした私小説です。20年以上前の話ですが、電波少年企画の猿岩石や、今の水曜どうでしょうファンの方々に向けた旅行小説です。

    是非これからもお楽しみいただければ幸いです。
    今後ともよろしくお願いいたします!

  • 1999年2月27日への応援コメント

    アスカジョー様の文体の格調の高さにプロのレベルを感じました。勉強のためホローさせて頂きました。

    作者からの返信

    応援コメントありがとうございます!
    過分なお褒めのお言葉いただき恐縮です。

    本作品は20年前に私が大学生だった頃のバックパッカー旅行をもとに書いた私小説です。
    いつか本を書いてみたいという想いを、すべてこの作品にぶつけてみました。

    Twitterでもフォローさせていただきました。
    今後とも宜しくお願いいたします。
    私も紅色さんの作品を拝読させていただきます!

  • 1999年3月12日への応援コメント

    中国人の元カノとは、短いやり取りだったのですね。
    私はリアル世界に彼女はいますが、毎日のようにiPhoneの FaceTimeやLINEでやりとりをしてます。
    今年で9年ぐらい経ちますが、それでも物足りないというか、分かり合えてない部分はあるんじゃないかなと思ったりはしますね。
    角刈り野郎さんは無事に日本に帰れたのでしょうか?今後が気になります。てか、彼女の行きたいところに行かせてあげればいいのに…

    作者からの返信

    コメントありがとうございます。

    中国人の彼女とは、文通から数えると3年ほどのお付き合いでした。前述の通り、当時はメールもskypeもなかったので、月に一度長い手紙のやり取りをしていました。
    確かに現代のリアルタイムなやり取りからすれば、あまりにもアナログ過ぎますが、その分助かっていた部分もあったのではないかと思います。

    お付き合いされて9年ですか。きっとその方とはとても相性がいいのでしょうね!やがて妻となり、母となったとき、担っている責任や役割が変わってきますが、深い部分で理解し合えていれば、きっとどんな問題でも一緒に悩めるパートナーとなってくれることと思います。


    角刈り野郎と能面女はその後めでたくゴールインしています。
    プラハでの縁あって、彼らの披露宴ではマジシャンとして参加させていただきました。
    エピローグにも触れていますが、両親への挨拶で涙でぐちゃぐちゃになった角刈り野郎とは対象的に、凛としたままだった能面女は印象的でした。結婚しても主従関係は変わらなかったようで、今でも年賀のやり取りは続いています。


    改めまして、コメントありがとうございました。


  • 1999年3月11日への応援コメント

    ホットビールなんてあるんすね、流石海外だな…
    今こんな時代なんで、小規模なデモとか世界各地で起きてるけれども、この頃の時代は平和で、彼らの悪戯が微笑ましく感じますね(^^)

    作者からの返信

    コメントありがとうございます。

    正確にはワルシャワの時点でホットビールなるものの存在は知っていました。スタウトのような黒ビールに、シナモンやクローブ、ショウガなどのスパイスを入れて、小鍋で煮たものが出てきます。

    「ビールを煮る?」と思いましたが、インドのチャイのような香りが体を温めてくれます。個人的にはコレはコレでありだと思いますね。(何故か日本では聞きませんが…)

    ヨーロッパの若者と交流していると、かなりの割合でしっかりと政治思想を持っていることに驚かされます。それだけヨーロッパに於いて政治とは専門家に任せておけば良い領域ではなく、よりよい暮らしを実現するための必須科目のようです。
    ここに登場するスペイン人たちはだいぶ特殊な存在ですが、おそらく学校教育でも社会公民の授業はかなりしっかり行われているのではないかと思われます。

    私もそれほど政治経済に明るいわけではありませんが、なぜか日本では避けられる話題ではあるものの、きちんと国政に参加する意思は重要ではないかと思います。


    それはともあれなかなかおもしろい連中でした。ユースホステルを渡り歩いていると、結構な頻度でこういう団体に出くわすことがありました。

    改めまして、コメントありがとうございました。

  • 1999年3月10日への応援コメント

    アンネの日記は小学生の頃に読んだ記憶はありましたが、当時はなぜこの本が有名なんだ?と内容の良さとか全然分からなかったすね。
    中学生になり、アウシュビッツやホロコーストを知り、改めて書籍の存在感の強さがわかりました。
    これは、広島の原爆ドームと同じくらいに、決して忘れてはいけない場所ですね。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます。

    今年3月に『アンネ・フランクと旅する日記』というアニメーション映画が公開されます。
    アンネは日記帳に”キティー”という名前をつけて、「自分の心の声を聞いてもらう大切な友人」という設定で日記をつけていました。現在はアムステルダムの博物館に展示してあるアンネの日記帳ですが、そこから空想の友達だったキティーが現れ、友達だったアンネを探して街に出るという物語です。
    予告編を見ただけで涙腺崩壊でした。

    私の祖母はアンネ・フランクと同じ1929年生まれで、今年93になりますが現在も存命です。アムステルダムの項でも書きましたが、私が物を書くきっかけとなったのも「アンネの日記」との出会いからでした。

    私には戦争は描ききれない。
    シンプルに是非論にまとめるのも、実体験のない私が書いたところでなにか違う気がするからです。そこでここでは強制収容所にアンネ自身が持っていったカバンの視点で描いてみました。

    実際にアウシュビッツに行き、数ある展示物の中で最も打たれたのが、ガラスケースの中に展示してある口のこじ開けられたカバンの山です。(たぶんネットでも検索すれば出てくるかと思います)

    アウシュビッツで何人殺されたなどという数字を見るよりも、押収された所持品の膨大な山を見るほうが実感がわきます。


    改めまして、コメントありがとうございました。

  • 1999年3月8日への応援コメント

    電波少年!懐かしい!松村邦洋さん、感染して大変な目に遭ってしまいましたね…
    ポーランドにそんな時代ってあったんすね、無学でして知りませんでした。
    学生が国を動かす時代ってもうないのかもしれませんね…

    作者からの返信

    コメントありがとうございます。

    実は昨年8月、私もコロナウイルスに感染し生死をさまよいました。オミクロンについては当時のデルタ株よりも感染力が高い(けど、症状は軽い)ようですが、どうかご自愛のほどを!


    ここで登場するミロスワフというのも実在でして、実際彼はその後再度日本に留学し、『電波少年』が終了となる2003年まで東京にいました。今では某大手広告代理店のワルシャワ支店で偉くなっています。

    学生運動と聞くと、我々の祖父と父親の間の世代が、何やら大騒ぎしていた時代のことを思いますが、東ヨーロッパにおいては比較的最近まで学生運動が盛んでした。その若いエネルギーがベルリンの壁を引き倒し、天安門事件を起こしたことは注目に値します。

    「もう年寄り共には任せられねぇ!俺たちの力で国を変えるんじゃ!」

    ただ、革命というものは歴史的に見ても”やりすぎてしまう”傾向があります。全部一気にひっくり返すというのは無理があるのです。
    ソビエトの息がかかった東欧陣営が次々と資本主義化していった89年末を総称して「東欧革命」などと呼ばれますが、歴史の教科書はそこで話を終えてしまっており、その後どのようにして革命で出来上がったいびつさを是正していったかこそ、本当に注目すべき部分だと思います。


    改めまして、コメントありがとうございます。

  • 1999年3月4日への応援コメント

    なかなかにさっぱりしてる女の子ですね、この子は。痛快な展開でいいですね(^^)

    作者からの返信

    コメントありがとうございます。

    本稿で登場する「サキ」は、今後の物語で非常に重要な役割をになってきます。少しだけネタバラシをしますと、本章ラストで再登場します。またシリーズ3でも色々あります。

    「サキ」が実在するかはさておき、私はこういう物怖じしないタイプが好きですね。私自身がリスクを取りすぎて腰が重い方なので、背中を押してくれるタイプはとても助かります。


    オランダというのは極めて特殊な国でした。
    本稿冒頭でも描いたとおり、列車が国境をまたいだ瞬間、いきなりヤクの売人が車内販売を始めたのには驚きました。

    ――自由とはなにか。
    思うにそれはやはり知性の上にしか宿らないものです。

    天真爛漫なサキと、ドラック・売春・同性婚・安楽死なんでもござれのオランダを対比させてみました。


    改めまして、コメントありがとうございました。

  • 1999年3月3日への応援コメント

    向こうの国の人らはなかなかに職人気質の人が多そうですね。
    途中まで読みましたが、猿岩石や水曜どうでしょうを連想させる作品で、閉塞的な日々を忘れさせてくれて読みやすいですね。
    コロナでなかったら彼女と旅行にでも行きたかったすね…

    作者からの返信

    コメントありがとうございます。

    東大阪からやってきた平川氏とを描いた本稿は、全シリーズの中でもお気に入りの一つです。
    帰国後も彼との交流は続いていました。その後彼がどうなっていったかは、本章最後のエピローグにて触れています。

    私が本稿で伝えたかったのは、平川氏のように打ち込めるなにかに出会えた者は不幸にできない、ということです。
    彼は現地でのボッタクリなど一切気にせず、自分の嗅覚と味覚を楽しませるためだけにヨーロッパを周遊していました。

    どんなトラブルに見舞われようと”何のその”です。
    私はその後の人生においてマジシャンという職業を選んだわけですが、そこに迷いがなかったかといえばNOです。
    紆余曲折あり、何度も「こんな仕事を続けていていいのだろうか」と悩みながら今日に至っています。
    さすがに平川氏の領域には至れなかったですね。


    徐々にですが、旅も解禁されていくでしょう。
    ただ都市や国家間の移動については、いつ状況が急変するかわからない中、バックパッカーのような旅はしばらくできないでしょうね。
    一日も早く彼女さんと旅行ができるような時代が戻るといいですね!その時は旅の土産話を聞かせてください。

    改めまして、コメントありがとうございました。

  • 1999年3月1日への応援コメント

    青春ですね!

    作者からの返信

    コメントありがとうございます。

    ――失恋をきっかけに旅に出た。
    書き物にしてしまうと大袈裟な印象ですが、これも実話でした。

    17のときに参加した国際親善プログラムで知り合った通訳が、私にとっての初めての恋人でした。今では考えられないですが、当時(今から約20数年前)は文通で気持ちを伝えあったものです。まったく古風ですね(^_^;)

    彼女を日本に留学させたい。
    大学に入った私はひたすらバイトに明け暮れ、何とか彼女を一日でも早く手元に呼び寄せたいと考えていました。
    ところが先方の両親の意向で、地元有力者の次男との縁談が入ってしまい、若い二人の恋は外圧で潰されてしまいました。

    送金していたわけではないので、預金残高はかなりありましたが、喪失感は計り知れませんでした。
    そんな時バイト先の先輩から一人旅を勧められたのをきっかけに、この物語は始まっていきます。


    42になった今の私からすれば、「いきなり背負い込みすぎたな」と肩を叩いてやりたい気分ですが、恋は盲目なりの言われ通り、当時は周りの忠告を聞くゆとりすらありませんでした。

    青春ですね〜。
    改めまして、コメントありがとうございます。

  • 1999年2月28日への応援コメント

    散々な間に合いましたね…
    フォローありがとうございました(^^)
    これからもよろしくお願いします。

    作者からの返信

    昨日はたくさんのコメントを頂き、ありがとうございます。
    一日でこれほどたくさんのコメントを頂いたのは初めてで、
    感謝感激であります。
    一件ずつご返信させていただきます。
    今後の創作活動における糧とさせていただきます!


    さて、本作は私が大学生の頃おこなったバックパッカー旅行をもとにした私小説です。
    当時旅日記をつけていたのですが、「いつか読み物としてまとめたい」と想いながら20年が過ぎ、2018年から2年かけてかきあげた作品です。

    本職は名前の通りマジシャンをしており、文学的なバックグラウンドなど特になく、いきなり長編小説から取り組んでしまい、現在あちこちの歪みを調整しながらTwitterで宣伝をしているところです。


    本稿で登場したぼったくバーは実話でして、一人旅を始めて初日からえらい目に逢いました。今となっては”いい思い出”ですが、言葉も通じない先でいきなりのトラブルにはさすがに凹まされました。
    お陰様でその後においては気が引き締まったこともあり、このようなトラブルには逢いませんでしたが…


    素人作家ではありますが、今後とも宜しくお願いいたします。

  • 1999年8月8日への応援コメント

    『お金』によって変えられてしまった両親。
    と言いつつ、元々内にあった欲望が表出しただけなのかもしれませんね。

    小莉さんもまた、自分で自分の人生を切り開こうとするのではなく、自分の向かいたい方へ引っ張ってもらいたいタイプのよう……
    (恐らくやろうと思えば飛び出す力がありそうな気がします。こんな場を用意できるくらいですから……)

    それをしてくれる人が好き(そうしてもらえる自分でありたい)
    という部分が、離れている間に客観的に見えるようになってきた、とこの主人公の彼が感じているのかなあとも。

    両親、婚約者、主人公との間で葛藤する小莉さんとの関係が、どう収束していくのか楽しみです。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます。

    改めてこの<上海編>において、主人公が何を見て、何を感じたのかについて、考えさせていただきました。

    ひとつは「お金と恋愛」についてでした。私個人としてはそこは否定していません。やはり”ない”よりは、あったほうがいいと実感します。ただ言うまでもなくそれがすべてではありません。
    小莉側の事情があまりにもお金に傾倒しすぎています。格差の激しい国柄ということもありますが、その両親にとって、"子供たちを裕福な家庭に嫁がせる"というあまりにもストレートな願いがすべての物差しです。愛や意思という見えないものではなく、物質的な豊かさが見えなければ意味がない。この価値基準に小莉も主人公も巻き込まれていくわけです。

    小莉にとっては、蘇州の金持ち次男坊か、それとも日本人の大学生かという問題ではなく、あくまでも両親VS主人公なのです。いくら衝突しようと、”両親が喜ぶなら”という抗いがたい気持ちがあり、すでに事態もほぼ決着がついているような状況に進んでしまっています。つまり迷うとかそういう状況ではなく、”どのように着地させるか”ということがポイントになっているわけです。

    主人公は、いわゆる”恋に恋していた”ことを認められずに苦しみます。遠距離恋愛により、ただひたすら彼女との将来に向かって努力してきた彼ですが、やがてジワジワと広がり始めた彼女への違和感についても、それを力でねじ伏せ、妄信することで突き進んできたわけです。現実的に言えば、すでに”どうやってキレイに終わらせるか”だけなのに、強引にそれにあらがって、事情を複雑にしています。

    さて、とうとうそれぞれが溜め込んできた感情が爆発した今回のチャプターでしたが、これからどうなるやら。ぜひ引き続きお楽しみいただければと思います。今後ともよろしくお願いいたします!

