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    1999年3月1日への応援コメント

    この手の旅行記は、女子学生視点のお祭り騒ぎになりがちですが、男子学生がいっぱい。男の子たちが、かのお城をかすめてアルプス(?)へ向かう。

    子供のころ背伸びして父の書斎にあった、志賀直哉『城崎にて』、内田百閒『阿房列車』、阿川弘之『南蛮阿呆列車』、北杜夫『どくとるマンボウ航海記』なんて目を通していましたが、思い出しましたよ。

    作者からの返信

    コメントいただきありがとうございます。

    高名な方々の作品と並べていただくには恐れ多いものがありますが、私自身が男子校出身者なので、こういうくだらないノリに居心地の良さを感じてしまいます。この旅の後、彼らとは互いに30過ぎるぐらいまで付き合いがあり、毎年みんなでノイシュバンシュタイン城を攻略した3月初め前後に1年分の話題を持ち寄って朝まで痛飲したものです。

    よろしければ引き続きお楽しみいただけたら幸いです。
    今後ともよろしくお願いいたします。

  • 1999年7月16日への応援コメント

    終始笑ってしまいました\(//∇//)\
    似ている(同姓同名も然り)って、本人と錯覚するのか、自然とハードルあげちゃいますよね笑

    作者からの返信

    コメントありがとうございます!
    マレーシアの「谷村新司」との出会いは衝撃的でした^^
    変態谷村新司とミホリンとの続編は、エピソード2の巻末で少々触れていますが、叶わぬ恋の行方の物語の結末やいかに!乞うご期待です^^

    アジア編のシンガポールからバンコクに到着するまでのストーリーは私も好きです。実際に旅先で出会った方々とのストーリーを織り込んでいますが、よくあんな旅をしていたなとこの年令になると空恐ろしくなります;

    失恋から始まった恋の行方の結末、そして新たな出会い――。
    もっとも油の乗っていた頃の私的探検の物語を、引き続きお楽しみいただけたら幸いです^^

  • 1999年3月17日への応援コメント

    ハウステンボスでもそうでしたが、オランダって結構美味しいチーズフォンデュがありますよねぇ🍉🍉

    作者からの返信

    コメントありがとうございます!

    かつてある番組で見たのですが、ヨーロッパ女子を集めたトークショーで「朝食に何を食べるか」というテーマにおいてオランダの女の子が槍玉にあがってました。

    「同じ北欧系だと思ってたけど、オランダ人のケチにはガッカリ!あたしだったらパンにはチーズとアボガド、ハムやトマトが当たり前だよ!」

    スウェーデン女子からの口撃に、「パンはパンの甘さだけで十分ですよ」とオランダ女子は言い返していました💦

    英語で「Dutch treat(直訳:オランダ人のおごり)」とは割り勘の意であり、ケチな人のことを「あの人はDutch(オランダ人)だから」と後ろ指を指します。国際感覚においてもオランダ人の質素さ(またはケチ)は認識されているようです💦
    ぜひ美味しいチーズフォンデュで、世界的に覆ったオランダ人のイメージに反論してほしいものです^^

    コメントありがとうございました^^

  • 1999年8月10日への応援コメント

    ぐおおおーーーーん……

    作者からの返信

    コメントありがとうございます。
    旅のきっかけとなった恋は結局失恋のままとなりました。
    恋を始めるのは簡単ですが、飛行機と一緒でよほど着地のほうが難しいですね。ましてや初めての恋となれば相当な傷を覚悟しなければなりません。
    それでも旅は続いてく。そんな無情を描いていけたらと思います。

    これからもよろしくお願いいたします!

  • 1999年7月21日への応援コメント

    ガイヤーンが食べたくなりました!

    作者からの返信

    コメントありがとうございます!
    ガイヤーン(タイ風焼き鳥)ですね^^

    「屋台飯」。なんて魅力的な言葉なんでしょう。
    やはり「屋台」と言えばお祭りを連想させるので、
    その線上でも何だか楽しそうな響きですね!

    本項に登場する「真面目に作ったホッケンミー」は笑いました。
    実際マレーシア・ペナンの屋台村にメニューとしてぶら下がっていました。

    本シリーズでは時々こうした現地料理の紹介をしています。
    これからも引き続きお楽しみくださいませ!

  • ~Epilogue~2019年4月16日への応援コメント

    素晴らしいお話ですね!
    人間模様がたまらんです!

    作者からの返信

    エピソード1の完読ありがとうございました!!
    この物語は実際に私が大学時代に行ったバックパッカー旅行を基にした私小説で、今から20数年前の景色です。その後もエピソード2では「アジア縦断編」、3では「オーストラリア留学編」そして最終章の4では「ユーラシア横断編」と続きますが、今でも私にとって旅の思い出は宝物です。これからも引き続きストーリーを追いかけていただけると幸いです。今後とも宜しくお願いいたします!

  • 1999年3月19日への応援コメント

    素敵すぎますぞ!

    作者からの返信

    コメントありがとうございます^^
    失恋の傷心旅行も兼ねて出かけたヨーロッパで知り合ったサキですが、実はこの後の物語にも登場します。別作「ノンストップ・アクション3」で再び大きく登場しますのでお楽しみに!

  • 1999年3月15日への応援コメント

    ぐおおおーーーーん!
    いい話です!
    友情フォーエバー!

    作者からの返信

    コメントありがとうございます^^
    作中にもあるように、ヨーロッパ滞在中お米を食べたくなるとよく中華料理屋に行ったものです。私はたまたま大学の専攻が中国語だったため、お店の方にとてもよくしてもらいました。
    旅先での出会いは一生モノです^^この物語には色々な出会いがこれからも登場しますのでお楽しみに!

  • 1999年3月11日への応援コメント

    ホットビール!
    気になります!

    作者からの返信

    コメントありがとうございます!

    ちょうど今から24年前の明日ヨーロッパへ向けて旅に出ました。
    3週間程度でヨーロッパ一円をめぐるという過密スケジュールでしたが、
    その時立ち寄ったポーランドやチェコでこの「ホットビール」という飲み物を知りました。
    厳冬のこの時期、バーで「とりあえずビール」というと黙ってホットビールがテーブルに置かれます。日本の甘酒のような感覚なのかもしれませんが、
    黒ビールにシナモンやドライフルーツを浮かべて小鍋でコトコトさせたものが提供されます。「ホットビール_作り方」と検索するとレシピが出てきますので、よろしければお試しくださいませ!

    引き続き物語をお楽しみいただけると幸いです!
    それではよい旅を!

  • ~Prologue~2018年12月6日への応援コメント

    続きが気になるところ。
    また読みに参ります。

    作者からの返信

    素敵なコメントありがとうございます。
    ファンタジー系や転生モノなどが主流のWEB小説ではかなり異色ですが、
    本作は著者が若いころに実際におこなったバックパッカー旅行をもとにした私小説です。
    こんな時代だからこそ、文字で海外旅行を楽しんでいただきたいと思い作成しました。引き続きお楽しみいただけると幸いです。

    今後ともよろしくお願いいたします。

  • 1999年2月27日への応援コメント

    若い頃、一人で動き、一人で考えた「内省的時間」を数年持った人は、観察力、洞察力、思考力が長けるのでしょうか。筆者さまの文体から、そうしたものが伝わってきます。

    作者からの返信

    コメント頂きありがとうございました。
    過分なお褒めのお言葉をいただき恐縮です。

    本作は、私が大学生の時に行ったバックパッカーをもとにした私小説であり、今から20年ほど前のお話です。守るものが増え、とてもあの頃のように無鉄砲を楽しめない身となりましたが、ともすれば危険さえも魅力的に思えたあの頃を懐かしんでおります。

    あの頃がその後の人生において特に役立ったという感想はありませんが、無駄ではなかったかなと思います。

    「傷もないまま死ねるかっ!」というのは、映画『ファイトクラブ』でのブラッド・ピットのセリフで、当時はそれが格好いいと思っていたものですが、何かに突き動かされたあの頃は今でも大切な思い出です。

    今後とも宜しくお願いいたします!

  • 1999年8月10日への応援コメント

    お久しぶりです。
    繋がったかに見えた糸も、実はダマになり、絡れ、もう取り返しがつかなさそうな気配です。
    『思い出』とできるのか、ハラハラしますね。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます。

    小莉は、本シリーズ前半部分において横断的なテーマを提供し続けた元恋人でしたが、やはりきれいな着地にはなりませんでした。多分にわたしの体験談を含んでいるのですが、初恋の着地というのは往々にして尻もちをつく形になるのでしょうね。

    色々な経緯があって彼女には許嫁ができてしまうわけで、その意味ではだいぶ前に「千切れた糸」になっていたわけですが、主人公はその慕情に苦しみ、なんとか可能性を見出そうとしていました。ただ、すでに見込みがないことはわかっており、消耗するだけの恋愛が続いていました。

    さて、どのような結末になるのか。そして新たな恋は始まるのか。
    引き続き物語をお楽しみいただければ幸いです!

    改めましてコメントいただきありがとうございました。

  • ~Prologue~2018年12月6日への応援コメント

    誰しも十代や二十歳の頃の思いに、いつも揺さぶられます。今の家族と生活に感謝しつつも、あの時代の思いはまったく別物なんです。黒歴史みたいな側面もありますが、決して消したい思い出というわけでもないんですよね。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます!
    本作は私が実際に20代の頃行っていたバックパッカー旅行をもとにした私小説で、長らく何らかの形に残しておきたいと思っていたものを文字にしてみた作品です。
    不器用な恋愛、根拠のない自信に思い切り突き動かされていた20代を懐かしむとともに、今最もほしい活力が間違いなくそこにあったことを確認できます。

    おっしゃるように、現在という時間は過去の延長線上にありますが、色々役割を背負って必死に生きていくうちに、まるで違う主人公の話に切り替わっていました。

    このあたりの対比も織り交ぜて4つのエピソードを作りました。もしよろしければお立ち寄りいただければと思います。

    今後とも宜しくお願いいたします!

  • 1999年8月15日への応援コメント

    三角関係的な青春ですね。
    私はそんな経験はしたことがなくスムーズに恋愛は成就しました。
    でも、アスカさんのように複数の女性と交際が持てるだなんですごい羨ましいなと思いました。
    実は私は30歳になるまで彼女はいなかったんですよ。
    というよりも、分厚いメガネと気持ち悪い顔で全く女が寄り付かず、パチスロやキャバクラ、ピンサロに行っているのが社内でバレて噂になり、益々遠のいていきました…まぁそんな暗黒期でしたが、転職をして今の彼女と知り合い付き合ってもう9年目ですね。
    青春だなって回で、若い頃を思い出しました(^^)

    作者からの返信

    コメントありがとうございます。

    この物語には何人かの女性が登場しますが、後々振り返ってみて本当の意味で好きだったのは、北京の姉と呼んでいた于春麗だけだったと思います。彼女は中国外務省関係者であり、絵にかいたような美人キャリアウーマンでした。彼女はすでに30代で、当時大学生だった私からすれば、ただただ憧れでした。そうやって一生懸命背伸びすることが、当時のわたしの恋愛観だったのかもしれませんが、その後彼女との数奇な運命については、全く予想できないものでした。詳しくは最終章のepisode4に記載しております。

    ただまあ、後々振り返ってみると、果たして人生において「恋愛」が与えてくれたものがそれほど大きな意味だったか私には疑問です。シャオリーのところでも述べた通り、わたしはただひたすらナメ犬のごとく尽くすことでしか愛情表現ができず、結果として自失してしまい、後々においても大きな傷跡になることがほとんどでした。

    是非鴉さんには幸せになっていただきたい。心から応援しております!

  • 1999年8月13日への応援コメント

    中学って学歴社会だと聞いてましたが、さすがにここまでとは凄いですね(^^)

    このインリンさんはもしかしたらアスカさんに惚れてたんじゃないすかね?そんな気がします。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます。

    本稿でも記載した通り、わたしは高校生の頃東京都の親善事業で2回中国を訪れました。交流事業では、北京からのホストファミリーとして厳選された高校生が用意されており、その中の一人がインリンでした。

    そこに参加した中国側の高校生はみんな秀才ばかりで、その後みんな一流大学へ進学しています。当時実際にインリンからもらった手紙には「朝は5時から勉強、学校で20時まで自習室で勉強し、帰宅してご飯を食べたら10時まで勉強」というすさまじい内容が書いてありました。

    そんな彼女だったので、とにかく奥手で大袈裟なところがありました。今から考えればもう少し接し方があったかなとは思いますが、いい意味でのすれ違いとなりました。

    改めまして、コメントありがとうございます!

  • 1999年8月12日への応援コメント

    ここまで閲覧させていただきました^_^
    カンフーバカの回、面白かったです。
    昔はやった少林サッカーやカンフーハッスルを思い出しましたね。
    私も実は柔道を数年やっていたのですが、どうも自分に合わずに辞めたのです。初段は持ってません。働きながらだったので、練習時間がままならず、残業と夜勤が当たり前だったので心身のバランスが崩れて柔道を続けられなくなったのです。練習ができなかったから当然強くなれなかったですね。痛みに弱いという致命的な欠点も露呈したので。
    なので、格闘技をできる人は尊敬しますね(^^)

    シャオリーさんの事は閲覧させていただきましたが、恋愛をしていても結局は金に負けてしまうんだなとわかりました。ただ二股をかけてるのはどうかと思いましたが、彼女のアスカさんにかける思いは嘘ではなかったのではないかと思います。彼女がどんな人生を歩んでいるのかはわかりませんが、少なくともゼロコロナで中国の経済は滅茶苦茶なので、会社が倒産してるかもしれないすね…赤字は必死でしょうね。

    作者からの返信

    いただいたコメントへのお返事遅くなり申し訳ございません💦

    episode2の横断的なテーマとして「格闘技」を掲げており、
    「合気道篇」「ムエタイ篇」「カンフー篇」そして「テコンドー篇」と続いていきます。シンガポールで知り合ったディランや、香港で紹介されたアランとの八卦掌の修行は、とてもよい思い出となりました。彼らのその後については、例によって巻末のepilogueに掲載しており、その後彼らはカナダでカンフー道場を開きました。

    「傷もないまま死ねるかっ!」

    作品全体のキャッチコピーとして使っているフレーズですが、これは映画『ファイトクラブ』でブラッドピッドがいうセリフです。当時から好きな言葉ですが、まさに無鉄砲だった若いころをよく言い表している言葉ですね!

    シャオリーとのことについても、後先構わず突き進んで重傷を負ったわけですが、この後の展開に大きな影響を与えてくれました。

    引き続き今後ともよろしくお願いいたします!

  • 1999年7月28日への応援コメント

    カッコいい…!
    エマさんがこうなってしまったのは、時代に翻弄されてたからですね。
    昔こんなことがあったのは全然知らないというか、忘れてしまいました。

    作者からの返信

    コメントありがとうございました。

    彼女はとても生き急いでおり、元来の聡明さもあって、
    周りがスローモーションに見えてしまう欠点があります。

    タイといえば美しいビーチやにぎやかな市場をイメージしがちですが、最近もそうですが、実はかなり長い間軍事政権だった国で、今でも政治が行き詰まると軍部によるクーデターが発生する国です。

    そうした時代の波に翻弄されてきた彼女とその一家のストーリーについては、もう少し続きます。
    引き続きお楽しみくださいませ!

  • 1999年7月27日への応援コメント

    なかなか熱い展開すね。
    こんな体験をしているアスカ様が羨ましいです(^^)

    作者からの返信

    コメントありがとうございました。

    この後エマとの展開はepisode4まで続きます。
    モデル人物はいますが、没落貴族のお嬢様という設定です。
    若い頃でしたので色々ありました💦

  • 1999年7月19日への応援コメント

    え!?事故っすか!?後遺症とか大丈夫でしたか?
    ひどいオヤジだなあ…

    作者からの返信

    コメントありがとうございました!