  • 1999年8月7日への応援コメント

    上海、南京路、懐かしいです。もう15年程前ですが二度。
    煌びやかな外灘、人が蠢めく街角、そしてその中のある一点で、こうして人間ドラマが繰り広げられているんですね。
    何かが違う、とクサクサとしたもどかしい彼の気持ちが伝わってくるようです。終焉と魂の解放を求めていて、それは爽快であって欲しいのに、やりきれない、何もかも想いと裏腹になるような。
    小莉は何を望んでいるのかなあ。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます!
    そうですか、同じ時期に私も上海を何度か往復してましたので、もしかしたら南京路辺りですれ違っていたかもしれませんね!

    さてまあ、このパートを描くにあたっては様々な情景が浮かんでは消えました。恋愛にも年相応というものがあるかもしれませんが、やはり初めての恋というのは誰しも着地に失敗するのかなと思います。

    (主人公は)、手ひどい裏切りにあったことを受け入れられず、どこかまだ希望を捨てきれずにいます。すでに脈打たなくなった冷たい死体を抱きかかえているようなもので、もはや恋愛というよりも、宗教的だったと思います。しかし現実に触れた途端、雪の結晶が手のひらで消えるような冷たさだけが残った。それまでは触れ合えない距離が曖昧さで守っていてくれたわけですが、冷たく広がる現実を前にどう触れ合ったらいいか戸惑っている情景です。

    初めての恋にしては難易度が高すぎる。でも大人になった今、もしこういう出会いがあったとしたら、一枚だけきれいな写真に収めて、それ以上踏み込まないと思います。そう考えると、あの頃は恋愛に「難しさ」だけを求めていたのかなと思ったりもしますね(笑)もっと楽に楽しむことを覚えた今では味わうことができない感覚だったことは間違いないと思います。

    小莉は婚約者がいながら、なぜ主人公を泊めたのでしょう。そこには彼女なりの葛藤があったようです。ぜひ続きもお楽しみくださいませ!


  • 1999年8月6日への応援コメント

    >辣妹子(ピリ辛娘)
    ってウィットに富んでいて面白いですねヽ(´エ`)ノ
    そして久しぶりに表出してきた江戸っ子魂(口調)。

    それにしても上海人の評判の悪さはハンパない。笑
    田舎から見た大都会のイメージ(知らないからこその恐れを含む)や妬みみたいなものも入っているのかもしれませんが、トコトンはっきりと言うなあ、と。

    中国は上海と蘇州くらいしか行ったことがないので、他の土地のことは分かりませんが、空気も人も、色々なんだろうなと想像します。

    いよいよ、小莉との再会。
    どんな展開が待っているのか、ソワソワしてしまいます。

    作者からの返信

    お楽しみいただき、とても嬉しいです!
    毎日暑いですね。どうかご自愛くださいませ!

    「辣妹子(ラーメイズ)」という言葉は実際にこの時乗り合わせた氷上の妖精さんたちに教えられたもので、”ピリ辛娘”というのは私が勝手につけた訳語です。
    私が大学で中国語を専攻していたという話はどこかでお伝えしていたかと思いますが、中国人は自国民同士でも「〇〇人」という言い方を好みます。

    「わたしは福建人ですが何か?」
    「あっしは見ての通りの東北人です」
    「あなたは潮州人なので私たち山東人とは思考が違う」

    という具合に互いに他省を区別し、同省人を愛します。
    日本人としてすごくこの表現に違和感を持っていました。関西人とか九州男児とかそういう大きな単位では日本人同士でも話題にしますが、「〇〇ジン」というのは何となく断絶を感じてしまいますね。

    ヴィッキー・チャオという可愛い顔をした女優がいましたが、ずいぶん前にバーで酩酊して店員を殴打したというスキャンダルがありましたが、ご当地では「ああ、安徽人(=ケンカ早いことで有名)じゃ仕方ねぇ」という反応でした。

    まあでも圧倒的に評判悪いのは上海人ですね。笑えるぐらい評判悪いです。あちらにはがんじがらめの戸籍制度があり、地方出身者が都会に出稼ぎに出る場合も厳しい許可が必要だったり、大学入試でも地元出身者は合格点が低かったりと、何かと都会人は守られています。ちょっと日本では信じられない感覚ですが実態です。「ちょーしこいてんじゃねーぞ、上海人どもがっ!」っていう感情論がほとんどでしょうね(笑)


    さて、いよいよ小莉との再会となりましたが、、、
    あくまでこの時点で小莉は親の紹介で知り合った金持ちの婚約者という立場です。難しい数日間の始まりです。どうぞお楽しみくださいませ!

  • 1999年8月5日への応援コメント

    カンフーの師匠との出会いを経て、いよいよ小莉との再会。
    胸中がモヤモヤとするような色んなシガラミもありつつ、心の内の決着を付けることができるのか。
    逢えない時間がもたらしたものが一体何だったのか、楽しみにしています。

    作者からの返信

    いつもご高覧ありがとうございます!

    さていよいよ香港でのカンフー修行編が終了し、ここからはシュールな恋話になります。Episode1から登場した小莉との再会です。
    ここでその後の展開についてご紹介をするわけにはいきませんが、やっぱり恋愛って難しいなと思いながら書いた部分です。

    おっしゃるように会えなかった時間の意味が凝縮された数日間となります。果たして、出会うべきだったのか。どのような結末にたどり着くかお楽しみいただければと思います!

    コメントありがとうございました!

  • 1999年3月4日への応援コメント

    自由は自律の上にしか成り立たない。

    この考え方、良いですね。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます。

    オランダという国のディープまで見てきたわけではありませんが、
    数日滞在しただけでもオランダの持つ倫理観は際立っていると感じました。

    本作全体を通して、どのように大人になっていくかということを扱っており、
    そのうえで自律や自制というのは度々登場します。
    自由とは何か。それはむしろ自律していない自分を見ることになります。
    旅の中で少しずつ成長していきますので引き続きお楽しみいただければと思います!

    今後ともよろしくお願いいたします。

  • 1999年8月2日への応援コメント

    「クレイジー指数」というワードにニヤッとしてしまいました。
    > ”香る港”と書いて香港。
    行ったことがないのに、ピーナッツ油が香ってくるようですヽ(´エ`)ノ

    作者からの返信

    コメントありがとうございます!

     Twitterのほうでは、私、アラン、ディランのカンフーバカ三匹の写真をアップしております!それも香港のキティランド系列のアイスクリーム屋で(笑)。間違いなく腰抜かすほどのクレイジー指数です。
     後日談ですが、アランは後に中国から嫁さんを輸入し、ディランと一緒にカンフー道場拳中華料理屋を開きました。ディランも嫁さんの従妹と結婚しました。ちなみにアランの嫁さんは北京の武術学校で知り合ったカンフーの達人です。やっぱりクレイジー指数はけた違いでした!

  • 1999年7月31日への応援コメント

    エマが大変そうな方だと改めて染みるエピソードでした。
    なんというか、行ったり来たりしていて、本人も苦しんでいるのでしょうね。
    それを包み込もうとする主人公。青春ですねえヽ(´エ`)ノ

    作者からの返信

    いつも温かいコメントありがとうございます!

    エマという人物は、本作のキャロットケーキに混ぜてあるレモンピールのような存在です。適量ならいいのですが、それ単体では苦みになってしまいます。その強烈な個性に気付いていながら、彼女自身どこか世の中を斜めに見ることでバランスを取っているところがあります。

    もともと失恋から始まっているこのシリーズですが、エマはこの後も登場してきます。この当時、守るものがなかった主人公にとって、どこかその強烈な味付けに憧れていた部分もあり、すくなからず主人公に影響を与えた人物です。

    なおエマに関する謎は、Episode4の前段として用意した、fig1,fig2によって明かされます。なぜそれほど生き急ぐのか、そしてなぜ世の中を舐めているのか、彼女の実際について明かされます。このfig1,2は私にとって最も思い出深く、気に入っている作品です。ぜひそちらも併せてごらんいただけると嬉しいです!

    今後ともよろしくお願いいたします!

  • 1999年8月21日への応援コメント

    長女が空手やっているので興味深く拝読しました。
    武侠映画の女侠みたいな人っているんですね。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます!
    娘さん、空手をやってらっしゃるんですね。特に武道は礼に始まり礼に終わるので、体力作りだけでなく、良い習い事だと思います!

    本作のEpisode2では、合気道編、タイのムエタイ編、香港の八卦掌編など、副題として多くの格闘技を取り上げてきました。当時のいかにも男の子らしいテーマで、各地で体験入門を経験してきました。

    テコンドーは、格闘技というより明快なスポーツとして普及させてきました。前項にもあるように空手や中国拳法などは流派が多く、統一ルールが構築されていないため、いまだにオリンピック種目に昇格していません。もちろん海外において空手のほうが認知度は高いですが、これは非常に興味深いことだと思います。

    Episode2は非常にアグレッシブな内容になっており、その中で「戦う」ということの本質に触れてみたいと思っていました。それぞれの回で個性的なキャラクターが登場しますが、本来敵を倒す手段として発達した格闘技ですが、それとは別に”道”として新たな価値を見出した人類のすばらしさを思わずにはいられません。

    お楽しみいただけて光栄です!

  • 1999年8月21日への応援コメント

    読んでいて、ヒョンヒはゲームかアニメのキャラみたいに格好良い感じがしました。
    ヘビは美味しかったですか?一度食べてみたいです。精力付けるために犬を食べる地域もあると聞きますが、それはさすがに食べる勇気が無いですね……。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます!

    これまでタイのムエタイ編、香港の八卦掌編と進んできましたが、韓国テコンドー編はいわば総集編になります。

    さて、このあたりの描写はかなり真実です(汗)
    実際に大学にウニョン先輩がいて、ソウルでその弟さんをご紹介していただきました。そこの道場に通っていたのがヒョンヒでした。とにかくこの能面娘のせいで、満身創痍で帰国したのも、今となってはよい思い出です。この時お土産にもらったテコンドーの胴着は今でも実家にしまってあります。
    多少着色していますが、シリーズの中でもヒョンヒは好きな登場人物です。最後のエピローグにウニョンおよびヒョンヒのアフターストーリーを掲載しておりますのでお楽しみに!

    記述の通り、テコンドーは空手やその他格闘技と異なり、武術としてではなく、ルールのあるスポーツとして発展してきました。これは非常に大きな違いでして、よって武術のように内面を掘り下げるという意味の修行ではなく、アスリートとしての明確な目標と管理のもとにトレーニングを積んでいます。非常に興味深いことでした。

    彼らと一緒にソウルの居酒屋に行ったのですが、最初それがヘビであることを誰も教えてくれませんでした(笑)。非常に小骨が多かったのを覚えていますが、知らないで食べたらちょっと固い魚ぐらいなものでしょうか。実は結構臭みがあるという情報もあるのですが、私が食べたのはコチュジャンなどで真っ赤になったそれだったので、本来はよくわかりません。
    東京上野にもヘビを食べさせる店があるという話を知人から聞きました。そこではヘビの血をショットグラスで提供されるそうですが、長年不妊治療に悩んでいた知人がその後おめでたになったとか。効果のほどは分かりませんが、飲んだ後は体がポカポカと温かかったそうですよ!



  • 1999年8月12日への応援コメント

    中国の人は一度友達付き合いすると情の深い方が多いですね。

    作者からの返信

    いつもコメントありがとうございます!