    これも実際にクアラルンプールで巻き込まれた事故でして、だいぶひどいアザにはなりましたが、何とか骨などには異常はありませんでした。

    東南アジアは想像通りのバイク天国であり、そこを歩く人間はボーリングのピン程度の扱いです。現地でタクシーに乗っていると、必ず交通事故を見かけるほどです。それにしても緑の数珠と良縁を架けてには腹が立ちました💦

    コメントありがとうございました。

  • 1999年3月20日への応援コメント

    閲覧させていただきました。
    ドラマのような展開ですね。
    中国の方は、良縁のために金を配るという事をするのですか、初めて知りました。
    金持ちと結婚するために、金の力を使うのはちょっと日本では考えられないですね…
    彼女は、その後は幸せな人生を送れているのかと気になりました、偽りの恋愛で、DVとか受けてないといいすね…

    作者からの返信

    たくさんのコメントいただきありがとうございました!

    これは実は本当にあった実話でして、私にとっての苦い初恋でした💦
    中国でも農村部ではいまだにこうした”袖の下文化”が普通に存在し、就職も結婚もよりよい条件を勝ち取るために、コネや賄賂を捲くこともあるようです。

    彼女とのその後については、episode2およびepilogueにて書かせていただきました。この話から数年後、東京で主人公?と再会しています。心配通りの結末となっております💦

    改めまして、コメントありがとうございました!

  • 1999年7月16日への応援コメント

    (*≧ω≦) ププブッ (笑) 谷村新司似のマレーシア人。23才。お熱の相手はミホリン48才。そりぁ、日本のお義父さんは大喜びで、マレーシアのお父さんは大反対するでしょう。
    今頃、マラッカ海峡で二人はハンドイン・ハンドして二人でスバルを歌っていることでしょう。
    この回は、お笑いネタですね。アスカジョーさんはお笑いのセンス有り・有りですね。面白かったです。(笑)

    作者からの返信

    コメントありがとうございます!

    これも実話でして💦
    一緒に写真撮らなかったことを、20年たった今でも後悔している案件です(笑)実はこの谷村新司とミホリンとの悲しい恋についてはその後もトレースしており、episode2の巻末epilogueにその結末が書いてあります。
    さて、谷村新司はマラッカ海峡に沈む夕日を背に恋のバラードを熱唱できたのか、そして玉の輿狙いのミホリンはいかに??彼らのその後について、是非お楽しみに!

  • 1999年3月20日への応援コメント

    辛らい。胸が苦しくて切なくなるような別れ……親やお金が絡むと実際に、ありそうですね。やりきれない気持ちになります。
    。゚(゚´Д`゚)゚。

    作者からの返信

    いつも素敵なコメントありがとうございます!

    実はこれ作者の実体験なんです💦
    中国では、両家との縁談のための袖の下という文化が根強く残っており、そういう意味でも子供は親のメンツのために従わなければならないケースが発生します。

    大学で中国語を専攻していたのも事実で、その背景にはこの重すぎる初恋がありました。この年齢になると、「もう少し賢く恋愛できなかったものか」と少し呆れた気持ちになりますが、初めてできた恋人のため、全力で大切にしていたあの頃について改めてこうして見直してみると、やはり私自身の成長の上で必要だったのかなと思います。

    誰かも言っていましたが、初恋は離陸より着地のほうが難しいです。状況的にどう考えても見込み無しなのですが、どうやって終わらせたらいいかわからない。その悶々としたエネルギーが本長編作を生むきっかけになっています。

    今後「エピソード2」で、この恋愛の結末が登場します。舞台は上海。どうか引き続きお付き合いのほどよろしくお願いいたします!

  • 1999年3月18日への応援コメント

    サキにも悲しく辛い過去が会ったんですね。でも、憎めないっていうか、良いキャラしてるじゃないですか?
    この旅が終わったら、再会なんて……
    ( 〃▽〃)

    作者からの返信

    コメントありがとうございます!
    旅を読み進めていただいて光栄です。
    今からちょうど23年前の今頃のお話しということもあって、感慨深いものがあります。

    さて、本作は小莉という上海人の彼女との失恋から始まりました。
    そして今回登場したサキですが、お察しの通り今後重要な役割を担います。
    詳しくはエピソード3となりますが、サキとの出会いは失恋を違う方向に向かわせるきっかけとなっていきます。もったいつけてしまい申し訳ございませんが、ぜひそちらもお楽しみいただけたら光栄です。

    わたしはこういう物おじしない感じがタイプです。
    まもなくエピソード1が幕を閉じますが、果たしてこの失恋旅行はどんな結末を迎えるやら!引き続きお楽しみいただけたら光栄です!

  • 1999年3月11日への応援コメント

    カッブメン野郎と愉快な仲間達!
    ジャッキー・チェンと間違えられる。とは、……酔八拳や、蛇拳で、凄い盛り上がった事でしょう。
    想像すると、笑えそうですね
    (´^ω^)

    作者からの返信

    コメントありがとうございます!

    当時始めての一人海外旅行だったこともあり、主にユースホステルを利用していました。そこには様々な団体が集まるのですが、中には首を傾げてしまうような連中もかなり高い割合で遭遇しました。その一つがプラハで出会ったスペイン人たちの集団です。そこで知り合ったのが今回作中に登場する政治思想集団でした。

    政治思想集団と聞くと、何やら恐ろしい連中を連想しますが、その辺りはさすがスペイン人で、色々な意味でおおらかな連中でした(笑)

  • 1999年3月10日への応援コメント

    150万人入る、アウシュビッツ強制収容所。歴史的にとてつもなく、恐ろしい場所ですね。
    スケールが違いますが、ウクライナで惨劇が起こってます。多くの犠牲者の事を思うと、心を痛めます😢

    作者からの返信

    いつもコメントありがとうございます!

    奇しくも今から23年前の今日あたりにアウシュビッツ強制収容所に訪れました。作中にもありますが、その日はみぞれ混じりでして、東ヨーロッパの遅い春はまだまだ底冷えするような感じでした。当時、このぬかるみを裸足で歩課されていた人々のことを思うと何ともいえない絶望感が胸に広がりました。

    強制収容所について歴史的観点や人道平和的な意味での解釈は十分にされていますが、たまたま直前に知り合った美大生のおかげで、構造建築学的に見るという珍しい試みができました。
    基本的に人間が居住することを前提としていないので、換気用の窓の少なさや採光に関する配慮の無さなど、そういった切り口からも当時以下に非人道的な扱いがあったのか想像させられました。

  • 1999年3月8日への応援コメント

    電波少年のマツモトアキコですか?何気に見てました。懸賞生活のナスビ🍆も居ましたね(笑)
    当時のポーランドで人気だったんですね。デ・カルチャーですね。
    Σ ゚Д゚≡( /)/エェッ!
    国が違うと、何が受けるか分からないとは、この事ですね。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます!

    ここに登場したミロスワフとの交流は続き、後に『電波少年』が終了となる2003年までふたたび日本に留学し、今ではワルシャワにある日本の広告代理店で偉くなっています。

    とにかく彼は日本一の美人にマツモトアキコを挙げていました。日本留学中に見た『電波少年』で一目惚れしてしまったようです。はい、あのマツモトアキコです💦たぶんポーランド中探しても、日本人美人にマツモトアキコをあげるのはミロスワフただ一人だと思います💦
    (あ、そうそう。後にその名もアキコという名の日本人女性と結婚し、幸せに暮らしています😀)

    ポーランド人みたいなすましたクールビューティーより、歯を出して豪快に笑う松本明子のほうがいいそうです。松本明子が聞いたら泣いて喜ぶでしょう💦

  • 1999年3月6日への応援コメント

    ネオナチスって、名前からしてヤバそうですね。異国の見知らぬ地で 夜に襲われたら、そりゃあ少年でも ヒャってなりますよ
    (^_^;)

    作者からの返信

    コメントありがとうございました!

    これは実話で、実際にベルリンでスキンヘッドの少年たちに襲われました。遠くからビール瓶を投げつけられ、無我夢中で走って逃げました💦ホテルに到着した後に右の脛にガラス片が刺さっているのを見てビックリしました💦

    今ウクライナ戦争の話しでもちきりですが、当時旧東ヨーロッパには少なからずこういう不良少年集団がいたものです。
    共産圏から資本主義社会に移行したのはいいことですが、「自由にやれと言われても何をしたらいいのか全くわからない」という人が一定数居ました。それが東ヨーロッパ全体の高い自殺率の因果でもあります。

    当時私自身も怖いもの知らずだったので「やったるわい!」みたいなノリでしたが、今から考えればゾッとする出来事でした。

  • 1999年3月2日への応援コメント

    降りやまない雨はない。明けない夜はない。も、しかり。失恋は人を大きく育てると、どこかで聞いたような……。
    そのお陰で、マジシャン・アスカジョーさんの今が有るかと思います。
    (偉そうに、スミマセン😢⤵️⤵️)

    作者からの返信

    コメントありがとうございました!

    初めてできた恋人との物語をどう終わらすか――。
    誰でも乗り切らなければならない大きな壁だと思います。

    今から考えると随分無駄なエネルギーを使ってしまったと思いますが、私には、これを決着させるためだけにこれほど大袈裟な一人旅が必要でした。

    この後新しい恋や出会いがありますが、この小莉との物語はまだまだ尾を引いて続きます。今後どのような放物線を描いていくかお楽しみに!

  • 1999年2月28日への応援コメント

    なんと、大変な目に遭われたのですね。Σ(*゚д゚ノ)ノ
    老キャッアイに二駅前に降ろされたり、バーでビックマックと、オバチャンのセットメニューにぼったくられるとは!
    とはいえ、軽妙なギャグセンスかジョークが上手くて、ツボにはまって笑っています。(((*≧艸≦)ププッ
    上手いなぁ~!

    作者からの返信

    コメントありがとうございます!
    お褒めの言葉ありがとうございます。

    考えてみれば恐ろしいことをしたものです(笑)。
    単にバイト先の先輩にそそのかされて、勢いだけで一人旅に出てしまいましたが、何の伝手もなく、いきなり大きな旅に出てしまいました。

    このぼったくり事件は実話です。ヨーロッパの主要駅周辺は治安が悪いことが常識で、当時はそんなことも知らず旅に出て初日から高い授業料を払うことになりました。

    この後ベルリンではネオナチスに襲撃され、続編マレーシアではオートバイに撥ねられるなど、なかなかのアクション活劇に巻き込まれました。

    楽しんで頂けて本当に光栄です!

  • ~Prologue~2018年12月6日への応援コメント

    初めまして
    回想から始まるシーンが、すぅ~と頭に入り込んで、映像が垣間見えた気がしました。洗礼された文章ですね。楽しく拝読させて頂きます
    >^_^<

    作者からの返信

    コメントいただきありがとうございます!
    本職はマジシャンで、文筆は本業ではありませんのでつたないところもあるかもしれませんがお楽しみいただければ幸いです。

    本作は私が大学生だった頃のバックパッカー旅行を元にした私小説です。20年以上前の話ですが、電波少年企画の猿岩石や、今の水曜どうでしょうファンの方々に向けた旅行小説です。

    是非これからもお楽しみいただければ幸いです。
    今後ともよろしくお願いいたします!

  • 1999年2月27日への応援コメント

    アスカジョー様の文体の格調の高さにプロのレベルを感じました。勉強のためホローさせて頂きました。

    作者からの返信

    応援コメントありがとうございます!
    過分なお褒めのお言葉いただき恐縮です。

    本作品は20年前に私が大学生だった頃のバックパッカー旅行をもとに書いた私小説です。
    いつか本を書いてみたいという想いを、すべてこの作品にぶつけてみました。

    Twitterでもフォローさせていただきました。
    今後とも宜しくお願いいたします。
    私も紅色さんの作品を拝読させていただきます!

  • 1999年3月12日への応援コメント

    中国人の元カノとは、短いやり取りだったのですね。
    私はリアル世界に彼女はいますが、毎日のようにiPhoneの FaceTimeやLINEでやりとりをしてます。
    今年で9年ぐらい経ちますが、それでも物足りないというか、分かり合えてない部分はあるんじゃないかなと思ったりはしますね。
    角刈り野郎さんは無事に日本に帰れたのでしょうか?今後が気になります。てか、彼女の行きたいところに行かせてあげればいいのに…

    作者からの返信

    コメントありがとうございます。

    中国人の彼女とは、文通から数えると3年ほどのお付き合いでした。前述の通り、当時はメールもskypeもなかったので、月に一度長い手紙のやり取りをしていました。
    確かに現代のリアルタイムなやり取りからすれば、あまりにもアナログ過ぎますが、その分助かっていた部分もあったのではないかと思います。

    お付き合いされて9年ですか。きっとその方とはとても相性がいいのでしょうね!やがて妻となり、母となったとき、担っている責任や役割が変わってきますが、深い部分で理解し合えていれば、きっとどんな問題でも一緒に悩めるパートナーとなってくれることと思います。


    角刈り野郎と能面女はその後めでたくゴールインしています。
    プラハでの縁あって、彼らの披露宴ではマジシャンとして参加させていただきました。
    エピローグにも触れていますが、両親への挨拶で涙でぐちゃぐちゃになった角刈り野郎とは対象的に、凛としたままだった能面女は印象的でした。結婚しても主従関係は変わらなかったようで、今でも年賀のやり取りは続いています。


    改めまして、コメントありがとうございました。


  • 1999年3月11日への応援コメント

    ホットビールなんてあるんすね、流石海外だな…
    今こんな時代なんで、小規模なデモとか世界各地で起きてるけれども、この頃の時代は平和で、彼らの悪戯が微笑ましく感じますね(^^)

    作者からの返信

    コメントありがとうございます。

    正確にはワルシャワの時点でホットビールなるものの存在は知っていました。スタウトのような黒ビールに、シナモンやクローブ、ショウガなどのスパイスを入れて、小鍋で煮たものが出てきます。

    「ビールを煮る?」と思いましたが、インドのチャイのような香りが体を温めてくれます。個人的にはコレはコレでありだと思いますね。(何故か日本では聞きませんが…)

    ヨーロッパの若者と交流していると、かなりの割合でしっかりと政治思想を持っていることに驚かされます。それだけヨーロッパに於いて政治とは専門家に任せておけば良い領域ではなく、よりよい暮らしを実現するための必須科目のようです。
    ここに登場するスペイン人たちはだいぶ特殊な存在ですが、おそらく学校教育でも社会公民の授業はかなりしっかり行われているのではないかと思われます。

    私もそれほど政治経済に明るいわけではありませんが、なぜか日本では避けられる話題ではあるものの、きちんと国政に参加する意思は重要ではないかと思います。


    それはともあれなかなかおもしろい連中でした。ユースホステルを渡り歩いていると、結構な頻度でこういう団体に出くわすことがありました。

    改めまして、コメントありがとうございました。

  • 1999年3月10日への応援コメント

    アンネの日記は小学生の頃に読んだ記憶はありましたが、当時はなぜこの本が有名なんだ?と内容の良さとか全然分からなかったすね。
    中学生になり、アウシュビッツやホロコーストを知り、改めて書籍の存在感の強さがわかりました。
    これは、広島の原爆ドームと同じくらいに、決して忘れてはいけない場所ですね。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます。

    今年3月に『アンネ・フランクと旅する日記』というアニメーション映画が公開されます。
    アンネは日記帳に”キティー”という名前をつけて、「自分の心の声を聞いてもらう大切な友人」という設定で日記をつけていました。現在はアムステルダムの博物館に展示してあるアンネの日記帳ですが、そこから空想の友達だったキティーが現れ、友達だったアンネを探して街に出るという物語です。
    予告編を見ただけで涙腺崩壊でした。

    私の祖母はアンネ・フランクと同じ1929年生まれで、今年93になりますが現在も存命です。アムステルダムの項でも書きましたが、私が物を書くきっかけとなったのも「アンネの日記」との出会いからでした。

    私には戦争は描ききれない。
    シンプルに是非論にまとめるのも、実体験のない私が書いたところでなにか違う気がするからです。そこでここでは強制収容所にアンネ自身が持っていったカバンの視点で描いてみました。

    実際にアウシュビッツに行き、数ある展示物の中で最も打たれたのが、ガラスケースの中に展示してある口のこじ開けられたカバンの山です。(たぶんネットでも検索すれば出てくるかと思います)

    アウシュビッツで何人殺されたなどという数字を見るよりも、押収された所持品の膨大な山を見るほうが実感がわきます。


    改めまして、コメントありがとうございました。

  • 1999年3月8日への応援コメント

    電波少年!懐かしい!松村邦洋さん、感染して大変な目に遭ってしまいましたね…
    ポーランドにそんな時代ってあったんすね、無学でして知りませんでした。
    学生が国を動かす時代ってもうないのかもしれませんね…

    作者からの返信

    コメントありがとうございます。

    実は昨年8月、私もコロナウイルスに感染し生死をさまよいました。オミクロンについては当時のデルタ株よりも感染力が高い(けど、症状は軽い)ようですが、どうかご自愛のほどを!