    吾妻さんも台湾に留学されていたり、日ごろも中国の方とのご縁があるようで、共感していただき光栄です。
    そうですね、人にもよるかもしれませんが、私は特に北部にその傾向が強いと思っています。北京や黒竜江省に知り合いがたくさんいますが、仲良くなるとそこまでしてくれなくても、というほど身を挺してくれますね。その情の厚さが好きですし、その極端さが嫌でもありますし(笑)、複雑です。

    「だっていつでも泊っていいって言ったじゃないか!」と他日の社交辞令を本気にされたり。同じ質量をこちらにも求めてこられるのには閉口しますが、概して僕は北の人間が好きですね。任侠映画みたいで。

    そんな熱い連中が住む北京が大好きです。このシリーズも結局北京で幕を閉じていますが、私の青春時代の一ページは間違いなくこの街にあります。そんな北京もやはり五輪後ではあまりにも変わってしまい、ちょっと残念に思ったものです。裸のオッサンが道端にしゃがみこんでスイカを喰っていた荒っぽい街並みが好きでした。たぶん人間ウォッチング好きにさせたのも、この街の人間模様に衝撃を受けたからかもしれません。

  • 1999年8月12日への応援コメント

    青龍刀持って歩いたらお守りになりそうですが逮捕されたりしないんでしょうか?
    北京は私も行った事あります。まだ自転車だらけでトイレに扉が無かったりする時代でした。北京ダックが美味しかったけど食べ過ぎてお腹を壊した思い出があります。今はだいぶ様変わりしたんだろうなと思いますね。また行ってみたいです。

    作者からの返信

    ご高覧ありがとうございます!
    rainyさんも北京に行かれたことがあるんですね!奇遇ですね。
    作中にもあるように、高校生の頃日中親善事業で行ったのが初めてで、
    以後個人的にも仕事でも、訪問回数で言えば1位かもしれません。
    それだけたくさんの友人がいますし、思い出もたくさん詰まった街です。

    これは香港の項でも書きましたが、もし日本で朝の公園で抜き身の青龍刀を振り回していたら、間違いなく通報されるでしょうね。
    今は中国(特に北京)もテロで神経をとがらせているので、おそらく無事では済まないと思います。ただ朝は近所の公園に行っても、朝から抜き身の剣や槍を振り回しているのはいくらもいます。太極拳のお国ですからね(笑)
    日本のように、弓道の弓や居合刀などはしっかりと袋に入れ、すぐに抜き出せないようにして持ち運べとなりますが、意外とあちらではあっけらかんとしたものです。
    実際北京駅に降り立った時の写真があります。肩口に忍者のように青龍刀の柄をのぞかせている写真です。あの描写はガチですが、今から考えるとバカ丸出しでした(笑)

    ニーハオトイレ(扉のないトイレ)だった時代のほうが楽しかったです。(いえ、ニーハオトイレが楽しいという意味ではないですよ!)。北京五輪からがらりと変わってしまいました。いやに居丈高なホテルやビルが立ち並び、観光客ズレした人々が増えました。私はもう観光客としていくことはないのですが、ただの空気の悪い街になってしまったことは残念です。あの頃のいかにも田舎な北京に憧憬を持ち続けています。

  • 1999年8月8日への応援コメント

    つらいエピソードですね。でもこういう人間関係の中で揉まれてきたアスカジョーさんはタフだなあ、と感心します。
    人民解放軍、女性もいるんですね!やはり経済的に豊かでないとか、農村の出身者が多いのでしょうか……?

    作者からの返信

    いつもご高覧いただきありがとうございます!

    恋の始め方は誰に教わることなくできると思いますが、
    終わらせ方は自分で体を張って覚えなければならない気がします。
    そういう意味で恋って無責任だなとも思ったりもしますが。

    恋って対等な関係なんですけれど、大人たちの作った物語のせいで、
    「守るべきもの」と洗脳されて大人になっていくんですね。
    でもやっぱり大いに結構な勘違いだと思います。
    近頃妙に分かった風な子供たちを見ると、逆に心配になります。

    「傷のないまま死ねるかっ!」という帯タイトルですが、
    これはブラッド・ピッド主演『ファイトクラブ』という映画のセリフです。
    大いに傷つき、悩み、泣いて大人になっていけばいいと思います。

    そう、彼女の妹は中国人民解放軍の兵隊でした。
    島国から見ると悪名高き軍隊ですが、外征するばかりでなく、
    災害の多い地域における救助活動に従事されていました。
    確かに農村出身者は多いですね。

    余談ですが、中国には約270の方言があり、それぞれ全く通じません。
    有名な話、毛沢東(山東省)と鄧小平(四川省)は通訳を介して会話をしていました。最も困るのが軍隊です。
    「右向け右!」と司令官が指示を出しても、ほとんど通じないのですから。
    そこで編み出されたのが”普通語”といわれる、現代中国語です。
    筆画も農民でも覚えやすいように簡体字が作られました。

    改めましてコメントありがとうございました!

  • 1999年8月11日への応援コメント

    互いが物を見え過ぎているだけに、とても辛い物別れですね。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます。

    どちらかといえば悲恋が好きです。どう考えても無理があったり、叶わない永遠に向かって二人でボロボロになっていくような話のほうが感情移入しやすいです。好き嫌いはあると思いますが、この二人もまさにそうでした。

    先日も書きましたが、「野に置け、れんげ草」という言葉を思い出します。どうにかそのはかなさを庭に持ち帰って植えてみるけれど、たかだか植物とはいえそううまくいくものではありません。
    原題はどちらかといえば、「置かれた場所で花を咲かせなさい」とケツを叩く風潮がありますが、人間においても土壌や水質というものは些細な問題ではないと思います。無理を飲み込んで強くなるというストーリーもあるでしょう。ただ、はかなさも含めて人間なら、あまり自然に逆らわない方がいいのかなとも思います。
     個人的なことですが、仕事のことで悩んでいます。どうしてもあるべきだ論を抜け出せず、だいぶ疲弊しています。責任感がそうさせているのですが、枯れてしまっては元も子もない。かといっていつまでも逃げ続けてもいられない。「野に置け、れんげ草」と言って自分を守るか、「置かれた場所で咲きなさい」と視線をあげさせるか、難しい地点に立っています。


    この二人は真面目過ぎたのです。もっとフィンガーフードみたいな恋愛だったならおしゃれな飾りのひとつとして、飽きたら外すこともできたでしょう。結果は悲惨でしたが、真面目さゆえに傷も深く、また大きなばねになっていったのかもしれません。この二人のアフターストーリーは巻末Epilogueへと続きます。

    改めましてコメントありがとうございました!

  • 1999年8月10日への応援コメント

    辛いですね。彼女の婚約者の男性は直接には姿を表さなくても常に存在しているという。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます。
    やはりこの二人は会うべきではなかったのです。
    本人たちの外側の問題で複雑な状況になってしまったわけですが、
    いつの間にか二人で負い切れない問題になってしまいました。

    初めての恋愛って難しいですね。
    周りに聞いても、だいたい着地に失敗しますね。
    でもそこから人は成長していくのかな。
    その傷の深さがいい感じで味わいになっていけばいいかなと思います。

    どうにかしたい気持ちと現実の区別がつかなくなり、
    とうとう袋小路に突き当たってしまった。
    そんな描写の回になってしまいました。
    いよいよこの恋愛も次回最終回になります。

    主人公にとって海外放浪を決断させた大失恋の結末をお楽しみください。

  • 1999年8月9日への応援コメント

    何だかとても哀しい関係ですね。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます。

    ねじれてしまった関係は、やはりどうあがこうとなかなか良い方向には進みませんね。何とかしようとすればするほど誰も幸せにならない状況に堕ちていく。そういう情景を描いてみました。


     中国語に「有縁千里来相会、無縁対面不相逢 (縁有れば千里も来たりて相会い、縁無ければ対面すれども相逢わず)」というのがあります(たしか、ラリピーになる前の酒井法子が中国語でそういう歌も出していたと思います)。
     この当時知った言葉ですが、いまだに深いなと思います。日本には「野に置けレンゲソウ」という言葉があって、野原に咲くレンゲソウを根っこごと掘って庭に植えても枯れちゃうよという話です。無理してつないだ縁は枯れやすいという素敵な言葉です。

     若いうちは理解できない理があります。夢中になっていればなおのことで、得てして着地に失敗してしまい、場合によっては古傷になります。ただ、そうやって大人になっていくしかないんだと思います。
     

  • 1999年7月28日への応援コメント

    国の状況と父親の愛情の所在。二重の負の気持ちを背負ったエマと相対した時、自分はどんな風に接するだろうと考えてみました。答えはでませんが……
    目の前の好青年に父親を重ねて、本当は愛情を注いでくれる存在だったと思いたかったのかなあとも感じました。エマとの関係、どうなっていくのか気になりますね。波乱万丈の予感もします(笑)

    作者からの返信

    熱いコメントありがとうございます!

    政変クーデターと聞くと、何やら壮大なエンターテイメントのにおいを感じてしまいがちですが、ミャンマーを例に出すまでもなく、ヨーロッパも含め、国境が安定したのはここ最近という国はたくさんあります。この島国においては、そういうことはまず起こり得ないですが、外に出ると案外こういう事情で身内を失くしている人に少なからず遭います。その一辺のみをみても、いかに日本が平和であるかしみじみと思います。

    しかしエマというこのシリーズで最後のほうまで登場する人物は、あまりにも現実離れをしており、読む人によってイメージするものもだいぶ違うようです。洞窟に潜む魔女のようなものを思う人もいれば、ただ高飛車な落ちぶれ貴族を思う人もいるようです。
    実はこのエマという人物にははっきりとしたモデルがいます。青春時代を大きく揺さぶった人ですし、キレイな思い出のまま保存しておきたかったのですが、作品を通じて共有することで浮かび上がってくることもあるのかもしれない。そんな複雑な感情を含んだ人物です。きわどいシーンも登場しますが、お楽しみいただければ幸いです。

    今後ともよろしくお願いいたします

  • 1999年8月8日への応援コメント

    古い売買婚的な関係性が読んでいて辛いですね。

    作者からの返信

    いつも作品に触れていただきありがとうございます。
    Twitterでも書きましたが、今病に伏せっています。ほとんど絶食です。
    吾妻さんやお子さんも体調を崩されたとのこと。大丈夫ですか?
    朝晩涼やかですが、日中は地肌がピリピリすることもありますね。
    どうかゆっくりお休みになって。無理せずに。

    さて、本稿はあまり気持ちの良いものではなかったかと思います。
    ご不快な気分になられたかもしれません。申し訳ございません。

    でも中国に限った話ではありませんが、これはさもありなんな話です。
    以前もお話ししたかと思いますが、私は大学で中国語を専攻していました。
    コロナになった今も、国内外問わず中国人の友人をたくさん持っています。
    しかし折に触れ、やはりコネ社会なのだなと感じます。
    そこにお金を投じることこそ”投資”といってはばかりません。
    香港などでもそうで、子息を海外留学させる目的とは、最終的に子供に海外へ引っ張ってもらうことだそうです。
    目下、縁談や就職においても優位を買うことは別に恥ずべきことではないという考え方が浸透しています。

     昨今テレビでも、かつて日本が格下と見ていた国々との狭まる格差を取り上げた番組をよく見かけます。ただ、貧しさとは切り取り方だと思います。相対的に日本は貧しくなった。それは事実だと思いますが、本質的な部分として私が注目しているのは、法がカバーできる人権です。
     アメリカなど御覧通り貧しい国ですが、ゴネようによっては常習的喫煙者が「お前たちのせいで肺がんになった!」とタバコ会社を相手取り勝訴を勝ち取る国です。
     かたや東南アジアでは(ゴシップ誌ですが)、いまだに一面トップに交通事故死の現場写真がモザイクもなく乗り、中国においてはウイグル問題を挙げるまでもない状態です。日本はどうか。昨今司法が信用できない以上何とも言えませんが、まだ人々の意識の中に個人情報保護や人権に関する関心があるうちは捨てたもんじゃないとは思います。

     こういう細部(いいえ基本)においてまで整ってきたとき、本当の意味で豊かになったといえるのかなと個人的に思いますね。彼の国においても早くコネをカネで買わなくともよい時代が訪れてほしいと願います。

  • 1999年8月2日への応援コメント

    フェイウォン……懐かしいですね……。
    私は若い頃児童劇団に所属していた事があり、その時北京から出稼ぎで京劇役者が来てました。その人が「フェイウォンは友達」って言ってました。信じてませんでしたけど……。
    男性ですが、すごく料理がうまくて、よく劇団員に即席中華料理を作ってくれてましたね。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます。

    フェイウォンは当時FFⅧのエンディング曲で有名になっていましたね。その後日本のドラマにもヒロインとして出演していましたが、それを信じる中国人はほとんどいません。(『ウソコイ』というドラマで中井貴一と出ていました)。

    それにしても児童劇団に所属されていたって凄いですね!役者志望だったのですか?。まあ、フェイウォンも北京出身なので京劇役者の友達という話の真偽のほどは分かりませんけど💦中国人男性は料理うまいですよね。子供のころから手伝わされるそうなので、なかなか手際がいいです。

    はぁ、彼らが作った水餃子食べたいなぁ~

  • 1999年8月7日への応援コメント

    うちの夫も上海でスリに遭いました(このお話のような形ではなくいつの間にか取られていた格好ですが)。
    外灘の夜景はきらびやかなだけに虚しい感じもありますね。

    作者からの返信

    いつもコメントありがとうございます。

    それは災難でしたね。いつの間にかとられていたというのは恐ろしい。あの時かも、と思わせることもなくというのは、もはや職人芸なのかも(褒められることではありませんが)。