    ここで登場するミロスワフというのも実在でして、実際彼はその後再度日本に留学し、『電波少年』が終了となる2003年まで東京にいました。今では某大手広告代理店のワルシャワ支店で偉くなっています。

    学生運動と聞くと、我々の祖父と父親の間の世代が、何やら大騒ぎしていた時代のことを思いますが、東ヨーロッパにおいては比較的最近まで学生運動が盛んでした。その若いエネルギーがベルリンの壁を引き倒し、天安門事件を起こしたことは注目に値します。

    「もう年寄り共には任せられねぇ!俺たちの力で国を変えるんじゃ!」

    ただ、革命というものは歴史的に見ても”やりすぎてしまう”傾向があります。全部一気にひっくり返すというのは無理があるのです。
    ソビエトの息がかかった東欧陣営が次々と資本主義化していった89年末を総称して「東欧革命」などと呼ばれますが、歴史の教科書はそこで話を終えてしまっており、その後どのようにして革命で出来上がったいびつさを是正していったかこそ、本当に注目すべき部分だと思います。


    改めまして、コメントありがとうございます。

  • 1999年3月4日への応援コメント

    なかなかにさっぱりしてる女の子ですね、この子は。痛快な展開でいいですね(^^)

    作者からの返信

    コメントありがとうございます。

    本稿で登場する「サキ」は、今後の物語で非常に重要な役割をになってきます。少しだけネタバラシをしますと、本章ラストで再登場します。またシリーズ3でも色々あります。

    「サキ」が実在するかはさておき、私はこういう物怖じしないタイプが好きですね。私自身がリスクを取りすぎて腰が重い方なので、背中を押してくれるタイプはとても助かります。


    オランダというのは極めて特殊な国でした。
    本稿冒頭でも描いたとおり、列車が国境をまたいだ瞬間、いきなりヤクの売人が車内販売を始めたのには驚きました。

    ――自由とはなにか。
    思うにそれはやはり知性の上にしか宿らないものです。

    天真爛漫なサキと、ドラック・売春・同性婚・安楽死なんでもござれのオランダを対比させてみました。


    改めまして、コメントありがとうございました。

  • 1999年3月3日への応援コメント

    向こうの国の人らはなかなかに職人気質の人が多そうですね。
    途中まで読みましたが、猿岩石や水曜どうでしょうを連想させる作品で、閉塞的な日々を忘れさせてくれて読みやすいですね。
    コロナでなかったら彼女と旅行にでも行きたかったすね…

    作者からの返信

    コメントありがとうございます。

    東大阪からやってきた平川氏とを描いた本稿は、全シリーズの中でもお気に入りの一つです。
    帰国後も彼との交流は続いていました。その後彼がどうなっていったかは、本章最後のエピローグにて触れています。

    私が本稿で伝えたかったのは、平川氏のように打ち込めるなにかに出会えた者は不幸にできない、ということです。
    彼は現地でのボッタクリなど一切気にせず、自分の嗅覚と味覚を楽しませるためだけにヨーロッパを周遊していました。

    どんなトラブルに見舞われようと”何のその”です。
    私はその後の人生においてマジシャンという職業を選んだわけですが、そこに迷いがなかったかといえばNOです。
    紆余曲折あり、何度も「こんな仕事を続けていていいのだろうか」と悩みながら今日に至っています。
    さすがに平川氏の領域には至れなかったですね。


    徐々にですが、旅も解禁されていくでしょう。
    ただ都市や国家間の移動については、いつ状況が急変するかわからない中、バックパッカーのような旅はしばらくできないでしょうね。
    一日も早く彼女さんと旅行ができるような時代が戻るといいですね!その時は旅の土産話を聞かせてください。

    改めまして、コメントありがとうございました。

  • 1999年3月1日への応援コメント

    青春ですね!

    作者からの返信

    コメントありがとうございます。

    ――失恋をきっかけに旅に出た。
    書き物にしてしまうと大袈裟な印象ですが、これも実話でした。

    17のときに参加した国際親善プログラムで知り合った通訳が、私にとっての初めての恋人でした。今では考えられないですが、当時(今から約20数年前)は文通で気持ちを伝えあったものです。まったく古風ですね(^_^;)

    彼女を日本に留学させたい。
    大学に入った私はひたすらバイトに明け暮れ、何とか彼女を一日でも早く手元に呼び寄せたいと考えていました。
    ところが先方の両親の意向で、地元有力者の次男との縁談が入ってしまい、若い二人の恋は外圧で潰されてしまいました。

    送金していたわけではないので、預金残高はかなりありましたが、喪失感は計り知れませんでした。
    そんな時バイト先の先輩から一人旅を勧められたのをきっかけに、この物語は始まっていきます。


    42になった今の私からすれば、「いきなり背負い込みすぎたな」と肩を叩いてやりたい気分ですが、恋は盲目なりの言われ通り、当時は周りの忠告を聞くゆとりすらありませんでした。

    青春ですね〜。
    改めまして、コメントありがとうございます。

  • 1999年2月28日への応援コメント

    散々な間に合いましたね…
    フォローありがとうございました(^^)
    これからもよろしくお願いします。

    作者からの返信

    昨日はたくさんのコメントを頂き、ありがとうございます。
    一日でこれほどたくさんのコメントを頂いたのは初めてで、
    感謝感激であります。
    一件ずつご返信させていただきます。
    今後の創作活動における糧とさせていただきます!


    さて、本作は私が大学生の頃おこなったバックパッカー旅行をもとにした私小説です。
    当時旅日記をつけていたのですが、「いつか読み物としてまとめたい」と想いながら20年が過ぎ、2018年から2年かけてかきあげた作品です。

    本職は名前の通りマジシャンをしており、文学的なバックグラウンドなど特になく、いきなり長編小説から取り組んでしまい、現在あちこちの歪みを調整しながらTwitterで宣伝をしているところです。


    本稿で登場したぼったくバーは実話でして、一人旅を始めて初日からえらい目に逢いました。今となっては”いい思い出”ですが、言葉も通じない先でいきなりのトラブルにはさすがに凹まされました。
    お陰様でその後においては気が引き締まったこともあり、このようなトラブルには逢いませんでしたが…


    素人作家ではありますが、今後とも宜しくお願いいたします。

  • 1999年8月8日への応援コメント

    『お金』によって変えられてしまった両親。
    と言いつつ、元々内にあった欲望が表出しただけなのかもしれませんね。

    小莉さんもまた、自分で自分の人生を切り開こうとするのではなく、自分の向かいたい方へ引っ張ってもらいたいタイプのよう……
    (恐らくやろうと思えば飛び出す力がありそうな気がします。こんな場を用意できるくらいですから……)

    それをしてくれる人が好き(そうしてもらえる自分でありたい)
    という部分が、離れている間に客観的に見えるようになってきた、とこの主人公の彼が感じているのかなあとも。

    両親、婚約者、主人公との間で葛藤する小莉さんとの関係が、どう収束していくのか楽しみです。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます。

    改めてこの<上海編>において、主人公が何を見て、何を感じたのかについて、考えさせていただきました。

    ひとつは「お金と恋愛」についてでした。私個人としてはそこは否定していません。やはり”ない”よりは、あったほうがいいと実感します。ただ言うまでもなくそれがすべてではありません。
    小莉側の事情があまりにもお金に傾倒しすぎています。格差の激しい国柄ということもありますが、その両親にとって、"子供たちを裕福な家庭に嫁がせる"というあまりにもストレートな願いがすべての物差しです。愛や意思という見えないものではなく、物質的な豊かさが見えなければ意味がない。この価値基準に小莉も主人公も巻き込まれていくわけです。

    小莉にとっては、蘇州の金持ち次男坊か、それとも日本人の大学生かという問題ではなく、あくまでも両親VS主人公なのです。いくら衝突しようと、”両親が喜ぶなら”という抗いがたい気持ちがあり、すでに事態もほぼ決着がついているような状況に進んでしまっています。つまり迷うとかそういう状況ではなく、”どのように着地させるか”ということがポイントになっているわけです。

    主人公は、いわゆる”恋に恋していた”ことを認められずに苦しみます。遠距離恋愛により、ただひたすら彼女との将来に向かって努力してきた彼ですが、やがてジワジワと広がり始めた彼女への違和感についても、それを力でねじ伏せ、妄信することで突き進んできたわけです。現実的に言えば、すでに”どうやってキレイに終わらせるか”だけなのに、強引にそれにあらがって、事情を複雑にしています。

    さて、とうとうそれぞれが溜め込んできた感情が爆発した今回のチャプターでしたが、これからどうなるやら。ぜひ引き続きお楽しみいただければと思います。今後ともよろしくお願いいたします!

  • 1999年8月7日への応援コメント

    上海、南京路、懐かしいです。もう15年程前ですが二度。
    煌びやかな外灘、人が蠢めく街角、そしてその中のある一点で、こうして人間ドラマが繰り広げられているんですね。
    何かが違う、とクサクサとしたもどかしい彼の気持ちが伝わってくるようです。終焉と魂の解放を求めていて、それは爽快であって欲しいのに、やりきれない、何もかも想いと裏腹になるような。
    小莉は何を望んでいるのかなあ。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます!
    そうですか、同じ時期に私も上海を何度か往復してましたので、もしかしたら南京路辺りですれ違っていたかもしれませんね!

    さてまあ、このパートを描くにあたっては様々な情景が浮かんでは消えました。恋愛にも年相応というものがあるかもしれませんが、やはり初めての恋というのは誰しも着地に失敗するのかなと思います。

    (主人公は)、手ひどい裏切りにあったことを受け入れられず、どこかまだ希望を捨てきれずにいます。すでに脈打たなくなった冷たい死体を抱きかかえているようなもので、もはや恋愛というよりも、宗教的だったと思います。しかし現実に触れた途端、雪の結晶が手のひらで消えるような冷たさだけが残った。それまでは触れ合えない距離が曖昧さで守っていてくれたわけですが、冷たく広がる現実を前にどう触れ合ったらいいか戸惑っている情景です。

    初めての恋にしては難易度が高すぎる。でも大人になった今、もしこういう出会いがあったとしたら、一枚だけきれいな写真に収めて、それ以上踏み込まないと思います。そう考えると、あの頃は恋愛に「難しさ」だけを求めていたのかなと思ったりもしますね(笑)もっと楽に楽しむことを覚えた今では味わうことができない感覚だったことは間違いないと思います。

    小莉は婚約者がいながら、なぜ主人公を泊めたのでしょう。そこには彼女なりの葛藤があったようです。ぜひ続きもお楽しみくださいませ!


  • 1999年8月6日への応援コメント

    >辣妹子(ピリ辛娘)
    ってウィットに富んでいて面白いですねヽ(´エ`)ノ
    そして久しぶりに表出してきた江戸っ子魂(口調)。

    それにしても上海人の評判の悪さはハンパない。笑
    田舎から見た大都会のイメージ(知らないからこその恐れを含む)や妬みみたいなものも入っているのかもしれませんが、トコトンはっきりと言うなあ、と。

    中国は上海と蘇州くらいしか行ったことがないので、他の土地のことは分かりませんが、空気も人も、色々なんだろうなと想像します。

    いよいよ、小莉との再会。
    どんな展開が待っているのか、ソワソワしてしまいます。

    作者からの返信

    お楽しみいただき、とても嬉しいです!
    毎日暑いですね。どうかご自愛くださいませ!

    「辣妹子(ラーメイズ)」という言葉は実際にこの時乗り合わせた氷上の妖精さんたちに教えられたもので、”ピリ辛娘”というのは私が勝手につけた訳語です。
    私が大学で中国語を専攻していたという話はどこかでお伝えしていたかと思いますが、中国人は自国民同士でも「〇〇人」という言い方を好みます。

    「わたしは福建人ですが何か?」
    「あっしは見ての通りの東北人です」
    「あなたは潮州人なので私たち山東人とは思考が違う」

    という具合に互いに他省を区別し、同省人を愛します。
    日本人としてすごくこの表現に違和感を持っていました。関西人とか九州男児とかそういう大きな単位では日本人同士でも話題にしますが、「〇〇ジン」というのは何となく断絶を感じてしまいますね。

    ヴィッキー・チャオという可愛い顔をした女優がいましたが、ずいぶん前にバーで酩酊して店員を殴打したというスキャンダルがありましたが、ご当地では「ああ、安徽人(=ケンカ早いことで有名)じゃ仕方ねぇ」という反応でした。

    まあでも圧倒的に評判悪いのは上海人ですね。笑えるぐらい評判悪いです。あちらにはがんじがらめの戸籍制度があり、地方出身者が都会に出稼ぎに出る場合も厳しい許可が必要だったり、大学入試でも地元出身者は合格点が低かったりと、何かと都会人は守られています。ちょっと日本では信じられない感覚ですが実態です。「ちょーしこいてんじゃねーぞ、上海人どもがっ!」っていう感情論がほとんどでしょうね(笑)


    さて、いよいよ小莉との再会となりましたが、、、
    あくまでこの時点で小莉は親の紹介で知り合った金持ちの婚約者という立場です。難しい数日間の始まりです。どうぞお楽しみくださいませ!

  • 1999年8月5日への応援コメント

    カンフーの師匠との出会いを経て、いよいよ小莉との再会。
    胸中がモヤモヤとするような色んなシガラミもありつつ、心の内の決着を付けることができるのか。
    逢えない時間がもたらしたものが一体何だったのか、楽しみにしています。

    作者からの返信

    いつもご高覧ありがとうございます!

    さていよいよ香港でのカンフー修行編が終了し、ここからはシュールな恋話になります。Episode1から登場した小莉との再会です。
    ここでその後の展開についてご紹介をするわけにはいきませんが、やっぱり恋愛って難しいなと思いながら書いた部分です。

    おっしゃるように会えなかった時間の意味が凝縮された数日間となります。果たして、出会うべきだったのか。どのような結末にたどり着くかお楽しみいただければと思います!

    コメントありがとうございました!

  • 1999年3月4日への応援コメント

    自由は自律の上にしか成り立たない。

    この考え方、良いですね。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます。

    オランダという国のディープまで見てきたわけではありませんが、
    数日滞在しただけでもオランダの持つ倫理観は際立っていると感じました。

    本作全体を通して、どのように大人になっていくかということを扱っており、
    そのうえで自律や自制というのは度々登場します。
    自由とは何か。それはむしろ自律していない自分を見ることになります。
    旅の中で少しずつ成長していきますので引き続きお楽しみいただければと思います!

    今後ともよろしくお願いいたします。

  • 1999年8月2日への応援コメント

    「クレイジー指数」というワードにニヤッとしてしまいました。
    > ”香る港”と書いて香港。
    行ったことがないのに、ピーナッツ油が香ってくるようですヽ(´エ`)ノ

    作者からの返信

    コメントありがとうございます!

     Twitterのほうでは、私、アラン、ディランのカンフーバカ三匹の写真をアップしております!それも香港のキティランド系列のアイスクリーム屋で(笑)。間違いなく腰抜かすほどのクレイジー指数です。
     後日談ですが、アランは後に中国から嫁さんを輸入し、ディランと一緒にカンフー道場拳中華料理屋を開きました。ディランも嫁さんの従妹と結婚しました。ちなみにアランの嫁さんは北京の武術学校で知り合ったカンフーの達人です。やっぱりクレイジー指数はけた違いでした!

  • 1999年7月31日への応援コメント

    エマが大変そうな方だと改めて染みるエピソードでした。
    なんというか、行ったり来たりしていて、本人も苦しんでいるのでしょうね。
    それを包み込もうとする主人公。青春ですねえヽ(´エ`)ノ

    作者からの返信

    いつも温かいコメントありがとうございます!

    エマという人物は、本作のキャロットケーキに混ぜてあるレモンピールのような存在です。適量ならいいのですが、それ単体では苦みになってしまいます。その強烈な個性に気付いていながら、彼女自身どこか世の中を斜めに見ることでバランスを取っているところがあります。

    もともと失恋から始まっているこのシリーズですが、エマはこの後も登場してきます。この当時、守るものがなかった主人公にとって、どこかその強烈な味付けに憧れていた部分もあり、すくなからず主人公に影響を与えた人物です。

    なおエマに関する謎は、Episode4の前段として用意した、fig1,fig2によって明かされます。なぜそれほど生き急ぐのか、そしてなぜ世の中を舐めているのか、彼女の実際について明かされます。このfig1,2は私にとって最も思い出深く、気に入っている作品です。ぜひそちらも併せてごらんいただけると嬉しいです!

    今後ともよろしくお願いいたします!

  • 1999年8月21日への応援コメント

    長女が空手やっているので興味深く拝読しました。
    武侠映画の女侠みたいな人っているんですね。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます!
    娘さん、空手をやってらっしゃるんですね。特に武道は礼に始まり礼に終わるので、体力作りだけでなく、良い習い事だと思います!

    本作のEpisode2では、合気道編、タイのムエタイ編、香港の八卦掌編など、副題として多くの格闘技を取り上げてきました。当時のいかにも男の子らしいテーマで、各地で体験入門を経験してきました。

    テコンドーは、格闘技というより明快なスポーツとして普及させてきました。前項にもあるように空手や中国拳法などは流派が多く、統一ルールが構築されていないため、いまだにオリンピック種目に昇格していません。もちろん海外において空手のほうが認知度は高いですが、これは非常に興味深いことだと思います。

    Episode2は非常にアグレッシブな内容になっており、その中で「戦う」ということの本質に触れてみたいと思っていました。それぞれの回で個性的なキャラクターが登場しますが、本来敵を倒す手段として発達した格闘技ですが、それとは別に”道”として新たな価値を見出した人類のすばらしさを思わずにはいられません。

    お楽しみいただけて光栄です!

  • 1999年8月21日への応援コメント

    読んでいて、ヒョンヒはゲームかアニメのキャラみたいに格好良い感じがしました。
    ヘビは美味しかったですか?一度食べてみたいです。精力付けるために犬を食べる地域もあると聞きますが、それはさすがに食べる勇気が無いですね……。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます!

    これまでタイのムエタイ編、香港の八卦掌編と進んできましたが、韓国テコンドー編はいわば総集編になります。

    さて、このあたりの描写はかなり真実です(汗)
    実際に大学にウニョン先輩がいて、ソウルでその弟さんをご紹介していただきました。そこの道場に通っていたのがヒョンヒでした。とにかくこの能面娘のせいで、満身創痍で帰国したのも、今となってはよい思い出です。この時お土産にもらったテコンドーの胴着は今でも実家にしまってあります。
    多少着色していますが、シリーズの中でもヒョンヒは好きな登場人物です。最後のエピローグにウニョンおよびヒョンヒのアフターストーリーを掲載しておりますのでお楽しみに!

    記述の通り、テコンドーは空手やその他格闘技と異なり、武術としてではなく、ルールのあるスポーツとして発展してきました。これは非常に大きな違いでして、よって武術のように内面を掘り下げるという意味の修行ではなく、アスリートとしての明確な目標と管理のもとにトレーニングを積んでいます。非常に興味深いことでした。

    彼らと一緒にソウルの居酒屋に行ったのですが、最初それがヘビであることを誰も教えてくれませんでした(笑)。非常に小骨が多かったのを覚えていますが、知らないで食べたらちょっと固い魚ぐらいなものでしょうか。実は結構臭みがあるという情報もあるのですが、私が食べたのはコチュジャンなどで真っ赤になったそれだったので、本来はよくわかりません。
    東京上野にもヘビを食べさせる店があるという話を知人から聞きました。そこではヘビの血をショットグラスで提供されるそうですが、長年不妊治療に悩んでいた知人がその後おめでたになったとか。効果のほどは分かりませんが、飲んだ後は体がポカポカと温かかったそうですよ!



  • 1999年8月12日への応援コメント

    中国の人は一度友達付き合いすると情の深い方が多いですね。

    作者からの返信

    いつもコメントありがとうございます!

    吾妻さんも台湾に留学されていたり、日ごろも中国の方とのご縁があるようで、共感していただき光栄です。
    そうですね、人にもよるかもしれませんが、私は特に北部にその傾向が強いと思っています。北京や黒竜江省に知り合いがたくさんいますが、仲良くなるとそこまでしてくれなくても、というほど身を挺してくれますね。その情の厚さが好きですし、その極端さが嫌でもありますし(笑)、複雑です。

    「だっていつでも泊っていいって言ったじゃないか!」と他日の社交辞令を本気にされたり。同じ質量をこちらにも求めてこられるのには閉口しますが、概して僕は北の人間が好きですね。任侠映画みたいで。

    そんな熱い連中が住む北京が大好きです。このシリーズも結局北京で幕を閉じていますが、私の青春時代の一ページは間違いなくこの街にあります。そんな北京もやはり五輪後ではあまりにも変わってしまい、ちょっと残念に思ったものです。裸のオッサンが道端にしゃがみこんでスイカを喰っていた荒っぽい街並みが好きでした。たぶん人間ウォッチング好きにさせたのも、この街の人間模様に衝撃を受けたからかもしれません。

  • 1999年8月12日への応援コメント

    青龍刀持って歩いたらお守りになりそうですが逮捕されたりしないんでしょうか?
    北京は私も行った事あります。まだ自転車だらけでトイレに扉が無かったりする時代でした。北京ダックが美味しかったけど食べ過ぎてお腹を壊した思い出があります。今はだいぶ様変わりしたんだろうなと思いますね。また行ってみたいです。

    作者からの返信

    ご高覧ありがとうございます!
    rainyさんも北京に行かれたことがあるんですね!奇遇ですね。
    作中にもあるように、高校生の頃日中親善事業で行ったのが初めてで、
    以後個人的にも仕事でも、訪問回数で言えば1位かもしれません。
    それだけたくさんの友人がいますし、思い出もたくさん詰まった街です。

    これは香港の項でも書きましたが、もし日本で朝の公園で抜き身の青龍刀を振り回していたら、間違いなく通報されるでしょうね。
    今は中国(特に北京)もテロで神経をとがらせているので、おそらく無事では済まないと思います。ただ朝は近所の公園に行っても、朝から抜き身の剣や槍を振り回しているのはいくらもいます。太極拳のお国ですからね(笑)
    日本のように、弓道の弓や居合刀などはしっかりと袋に入れ、すぐに抜き出せないようにして持ち運べとなりますが、意外とあちらではあっけらかんとしたものです。
    実際北京駅に降り立った時の写真があります。肩口に忍者のように青龍刀の柄をのぞかせている写真です。あの描写はガチですが、今から考えるとバカ丸出しでした(笑)

    ニーハオトイレ(扉のないトイレ)だった時代のほうが楽しかったです。(いえ、ニーハオトイレが楽しいという意味ではないですよ!)。北京五輪からがらりと変わってしまいました。いやに居丈高なホテルやビルが立ち並び、観光客ズレした人々が増えました。私はもう観光客としていくことはないのですが、ただの空気の悪い街になってしまったことは残念です。あの頃のいかにも田舎な北京に憧憬を持ち続けています。

  • 1999年8月8日への応援コメント

    つらいエピソードですね。でもこういう人間関係の中で揉まれてきたアスカジョーさんはタフだなあ、と感心します。
    人民解放軍、女性もいるんですね!やはり経済的に豊かでないとか、農村の出身者が多いのでしょうか……?

    作者からの返信

    いつもご高覧いただきありがとうございます!

    恋の始め方は誰に教わることなくできると思いますが、
    終わらせ方は自分で体を張って覚えなければならない気がします。
    そういう意味で恋って無責任だなとも思ったりもしますが。

    恋って対等な関係なんですけれど、大人たちの作った物語のせいで、
    「守るべきもの」と洗脳されて大人になっていくんですね。
    でもやっぱり大いに結構な勘違いだと思います。
    近頃妙に分かった風な子供たちを見ると、逆に心配になります。

    「傷のないまま死ねるかっ!」という帯タイトルですが、
    これはブラッド・ピッド主演『ファイトクラブ』という映画のセリフです。
    大いに傷つき、悩み、泣いて大人になっていけばいいと思います。

    そう、彼女の妹は中国人民解放軍の兵隊でした。
    島国から見ると悪名高き軍隊ですが、外征するばかりでなく、
    災害の多い地域における救助活動に従事されていました。
    確かに農村出身者は多いですね。

    余談ですが、中国には約270の方言があり、それぞれ全く通じません。
    有名な話、毛沢東(山東省)と鄧小平(四川省)は通訳を介して会話をしていました。最も困るのが軍隊です。
    「右向け右!」と司令官が指示を出しても、ほとんど通じないのですから。
    そこで編み出されたのが”普通語”といわれる、現代中国語です。
    筆画も農民でも覚えやすいように簡体字が作られました。

    改めましてコメントありがとうございました!

  • 1999年8月11日への応援コメント

    互いが物を見え過ぎているだけに、とても辛い物別れですね。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます。

    どちらかといえば悲恋が好きです。どう考えても無理があったり、叶わない永遠に向かって二人でボロボロになっていくような話のほうが感情移入しやすいです。好き嫌いはあると思いますが、この二人もまさにそうでした。

    先日も書きましたが、「野に置け、れんげ草」という言葉を思い出します。どうにかそのはかなさを庭に持ち帰って植えてみるけれど、たかだか植物とはいえそううまくいくものではありません。
    原題はどちらかといえば、「置かれた場所で花を咲かせなさい」とケツを叩く風潮がありますが、人間においても土壌や水質というものは些細な問題ではないと思います。無理を飲み込んで強くなるというストーリーもあるでしょう。ただ、はかなさも含めて人間なら、あまり自然に逆らわない方がいいのかなとも思います。
     個人的なことですが、仕事のことで悩んでいます。どうしてもあるべきだ論を抜け出せず、だいぶ疲弊しています。責任感がそうさせているのですが、枯れてしまっては元も子もない。かといっていつまでも逃げ続けてもいられない。「野に置け、れんげ草」と言って自分を守るか、「置かれた場所で咲きなさい」と視線をあげさせるか、難しい地点に立っています。


    この二人は真面目過ぎたのです。もっとフィンガーフードみたいな恋愛だったならおしゃれな飾りのひとつとして、飽きたら外すこともできたでしょう。結果は悲惨でしたが、真面目さゆえに傷も深く、また大きなばねになっていったのかもしれません。この二人のアフターストーリーは巻末Epilogueへと続きます。

    改めましてコメントありがとうございました!

  • 1999年8月10日への応援コメント

    辛いですね。彼女の婚約者の男性は直接には姿を表さなくても常に存在しているという。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます。
    やはりこの二人は会うべきではなかったのです。
    本人たちの外側の問題で複雑な状況になってしまったわけですが、
    いつの間にか二人で負い切れない問題になってしまいました。

    初めての恋愛って難しいですね。
    周りに聞いても、だいたい着地に失敗しますね。
    でもそこから人は成長していくのかな。
    その傷の深さがいい感じで味わいになっていけばいいかなと思います。

    どうにかしたい気持ちと現実の区別がつかなくなり、
    とうとう袋小路に突き当たってしまった。
    そんな描写の回になってしまいました。
    いよいよこの恋愛も次回最終回になります。

    主人公にとって海外放浪を決断させた大失恋の結末をお楽しみください。

  • 1999年8月9日への応援コメント

    何だかとても哀しい関係ですね。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます。

    ねじれてしまった関係は、やはりどうあがこうとなかなか良い方向には進みませんね。何とかしようとすればするほど誰も幸せにならない状況に堕ちていく。そういう情景を描いてみました。


     中国語に「有縁千里来相会、無縁対面不相逢 (縁有れば千里も来たりて相会い、縁無ければ対面すれども相逢わず)」というのがあります(たしか、ラリピーになる前の酒井法子が中国語でそういう歌も出していたと思います)。
     この当時知った言葉ですが、いまだに深いなと思います。日本には「野に置けレンゲソウ」という言葉があって、野原に咲くレンゲソウを根っこごと掘って庭に植えても枯れちゃうよという話です。無理してつないだ縁は枯れやすいという素敵な言葉です。

     若いうちは理解できない理があります。夢中になっていればなおのことで、得てして着地に失敗してしまい、場合によっては古傷になります。ただ、そうやって大人になっていくしかないんだと思います。
     

  • 1999年7月28日への応援コメント

    国の状況と父親の愛情の所在。二重の負の気持ちを背負ったエマと相対した時、自分はどんな風に接するだろうと考えてみました。答えはでませんが……
    目の前の好青年に父親を重ねて、本当は愛情を注いでくれる存在だったと思いたかったのかなあとも感じました。エマとの関係、どうなっていくのか気になりますね。波乱万丈の予感もします(笑)

    作者からの返信

    熱いコメントありがとうございます!