    上海はわたしが初めて降り立った外国でした。16の時で、都の青少年交流事業で晴海ふ頭から船で行きました。1996年のことでした。一緒に行った仲間に中国残留孤児がいました。彼は12まで黒竜江省のハルビンで過ごしました。船が上海の港に入ると、街中を走る大量の自転車が見えました。中国=大量の自転車というイメージだった時代の話です。我々はイメージどおりがそこにあることに無邪気に喜んだものですが、彼は「なんか馬鹿にされている気がする」と言っていたのを覚えています。

    この青少年交流事業は東京都が支援していましたが、石原慎太郎都知事になって即中止となりました。確かに今の中国共産党は20年前に比べ頑なですが、スポーツや草の根交流まで一括りにするのはちょっとと思います。

    来年の北京冬季五輪どうなるんでしょうね。コロナもそうですが、バイデンも中国大嫌いですし、ウイグル問題ではヨーロッパからもノーを突き付けられていますね。

  • 1999年8月6日への応援コメント

    香港映画の器用な子役みたいな子って実際にいるんですね。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます!
    実際にワーポウ君とは香港→上海のエキスプレスで出会いました。
    ”いかにも”な少年で、思い出深かったので登場させました。
    見た目コミカルな少年でしたが、大人の事情をよく観察している子でした。
    手帳に書いてくれた「做個開心人」というのは意味深かったです。
    そんな彼も当時10歳と仮定すると、もう32歳かぁ。。。。
    ちょっと信じられない気持ちです。
    「パパ」と呼ばれていても不思議ではない年齢ですが、
    その後「ハッピーな人になる」が叶っているといいなと思います。

  • 1999年8月5日への応援コメント

    中国本土がまだ貧しかった頃だから外国人絡みで嫌な感じの話も少なくないんでしょうね。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます。
    相対的に20年前に比べたら、というところでしょうね。あちらの若者があまり海外に希望を見出さないようになったとは聞きますが、結局コネ社会だという根本は変わらないようです。次世代が希望を持てる国になってほしいと願います。

    別件。twitterのほうでコメントいただいた件について。当時中国語学科にいた私は港台芸能をよくチェックしていました。やはりお気に入りは張学友かな。前述の通り、東京で行われたコンサートにも中国人の友人たちと出かけました。
     レオン・ライは特に好きではなかったのですが、偶然にも私が大きな旅行に出るタイミングでニューアルバムを出していたので、サントラのようになっていました。本作における副題は、すべて彼のアルバムタイトルです。誰も気づかないでしょうけど…。

     当時彼はsony enter musicに移籍し、マーク・ライというこっちでいう小室哲也みたいな人に楽曲を提供されていました。私の記憶では、当時レオン・ライは香港より韓国で熱狂的に支持されてました。彼の曲を初めて聞かせてくれたのも、後々本作で登場する韓国人の先輩でした。
     あの頃日本デビューも視野に入れていたのか、カップリング曲で無理して日本語でも歌っていましたが(汗)。今どうしているのか全く知りません。

     一時期港台の映画などから離れていましたが、近頃再評価しています。最近のは相変わらずですが、昔の名作は結構ありますね。そうそう、先日レスリーとトニーの『ブエノスアイレス』を見ました!

  • 1999年8月4日への応援コメント

    私は中国拳法はまるで無知ですが、楽しく読めました。
    毀誉褒貶ありますが、成龍は香港映画の顔だと思います。

    作者からの返信

    コメントありがとうございました!
    別項でも書きましたが、私は13の時から近所で中国拳法を学んでおり、
    大会にも出場したことがあります。
    カンフー映画も含め、語らせれば紙面が足りないのですが、
    そうしたマニアックさをどう崩し、どう面白おかしく表すかを意識しました。

    成龍ですねぇ・・・。言わずもがなですが、中国人の女性には不人気ですな(汗)。ある香港の友人は「あんなのが香港代表と見られることがたまらない!」とお怒りでした。残念なうわさも多いですが、でもやっぱり僕らの世代はジャッキー世代ですので、昨今の香港映画には違和感を感じてしまいます。ドニー・イェンもよいですが、あんなリアルな血しぶきなんてカンフー映画に求めていない、と思ってしまいます。アニタ・ムイとよく共演していた頃のジャッキーが好きです。

    改めましてコメントありがとうございました。
    現在改稿版をアップしています。今後ともよろしくお願いいたします!

  • 1999年7月28日への応援コメント

    異国での女性との遭遇……。どこか、馳星周の小説を思わせるような印象的な場面だと思いました。
    今のミャンマーのような惨劇がタイにもあったんですね。殺された人は勿論、残された家族の人生を思うと心が痛みます。

    作者からの返信

    いつもご高覧いただきありがとうございます。
     以後本作シリーズ全般に登場する女性なのですが、いろいろ賛否あった登場人物でした。馳星周氏の作品は大学時代に好んで読んでいました!。あそこまで闇深く、また絶望的な最後というわけではないですが、ある種人間のエゴイズムのようなものを描いてみたいと思っていました。そんな馳氏を引用していただき、うれしかったです。

     実はエマという登場人物にはモデルがいます。恐ろしい話ですが、ほぼ作中の通りです。日本においては戦後こういう事例がないので、「革命や反政府運動で犠牲になった」といってもどことなく現実離れした印象を受けてしまいますが、ミャンマーだけでなく、タイや韓国もごく最近まで軍事独裁国家でした。ヨーロッパにおいてもこういう犠牲者は意外と身近にいます。

     エマという人物は後々明らかになりますが、生い立ちだけでなく、もっと深い闇を抱えています。こうご期待!

  • 1999年7月25日への応援コメント

    カオサンロードの名前の由来、アジア通貨危機の背景、知りませんでした。すごく勉強になりました!
    私がカクヨムに登録したきっけはタイ人の知人が小説投稿サイトを読みまくっていた事です。タイには親しみを感じますね。
    アジア通貨危機を経験してタイですが、彼は日本のラノベや漫画をネットで大人買いするなど、遥かに私より景気良さそうです。一歩、氷河期世代の私はブックオフと図書館巡り。この差は何なんでしょう……。
    まあ、タイは貧富の格差が大きいと聞きますし、彼は富裕層の方かもしれませんが……。

    作者からの返信

    コメントへのお返事遅くなり申し訳ございませんでした!

    さて、いよいよバックパッカーの聖地カオサンロードの登場です。
    私が初めてカオサンに行ったのは今から20年も前のことです。
    先日とあるネット記事を見て驚きましたが、今やバンコク全体から見ても割高な地域となり、ブティックや高級クラブなどがならぶ地域になったそうです。
    あの砂ぼこりだらけの通りがそのような変貌をしたとはちょっと信じられない気分です。(ちなみに今時はチャイナタウンとかそちらのほうが安宿街として重宝されているようです)。

    今や爆買い中国人よりもタイ人のほうが増えているといいます。当時の現地のタイ人の水準からすれば、とても東京などという割高な街に遊びに来たり、家電を買いあさったりなど考えられないです。

    そのタイ人のお知り合いの日本への傾倒ぶりは、一時期の台湾人のようですね!とうとう投稿小説界にも来ていますか!おどろき!ちなみに20年前当時のタイ人たちが知っている日本のアニメといえば、一休さんとキャンディーキャンディーぐらいで、世代が違いすぎて私も見たことがない。「イッ・キュー・サン!ティリティリッティ!」とか歌われましても…(笑)

    金は天下の回り物といいますが、本当だなと思います。本項は当時うかれた外人どもであふれかえっていたカオサンロードで感じたものを書かせていただきました。当時カオサンの往来で見かけるバックパッカーたちは、それはもう横暴でした。作中にもありますが「ここはおまえらの植民地じゃねぇ!」と怒るタイ人もまたいませんでした。その様子に若いながらも嫌悪を感じたのは間違いありませんでした。

    というわけで、次回はいよいよ「死闘、ムエタイ編」です!こうご期待!

  • 1999年7月27日への応援コメント

    ランブータンに久しぶりのソムチャイ…・・と思いきや、甘々エピソードでしたか!

    作者からの返信

    コメントありがとうございます!

    さてこの物語を甘く苦くする女・エマの登場回です。ランブータンは、そんな彼女の象徴です。毒々しい表層とは裏腹の甘い果実…。考えてみれば、そんな彼女と引き合わせたのはソムチャイがくれた彼同様の電池切れの時計でした!

    引き裂かれた初恋の人小莉《シャオリー》、おてんば姫のサキ、そしてヘル・クィーンのエマ(…ったく何人出てくるやら汗)。恋の行方は物語の先へ…


  • 1999年7月26日への応援コメント

    イヤンにアンに……ときて、しっかりイジってくれるアスカさんのエピソードはやっぱり面白いです。

    ムエタイまで挑戦されたんですね!
    素地があると他の格闘技も入りやすいものなのかな、と感じました。
    でも、やっぱりアスカさんのセンスかな……

    作者からの返信

    いつも応援ありがとうございます!
    そーなんです、バンコクでの初めての安宿は”愉快な仲間たち”の宝庫でした。まったくもって恥ずかしい名前の奴らがそろっており、客も従業員もないグダグダの宿でした。でもそういう感じが当時は楽しかったです。

    この旅行に行く前に、バンコクのガイドブックを見ていたところ、外国人にも開放しているムエタイジムがあることを知りました。体験入学でしたが、かなり本格的なトレーニングをさせていただきました。
    やっぱりオトコのコなので、戦うとか命を懸けるということに浪漫を感じてしまいます。でも、我々外国人のお遊びのあと、地元タイ人の選手たちのトレーニングやスパークリングを眺めていましたが、やっぱりカネのために戦っている連中は半端じゃなかったです。

    …というわけで次の戦いは香港。シンガポールで意気投合したディランと再会し、八卦掌というカンフーの修行をするの巻です!こうご期待!

  • 1999年7月20日への応援コメント

    私の中学の時のクラスメイトも「御手洗さん」がいましたが、「あの便所」と陰口をたたかれていました。御手洗さんの運命はどこも同じみたいですね。
    モスクワに住まれてたんですか!私は旅行でモスクワを一週間程旅した事があります。まだソ連崩壊からそれ程年月のたってない混乱期で(歳がバレますね)街中に物乞いがたくさんいたんですが、むちゃくちゃ上手にバイオリン弾いてたり、(プロか音大生が物乞いしてたんですね)。外貨が欲しいのか、品のいいおばさんから「両替してくれませんか」と声かけられたりしました。モスクワの話、ぜひ読みたいです。
    アジアの格闘技、むちゃくちゃ興味あります!私はトニー・ジャーのムエタイアクション映画やチャウ・シンチーのカンフー風(?)コメディなんかが好きなので、アスカジョーさんの作品もどんな強者が出て来るか気になります。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます!
    rainyさんのお近くにも御手洗さんがいらっしゃったのですね💦。それにしても”便所”は酷いですね(涙)。私の父が合気道の師範をしているのですが、その教え子の一人に「裸野(はだかの)さん」という人がいました。ヒグマみたいなむさくるしいオッサンでしたが、当時まだ小学生だった私はその名前を聞いても別段何も思いませんでした。後に私が高校生ぐらいになったときだったと思いますが、正月の年賀状を見ていた時、「そういえば裸野さんは、秦野(はたの)に変わったんだよな」という話題になりました。聞くと、その後彼は結婚し、娘さんができたそうですが、想像通り学校で名前のことでイジメにあったそうで(涙)。そりゃそうですよね、「三年A組、ハダカノ花子!」って呼ばれてもねぇ。男でも大きな声で「ハイ!」は言えませんね。で家裁に申し出て、裸野姓を捨て、秦野になったという話でした。

    本作「ノンストップアクション」シリーズは4部作なのですが、最後のEpisode4でモスクワの話が登場します。後年、私のメンターとなる立花さんという野心家のオッサン(実在)が登場します。この人も宝石商で、大学卒業後この人の下で2年余り修行させていただきました。今から20年ほど前の話です。
    rainyさんもモスクワに行かれたことがあるんですね!すごい!しかもソビエト崩壊直後という点にも非常に興味があります。前作Episode1ヨーロッパ編でもとりあげましたが、この時点でまだソ連崩壊やベルリンの壁撤去から10年余りであり、まだまだ不安定な時代だったのかと思います。路上にあぶれた天才も多かったのでしょうね…。

    私もトニー・ジャーや90年代までのくだらないカンフー映画マニアです(笑)。シリーズの中でもっともアグレッシブなのが、このEpisode2アジア編だとおもいます。タイではもれなく「死闘、ムエタイ編」があり、香港では「八卦掌編」、ソウルでは「テコンドー編」が待っています!。私はもともと中学生のころからカンフー道場に通っていました。高校では機械体操部だったのですが、大学に機械体操部がなかったため、「中国雑技部」というナゾのサークルに属し、その跳躍力や柔軟さを活かして京劇の女形をやっていました。放課後口紅を塗って校舎内を移動していたので、よくギョッとされたものです(笑)。

    いつもお楽しみいただきありがとうございます!今後ともよろしくお願いいたします!

  • 1999年7月19日への応援コメント

    とんだ災難でしたね!
    しかしカンフーも中国語も宝石鑑定も出来て江戸弁で啖呵も切れるアスカジョーさん、凄いです!
    私がバックパッカーやったら生きて帰れないかもしれません……。

    作者からの返信

    コメントありがとうございました。

    べた褒めしていただき、嬉しかったです(汗)大学の専攻が中国語だったことは、のちにおいても旅を続けるうえで非常に役立ちました。実家は宝石商を営んでいます(親父未だ健在!)。のちに宝石商の修行でモスクワで数年過ごしましたが、当時はまだそれほど捨て目が効いたわけではありませんが、それにしてもひどいイミテーションを渡してきたので、ついカッとなっとなって実家の汚い言葉(笑)が出てしまいました。

    旅から離れて20年近くたちましたが、「よくこんなことしたな;」と我ながら恐ろしくなります💦。私も旅に出る前は不安でいっぱいでしたが、言葉での情報が全くない状態においては、結構五感が働きました。大丈夫です、何とかなるものです!

    コメントへのお返事遅くなり申し訳ございませんでした。
    すてきな週末をお過ごしください!

  • 1999年7月17日への応援コメント

    駅でペットボトルの水、もダメですか。日本の「夏はこまめに水を取りましょう」というのと正反対ですね。まあ、冷房が効いてるんなら熱中症も大丈夫なんでしょうね…。
    こういう国だと、このコロナで外出制限とかマスク規制とかめっちゃ厳しそうな気がします。

    作者からの返信

    いつも応援ありがとうございます!

    気になってシンガポールのコロナ対策を調べてみましたが、やはりマスクなしは罰金の対象となっているようです。何かやらかせば科料って、男子校みたいですね(笑)。
    シンガポールは1969年にマレーシアから追放される形で独立を果たしているのですが、宗教や慣習の異なる人間が狭い地域に同居するうえで罰金制度が最も公平だったのではないかと思います。

    チューイングガムに対する怨念は特にひどく、一時期噛んだガムをエレベーターのボタンに張り付けるといういたずらが流行ったそうで、それにブチ切れた政府がチューイングガムの国内持ち込み禁止を決め、とんでもない額の罰金を設定したそうです。「そのレベルからかよ!」と笑ってしまいますね。

    ただ先進的な面もあり、記事によればアプリ提示で入国審査パスのシステムを世界に先駆けて導入する予定とか。非接触による感染対策として各国も注目しているようです。コロナによる観光業への打撃は尋常ではないと思いますが、率先してこうした対応に取り組まれているところに知恵も感じますね。

    コメントありがとうございました!

  • 1999年7月25日への応援コメント

    カオサンが「精米したコメ」だと初めて知りました。
    というかまだまだ知らないことだらけ。

    タイは一度だけアユタヤへ直行直帰(ドンムアン経由で列車移動)だったのでバンコクの街は一切歩かず……
    バックパッカーの、そして沈没者の多い街だと聞きますね。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます。

    アユタヤに行かれたのですね!タイは南北に長く、北部はトレッキング、中部は歴史、南部はビーチといった感じで、様々なアクティビティを楽しめる国です。私も何度か行きましたが、すっかり魅了されました!。

    カオが米で、サンが研ぐという意味だとか。つい最近ネットで「バックパッカーの”かつて”の聖地カオサンロード」という記事を見つけました。それによると、現在はバンコク市内でも割高なエリアになってしまい、すっかり安宿街から様変わりしてしまったと聞きました。私にとってバンコクとはカオサンロードそのものだったので、この記事には少なからず動揺しました。

    後の項でも触れましたが、当時も宿の受付に「MISSING(行方不明)」が貼ってあり、親御さんから「息子を見かけた方はご連絡ください」という内容のチラシを見かけることがありました。宿代含め、一日数百円で暮らせますからね💦。近頃ではそんな沈没者の生き残りが、無邪気なバックパッカー初心者をだましたりするケースも発生しているようです。怖い怖い💦

    作中にも書きましたが、当時はアジア通貨危機直後ということもあり、様々な旅行者が大手をふるって歩いていました。良くも悪くも青春の一ページになっている400メートルです。機会があればぜひ!

    今後ともよろしくお願いいたします。

  • 1999年7月24日への応援コメント

    部屋まで押しかけてこられるとなんとも恐ろしいですね。
    でも話を聞いてあげるアスカさん、お優しいです。

    ソムチャイさん、大人しいようでいて、ファンキー。
    突き抜けていることだけは確かですね。音楽で現実逃避しつつ、アクセルに思いの丈が込められている……!

    ヌンさんが渚の若大将になっていて笑っちゃいました。

    作者からの返信

    いい奴なんだけれど、恐ろしく間が悪く、鈍感な人。
    この話に登場するソムチャイもヌンも実在ですが、
    浅野忠信主演の『鈍獣』という映画をモチーフにしています。

    にわかには信じられない話かもしれませんが、
    冒頭にもあるようにソムチャイは銀行の窓口担当者で、
    両替に立ち寄った際に書いた申請用紙を頼りに、
    ソムチャイはホテルまで押しかけてきました。
    取り調べに対しソムチャイ容疑者は「外国人の友達が欲しかった」と供述したようですが、考えてみれば恐ろしい話ですね。

    空港までの送迎を買って出たにもかかわらず道に不案内で、
    小動物をひくわ、駐車場では隣の車にひっかき傷を作るわ、
    そこまでどん欲に笑いを求めなくてもいいのに、
    次から次へとやらかしてくれました。

    後年、ヌンからソムチャイのその後についてメールをもらいました。
    詳細はEpisode2巻末のエピローグにて!

    コメントありがとうございました!!




  • 1999年3月11日への応援コメント

    まさかの京劇サークル!やはり持つべき物は特技ですね。
    しかし毛沢東を崇拝するスペイン人がいるとは!世界は広く、そして驚きに満ちてますね。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます!
    私は高校の頃機械体操部に所属しておりまして、その後大学で同じようなサークルがなかったのと、専攻が中国語だったこともあり、実際に京劇サークルに入っていました(笑)。柔軟性と跳躍力を買われて入部したのですが、放課後、紅をぬって薄ら笑いをしながら校舎を歩いていました。

    ヨーロッパは政治に強い関心を持つ人の割合が多いと感じています。実際にプラハで会った熱狂的な共産主義者の団体がモデルなのですが、おそらく少数派だとは思いますが、はばからずマオニズムがどうのこうのと大騒ぎしていました。

    現代の日本において政治活動に身を投じている学生など奇異でしかないと思いますし、たしかに昨今の内閣支持率やワイドショー国会を見ていると、政治家に何を託せというのだ、という気分になりますが、ヨーロッパはほとんどの国が他国と国境を共有しているため、よりよく暮らすためにも政治というのは専門家の領域ではないのだな、とこのとき感じました。

    いつも応援ありがとうございます!

  • 1999年7月23日への応援コメント

    ヌンさん、楽しそうな人ですね!
    日本語の解像度が高いような低いような。でもホントにひたむきさと心意気が素敵だな〜と思いました。アスカさん、打ち負かしちゃったんですね。

    箱根のゲストハウスで遭遇したアメリカ人の方もスマホにオリジナル日本語辞書を作ってました。確かスリッパを教えてあげたような……なぜその語だったかは全く覚えてないのですが。

    あ、あとゴッホネタ、全然気にしてませんよ。
    作品だけじゃなく、生き方やその存在までが、色んな人に色んな風に考えさせるという意味で影響力を持っているなと思っているだけで。
    誰しも、自分の視点で感じたことを大切にしていいと思うのです。
    押し付けずに、ただ表現したらいいのかなと。

    作者からの返信

    『ノンストップ・アクションシリーズ』の約150話の中で、私自身が最も気に入っているのが、今回お読みいただいたclub111(ヌンヌンヌン)の話です。飲んだくれて、バーの軒先で日がなプカリとやり、とりとめもないことを旅行者同士で語り合ったあの日々。あの当時の無鉄砲ぶりがよく出ており、読み返すたびに「若かったな」とニヤリとしてしまいます。

     ヌンだけでなく、東南アジアの露天商の英語力には驚かされます。ごく普通に英語で外国人とケンカするし、雑談にもかなり応じてくれます。日本人の英語力は、小学校から必須になったとしても相対的に向上するとは思えないです。東南アジアの露店などで商いをしている人々が受けてきた教育水準を想像すると、彼らがいかに実践の中で生きてきたかを考えさせられます。大切なのは、結局“必要か、そうでないか”ということなのかな、と。
     ヌンは今プーケット以外にも2店舗バーを経営しています。いまでもよき友であり、必ずあの時の腕相撲大会の話で盛り上がります!それにしても、誰が教えたのか知りませんが、オカマ=オネエサマには笑いました。あちらにはやたらそういう人が多いので、オネエサマン天国です💦。次項ではふたたびヌンが少しだけ登場します。

    いつも丁寧なコメントありがとうございます!今後ともよろしくお願いいたします!
     



  • 1999年7月22日への応援コメント

    旅先での高揚感で疲れている自分に気づいていなかったけれど、ストンと眠りに落ちていく気持ちよさみたいなものを最後の部分で感じました。

    私はゴッホ大好きなんですが、確かに当時周辺に居た人達の目には異常にしか思えなかっただろうなと思います。
    「自分の生まれ育った土地が好きだからこそ排他的」コレって人間に共通する本質的な強みでも弱みでもあるのかなと。植物は環境に応じて自分を変え、動物は攻撃することで自身の環境を守りますから。
    ただ主観で判断して、違った視点を持つ者を刺す人は、宇宙人に遭遇した時、主観で接して一番初めに刺される役柄を設定されているようにも思えます。

    ここでのシシリア島マフィアに先日のTwitterでのお写真が結びついてしまって、ニヤッとしてしまいました(笑)

    作者からの返信

    大好きなゴッホをネタにしてしまい申し訳ございませんっ!
    悪いのは全てあの怪しい伝道師風のガスパールというフランス人でして…。

    たまたま、”なろう改定版掲載”の連載とコメントを頂いた項が被ってしまいました。あちらのほうでもコメントいただきありがとうございました。
    よくある例として、「大阪出身やからって全員おもろいわけちゃうで!」というヤツで、友人も関西弁を話すと妙な期待を込めた視線を送られることがたまらないとぼやいてました。
    私の大学はほとんどが地方出身者でした。飲み会に行くと必ず東京の悪口を聞かされるのがホントイヤでした。「水が臭い、道を真っすぐ歩けない、みんな冷たい、犯罪の匂いがする」などなど。そのたびに「やい!お江戸が嫌ならとっとと帰りやがれぃ!」とムキになっていたのを思い出します(笑)

    それは最もなのですが、応酬する前にきちんと地元について理解しておくことが大事ですね。私は海外でアニメ関連の質問をされるのが本当に苦手でした。普段アニメなどは見ないのですが、外に出るとやはりアニメ文化を通じた日本に対する憧憬に驚かされます。当時は「オレは大学生だからそういうのは見ない」と塩対応をくりかえしていましたが、もしかしたらこちらが日本人だと知り、「日本?知ってる知ってる!」という反応だったのかもしれません。それに対して打ち返すすべがなかったのは、まことに幼かったと感じます。無理に知識で張り合おうとするのではなく、まず「日本に興味を持ってくれてありがとう!」が先であるべきなのかな、と。

    これからもまだまだ個性的な面々が登場します。こうご期待!
    Twitterでも接していただき本当に感謝しております!
    今後ともよろしくお願いいたします!

  • 1999年3月6日への応援コメント

    「グルーヴ感」という言葉はよく聞きますが「民主化を求めるグルーヴ」という言葉は面白いと思いました!今、ミャンマー、タイ、ロシア、香港などの若者達の間で起こっている事もそれなのかなあ、という感じがします。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます。ロシアと南コーカサスや、香港、ミャンマーで起こっていることを見ると、まだまだ我々は地殻変動の上で暮らしているのだなと実感しますね。私がヨーロッパを訪れた90年代末や00年初頭は、ベルリンの壁やソビエト連邦崩壊から10年足らずで、その変革の余震がまだ続いている時代でした。
    私たち日本人は、国旗を振って民族愛を叫ぶ人たちを気味悪がりますが、ヨーロッパはそうして歴史や国境を塗り替えてきました。いずれの革命も、原動力は若者の力でした。それがやがて大きな力(グルーヴ)となり、あの重たいベルリンの壁を引き倒した。
    仕事柄学生さんたちと多く接しますが、やっぱり活力が足りないなと思う今日この頃です💦

    改めましてコメントありがとうございました!