    政変クーデターと聞くと、何やら壮大なエンターテイメントのにおいを感じてしまいがちですが、ミャンマーを例に出すまでもなく、ヨーロッパも含め、国境が安定したのはここ最近という国はたくさんあります。この島国においては、そういうことはまず起こり得ないですが、外に出ると案外こういう事情で身内を失くしている人に少なからず遭います。その一辺のみをみても、いかに日本が平和であるかしみじみと思います。

    しかしエマというこのシリーズで最後のほうまで登場する人物は、あまりにも現実離れをしており、読む人によってイメージするものもだいぶ違うようです。洞窟に潜む魔女のようなものを思う人もいれば、ただ高飛車な落ちぶれ貴族を思う人もいるようです。
    実はこのエマという人物にははっきりとしたモデルがいます。青春時代を大きく揺さぶった人ですし、キレイな思い出のまま保存しておきたかったのですが、作品を通じて共有することで浮かび上がってくることもあるのかもしれない。そんな複雑な感情を含んだ人物です。きわどいシーンも登場しますが、お楽しみいただければ幸いです。

    今後ともよろしくお願いいたします

  • 1999年8月8日への応援コメント

    古い売買婚的な関係性が読んでいて辛いですね。

    作者からの返信

    いつも作品に触れていただきありがとうございます。
    Twitterでも書きましたが、今病に伏せっています。ほとんど絶食です。
    吾妻さんやお子さんも体調を崩されたとのこと。大丈夫ですか?
    朝晩涼やかですが、日中は地肌がピリピリすることもありますね。
    どうかゆっくりお休みになって。無理せずに。

    さて、本稿はあまり気持ちの良いものではなかったかと思います。
    ご不快な気分になられたかもしれません。申し訳ございません。

    でも中国に限った話ではありませんが、これはさもありなんな話です。
    以前もお話ししたかと思いますが、私は大学で中国語を専攻していました。
    コロナになった今も、国内外問わず中国人の友人をたくさん持っています。
    しかし折に触れ、やはりコネ社会なのだなと感じます。
    そこにお金を投じることこそ”投資”といってはばかりません。
    香港などでもそうで、子息を海外留学させる目的とは、最終的に子供に海外へ引っ張ってもらうことだそうです。
    目下、縁談や就職においても優位を買うことは別に恥ずべきことではないという考え方が浸透しています。

     昨今テレビでも、かつて日本が格下と見ていた国々との狭まる格差を取り上げた番組をよく見かけます。ただ、貧しさとは切り取り方だと思います。相対的に日本は貧しくなった。それは事実だと思いますが、本質的な部分として私が注目しているのは、法がカバーできる人権です。
     アメリカなど御覧通り貧しい国ですが、ゴネようによっては常習的喫煙者が「お前たちのせいで肺がんになった!」とタバコ会社を相手取り勝訴を勝ち取る国です。
     かたや東南アジアでは(ゴシップ誌ですが)、いまだに一面トップに交通事故死の現場写真がモザイクもなく乗り、中国においてはウイグル問題を挙げるまでもない状態です。日本はどうか。昨今司法が信用できない以上何とも言えませんが、まだ人々の意識の中に個人情報保護や人権に関する関心があるうちは捨てたもんじゃないとは思います。

     こういう細部(いいえ基本)においてまで整ってきたとき、本当の意味で豊かになったといえるのかなと個人的に思いますね。彼の国においても早くコネをカネで買わなくともよい時代が訪れてほしいと願います。

  • 1999年8月2日への応援コメント

    フェイウォン……懐かしいですね……。
    私は若い頃児童劇団に所属していた事があり、その時北京から出稼ぎで京劇役者が来てました。その人が「フェイウォンは友達」って言ってました。信じてませんでしたけど……。
    男性ですが、すごく料理がうまくて、よく劇団員に即席中華料理を作ってくれてましたね。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます。

    フェイウォンは当時FFⅧのエンディング曲で有名になっていましたね。その後日本のドラマにもヒロインとして出演していましたが、それを信じる中国人はほとんどいません。(『ウソコイ』というドラマで中井貴一と出ていました)。

    それにしても児童劇団に所属されていたって凄いですね!役者志望だったのですか?。まあ、フェイウォンも北京出身なので京劇役者の友達という話の真偽のほどは分かりませんけど💦中国人男性は料理うまいですよね。子供のころから手伝わされるそうなので、なかなか手際がいいです。

    はぁ、彼らが作った水餃子食べたいなぁ~

  • 1999年8月7日への応援コメント

    うちの夫も上海でスリに遭いました(このお話のような形ではなくいつの間にか取られていた格好ですが)。
    外灘の夜景はきらびやかなだけに虚しい感じもありますね。

    作者からの返信

    いつもコメントありがとうございます。

    それは災難でしたね。いつの間にかとられていたというのは恐ろしい。あの時かも、と思わせることもなくというのは、もはや職人芸なのかも(褒められることではありませんが)。

    上海はわたしが初めて降り立った外国でした。16の時で、都の青少年交流事業で晴海ふ頭から船で行きました。1996年のことでした。一緒に行った仲間に中国残留孤児がいました。彼は12まで黒竜江省のハルビンで過ごしました。船が上海の港に入ると、街中を走る大量の自転車が見えました。中国=大量の自転車というイメージだった時代の話です。我々はイメージどおりがそこにあることに無邪気に喜んだものですが、彼は「なんか馬鹿にされている気がする」と言っていたのを覚えています。

    この青少年交流事業は東京都が支援していましたが、石原慎太郎都知事になって即中止となりました。確かに今の中国共産党は20年前に比べ頑なですが、スポーツや草の根交流まで一括りにするのはちょっとと思います。

    来年の北京冬季五輪どうなるんでしょうね。コロナもそうですが、バイデンも中国大嫌いですし、ウイグル問題ではヨーロッパからもノーを突き付けられていますね。

  • 1999年8月6日への応援コメント

    香港映画の器用な子役みたいな子って実際にいるんですね。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます!
    実際にワーポウ君とは香港→上海のエキスプレスで出会いました。
    ”いかにも”な少年で、思い出深かったので登場させました。
    見た目コミカルな少年でしたが、大人の事情をよく観察している子でした。
    手帳に書いてくれた「做個開心人」というのは意味深かったです。
    そんな彼も当時10歳と仮定すると、もう32歳かぁ。。。。
    ちょっと信じられない気持ちです。
    「パパ」と呼ばれていても不思議ではない年齢ですが、
    その後「ハッピーな人になる」が叶っているといいなと思います。

  • 1999年8月5日への応援コメント

    中国本土がまだ貧しかった頃だから外国人絡みで嫌な感じの話も少なくないんでしょうね。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます。
    相対的に20年前に比べたら、というところでしょうね。あちらの若者があまり海外に希望を見出さないようになったとは聞きますが、結局コネ社会だという根本は変わらないようです。次世代が希望を持てる国になってほしいと願います。

    別件。twitterのほうでコメントいただいた件について。当時中国語学科にいた私は港台芸能をよくチェックしていました。やはりお気に入りは張学友かな。前述の通り、東京で行われたコンサートにも中国人の友人たちと出かけました。
     レオン・ライは特に好きではなかったのですが、偶然にも私が大きな旅行に出るタイミングでニューアルバムを出していたので、サントラのようになっていました。本作における副題は、すべて彼のアルバムタイトルです。誰も気づかないでしょうけど…。

     当時彼はsony enter musicに移籍し、マーク・ライというこっちでいう小室哲也みたいな人に楽曲を提供されていました。私の記憶では、当時レオン・ライは香港より韓国で熱狂的に支持されてました。彼の曲を初めて聞かせてくれたのも、後々本作で登場する韓国人の先輩でした。
     あの頃日本デビューも視野に入れていたのか、カップリング曲で無理して日本語でも歌っていましたが(汗)。今どうしているのか全く知りません。

     一時期港台の映画などから離れていましたが、近頃再評価しています。最近のは相変わらずですが、昔の名作は結構ありますね。そうそう、先日レスリーとトニーの『ブエノスアイレス』を見ました!

  • 1999年8月4日への応援コメント

    私は中国拳法はまるで無知ですが、楽しく読めました。
    毀誉褒貶ありますが、成龍は香港映画の顔だと思います。

    作者からの返信

    コメントありがとうございました!
    別項でも書きましたが、私は13の時から近所で中国拳法を学んでおり、
    大会にも出場したことがあります。
    カンフー映画も含め、語らせれば紙面が足りないのですが、
    そうしたマニアックさをどう崩し、どう面白おかしく表すかを意識しました。

    成龍ですねぇ・・・。言わずもがなですが、中国人の女性には不人気ですな(汗)。ある香港の友人は「あんなのが香港代表と見られることがたまらない!」とお怒りでした。残念なうわさも多いですが、でもやっぱり僕らの世代はジャッキー世代ですので、昨今の香港映画には違和感を感じてしまいます。ドニー・イェンもよいですが、あんなリアルな血しぶきなんてカンフー映画に求めていない、と思ってしまいます。アニタ・ムイとよく共演していた頃のジャッキーが好きです。

    改めましてコメントありがとうございました。
    現在改稿版をアップしています。今後ともよろしくお願いいたします!

  • 1999年7月28日への応援コメント

    異国での女性との遭遇……。どこか、馳星周の小説を思わせるような印象的な場面だと思いました。
    今のミャンマーのような惨劇がタイにもあったんですね。殺された人は勿論、残された家族の人生を思うと心が痛みます。

    作者からの返信

    いつもご高覧いただきありがとうございます。
     以後本作シリーズ全般に登場する女性なのですが、いろいろ賛否あった登場人物でした。馳星周氏の作品は大学時代に好んで読んでいました!。あそこまで闇深く、また絶望的な最後というわけではないですが、ある種人間のエゴイズムのようなものを描いてみたいと思っていました。そんな馳氏を引用していただき、うれしかったです。

     実はエマという登場人物にはモデルがいます。恐ろしい話ですが、ほぼ作中の通りです。日本においては戦後こういう事例がないので、「革命や反政府運動で犠牲になった」といってもどことなく現実離れした印象を受けてしまいますが、ミャンマーだけでなく、タイや韓国もごく最近まで軍事独裁国家でした。ヨーロッパにおいてもこういう犠牲者は意外と身近にいます。

     エマという人物は後々明らかになりますが、生い立ちだけでなく、もっと深い闇を抱えています。こうご期待!

  • 1999年7月25日への応援コメント

    カオサンロードの名前の由来、アジア通貨危機の背景、知りませんでした。すごく勉強になりました!
    私がカクヨムに登録したきっけはタイ人の知人が小説投稿サイトを読みまくっていた事です。タイには親しみを感じますね。
    アジア通貨危機を経験してタイですが、彼は日本のラノベや漫画をネットで大人買いするなど、遥かに私より景気良さそうです。一歩、氷河期世代の私はブックオフと図書館巡り。この差は何なんでしょう……。
    まあ、タイは貧富の格差が大きいと聞きますし、彼は富裕層の方かもしれませんが……。

    作者からの返信

    コメントへのお返事遅くなり申し訳ございませんでした!

    さて、いよいよバックパッカーの聖地カオサンロードの登場です。
    私が初めてカオサンに行ったのは今から20年も前のことです。
    先日とあるネット記事を見て驚きましたが、今やバンコク全体から見ても割高な地域となり、ブティックや高級クラブなどがならぶ地域になったそうです。
    あの砂ぼこりだらけの通りがそのような変貌をしたとはちょっと信じられない気分です。(ちなみに今時はチャイナタウンとかそちらのほうが安宿街として重宝されているようです)。

    今や爆買い中国人よりもタイ人のほうが増えているといいます。当時の現地のタイ人の水準からすれば、とても東京などという割高な街に遊びに来たり、家電を買いあさったりなど考えられないです。

    そのタイ人のお知り合いの日本への傾倒ぶりは、一時期の台湾人のようですね!とうとう投稿小説界にも来ていますか!おどろき!ちなみに20年前当時のタイ人たちが知っている日本のアニメといえば、一休さんとキャンディーキャンディーぐらいで、世代が違いすぎて私も見たことがない。「イッ・キュー・サン!ティリティリッティ!」とか歌われましても…(笑)

    金は天下の回り物といいますが、本当だなと思います。本項は当時うかれた外人どもであふれかえっていたカオサンロードで感じたものを書かせていただきました。当時カオサンの往来で見かけるバックパッカーたちは、それはもう横暴でした。作中にもありますが「ここはおまえらの植民地じゃねぇ!」と怒るタイ人もまたいませんでした。その様子に若いながらも嫌悪を感じたのは間違いありませんでした。

    というわけで、次回はいよいよ「死闘、ムエタイ編」です!こうご期待!

  • 1999年7月27日への応援コメント

    ランブータンに久しぶりのソムチャイ…・・と思いきや、甘々エピソードでしたか!

    作者からの返信

    コメントありがとうございます!

    さてこの物語を甘く苦くする女・エマの登場回です。ランブータンは、そんな彼女の象徴です。毒々しい表層とは裏腹の甘い果実…。考えてみれば、そんな彼女と引き合わせたのはソムチャイがくれた彼同様の電池切れの時計でした!

    引き裂かれた初恋の人小莉《シャオリー》、おてんば姫のサキ、そしてヘル・クィーンのエマ(…ったく何人出てくるやら汗)。恋の行方は物語の先へ…


  • 1999年7月26日への応援コメント

    イヤンにアンに……ときて、しっかりイジってくれるアスカさんのエピソードはやっぱり面白いです。

    ムエタイまで挑戦されたんですね!
    素地があると他の格闘技も入りやすいものなのかな、と感じました。
    でも、やっぱりアスカさんのセンスかな……

    作者からの返信

    いつも応援ありがとうございます!
    そーなんです、バンコクでの初めての安宿は”愉快な仲間たち”の宝庫でした。まったくもって恥ずかしい名前の奴らがそろっており、客も従業員もないグダグダの宿でした。でもそういう感じが当時は楽しかったです。

    この旅行に行く前に、バンコクのガイドブックを見ていたところ、外国人にも開放しているムエタイジムがあることを知りました。体験入学でしたが、かなり本格的なトレーニングをさせていただきました。
    やっぱりオトコのコなので、戦うとか命を懸けるということに浪漫を感じてしまいます。でも、我々外国人のお遊びのあと、地元タイ人の選手たちのトレーニングやスパークリングを眺めていましたが、やっぱりカネのために戦っている連中は半端じゃなかったです。

    …というわけで次の戦いは香港。シンガポールで意気投合したディランと再会し、八卦掌というカンフーの修行をするの巻です!こうご期待!

  • 1999年7月20日への応援コメント

    私の中学の時のクラスメイトも「御手洗さん」がいましたが、「あの便所」と陰口をたたかれていました。御手洗さんの運命はどこも同じみたいですね。
    モスクワに住まれてたんですか!私は旅行でモスクワを一週間程旅した事があります。まだソ連崩壊からそれ程年月のたってない混乱期で(歳がバレますね)街中に物乞いがたくさんいたんですが、むちゃくちゃ上手にバイオリン弾いてたり、(プロか音大生が物乞いしてたんですね)。外貨が欲しいのか、品のいいおばさんから「両替してくれませんか」と声かけられたりしました。モスクワの話、ぜひ読みたいです。
    アジアの格闘技、むちゃくちゃ興味あります!私はトニー・ジャーのムエタイアクション映画やチャウ・シンチーのカンフー風(?)コメディなんかが好きなので、アスカジョーさんの作品もどんな強者が出て来るか気になります。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます!
    rainyさんのお近くにも御手洗さんがいらっしゃったのですね💦。それにしても”便所”は酷いですね(涙)。私の父が合気道の師範をしているのですが、その教え子の一人に「裸野(はだかの)さん」という人がいました。ヒグマみたいなむさくるしいオッサンでしたが、当時まだ小学生だった私はその名前を聞いても別段何も思いませんでした。後に私が高校生ぐらいになったときだったと思いますが、正月の年賀状を見ていた時、「そういえば裸野さんは、秦野(はたの)に変わったんだよな」という話題になりました。聞くと、その後彼は結婚し、娘さんができたそうですが、想像通り学校で名前のことでイジメにあったそうで(涙)。そりゃそうですよね、「三年A組、ハダカノ花子!」って呼ばれてもねぇ。男でも大きな声で「ハイ!」は言えませんね。で家裁に申し出て、裸野姓を捨て、秦野になったという話でした。

    本作「ノンストップアクション」シリーズは4部作なのですが、最後のEpisode4でモスクワの話が登場します。後年、私のメンターとなる立花さんという野心家のオッサン(実在)が登場します。この人も宝石商で、大学卒業後この人の下で2年余り修行させていただきました。今から20年ほど前の話です。
    rainyさんもモスクワに行かれたことがあるんですね!すごい!しかもソビエト崩壊直後という点にも非常に興味があります。前作Episode1ヨーロッパ編でもとりあげましたが、この時点でまだソ連崩壊やベルリンの壁撤去から10年余りであり、まだまだ不安定な時代だったのかと思います。路上にあぶれた天才も多かったのでしょうね…。

    私もトニー・ジャーや90年代までのくだらないカンフー映画マニアです(笑)。シリーズの中でもっともアグレッシブなのが、このEpisode2アジア編だとおもいます。タイではもれなく「死闘、ムエタイ編」があり、香港では「八卦掌編」、ソウルでは「テコンドー編」が待っています!。私はもともと中学生のころからカンフー道場に通っていました。高校では機械体操部だったのですが、大学に機械体操部がなかったため、「中国雑技部」というナゾのサークルに属し、その跳躍力や柔軟さを活かして京劇の女形をやっていました。放課後口紅を塗って校舎内を移動していたので、よくギョッとされたものです(笑)。

    いつもお楽しみいただきありがとうございます!今後ともよろしくお願いいたします!