  • 1999年7月20日への応援コメント

    ラストサムライに会ってみたいな〜なんて呑気なことを考えていましたが、迫力のオヤジ様ですね。ヨハンナも容赦ない!
    合気道、習ってみたいなと思っていましたが、関節痛の試練が待ち受けているのでしょうか。
    ベンキマン夫妻、面白すぎます(笑)

    作者からの返信

    昨日に引き続きコメント頂き感激です!ありがとうございます。

    福岡在住のベンキマン夫妻とは今も交流が続いています。年賀のやり取りをさせていただいておりますが、数年前「息子は今度成人式です」と送ってきてビックリしました。あれから20年も経っており、計算上の祖語はないのですが、そりゃ歳を取ったわけだなと思い知らされました💦。

    合気道がというよりは、親から稽古をつけてもらうというのがよくなかったですね(笑)。落語や歌舞伎の世界でも、あえて子供を一定期間他の師匠の下に通わせたりするものですが、なるほどそうすべきだと経験上からも思います。私は子供のころから喘息に悩まされてましたが、その頃も「気の流れで治せ!」とか非科学的なことを言われたので、僕の中では合気道とオウム真理教の区別がないです(笑)。
     ウチのラストサムライはウザイですよ~(笑)。タカラレーベンのCMってご存知ですか?学者風冒険家みたいな白人のオッサンが、「なかったらどうするかだって?ハッ!なければつくるだけさ!」と訳の分からんことを語ってるアレです。顔は別にして、あのCMを電車の中で見たりするたびに我が家のラストサムライを思いますもん。すぐにマウントを取ろうとするし、何かと上から目線だし、世の中の隅々まで理解したみたいに思っています。

     私自身が芸人(昨日も女装加工にいいね!ありがとうございます笑)で、浅草や上野の寄席出身です。なので落語家さんとの交流もたくさんあるので、彼らの言い回しに影響を受けています。江戸っ子ぶってますが、頼られると断れねぇやな、みたいな生き方で、だいぶ人生を遠回りしてきていますね(笑)。

     お返事遅くなり申し訳ございません。バンコクに到着するまでの東南アジア編は私も気に入っています。「よくもまあヒデェこと書きやがる」と読み返しながら思いますが、わたしのイジリ芸が光っています。ぜひ今後ともお楽しみくださいませ!



  • 編集済

    1999年7月19日への応援コメント

    「江戸の職人仕込みの痛快な啖呵」は言葉そのものが解らなくても効き目がありそうです。昔の上司が江戸っ子だったので、懐かしい気持ちになれました。

    「近くの関帝廟から青龍大刀を借りてきて……」という辺りはアスカさんの文章の面白みが存分に発揮されているなあと、ニヤニヤしてしまいました。

    この事故って旅の経験談ですかね……
    どこにでも危険は潜んでいますが、これは結構怖いし対応に困りますね。

    作者からの返信

    いつも作品を楽しんでいただきありがとうございます!
    ゆっくり丁寧に世界観を旅していただき、作者としてもこれほどの冥利もありません。心から感謝いたします!


    このスクーターとの事故は実話です。しばらく消えぬアザになった程度で大事に至らず済んだのですが、いまだにあの団子鼻のオッサンの顔は忘れません。何より腹が立ったのは群衆に対してで、カメラを持って集まってきたものの、誰一人、「Are you Okay?」の三文字すらかけてくれなかったことです。幸い日本で事故に遭ったことはありませんが、おそらく誰か氏らが救急車なりを読んでくれることと思います。まったく東南アジアってなぁ命が安いなぁと感じたものです。

    実際私の家は代々続く職人の家で、口は悪いですが(笑)、粋(イキ)ばかりを第一にしています。先日もオヤジいわく、「店で『おひとり様ですか』っていうんで、『あったりめぇよ。それとも何かい?俺以外に”お半分様”だの”四半分様”だのが見えるってのかい?』って言ってやったぜ。言葉ってなぁとーんからんとサッパリしてなきゃいけねぇな」と訳わからんことを言ってました(笑)。結局自分が一番言葉が長いし、世間じゃそういう年寄りを「老害」っていうんですよ、ということが分からないようで💦。困ったオヤジですが、ある意味ラストサムライだなと面白がっています(笑)。

    まだまだこの先も個性的な奴らが登場します!ぜひお楽しみくださいませ!

  • 1999年3月4日への応援コメント

    すごく面白いです!次から次へ個性的な人達が出て来ますね。
    欧州の私の知らない側面も知る事が出来て、勉強になります。

    作者からの返信

    作品を見つけていただきありがとうございます。
    ネット小説界においてはだいぶ異端ではありますが、
    お楽しみいただき本当に感謝しております。
    またrainyさんの『虹の影は黒色』も拝読させていただいております。
    改めてコメントを寄せさせていただきたいと思いますが、
    「こういう作品を読んでみたかった」と大事に読まさせていただいております。
    今後ともよろしくお願いいたします。

    さて、rainyさんもヨーロッパにはご縁があったようにお見受けしましたが、
    本作は今から約20年前、私が大学生だった頃のバックパッカー旅行を元にした私小説です。それから大きく世界も変わり、とうとう「旅など呑気な」という世間になってしまいました。よって20年の壁は厚いのです、という言い訳が先になってしまいました。

    観光もいいですが、どちらかというと宿屋のカフェにたむろして、学生同士飽くことなく色々語り合ったことのほうが強く残っています。きわめてノンフィクションに近い作品なので、ノイシュバンシュタイン城でのジャパンドリームツアー一行や東大阪のパンや平川氏とはいまでも交流があります。これからも個性豊かな登場人物が出てきますので、どうかこうご期待!よろしくお願いいたします!

  • 1999年7月18日への応援コメント

    こんにちは。
    小莉さんの話が出てくると、胸が締め付けられます。
    冒頭のマレーシアにとっては何気ない日常であろう屋台の話との対比が何とも言えません。

    それに連絡のやり取りも待ち合わせも、すれ違う可能性がいくらでもある時代。
    この現実的な先の不確かさを知っているのとそうでないのとで、今の時代の過ごし方の中で感じるものが大いに変わってきそうですね。

    そう言えば件の御曹司は蘇州の方でしたか。
    蘇州の拙政園に向かう途中、乗っていたタクシーが一般車両と微妙な低速カーチェイスで接触して、「コイツと喧嘩しなきゃだから、今日はもう以上走れねえ。ここで降りてくれ(超訳)」と放出されたことを思い出しました。
    拙政園まで、あと徒歩10分程の距離だったので助かりましたが。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます。
    近頃入社してきた20代が「学生時代にバックパッカーやってました!」というので、ランチご馳走して、色々話を聞いてみました。僕らの時代(1999年頃)といえば、『地球の歩き方』がおおよその情報源であり、あとは現地で知り合った日本人から生の声を聞くというのが普通でしたが、今はホテルの予約から現地情報までスマホという時代だと聞き、結構ガッカリしました。安宿街で、誰とも話さずスマホの画面とにらめっこなんて、ちょっと味気ない。
    本作にはヨーロッパ編も含め、色々個性的な面々が登場しますが、彼らとは実際に今でも交流が続いていたりします。これこそ旅の醍醐味だと妄信していましたが、今時は完全におひとり様で、あとはTwitterなどで会ったこともない人たちに向けて「旅してます!」アピールをするというのが主流だそうです。何とも言えない…。

    さて、前作に引き続き小莉が登場します。そしてこの後運命の上海へと続いていくのですが、結構これはガチの話しです。恋愛は、誰でも始められますが、むしろ終わらせ方が難しく、私ももれなく失敗した口です。「新婚旅行はシンガポールがいい」というのも事実で、まだ何となく引きずっている当時の”俺”にとって、そのシンガポールを一人で通過してしまったのは、非常に後味の悪いものでした。

    蘇州にも行かれたのですね!。私は結局彼の地には行ったことがありません。それにしても「今からケンカするから、今日は閉店ガラガラだぜ!」とは何とも爽快!(乗っていた蒼翠さんにとっては災難以外の何でもないですが…)。落語にはこういう江戸っ子がいくらも出てきますが(笑)。でも分かります。連中はその気になったら十字路のど真ん中でもドンパチを始めますからね。その図は中国各地でおなか一杯見てきました(笑)

    小莉との決着はいかに。そしてその前に新たな出会いが…。
    引き続きお楽しみいただければと思います。
    今後ともよろしくお願いいたします!

  • 1999年7月17日への応援コメント

    これほど弱すぎる酔拳では、その辺を歩いている小学生にも張り倒されるだろう。
    いつもこういったユーモラスな表現を楽しませていただいてます。

    シンガポールは乗り換えの時間を長めにとっての無泊滞在でしたが、こちらのエピソードを見て懐かしい気持ちに浸ることができました。

    空港から市街地へいくのに乗り込んだMRTで本を読んでいたら、すぐに乗り換えだったようで、親切な日本人男性(恐らく現地で働いている風)が声をかけてくれたり、夜にちっさいマーライオンとレーザーショーをみたり。

    英語の勉強にと日本で聞いていた英会話ダイアローグのCDで、話題として取り上げられていた『五つ星トイレ』を公園の片隅で発見したり。シンガポールと言えば、そう、Fine Cityですよね。

    作者からの返信

    Episode1に引き続き、お楽しみいただきありがとうございます!
    ユーモラスな表現たのしませていただいています、というコメント、
    非常に励みになりました!ちょっと人をディスる描写をしている時は、
    実は作者はかなりイキイキとしています!

    ディランは実在です。この寓話も実話でして、
    たまたまドミトリーで一緒になった背の高いカナダ人青年です。
    カンフーの修行をするんだい!と香港を目指していました。
    彼は再び香港編で登場します。ぜひお楽しみに!

    さて、シンガポール。
    沢木耕太郎氏の『深夜特急』でもそうですが、
    バックパッカーの間では非常に不評な国です。
    近くにはタイがあり、物価安やアクティビティの種類から言っても、
    バックパッカーにとってはやはりタイのほうが魅力的に映るようです。

    多くの本でもタイから南下してシンガポール入りすることを勧めてません。
    よってこの時もあえてシンガポールスタートにした記憶がありますが、
    初めての南国だったこともあり、僕にとっては楽しい思い出になりました。

    シンガポールにも立ち寄られたんですね!
    たしかに実質無泊滞在がちょうどいいかもしれませんね。
    僕の当時は世界三大ガッカリのひとつのマーライオンぐらいしかなく、
    今はルーフトップのプールやナイトサファリなどがあるようですが。

    僕はシンガポールの国政に非常に興味がありました。
    作中にもあるように、ある意味シンガポールは独裁国家です。
    意外と知られていないですが一党独裁ですし、
    政府主導の計画経済であり、国民にも何かと口やかましい国です。
    ただ国民への還元や自由度は高く、また多民族国家でありながらも、
    非常によいガバナンスが敷かれていると思います。

    で、結果その”たが”になっているものが、fineつまり徹底した罰金制度というオチなのですが、狭いところで他人とどう共存していくか、というテーマを考えるうえで、非常にユニークなモデルケースになる国だと思います。

    旅はこれからマレーシア、タイ、そして中国へと続きます。
    どうか引き続きお楽しみいただければと思います。
    本年もよろしくお願いいたします!

  • ~Epilogue~2019年4月16日への応援コメント

    こちらのエピローグ、とても素敵でした。
    特に、『世界とは、自分の関心や興味によって複雑に広がっていくことを知った。〜〜そこから自分なりの鼓動を見つけた気がする。』
    一歩踏み出して旅をした者が得る、しみじみとした感動ですね。

    作者からの返信

    Episode1完結でございます。
    お付き合いいただき、本当に感謝しております!

    実際にこの旅で知り合った多くの方々とはその後も交流があり、
    その後の人生においても影響を与えてくれた出会いとなりました。
    各Epilogueはこんな感じで旅での出会いを総括する内容となっており、
    ちょっとうぬぼれもありますが、書きながら彼らを思い出して涙がとまらなくなることもありました。本当に大切な出会いです。

    「世界とは、」の”世界”を、”人生”という言葉に置き換えても同じで、結局旅も人生も己の興味や関心によってのみ立体的になっていくのだろうなと思います。別に無関心で、ただ街から街へと通り過ぎてもいいけれど、やはり何かしらの関心やテーマがあったほうが、ぐっと色合いも違ってきますね。当時の僕はとくに関心もなくただ単に流れていたのかなとも思いますが、20年経って振り返って見ると、たぶん”人”への興味や関心は高かったのかなとは思います。

     Episode1は、全体的に失恋した好青年風に描いていますが、Episode2はどちらかというと動的で、その後の人生に影響を及ぼす出会いも含め、ちょっとやんちゃになっています。よろしければ引き続きお楽しみいただけたら幸いです!

     改めましてコメントおよびEpisode1の完読ありがとうございました。今後ともよろしくお願いいたします!

  • 1999年3月20日への応援コメント

    なんとも悲しいすれ違い……しかし本当に良い旅でしたね。こういった締めくくりが待っているとは。

    作者からの返信

    明けましておめでとうございます!
    本年もよろしくお願いいたします!

    というわけで、旅の終わりまでお付き合いいただきありがとうございました。ちょっとだけほろ苦い思い出で終わらせてみました。しかし、改めて当時の旅行の写真などを振り返ってみても、ほとんど背広姿で写っており、相当風変りなバックパッカーだったな、と改めて思います💦。初めてのヨーロッパ周遊にしてはだいぶ欲張りな旅程となりましたが、この最初の一歩があったからこそ、その後の旅につながっていきました。

    今となっては全てよい思い出。お付き合いいただきありがとうございました!

  • ~Epilogue~2019年4月16日への応援コメント

    お疲れ様です。
    映画の最後のようなエピローグ。
    楽しみました。

    作者からの返信

    すてきなコメントありがとうございました!
    そしてEpisode1の完読ありがとうございました。
    シリーズとしては、ちょうど昨日Episode4最終章の最終回をアップし、
    連載を終了させたところです。

    Episode1は比較的しっとりしたストーリーでしたが、
    続くEpisode2はアジア編ということもあり、
    どちらかというと動的な話が多いです。
    よろしければ、引き続きお楽しみいただければ幸いです!

    今後ともよろしくお願いいたします!

  • 1999年3月1日への応援コメント

    最初に読んでいたのが続編で、こちらの方が最初だと教えていただき、早速初めから読み始めました。

    とにかく面白い!笑

    ゲラゲラ笑いながら拝読させて頂いております。
    海外旅行が行けない時代になりましたが、世界の色んなところでの経験は人生を豊かにしますよね。

    旅に出れない代わりに、この小説で人生を豊かにさせてもらおうと思います。

    作者からの返信

    素敵なコメントありがとうございます!
    また作品レビューにもすばらしい言葉を頂き、感謝感激です!
    作品を楽しんでいただき、作者としても冥利に尽きております。

    「ゲラゲラ笑いながら」お読みいただいているとのこと、
    これ以上ありがたい言葉はありません。
    本作は20年も昔、私自身のバックパッカー時代を基にしていますが、
    そもそも昨今において、旅行ができない状況下にあることを忘れていました。
    そうですね、作品を通じて海外旅行を楽しんでいただけたら幸いです!

    本項に登場する、ウドやカツオ、利休に芭蕉たちとは、
    帰国後もよい関係が続きました。
    本作は各エピソードごとに、プロローグとエピローグで挟んでおり、
    旅から20年を経た今からの追憶や、その後のストーリーを紹介しています。
    エピソード1のエピローグに、彼らとのその後も紹介させていただきましたので、あわせてお楽しみいただければと思います。

    わざわざエピソード1に戻ってお楽しみいただき、本当に光栄です。
    この4部作は、約2年かけて連載をしてきました。
    この12月中にちょうど連載を終了させます。
    今後とも楽しんでいただける作品を編んでいこうと思いますので
    是非よろしくお願いいたします!

  • 1999年3月16日への応援コメント

    子供の頃、ある日突然、父に赤穂浪士の墓参りに付き合わされたのを思い出しました。
    あれは、なんだったんだ。

    でも、それをテーマにして旅をしている方もおられる。
    そっか、ベートーベンやカラヤンがそこに実際眠っているんですもんね。

    すぐ至近距離でご本人にお会いできる。

    この後の展開、楽しみにしてます。

    作者からの返信

    いつもコメントありがとうございます!
    あっという間に年末ですね!
    本作は4部作で、現在最終章を連載中ではありますが、
    昨日ようやく最終章を脱稿いたしました。
    あとはエピローグやあとがきなどを仕上げ、
    年末までに連載を終えたいと思っています。

    さて、館野氏。
    これは実在の方でして、このヨーロッパ旅行の後も
    しばらく交流があった方です。
    有名人の墓参りという、非常に風変わりなテーマをお持ちでしたが、
    「だから定年した後も毎日忙しいんです」と語っていたのが非常に印象的でした。こういう人はいつまでも若いんだろうな、と思っていたのですが…。

    その人そのものが、そこに眠っているという事実は、
    考えてみればすごいことですよね。
    それも歴史小説やドラマでしか見たことがない人に
    時代を超えて語り掛けるというのは、ちょっとドキドキしますね。

    館野氏がすばらしかったのは、それについてご自分なりのルールを課していたことです。ただのマニアと呼ばせない、礼節をもって楽しむという方でした。こういう風変わりな人、大好きです!

    いよいよエピソード1も終盤に入ってきました。
    意外な人物と意外な展開がこの後展開していきます。
    乞うご期待!

    お楽しみいただきありがとうございました!

  • 1999年3月19日への応援コメント

    美術館とルパン3世の仲間の件に笑ってしまいました!そしてオチでは本当にその一味だったとは! 笑

    作者からの返信

    いつもコメントありがとうございます!
    だいぶ冷え込んでまいりました。どうかご自愛のほどを。

    さてさて。虚実はどこまでかはさておき。
    小学校の図画工作の時間とルーブル美術館を並べるヤツもいたもんで、
    世界の名画や美術をこんな使い方をしていいのか、という配列になってしまいましたが、おおむね満足しております。

    続くエピソード2では登場しませんが、エピソード3で再び現れます。
    椎名林檎の「丸の内サディスティック」を聞きながら書いたのが一年前。
    ちょうど先ほど最終章のラストを書き終えたところです。

    色々な登場人物が今後展開されますが、
    旅情以外にもたくさんのトリックを用意していますので、
    物語としてお楽しみいただけたら幸いです。
    あ、続くエピソード2のマレーシア・ペナン島の項で、
    フランス・アルル出身の”ゴッホを激しく憎む男”が登場します(笑)

    先に謝ります。ごめんなさい汗
    引き続きお楽しみいただけたら嬉しいです!

  • 1999年3月18日への応援コメント

    原始レベルにまで破壊したい。
    って、思わず笑ってしまいました。
    サキも似たような境遇だったのですね。

    フランスはアルザスのコルマールという街を少し散策したくらいで、パリは憧れの地です。おしゃれさへの憧れと言うよりは、画家達の聖地として、ですかね。モンマルトルの丘や芸術家達のアトリエ・洗濯船などを見に行きたいです。

    途中の首都ベルンにはバラ園に日本から贈った桜(サクラはバラ科の植物)が植樹されています。一人そこへ向かう道すがら風鈴の音が聞こえて、思わずキョロキョロと探すと、近くの民家に三つくらい風鈴が下がっていました。こんなにも日本から離れた地で日本を感じるなんて、と感慨深かったです。

    また、バーゼルは美術館・博物館が密集する素敵な街です。ティンゲリーという廃材から機械仕掛けを創作する芸術家の、パブリックアートが設置された街中の噴水が見ものですよー。

    お気に入りの街ですが、スイスのフランスとの国境付近のラ・ショー・ド・フォンという時計工の街にどうしても行ってみたくて、チューリッヒから日帰りで行きました。建築家ゴルビジェの故郷で、何度も火災に見舞われながらも不死鳥の如く再建を繰り返すという歴史のある街です。
    ゴルビジェが都市計画に携わり、陽の明かりで仕事をしていた時計工達が長く仕事に取り組める様、街の建物は全て南向きの窓に統一されています。
    時計博物館は勿論、隣の歴史博物館にも長く居座っていたからか、帰りしなにスタッフの方が、お前まだおったんか!みたいな顔をされていました。

    という訳で、まだ訪問国は数少ないのですが、スイスはお気に入りの国です。何度でも行きたい。物価の高さがネックですが。

    ちなみに山歩きは好きです。歩くのが好きですね。

    お返事とは言え、またまた長くなってしまいました……

    さてさて、お二人の今後の展開が気になりますね。温かく眺めさせていただきます。

    作者からの返信

    お返事およびコメントありがとうございます!

    スイスでのご旅行、詳細について教えていただきありがとうございました。
    ラ・ショー・ド・フォンという街の名は初めて知りましたが、
    お返事を読ませていただき、是非行ってみたいなと感じました。
    さすがスイスというところですが、街全体を一つの器官として機能させる
    都市計画には、やはりお国柄を感じますね。

    テーマのある旅行は素敵です。
    この旅行記には、ベルギーの平川氏(パン職人)や、
    山崎氏(クラクフの美術家)、館野さん(墓参りの)など、
    個性的なテーマを持った面々が登場しますが、
    私はこの年齢になってもそうしたテーマを探し続けています。
    だからこのように広く浅い旅行が出来たのだろうとは思いますが、
    やはり表面的で、非常に俗世的だなと思います。
    蒼翠さんのように、特定のテーマを掘り下げる旅に出かけ、
    その魅力を文章で拡散でいたらいいなと思います。

    さていよいよエピソード1も大詰め。
    ひょんなことから、このおてんば娘サキとパリに入ることになりました。
    最後のプロローグも入れてあと3話です。
    最後までお楽しみいただけたら幸いです!

    これからもよろしくお願いいたします!

  • 1999年3月17日への応援コメント

    あら……もしかしてサキさんと良い仲になってゆくのでしょうか。

    ツェルマトは憧れの地で、数年前にハイキングをしました。五つの湖を巡るコースで、殆どずっとマッターホルンを眺めていられる素敵なコースでした。また行きたいくらいです。

    先日のコメントのお返事ですが、スイスに日本人の友人が住んでいて、それを足掛かりに周辺国やスイス国内を回ることができました。中国も二度、上海へ。

    どちらも現地に知り合いの居る旅で、観光というより、短期間住んでみたという感覚の気楽そのものでした。

    2016年にブータンと日本の国交樹立30年記念で、日本国籍を持つ者に親善オファーが出ました。ブータンは現地ガイド必須で費用がかかりますが、この時は割引かれたのです。良い機会だと行ってきました。ブータンは小国ながら人の精神性や暮らしも非常に興味深い国です。短期間での入国だったので、機会が有れば回れなかった地域へ足を伸ばしてみたいと思っています。

    完全な一人旅は、去年アメリカのポートランドへ行った時が初めてです。今年の夏前に単身スペインの巡礼路を歩くつもりでいたのですが、残念ながら叶わず。

    まだまだ旅のスキルや慣れのようなものは無く、寧ろこれから!と思っています。

    ですから、アスカジョーさんの旅の話を拝見して、旅の気分に浸らせて頂いています。内容がとても充実していて楽しいです。
    いつもありがとうございます!

    作者からの返信

    コメントありがとうございます。
    またご旅行に関するお返事もいただき興味深く読ませていただきました。
    小説だけでなく、旅についても様々な洞察を共有できそうで、
    とても嬉しくなりました。
    是非今後ともよろしくお願いいたします!
    (こっそりtwitterフォローさせていただきました汗)

    今もって、何の目的でこれほど壮大な旅をしていたか
    うまく説明できません。
    御覧の通り、ほとんど大都市ばかりを渡り歩いており、
    かといってその街の魅力を存分に堪能することもなく、
    カフェに入りびたり、隣の男女は何を長いこと話しているのだろうと
    妄想をたくましくしていただけです。
    人間が好き、というのは間違いないのですが、
    言葉が理解できなくても、人はその所作の中に色々露出するものなので、
    それを見ているのが今でも好きですね。


    蒼翠さんのこれまでの旅をうかがい、
    目的をもって旅行されているなぁと感心しました。
    (山や自然がお好きなんですか?)
    秘境ブータンにも行かれたんですね!すばらしい。
    それは本当に貴重な体験をされましたね!
    今までで一番思い出に残っている国や出来事はなんですか?


    このヨーロッパに旅行を計画していた時、
    『地球の歩き方』をパラパラとめくっていて
    写真だけで目的地に入れたのがマッターホルンでした。
    「パナマウント映画の最初に出てくる山!」ぐらいの印象でしたが、
    その雄姿にはとても感動しました!

    失恋がきっかけで旅に出たというのは本当なのですが、
    これから様々な出会いが展開されていきます。
    サキは、その後エピソード3のオーストラリア編で再登場します。
    あくまでもバックパッカーですし、当時は十分若かった(!?)ので、
    軽い気持ちでお楽しみいただければ幸いです。

    今後ともよろしくお願いいたします!

  • 1999年3月16日への応援コメント

    墓参りをテーマに旅するって、とても興味深いですね。しかも本格的……誠意が溢れている方ですね。
    旅先での出会いは本当に楽しい、と改めて思いました。そして印象に残る。もしかすると観光スポットよりも。

    私は琥珀の道や、ゴッホが短い生涯の中で、転々と活動の場を移っていった軌跡を辿ってみたいです。

    ウィーンのエピソードの、シュニッツェルの話ですが、フェルトキルヒの城はシャッテンブルク城で合っていると思います。ウィーンでオススメされたお店の方も気になります。土地に慣れている人のアドバイス程有力なものはないですし。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます!

    館野氏との交流は、帰国してからも続きました。
    その辺りについては最後のプロローグに触れてあります。
    前述のベルギーの項で登場した平川氏(パン職人)もそうですが、
    旅に明確な目的を持っている人は、非常にイキイキしています。
    人生も同様に、明確な目的を持っている人は、
    周囲にエネルギーを与えてくれます。
    たとえそれが館野氏のように他人に理解されないような目的であっても、
    彼らを不幸にするのは難しいと思います。

    なにぶん20年も昔の話なので、現状は変わっている可能性は高いです。
    蒼翠様もかなり旅行されているようにお見受けしますが、
    おススメの場所や思い出深い場所などはございますか?

    現在エピソード4(最終章)を連載中ですが、年内には連載が終了します。
    時間ができたらまたゆっくり旅行に出たいなと思う今日この頃です。

    いつも素敵なコメントありがとうございます。
    今後ともよろしくお願いいたします!

  • 1999年3月14日への応援コメント

    オーストリアのフェルトキルヒ(スイスとリヒテンシュタインの国境付近)の城内レストランでシュニッツェルを食べた事を思い出しました。
    あの巨大なカツレツ……何故か食べ切れてしまうシンプルな美味しさ。懐かしい気分になりました。
    ウィーンは行ったことがないのですが、こちらも憧れの街です。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます。

    オーストリアに行かれたことがあるんですね!
    私はフェルトキルヒには行ったことありませんが、
    ”城内レストランで”というコメントに興味を持ち調べてみました。
    シャッテン城のことでしょうか?
    古き良きヨーロッパの面影のあるステキな街ですね!
    私は御覧の通りほとんど首都ばかりを渡り歩いていたので、
    こういう素敵なヨーロッパを見逃しています。
    うらやましい限りです。

    シュニッツェル、わたしにとっても懐かしいです。
    このマダムに教えられたレストランですが、
    後日旅行ガイドで”地元の隠れた名店”として紹介されていました。
    観光客が大挙して押しかけても、変わらないでいてほしいですね。

    改めまして、コメントありがとうございました!