  • 1999年7月19日への応援コメント

    とんだ災難でしたね!
    しかしカンフーも中国語も宝石鑑定も出来て江戸弁で啖呵も切れるアスカジョーさん、凄いです!
    私がバックパッカーやったら生きて帰れないかもしれません……。

    作者からの返信

    コメントありがとうございました。

    べた褒めしていただき、嬉しかったです(汗)大学の専攻が中国語だったことは、のちにおいても旅を続けるうえで非常に役立ちました。実家は宝石商を営んでいます(親父未だ健在!)。のちに宝石商の修行でモスクワで数年過ごしましたが、当時はまだそれほど捨て目が効いたわけではありませんが、それにしてもひどいイミテーションを渡してきたので、ついカッとなっとなって実家の汚い言葉(笑)が出てしまいました。

    旅から離れて20年近くたちましたが、「よくこんなことしたな;」と我ながら恐ろしくなります💦。私も旅に出る前は不安でいっぱいでしたが、言葉での情報が全くない状態においては、結構五感が働きました。大丈夫です、何とかなるものです!

    コメントへのお返事遅くなり申し訳ございませんでした。
    すてきな週末をお過ごしください!

  • 1999年7月17日への応援コメント

    駅でペットボトルの水、もダメですか。日本の「夏はこまめに水を取りましょう」というのと正反対ですね。まあ、冷房が効いてるんなら熱中症も大丈夫なんでしょうね…。
    こういう国だと、このコロナで外出制限とかマスク規制とかめっちゃ厳しそうな気がします。

    作者からの返信

    いつも応援ありがとうございます!

    気になってシンガポールのコロナ対策を調べてみましたが、やはりマスクなしは罰金の対象となっているようです。何かやらかせば科料って、男子校みたいですね(笑)。
    シンガポールは1969年にマレーシアから追放される形で独立を果たしているのですが、宗教や慣習の異なる人間が狭い地域に同居するうえで罰金制度が最も公平だったのではないかと思います。

    チューイングガムに対する怨念は特にひどく、一時期噛んだガムをエレベーターのボタンに張り付けるといういたずらが流行ったそうで、それにブチ切れた政府がチューイングガムの国内持ち込み禁止を決め、とんでもない額の罰金を設定したそうです。「そのレベルからかよ!」と笑ってしまいますね。

    ただ先進的な面もあり、記事によればアプリ提示で入国審査パスのシステムを世界に先駆けて導入する予定とか。非接触による感染対策として各国も注目しているようです。コロナによる観光業への打撃は尋常ではないと思いますが、率先してこうした対応に取り組まれているところに知恵も感じますね。

    コメントありがとうございました!

  • 1999年7月25日への応援コメント

    カオサンが「精米したコメ」だと初めて知りました。
    というかまだまだ知らないことだらけ。

    タイは一度だけアユタヤへ直行直帰(ドンムアン経由で列車移動)だったのでバンコクの街は一切歩かず……
    バックパッカーの、そして沈没者の多い街だと聞きますね。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます。

    アユタヤに行かれたのですね!タイは南北に長く、北部はトレッキング、中部は歴史、南部はビーチといった感じで、様々なアクティビティを楽しめる国です。私も何度か行きましたが、すっかり魅了されました!。

    カオが米で、サンが研ぐという意味だとか。つい最近ネットで「バックパッカーの”かつて”の聖地カオサンロード」という記事を見つけました。それによると、現在はバンコク市内でも割高なエリアになってしまい、すっかり安宿街から様変わりしてしまったと聞きました。私にとってバンコクとはカオサンロードそのものだったので、この記事には少なからず動揺しました。

    後の項でも触れましたが、当時も宿の受付に「MISSING(行方不明)」が貼ってあり、親御さんから「息子を見かけた方はご連絡ください」という内容のチラシを見かけることがありました。宿代含め、一日数百円で暮らせますからね💦。近頃ではそんな沈没者の生き残りが、無邪気なバックパッカー初心者をだましたりするケースも発生しているようです。怖い怖い💦

    作中にも書きましたが、当時はアジア通貨危機直後ということもあり、様々な旅行者が大手をふるって歩いていました。良くも悪くも青春の一ページになっている400メートルです。機会があればぜひ!

    今後ともよろしくお願いいたします。

  • 1999年7月24日への応援コメント

    部屋まで押しかけてこられるとなんとも恐ろしいですね。
    でも話を聞いてあげるアスカさん、お優しいです。

    ソムチャイさん、大人しいようでいて、ファンキー。
    突き抜けていることだけは確かですね。音楽で現実逃避しつつ、アクセルに思いの丈が込められている……!

    ヌンさんが渚の若大将になっていて笑っちゃいました。

    作者からの返信

    いい奴なんだけれど、恐ろしく間が悪く、鈍感な人。
    この話に登場するソムチャイもヌンも実在ですが、
    浅野忠信主演の『鈍獣』という映画をモチーフにしています。

    にわかには信じられない話かもしれませんが、
    冒頭にもあるようにソムチャイは銀行の窓口担当者で、
    両替に立ち寄った際に書いた申請用紙を頼りに、
    ソムチャイはホテルまで押しかけてきました。
    取り調べに対しソムチャイ容疑者は「外国人の友達が欲しかった」と供述したようですが、考えてみれば恐ろしい話ですね。

    空港までの送迎を買って出たにもかかわらず道に不案内で、
    小動物をひくわ、駐車場では隣の車にひっかき傷を作るわ、
    そこまでどん欲に笑いを求めなくてもいいのに、
    次から次へとやらかしてくれました。

    後年、ヌンからソムチャイのその後についてメールをもらいました。
    詳細はEpisode2巻末のエピローグにて!

    コメントありがとうございました!!




  • ~Epilogue~2019年5月11日への応援コメント

    アスカジョー様の御作品を拝読させて頂き、バックパッカーの旅にもう一度出掛けた気分を味わうことが出来ました。

    途中まで、色々なバックパッカー話が出来、とても楽しかったです。

    途中から、残念ながら、私のタブレットに不具合が生じ、今だ良くなく、本日、拙作を執筆する時も苦労しました。今も、このコメントはタブレットでなくスマホで、頑張って書いています(笑)。スマホは長文には向いてませんね〜。

    まあ、旅も日常も思いがけないことが起こります。
    そんな不便も、何事も経験ありきと前向きにいきたいなって思います。
    カクヨム交流を有難うございました!

    作者からの返信

    お返事遅くなり申し訳ございませんでした。
    そしてepisode2の読了ありがとうございました。

    なかなかこうしてバックパッカー経験者と語らう機会もなく、
    果たしてどこまで伝わっているのか不安でしたが、
    森山様との交流を通じて、バックパッカーに向けても伝わるものがあったと感じました。交流も含めてありがとうございました。

    本作は冒頭にもお伝えしたように、きわめて個人的な資料整理から始まりました。話も20年も昔のことなので、今の旅人にとっては資料的価値も少ないかなとは思います。しかしディープな部分においては今も昔も変わらないのかなとは思います。

    この後episode3、4と続いていきます。ただ旅の背景を描いていくのではなく、人との短い交流やアクシデントを通じて本質的なものを描いていきたい。それが執筆をつづける原動力でした。

    最終的に、「なぜ旅を始めたのか」ではなく、「なぜ旅を辞めるのか」という問いに向かって物語は進んでいきます。常々旅を始めたきっかけよりも、そのらせんから降りるきっかけのほうが大切だと思ってきました。その問いに正面から挑めたかはわかりませんが、20年前にふわっとした状態で終わってしまった旅への自分なりの答えにはたどり着けたかなと思っています。

    森山さんの執筆も楽しみにしております。ここまでお付き合いいただきありがとうございました。今後ともよろしくお願い致します!

  • 1999年8月12日への応援コメント

    お久しぶりです。タブレットの容量が多くなっているのか、長いコメントが書けなくなってしまったので、とりあえず読み進めました。(本来のカクヨムの自分の書くの方はこまめに保存することで何とかなっています。ただ、先日は、執筆中に一度かなりのボリュームが消えてショックでした!)

    まず、今回は何と美味しそうな中華料理!絶品ですね。

    それから、前に頂いたお題の「お得と思うもの」。やはりスーパーや市場でお買い得は色々ありましたし、ホテルなども交渉次第で安く泊まれたのはさすが海外と思いました。

    では、当分、短めのコメントになりそうですが、宜しくお願いしますm(_ _)m。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます!

    タブレットの調子がよくないとのこと。作家活動をしていくうえでタブレットやパソコンは必須アイテムですものね。私も以前、執筆に使用していたノートパソコンを階段から落として大破させてしまい、呆然とした経験があります。また近頃では夜中に執筆活動を進めていたら寝落ちして、自らの手で削除していたこともありました。後者はあまり関係ないですが、自分以外復元できないものばかりですものね。それ以来基本的にクラウドに保存するようにしています。私へのコメントはさておき、早めに環境が復旧するといいですね!

    さてまあ中国本土編も色々ですが、いよいよ北京にたどり着いたのですね!ありがとうございます。「世界で一番好きな街はどこですか?」と聞かれたら?。やはり迷いながらも僕は北京を挙げると思います。
    歴史や景観とかならもっとほかの候補もあると思いますが、私にとって青春の思い出が最も詰まった街だからです。
    本作に登場する張宇(ジャンユー)も実在で、紹介の通り、私が17の時に親善大使として訪中した際の相方です。そして彼の父親はホテルで副料理長を務めており、ホームステイの際はそれはもう「これも中華か!」という絶品料理をご馳走になりました。
    他にもこの後登場しますが、たくさんの友人や知人が住む街です。北京五輪後、あまりにも街が居丈高になってしまい、今の北京は好きではないですが、いつも「よく来たな!」と言ってくれる人たちがそこにいます。

    というわけでエピソード2もいよいよ終盤です。このあと北朝鮮や韓国の話も登場します。こうご期待!

    改めましてコメントありがとうございました!

  • 1999年3月11日への応援コメント

    まさかの京劇サークル!やはり持つべき物は特技ですね。
    しかし毛沢東を崇拝するスペイン人がいるとは!世界は広く、そして驚きに満ちてますね。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます!
    私は高校の頃機械体操部に所属しておりまして、その後大学で同じようなサークルがなかったのと、専攻が中国語だったこともあり、実際に京劇サークルに入っていました(笑)。柔軟性と跳躍力を買われて入部したのですが、放課後、紅をぬって薄ら笑いをしながら校舎を歩いていました。

    ヨーロッパは政治に強い関心を持つ人の割合が多いと感じています。実際にプラハで会った熱狂的な共産主義者の団体がモデルなのですが、おそらく少数派だとは思いますが、はばからずマオニズムがどうのこうのと大騒ぎしていました。

    現代の日本において政治活動に身を投じている学生など奇異でしかないと思いますし、たしかに昨今の内閣支持率やワイドショー国会を見ていると、政治家に何を託せというのだ、という気分になりますが、ヨーロッパはほとんどの国が他国と国境を共有しているため、よりよく暮らすためにも政治というのは専門家の領域ではないのだな、とこのとき感じました。

    いつも応援ありがとうございます!

  • 1999年7月23日への応援コメント

    ヌンさん、楽しそうな人ですね!
    日本語の解像度が高いような低いような。でもホントにひたむきさと心意気が素敵だな〜と思いました。アスカさん、打ち負かしちゃったんですね。

    箱根のゲストハウスで遭遇したアメリカ人の方もスマホにオリジナル日本語辞書を作ってました。確かスリッパを教えてあげたような……なぜその語だったかは全く覚えてないのですが。

    あ、あとゴッホネタ、全然気にしてませんよ。
    作品だけじゃなく、生き方やその存在までが、色んな人に色んな風に考えさせるという意味で影響力を持っているなと思っているだけで。
    誰しも、自分の視点で感じたことを大切にしていいと思うのです。
    押し付けずに、ただ表現したらいいのかなと。

    作者からの返信

    『ノンストップ・アクションシリーズ』の約150話の中で、私自身が最も気に入っているのが、今回お読みいただいたclub111(ヌンヌンヌン)の話です。飲んだくれて、バーの軒先で日がなプカリとやり、とりとめもないことを旅行者同士で語り合ったあの日々。あの当時の無鉄砲ぶりがよく出ており、読み返すたびに「若かったな」とニヤリとしてしまいます。

     ヌンだけでなく、東南アジアの露天商の英語力には驚かされます。ごく普通に英語で外国人とケンカするし、雑談にもかなり応じてくれます。日本人の英語力は、小学校から必須になったとしても相対的に向上するとは思えないです。東南アジアの露店などで商いをしている人々が受けてきた教育水準を想像すると、彼らがいかに実践の中で生きてきたかを考えさせられます。大切なのは、結局“必要か、そうでないか”ということなのかな、と。
     ヌンは今プーケット以外にも2店舗バーを経営しています。いまでもよき友であり、必ずあの時の腕相撲大会の話で盛り上がります!それにしても、誰が教えたのか知りませんが、オカマ=オネエサマには笑いました。あちらにはやたらそういう人が多いので、オネエサマン天国です💦。次項ではふたたびヌンが少しだけ登場します。

    いつも丁寧なコメントありがとうございます!今後ともよろしくお願いいたします!
     



  • 1999年8月5日への応援コメント

    こんにちは。今、コメントを書いていたのですが、何度書いてもクラッシュして切れてしまうので、今回は簡単に。どうしてかな???

    現地でカンフーの師匠に直接教えてもらえたなんて、凄いですね。青龍刀もすごく貴重に思えます。

    いよいよ上海。また続きを楽しみにしています。

    作者からの返信

    いつもコメントありがとうございます。何度もお返事を送ろうとしていただき誠に感謝です。なんでしょうね?カクヨムのサーバーの問題でしょうか?。いずれにしてもせっかく書いていただいたコメントがクラッシュしたにもかかわらず、一生懸命お伝えいただこうとしていただき、本当に感謝のしようもございません。

    香港でのカンフー修行は実話で、今でも押し入れにその時使った青龍刀が転がっています💦この話のハイライトは盧師匠の人となりで、とにかく乱暴なジジイでした💦。そしてシンガポールで友達になったディランのヘタレぶりなど、なかなか愉快に描けたかなとおもっています。ちなみに香港人のカンフー人口は、日本の空手人口以下で、若者など見向きもしません。僕らジャッキー世代としてはちょっと悲しい現実ですが、それに憧れて育ったブラザーズたちにとっては、聖地香港でのカンフー修行というものは、その意味合いにおいても大変深いものがありました。

    上海。この旅のきっかけとなった初めての恋人小莉(シャオリー)が住む街。果たして悲恋の結末とは…。こうご期待!