  • 1999年3月10日への応援コメント

    薬よりも笑顔を、希望ある所に人生もある
    シンプルな言葉に凝縮されてますね。
    アウシュビッツの収容所は人生の中で一度は行っておかないといけない気がしています。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます!

    前述オランダ・アムステルダムの項でも触れた通り、
    アンネ・フランクは私の初恋の人と言ってもいいほど、
    子供の頃に影響を与えてくれた人でした。

    今回はその彼女が連行された際に持って行ったカバンを主人公として
    アウシュヴィッツを描いてみました。
    実際に行ってみると、作中にあるように大きなガラスケースがあり、
    そこに遺棄されていた無数の持ち主不明のアイテムが山積みにされています。
    死体の写真よりも生々しく、ショッキングでした。

    彼女が強制収容所で亡くなってからわずか2か月後、
    ドイツは無条件降伏を受け入れ、強制収容所は次々と解放されました。
    あと少し、あと少しで、アンネ・フランクは助かったのではないか。
    そんな無念を感じずにはいられません。

    旅はチェコのプラハへと続きます。
    そこではスペインから来たファンキーな政治集団と出会うのですが…
    引き続きお楽しみいただければ幸いです。

    いつもありがとうございます!

  • 1999年3月9日への応援コメント

    どこを省き、何を拡大するか
    選択のセンス
    本当に破壊力があって、素敵なスタンスですね。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます!

    私は絵の知識はほとんどないのですが、
    「どこを省き、何を拡大するか」という山崎氏の話は
    非常に印象に残っています。

    旅の描写も同じで、目に映ったものすべてを書くと
    非常にぼやけた文章になってしまいます。
    なるべく章のつながりや結果の描写だけで
    その行間を描写するように心がけていますが、
    やりすぎるとあまりにも不親切な文章になってしまいます。
    創作とは難しいものですね!

    ここで出会った山崎氏とはその後も続いていきます。
    最後のエピローグでその辺りの話も触れています。
    どうぞお楽しみに!

  • 1999年3月11日への応援コメント

    この章だけ、伸ばして伸ばして、ちょっとした長編になりそうな。
    事実は小説より、おかしく、おもしろく、悲しく。

    湯気の上がった黒ビール。ちょっと飲んでみたい。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます!

    当時はまだ学生だったこともあり、割引価格で利用できたので、
    特にヨーロッパではユースホステルを利用していました。
    ユースホステルのよいところは、出会いに恵まれていることです。
    部屋もドミトリーという相部屋が基本なので、
    自然そこで一緒になった日本人同士仲良くなりやすいです。
    向こうでも、ボーイスカウトや遠征団体がよく利用しているので、
    食堂などをうろうろしているだけで、声をかけられたりします。
    (その分、トラブルにも巻き込まれやすいのですが…)

    このスペインからの団体さんもそうですが、
    こうして話のネタに尽きないのは、
    ユースホステルを利用していたことが大きいかなと、
    今回コメントいただいて気付きました。

    これからもよろしくお願いします!

  • 1999年3月7日への応援コメント

    チキンナゲットタワー・・・毎日何かしら事件が起こりますね。
    それも旅の醍醐味。
    そして言語に纏わる伝わらない受け取れないもどかしさ。
    それも旅の醍醐味。
    ショパンの心臓、なんだか聖遺物のような扱いなのですね。
    ポーランドは行ってみたい国の一つなので、興味が湧きました。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます!

    本項のケンタッキー事件は、初めてのヨーロッパ周遊においてかなり大きな挫折でした。当時の私は英語も義務教育で習った程度のレベルでしたが、
    それでも駅で切符を買ったり、スーパーで買い物をするうえで、重要なコミュニケーション手段でした。

    ワルシャワでの最初の挫折は、市内を走るトロリーバスの切符の購入でした。
    あちらでは切符は街のキオスクなどで事前に購入します。
    日本のバスやトロリーのように、乗車後に運転手に支払ったりするシステムではないため、老婆が一人で店番をしているようキオスクを無視することはできないのです。ソビエト時代の老婆だからではなく、ケンタッキーの売り場に立っていた高校生ですら今回のエピソードのようなレベルなので、
    当時これは深刻な悩みとなりました。
    (後日、これはたまたま運が悪かっただけ、と理解したわけですが…)

    ところが本項でも書いた通り、本来どこでも英語で通そうとする旅行者がいけないのです。せめて”ありがとう”ぐらいは相手の目を見てちゃんと伝えたいものです。


    ショパンの心臓は今もワルシャワにあります。
    19世紀中ごろにおいては、高貴な人間の心臓を切り出して保存するというのはそれほど奇怪なことではなかったようです。
    第二次大戦で、ワルシャワは徹底的に破壊されました。
    その時何人かの手によってショパンの心臓は大切に保管された、と聞いています。
    それは単にピアノの詩人ショパンの心臓というだけでなく、
    多くのポーランド人にとって何か象徴的なものだったように見受けられます。

    東欧はおすすめです。
    日本人のイメージ通りの石畳や教会を中心とした街を見ることができます。
    色合いも優しく、とても癒されます。
    是非機会があれば訪れてください。きっと癒されます。

    ご丁寧にありがとうございました!
    今後ともよろしくお願いいたします!

  • 1999年3月6日への応援コメント

    旅に流血はつきもの、ではないはず・・・
    ちょっとハラハラしました。

    そこからの世界平和を語る男への帰着。
    旅と各国の歴史は濃厚に絡まり合うものですね。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます!
    物語に入り込んで楽しんでいただき、とても光栄です。
    引き続きお楽しみいただけると嬉しいです。

    それから20年経ったベルリンの今がわかりませんが、
    当時の『地球の歩き方』は今よりも読者投稿が頻繁で、
    ネオナチス絡みのトラブル報告はたくさん掲載されていました。

    ネオナチスといえど、ほとんどは”ヤンキー”、”チンピラ”の類で、
    特に政治思想背景があるわけでもなく、ただ有り余る若さを持て余した連中ばかりでした。
    私が10歳の時ベルリンの壁が崩壊し、その2年後ソビエト連邦が崩壊しました。
    それからまだ10年経った頃の話をしているわけですが、
    分離独立から一定期間過ぎたヨーロッパは、今でも慢性的な経済不安を抱えています。数年前には極右政党が与党になる国が頻発しました。
    振り返るに、80年後半にヨーロッパ人が共有した”新しいヨーロッパ”とは、
    装丁だけご立派な、”何となくいい予感をさせる”ものだったのかもしれません。

    グルーヴという言葉が好きです。
    クラブシーンでは今でもよく使われるようです。
    いい意味で世界が融和できたらと願うばかりです。

    旅の色々な要素を混ぜているので統一感はありませんが、
    時々こうした時事ネタも扱っていきたいと思います。
    引き続きお楽しみいただければ幸いです!

  • 1999年3月5日への応援コメント

    老アンネとの会話。なんて素敵なんでしょう。
    ホットココアを片手に、参加したいです。

    作者からの返信

    いつもお楽しみいただきありがとうございます!
    だいぶ冬らしくなってまいりました。どうかご自愛のほどを!

    さて、アンネの日記が登場しました。
    作中にあるように、私の祖母はアンネ・フランクと同い年です。
    だいぶ痴呆がひどくなっていますが、まだ元気しております。
    同い年の祖母が生きている以上、
    どうしても「アンネがもし無事に生還していたら…」と想像してしまいます。

    アンネが憧れた”光あふれる世界”に私たちは生きています。
    光なんかどこにもないじゃないか、と思うこともしばしば。
    アンネ・フランクの項を書き進めていくと、
    世界とは、やはり個人の捉え方次第なのだろうな、という想いに至ります。
    それがいかに困難なことか改めるまでもないですが、
    アンネ・フランクがつづった言葉の弾力性には、
    戦争という背景を除いても勇気づけられるものがありますね。

    コメントありがとうございました!
    これからもよろしくお願いいたします!

  • 1999年3月3日への応援コメント

    現地の食事は旅の醍醐味ですよね。
    そして、こちらの作品のような旅の合間に、食事を楽しむ、食について語るシーンのある話を求めていました!
    今後の展開も楽しみです。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます。
    素敵なコメントいただき、非常に勇気づけられました!

    当時はまだ学生でしたし貧乏旅行でしたので、
    食というテーマはそれほど掘り下げませんでした。
    この時知り合った平川氏とはその後も交流が続いたのですが、
    食に関する知識を持っている人と旅をすると、
    その国や文化について、また違った面が見えてきますね。

    この後もポツポツと食に関する挿話がありますので、
    ぜひお楽しみいただければと思います。

    今後ともよろしくお願いいたします!

  • 1999年3月2日への応援コメント

    トムのタクシーから降り立った後の、暗闇と雨とひとりぼっちの街角が切なさを掻き立てますね。白い吐息が見えてきそうです。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます。
    素敵なコメント、とても励まされました!

    本作は今から20年前のバックパッカー旅行を基にした小説です。
    ドイツからルクセンブルクに移動した際、列車を間違えてしまい、
    結果的に冬の真夜中の街に放り出されてしまいました。
    トム・クルーズ似のハンサムドライバーのこともよく覚えていますが、
    何より冷たい雨が降る中、予約したホテルが見つからない心細さは今でも忘れません。

    若かった当時のことですが、失恋をして彼の地に来たので、
    雨の冷たさにも、今と違う悲しみを感じたものです。

    今後ともよろしくお願いいたします。

  • 1999年3月8日への応援コメント

    松本明子は、さすがに笑いました。

    でも、自分も嫌いではないです。
    干されて仕事のない時、石川ひとみのドレスを勝手に路上で売っていたとか。

    ミロスワフ氏に幸福あれ。

    作者からの返信

    コメントありがとうございました!

    このストーリーは私の創作ではなく、
    ミロスワフという人物も実在で、
    私が初めてワルシャワに行った時に出会った、
    当時ワルシャワ大学の学生です。

    まさか彼の地ワルシャワで松本明子の名前を聞くとは思いませんでした(笑)。
    後述しますが、電波少年の猿岩石(現有吉)やドロンズなどの企画を見て、
    バックパッカーをやってみたいと思った世代なので、
    松本明子と聞くと、一緒に松村や出川が思い出されます。

    「何がいいのだ?」とだいぶしつこくミロスワフに聞きましたが、
    彼が挙げたのは「ポーランド人女性にない明るさ」でした。

    向こうは、いくらでも美人はいます。
    ただ広場に座っているだけで幸せになるほど、です。
    そういうのに飽きた男たちが求めるのは、
    松本明子のような破壊的な明るさなのかもしれません(汗)

    改めましてコメントありがとうございました!
    今後ともよろしくお願いいたします。

  • 1999年3月1日への応援コメント

    こんなに魅力的なキャラが沢山。
    そして、主人公のなりにびっくり。

    でも、よく覚えてますね。20年前のこと。
    自分は、旅行の記憶、こんなにちゃんと思い出せません。

    羨ましい。

    これからも、楽しみにしてます。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます!

    懐かしい思い出です。
    ご経験あるかと思いますが、海外では気軽に日本人の友達ができます。
    あくまでもこれは小説ですが、このチャプターはほぼ実話です。
    今でも彼らの何人かとはつながっています。

    後述になりますが、私はこの旅の目的として、
    ウィーンで本場オーケストラを聴きたいという夢がありました。
    ジーパンでは追い返される、と聞いていたので、
    ジャケットやスラックスというスタイルで旅をしていました。

    今から考えれば、よくやったな、と我ながらため息がでます(笑)
    あの時代、旅へと駆り立てる何かがあったように思います。
    引き続きお楽しみいただければ幸いです!

    改めまして、コメントありがとうございました!

  • ~Prologue~2018年12月6日への応援コメント

    人のために尽くすことは誰でもできる。だが、人に尽くしてもらっていることに気付くことは難しい。

    これ、痛い言葉です。
    尽くしてもらってるのに、ずっと後で気づくことのなんて多いこと。

    私自身も、25年ほど前、海外をさまよってました。
    これから、そのころを思い出しながら一日一編読み進めようかな、と思っております。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます。
    25年前と言えば、私が海外放浪していた時期と重なると思います。作品はその当時の実体験や、その後20年経った今からの視点などを織り交ぜており、お楽しみいただけるかなと思います。よろしければ引き続きお楽しみいただければと思います。

    若い頃は自分のことで精いっぱいで、他人が注いでくれる優しさに気付けませんでした。人に尽くすことは案外簡単なことですが、人に尽くされていることに気付き、それを返すというのは、あの当時の若さでは難しかったのかなと思います。
    作中のスナフキン先輩というのは実在で、そうした感性を教えてくれた先輩でした。今はどこの空の下を歩いているやら…。

    これからもよろしくお願いいたします!