  • 1999年7月22日への応援コメント

    旅先での高揚感で疲れている自分に気づいていなかったけれど、ストンと眠りに落ちていく気持ちよさみたいなものを最後の部分で感じました。

    私はゴッホ大好きなんですが、確かに当時周辺に居た人達の目には異常にしか思えなかっただろうなと思います。
    「自分の生まれ育った土地が好きだからこそ排他的」コレって人間に共通する本質的な強みでも弱みでもあるのかなと。植物は環境に応じて自分を変え、動物は攻撃することで自身の環境を守りますから。
    ただ主観で判断して、違った視点を持つ者を刺す人は、宇宙人に遭遇した時、主観で接して一番初めに刺される役柄を設定されているようにも思えます。

    ここでのシシリア島マフィアに先日のTwitterでのお写真が結びついてしまって、ニヤッとしてしまいました(笑)

    作者からの返信

    大好きなゴッホをネタにしてしまい申し訳ございませんっ!
    悪いのは全てあの怪しい伝道師風のガスパールというフランス人でして…。

    たまたま、”なろう改定版掲載”の連載とコメントを頂いた項が被ってしまいました。あちらのほうでもコメントいただきありがとうございました。
    よくある例として、「大阪出身やからって全員おもろいわけちゃうで!」というヤツで、友人も関西弁を話すと妙な期待を込めた視線を送られることがたまらないとぼやいてました。
    私の大学はほとんどが地方出身者でした。飲み会に行くと必ず東京の悪口を聞かされるのがホントイヤでした。「水が臭い、道を真っすぐ歩けない、みんな冷たい、犯罪の匂いがする」などなど。そのたびに「やい!お江戸が嫌ならとっとと帰りやがれぃ!」とムキになっていたのを思い出します(笑)

    それは最もなのですが、応酬する前にきちんと地元について理解しておくことが大事ですね。私は海外でアニメ関連の質問をされるのが本当に苦手でした。普段アニメなどは見ないのですが、外に出るとやはりアニメ文化を通じた日本に対する憧憬に驚かされます。当時は「オレは大学生だからそういうのは見ない」と塩対応をくりかえしていましたが、もしかしたらこちらが日本人だと知り、「日本?知ってる知ってる!」という反応だったのかもしれません。それに対して打ち返すすべがなかったのは、まことに幼かったと感じます。無理に知識で張り合おうとするのではなく、まず「日本に興味を持ってくれてありがとう!」が先であるべきなのかな、と。

    これからもまだまだ個性的な面々が登場します。こうご期待!
    Twitterでも接していただき本当に感謝しております!
    今後ともよろしくお願いいたします!

  • 1999年3月6日への応援コメント

    「グルーヴ感」という言葉はよく聞きますが「民主化を求めるグルーヴ」という言葉は面白いと思いました!今、ミャンマー、タイ、ロシア、香港などの若者達の間で起こっている事もそれなのかなあ、という感じがします。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます。ロシアと南コーカサスや、香港、ミャンマーで起こっていることを見ると、まだまだ我々は地殻変動の上で暮らしているのだなと実感しますね。私がヨーロッパを訪れた90年代末や00年初頭は、ベルリンの壁やソビエト連邦崩壊から10年足らずで、その変革の余震がまだ続いている時代でした。
    私たち日本人は、国旗を振って民族愛を叫ぶ人たちを気味悪がりますが、ヨーロッパはそうして歴史や国境を塗り替えてきました。いずれの革命も、原動力は若者の力でした。それがやがて大きな力(グルーヴ)となり、あの重たいベルリンの壁を引き倒した。
    仕事柄学生さんたちと多く接しますが、やっぱり活力が足りないなと思う今日この頃です💦

    改めましてコメントありがとうございました!

  • 1999年8月2日への応援コメント

    いつもカクヨム交流を有難うございます。

    カナダ人ディランとの再会。旅の途中で知り合った人と、また旅の途中で再会するって、どうしてあんなに盛り上がるのでしょう(^^)!
    ヨーロッパではこういう再会はなかったのですが(知り合いにバッタリ会っただけで)、北海道をバックパッカーで約1ヶ月旅していた時に、あちらこちらで再び交流の再会があり、その度に皆でキャーっと喜び合っておりました。北海道のユースは旅人日記のようなものが、どこもよく置いてあって、そこに知り合いのメッセージを見つけ、あ、1日早ければまた再会出来たのにというニアミスも多々ありました。

    さて、お題ですが「バックパッカーで人生の糧になったこと。」私はサバイバル精神を鍛えてもらえたことですね。日常と違い足りない物が多くても何とかなる生き方というか。とりあえずある物で工夫したり。生きていく上での助けとなりました。

    後はやはり人に支えてもらって旅を続けられている実感が強いので、親切な人に会えた自分の人生に感謝の気持ちが大きくなり、また自分も返せる時は人助けをしてあげたいという思いが自然に生まれたこと。

    今は難しいけれど、本当は若い人には世界にどんどん出て行って色々な人や街に会い、色々な経験をして欲しいのですが。
    コロナ禍の前はテロもヨーロッパは怖かったし。難しい時代になってしまいましたね。





    作者からの返信

    旅先での再会って特別ですよね。ぜんぜん別のルートをたどってきたのに、同じ瞬間同じ場所での偶然に、何か神がかり的なものを感じますね。そして「また会えた!」という感情を体全体で表現されると、こっちも同じぐらい響きますよね。こういうところに人生の縮図が見えるというものが見えますね。

    ディランとはシンガポールでの意気投合の結果、香港での再会を約束したのですが、そういう約束の上での再会でもうれしかったものです。次項の場面だと思いますが、香港島にあるキティショップにあるアイスクリーム屋で、ディラン、アラン、そして私で撮った写真があります。これを見るたびに笑みがこぼれます。

    昔クラスに一人はいたジャッキー・チェン馬鹿だった3人は、とうとう聖地でカンフーの修行を始めます。意気込みや憧れは並々ならないのですが、ヘタレ3人衆はこのあと”伝説のカンフーマスター”にみっちりしごかれます。これもまた青春の思い出ですな。

    バックパッカーで得たサバイバル精神。小林紀晴の本に「…長旅から帰ってきてテレビを付けたら炊飯器のコマーシャルが流れていた。『なんとこの炊飯器、うち蓋についた水滴がこぼれてこないんです!』と謳っていた。本当にどうでもいいことに踊らされていたことに気付いた」というような趣旨の一文があり、妙に心に残っています。
    おそらく森山さんも、単に海外への憧憬で巡って来たのではなく、旅人としていろいろ工夫されてきたのだと感じました。あるもので済ませよう、という境地は、ただたんにツアーガイドの旗印に従って外に出た人には得られない感覚だと思います。

    人とのつながりもそうですね。私は奇跡的に旅先で出会った人たちと今でも多く繋がっています。これまでの物語に登場した人たちともつながっています。それぞれあれから20歳も歳を取り、色々な物語を見せてもらいました。仕事上で知り合ったわけではないので、もろにその人の人生観そのもととお付き合いさせてもらいました。そこから多くを学びました。そうした意味でも私にとっても旅での出会いは財産です。

    まだまだ旅は続きます。質問です。「旅で支払った額以上の価値だ!と思えたことは何ですか?」。まず思いつくのが食ですね。東南アジアを旅しているとフルーツが安くておいしいです。日本ではまずお目に掛かれない珍しい果物をキロ単位で買って、部屋で黙々と食べている時の幸せは計り知れないですね。あとは移動手段かな。Episode4でシベリア鉄道が登場しますが、4泊5日で当時15000円程度だったと思います。長距離バスや列車もたったこれだけ?という額でしたね。いかに日本の交通網が高いかということが分かりました。旅のお便り、お待ちしております!

    いつも応援ありがとうございます!

  • 1999年7月20日への応援コメント

    ラストサムライに会ってみたいな〜なんて呑気なことを考えていましたが、迫力のオヤジ様ですね。ヨハンナも容赦ない!
    合気道、習ってみたいなと思っていましたが、関節痛の試練が待ち受けているのでしょうか。
    ベンキマン夫妻、面白すぎます(笑)

    作者からの返信

    昨日に引き続きコメント頂き感激です!ありがとうございます。

    福岡在住のベンキマン夫妻とは今も交流が続いています。年賀のやり取りをさせていただいておりますが、数年前「息子は今度成人式です」と送ってきてビックリしました。あれから20年も経っており、計算上の祖語はないのですが、そりゃ歳を取ったわけだなと思い知らされました💦。

    合気道がというよりは、親から稽古をつけてもらうというのがよくなかったですね(笑)。落語や歌舞伎の世界でも、あえて子供を一定期間他の師匠の下に通わせたりするものですが、なるほどそうすべきだと経験上からも思います。私は子供のころから喘息に悩まされてましたが、その頃も「気の流れで治せ!」とか非科学的なことを言われたので、僕の中では合気道とオウム真理教の区別がないです(笑)。
     ウチのラストサムライはウザイですよ~(笑)。タカラレーベンのCMってご存知ですか?学者風冒険家みたいな白人のオッサンが、「なかったらどうするかだって?ハッ!なければつくるだけさ!」と訳の分からんことを語ってるアレです。顔は別にして、あのCMを電車の中で見たりするたびに我が家のラストサムライを思いますもん。すぐにマウントを取ろうとするし、何かと上から目線だし、世の中の隅々まで理解したみたいに思っています。

     私自身が芸人(昨日も女装加工にいいね!ありがとうございます笑)で、浅草や上野の寄席出身です。なので落語家さんとの交流もたくさんあるので、彼らの言い回しに影響を受けています。江戸っ子ぶってますが、頼られると断れねぇやな、みたいな生き方で、だいぶ人生を遠回りしてきていますね(笑)。

     お返事遅くなり申し訳ございません。バンコクに到着するまでの東南アジア編は私も気に入っています。「よくもまあヒデェこと書きやがる」と読み返しながら思いますが、わたしのイジリ芸が光っています。ぜひ今後ともお楽しみくださいませ!



  • 編集済

    1999年7月19日への応援コメント

    「江戸の職人仕込みの痛快な啖呵」は言葉そのものが解らなくても効き目がありそうです。昔の上司が江戸っ子だったので、懐かしい気持ちになれました。

    「近くの関帝廟から青龍大刀を借りてきて……」という辺りはアスカさんの文章の面白みが存分に発揮されているなあと、ニヤニヤしてしまいました。

    この事故って旅の経験談ですかね……
    どこにでも危険は潜んでいますが、これは結構怖いし対応に困りますね。

    作者からの返信

    いつも作品を楽しんでいただきありがとうございます!
    ゆっくり丁寧に世界観を旅していただき、作者としてもこれほどの冥利もありません。心から感謝いたします!


    このスクーターとの事故は実話です。しばらく消えぬアザになった程度で大事に至らず済んだのですが、いまだにあの団子鼻のオッサンの顔は忘れません。何より腹が立ったのは群衆に対してで、カメラを持って集まってきたものの、誰一人、「Are you Okay?」の三文字すらかけてくれなかったことです。幸い日本で事故に遭ったことはありませんが、おそらく誰か氏らが救急車なりを読んでくれることと思います。まったく東南アジアってなぁ命が安いなぁと感じたものです。

    実際私の家は代々続く職人の家で、口は悪いですが(笑)、粋(イキ)ばかりを第一にしています。先日もオヤジいわく、「店で『おひとり様ですか』っていうんで、『あったりめぇよ。それとも何かい?俺以外に”お半分様”だの”四半分様”だのが見えるってのかい?』って言ってやったぜ。言葉ってなぁとーんからんとサッパリしてなきゃいけねぇな」と訳わからんことを言ってました(笑)。結局自分が一番言葉が長いし、世間じゃそういう年寄りを「老害」っていうんですよ、ということが分からないようで💦。困ったオヤジですが、ある意味ラストサムライだなと面白がっています(笑)。

    まだまだこの先も個性的な奴らが登場します!ぜひお楽しみくださいませ!

  • 1999年3月4日への応援コメント

    すごく面白いです!次から次へ個性的な人達が出て来ますね。
    欧州の私の知らない側面も知る事が出来て、勉強になります。

    作者からの返信

    作品を見つけていただきありがとうございます。
    ネット小説界においてはだいぶ異端ではありますが、
    お楽しみいただき本当に感謝しております。
    またrainyさんの『虹の影は黒色』も拝読させていただいております。
    改めてコメントを寄せさせていただきたいと思いますが、
    「こういう作品を読んでみたかった」と大事に読まさせていただいております。
    今後ともよろしくお願いいたします。

    さて、rainyさんもヨーロッパにはご縁があったようにお見受けしましたが、
    本作は今から約20年前、私が大学生だった頃のバックパッカー旅行を元にした私小説です。それから大きく世界も変わり、とうとう「旅など呑気な」という世間になってしまいました。よって20年の壁は厚いのです、という言い訳が先になってしまいました。

    観光もいいですが、どちらかというと宿屋のカフェにたむろして、学生同士飽くことなく色々語り合ったことのほうが強く残っています。きわめてノンフィクションに近い作品なので、ノイシュバンシュタイン城でのジャパンドリームツアー一行や東大阪のパンや平川氏とはいまでも交流があります。これからも個性豊かな登場人物が出てきますので、どうかこうご期待!よろしくお願いいたします!

  • 1999年7月30日への応援コメント

    カクヨムのコメント欄でバックパッカー談義に花が咲かせられること、とても嬉しいです。私も自分のバックパッカー時代をアスカジョーさんの小説と共に振り返っております。中々、今までまとまって思い出す機会がなかったので感謝です。

    さて、今回のエマさんですが、外国の友達は男性、女性限らず、間違っていることは間違っているとはっきり言う気がします。私はその裏表のなさが気に入っていました。「空気を読む」とかないですものね。

    今回のお題は「バックパッカーをして人生の糧になったこと」は何ですか?私の答えを先に書こうかなとも思いましたが、やはり後にします(笑)。

    そうそう、Twitterにムエタイの写真をアップするお話がありましたが、残念ながらTwitterをやっていない私。また、いつか機会がありましたらぜひ拝見させて頂きますね。

    作者からの返信

    いつもご丁寧にありがとうございます。あの当時の熱い想いに耳を傾けてくださる方がいるだけでも、バックパッカーをやっていてよかったなぁと思います!

    海外旅行の話題が出ると、耳は反応するものの、特に響かない日々を送ってきました。やはりああいうスタイルの旅を楽しめる時期を過ぎてしまったことが大きいかと思います。でもこの物語の執筆を通じて、当時の自分が何を迷い、何を考えていたのかをたどる旅はとても楽しかった!。
    また新たな出会いにもつながっていることに感謝しています。コメントを寄せていただく方のほとんどは作家仲間なのですが、まれに森山さんのように実際にバックパッカーをされていた方々からも評価していただき嬉しく思います。

    バックパッカーをして人生の糧になったこと。(…とここまで書いて10分以上経ちました💦)。というのも、あの当時の周囲(親や身近な人たち)はあまり好意的に見てくれませんでした。放浪癖がつく、アタシと旅行どっちが大事なのよ!、就職活動に乗り遅れるぞ、などなど。そういう外圧と戦いながらだったので、自己肯定感がゆがんでしまったと思います。

    ただ、悪いことばかりではなかったです。私は生真面目に行く国の概要や歴史をかなり勉強してから行っていました(まだインターネットも充実していなiい時代に!)。私にとっての旅とは、現地にいる時間だけではなく、そうした知識を蓄積している時間も含めてのものです。圧倒的に世界への関心度は高まりました。そうした中で「日本ってどうなんだろう」と見る流れができたので、知見は広がったと思います。
    そして何よりも、あれだけの旅をたった一人で企画し、たった一人で成し遂げたという自信がもたらしてくれたものは大きいです。漠然とした回答かもしれませんが、その企画力、そして行動力において、誰かを頼らなくなったのは結果的によかったのかもしれません。

    ぼやんとした回答になってしまいスミマセン💦。旅を辞めて数年後、高校時代の親友と再会したときに、「たとえばオレが仕事で成功したり、億万長者になれたとしても、オマエには勝てねぇな」と言われたときはとても嬉しかったです。最高の誉め言葉でしたが、そうした誰にも盗めない自信に繋がっていきました。

    森山さんのバックパッカー時代は、その後の人生においてどのような影響をもたらしたのでしょうか。ぜひお聞かせくださいませ!いつも交流をしていただきありがとうございます!

  • 1999年7月29日への応援コメント

    いつもカクヨム交流を有難うございます♫。

    私も、自分がバックパッカーの旅から帰ってから、世界にはかなりの日本人が行方不明になっている話を聞き、ゾッとしました。自ら行方を絶ったのか、事件に巻き込まれたのか。自分はかなり神経質に行動していたとはいえ、無事帰国出来たことに改めて安堵したものです。

    「沈没」ですか。私は一応(笑)女性なので、ユース以外の安宿には基本、泊まらないのですが、一度だけイスタンブールでバックパッカーの溜まり場のような安宿に泊まることになってしまい、そこで確かに数名「沈没」している日本人の方を見ました。その安宿はあまりに居心地が悪く、とにかく無事を祈りながら一晩過ごして次の日の朝、速攻で普通のホテルに移りましたが。何事もなくて本当に良かったという思い出です!

    さて、お題ですね。アスカジョーさんはモンゴルでの壮絶体験からお酒は受けつけなくなったのですね!大変でしたね。私もそれほど飲む方ではありませんが。
    ジャマイカはラムの産地で、とにかくラムベースのカクテルが本当に美味しかったです。あとは、ベルギーで「フレンチコーヒー」と呼ばれているものは、アルコールが効いたコーヒーでこれもまた美味でした。今でもあるかしら?

    アスカジョーさんからのお題「アクティビティ」。アメリカそしてイギリスの留学中はもちろん、色々なアクティビティに参加しているので、ここではまず、旅先に限った話とさせて頂きますね。留学中の話は、またどこかで、お伝え出来ればと思っています。

    2つ思い出深いものがあるのですが、どちらも偶然、海です。1つはグアムでのパラセーリング。もう1つはジャマイカで小さな帆船(ヨットのようなもので帆に繋いだ綱?で操るやり方)に現地の人に乗せてもらいました。風を切って颯爽と海の上を滑るように進み快適でした♪。

    では、長くなりましたので(笑)、今回、私からのお題は一度お休みして、また次のコメントで出させて頂きたいと思います!

    作者からの返信

    こんばんは。日に日に春の足音を感じますね!
    ちょうど一年前になりますが、熊本の天草地方に行きました。
    ボタンエビ漁が盛んな地域で、私が訪れた春先はすでに時期を過ぎていましたが、漁村近くにある寿司やで食べた握りは忘れられませんね。
    色々な思いが去来しましたが(episode4エピローグに登場)、
    やはり旅は一人に限るな、としみじみ思いました。

    さて、今回も「旅人質問コーナー」に回答していただきありがとうございます。
    私も海育ちではないので、マリンアクティビティは特別感がありますね。
    ジャマイカの帆船のお話しには、海の風を感じました。
    気持ちいいだろうな、って。だってカリブ海ですもの!
    素敵なお話しありがとうございました。

    さてさて。海外で見るmissingのポスターにはゾッとしますよね。
    自分とそう年も変わらない青年が忽然と姿を消したニュースは、
    とても他人事ではなかったです。
    そもそもバックパッカーとは、70年代ヒッピーと区別するために生まれた言葉なのだとか。70年代当時の聖地はアフガニスタンでした。
    今でこそアフガンといえば、話し合いの通じない原理主義者たちの洞窟をイメージしますが、当時はまだ王国で、1$あれば、宿代、食事代を払い、怪しい葉っぱを買って、なおお釣りがくる国だったと聞きました。
    「オレはああいう連中とは違う!」という意気込みも込めて、バックパッカーという新語ができたのは何となく理解できますが、つまり表裏であり、
    その境界線もあいまいなのでしょう。

    私は当時から”旅”という単なる消費行動に対して、妙に文学的に見ていました。つまり、「オレは何のために旅をしているのか?」とか、「旅の意義はどこにあるのか?」など、小難しく考えていました。
    これについては良し悪しはあると思いますが、旅人として超えてはいけない一線については注意深く見ていたほうだったと思います。おかげでそれほど危険な目にも合わず、また「もうこれ以上バックパッカーはいいだろう」という踏ん切りにもつながりました。その辺りの経緯についてはまた後日(笑)。

    さて、エマという女性が登場しました。彼女はこの後の物語全般に登場する人物なのですが、どこかすべてを投げうっており、世の中に対して斜に構えている人物です。ふと、沈没組に通じるところがあるな、と思いました。ちょっときわどい表現もありますが、平にご容赦くださいませ。

    次回のお題楽しみにしております。いつもお楽しみいただきありがとうございます。

  • 1999年7月26日への応援コメント

    ムエタイの後のシンハビールは美味しかったでしょうね。

    お題「夜景」はパリでしたか。パリはクリスマスイルミネーションがよくテレビでも取り上げられますが綺麗ですよね。

    アスカジョーさんからのお題「行きたかったけれど行けなかったところ」。わー、多過ぎて困ります!リスボンもそうです。旅好きの友人2人が世界で一番好きな場所に挙げてますから。

    もう少し絞って「行く予定で近くまで行ったけれど予定変更で行けず行きたかったところ」。アメリカのグランドキャニオン。スペインのトレド。フランスのモン・サン・ミシェル。ああ、本当に口惜しい。あと一歩で行けず残念でした。

    では、次のお題。シンハビールが出ましたので、世界で一番お酒✨の美味しかった国はどこですか?ワインやビール、ウィスキー、カクテル類など何でもありです。私はそれほど飲みませんが、旅先でそこでしか味わえないお酒を頂くのは興味があります。
    アスカジョーさんのお薦めはどこの国でしょうか?楽しみにしています。


    作者からの返信

    お酒ですね💦
    作中で主人公は実にうまそうに酒を飲むシーンが多いのですが、
    筆者は実はほとんどダメなんです💦あの当時(ギリ未成年)はまだ飲めたんです。バーテンダーのバイトもしていたぐらいです。
    後述になりますが、モンゴルに行きましてね。モンゴルと言えばアルヒという酒があるというのを本で読んでみました。馬乳酒と呼ばれるもので、革の袋にレーズンなど発酵種と馬のミルクを入れ、馬に括りつけて移動するんだそうです。そうすることによってちょうど攪拌されて出来上がり。
     その話に惹かれて、現地で探してみたのですが、「アレは夏の飲み物だからない」と方々で断られました。その後モンゴルから北京に向かう寝台列車で、「ホレ!それだったらここにあるぞ」と同じコンパートメントの商人が足元から一升瓶を取り出しました。それを無理やり飲まされたのですがね…。腐ったヨーグルトに酢と酒を入れたような、と形容するしかないひどいものでした。断れず一気したところ、極度の呼吸困難に陥り、そのまま気絶してしまいました。
     以来、アレルギーです。注射の消毒ですら腫れます。非常に経済的なたいしつになりましたが💦そういうわけでこの20年ほとんど酒なしです(笑)。飲み会では端っこの方でウーロン茶をチビチビやっています。

     というわけで少しも答えになっていませんでしたが、思い出に残っている酒といえば、チェコで飲んだ”ホットビール”です。黒ビールにスパイスを入れて小鍋でにたたせたものなのですが、寒い冬にはありがたかったです。森山さんは結構イケる派ですか?お酒飲める人がうらやましいです!


    さて、今回はムエタイ編ということでだいぶ命知らずのアクティビティに参加しました。近くTwitter上でその当時の写真をアップする予定です!

    ではそうですねぇ、「現地で参加してよかったアクティビティは?」。私はこの後いくつか登場しますが、アジアでの格闘技修行が楽しかったです。男の子ですね、「傷もないまま死ねるかっ!」なんてね!


    いつも応援ありがとうございます!素敵な週末をお過ごしください!
                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            

  • 1999年7月25日への応援コメント

    いつもカクヨム交流を有難うございます。前回の返信では、過分なお言葉を頂き恐縮しております。

    1997年のアジア経済危機がこんなに大変だったとは知りませんでした。アスカジョーさんは物知りですね。留学時にタイ人の友達もいたので、タイで経済危機の煽りにあったかも知れませんね。交流が途切れているので実際は分かりません。大丈夫であれば良いのですが!

    さて、今回のお題ですが「夜景で1番良かった所は?」です。私は、ニューヨークのマンハッタンへ対岸から橋を友人の車で渡りました。マンハッタンの夜景がそれは綺麗で、近付くにつれ光の波に飲み込まれそうになる感覚でした。

    様々なバックパッカー話は、まだまだ、続きます♬。

    作者からの返信

     「一番良かった夜景」ですね?う~ん、意外と難しいですね。
     もし私もニューヨークに行ったことがあれば、きっとマンハッタンを選んでいたと思います。お話を聞いているだけでも、とても素敵な光景を目にされたんだなと伝わりました。
    バックパッカーを続けていた時、最後の旅はアメリカ横断と決めていました。もちろんゴールはニューヨーク。ところが色々あって諦めてしまったんです。
     昨年末、2年に渡る「ノンストップ・アクションシリーズ」の連載を終えました。本作は社会に疲れ、挫折した主人公が、20年前の旅の思い出から勇気をもらい、再び自分なりの”人生の旅”に出るというプロセスを描いた長編です。そのラストとして、20年前に諦めてしまったニューヨークのシーンを描こう。そうした構想は随分前からありましたが、コロナの影響でそれはかないませんでした。

     ニューヨークもテロ後は変わってしまったとよく聞きますが、いつかは行ってみたいと思っています!さてさて、夜景ですね💦やっぱりパリかな。その後仕事も含めパリには何度か行っていますが、パリは最初の旅行におけるゴールだったため、その時エッフェル塔から眺めたパリの夜景は、キレイという意味以上のものがありました。


     さて、今回はアジア通貨危機直後のバンコクからでした。建設途中のまま放置されている高架橋やビルなど奇妙な絵をあちこちで見かけました。またとにかく好レートで豪遊できたことや日本での就職難などもあり、いわゆる「現地沈没組」というのも多く見かけました。
     そんな思い出のバンコクですが、様々な思い出がこのあと展開されます。こうご期待!


     そうですね、今回はこんな質問どうでしょう?「行ってみたかったけれど行けなかった場所を一つ選ぶとしたら」。私はリスボン・ポルトガルです。ヨーロッパの中でもかなり貧しい国だと聞きますが、人がとてもよいと聞きます。また街並みも哀愁があってよいと聞きました。そこから大西洋を眺めて見たかったなぁ…。森山さんにはどんな光景が浮かんでいるのか楽しみです!

     いつもありがとうございます!

  • 1999年7月22日への応援コメント

    いつもカクヨム&バックパッカー交流を有難うございます!

    千代紙。私も旅人時代は必ず折り紙を持ち歩いていました。ちょっとしたお礼に鶴を折ってあげると“Magic!” と喜ばれ、どれだけ折ったかわかりません。

    さて、まず前回の返信を有難うございました。バックパッカーとして気を付けるべきこと、まさにその通りです。荷物は少なくは原則で、少ない衣類をユースのコインランドリーで洗っては次に進んでいたものです。地球の歩き方も必要なページだけ切りましたね。

    私は、英語に関しては大学が英語重視の大学だったので、集中的にまず英語を学び、研究学問としては社会学寄りの専攻でした。アスカジョーさんはオーストラリアに留学もされていたのですね。ノンストップアクション・シリーズでオーストラリアがまた出て来ると思いますが、ケアンズとか行きたかったのに行けていない場所の一つです。

    お題の旅先での本。旅先では「地球の歩き方」で次の予定を検討。留学中は、絶対、恋しくなると思い、船便でかなり日本の本を送ったのですが(今ならAmazonでどこでも手に入るのかな?)、結局、勉強に追われ、日本語の本はほとんどよみませんでした。その中で、唯一、俵万智の「サラダ記念日」は当時の愛読書。自分も短歌をたくさん書きました。いつかカクヨムに投稿させて頂くかも知れません。

    これには後日談があって、帰国後、数年経って、東京で演劇を見に行った私は俵万智さんにロビーで会い、立ち話が出来ました。留学中に作った短歌の話とか。嬉しい思い出です。

    さて、今回も長くなりましたので、お題は次回にしますね。まだまだ、私の方はお題がありますよ〜。カクヨム&バックパッカー話は尽きませんから(笑)。アスカジョーさんの旅先&留学先のお供だった本は何か、楽しみにしています。


    作者からの返信

    いつもありがとうございます!
    森山さんのような聡明な方とこうして交流を続けさせていただき、
    本当にうれしく思います。創作や旅など様々な面で深い話ができ、
    このやり取りをとても楽しみに感じています。本当にありがとうございます!

    さて、今回は”現地人から見た旅人”というテーマを取り上げてみました。
    イタリア人のアンジェリーナとは、クアラルンプールの長距離バスターミナルで知り合ったのですが、「ピッツァにマフィア。イタリアはそれだけじゃないわ」と言っていたのを覚えています。

    後年タイのピピ島のビーチで、現地人にクスリを売りつけられました。
    「いらない」と立ち去ろうとすると、「なぜだ?」と返ってきました。
    「日本人なら買うでしょ?」と言われ、ショックを受けました。
    日本人に対してどんなイメージを持たれているのかわかりませんが、
    何ともバカにされたような気分になったのを覚えています。

    一歩外に出ると、日本にいるとき以上に日本人らしさを求められますね。
    欧米人が「オレはオレだい!」と気にしないのに対し、
    日本人のこうしたホスピタリティって特殊だと感じます。
    外国人からの目線に慣れていないともいえるし、
    何とか喜んでもらおうと知恵を絞ることができる国民なんですね。

    私の本職はマジシャンなので、そういう意味での武器はたくさんありました。荷物が増えるのはイヤでしたが、かならずトランプは持っていました。


    短歌は美しいですね。決められたリズムの中に情緒を描写するというのは、高度なスポーツだと思います。ぜひ森山さんの作品も拝読したいです。
    俵万智さんにお会いしたのですね!素敵な体験でしたね。

    さて本について。とにかく徹底的に荷物を減らすことについて、ある種の美学すら持っていたので、読み物の類は一切持っていきませんでした。ただ、旅の目的は”旅日記を書くこと”でもあったため、とにかくその国の本は読み漁りましたね。中でも司馬遼太郎さんの『街道をゆく』シリーズからはたくさんの影響を受けています。あとは辞書を読み物として楽しむ癖があって、
    暇なときは電子辞書を読み物にしていました。

    たくさんお題をお持ちとのこと。いつも私ばかり質問させていただいていたので、今度は森山さんからの質問をお待ちしています。旅についてだけでなくても構いません。せっかくのご縁ですので、何でもどうぞ!。

    いつも応援ありがとうございます!励まされています!

  • 1999年7月19日への応援コメント

    いつもカクヨム交流を有難うございます。

    旅先での事故は怖いですね。大ごとにならなくて本当に良かったです。

    さて、前回のコメントで、私の言い方が悪かったみたいです。ケンブリッジに「自分の大学の町から」通ったと、お伝えしたかったのが、分かりにくくて御免なさい。つまり、私はケンブリッジでない、地方の大学です(笑)。ちなみにオックスフォードでもないです(笑)。ケンブリッジと違って、何もない町。遊ぶならロンドン、憩うならケンブリッジ。でも、寮に住んでいたので、何もない分、友達関係は厚かったです(笑)。楽しかった!

    アスカジョーさんはモスクワに住まれていたのですね。すごい!ロシアと中国(大陸)は足を踏み入れておらず。羨ましいです。

    ジャマイカはおっしゃる通り、モンテゴベイ。毎日、カリブの夕日を眺めながらCheers! カリブ海はまさに天然のエメラルドグリーンでした。実は、インパクトあるエピソードがあるのですが、拙作に使用しているので、今は内緒です。

    国際恋愛は、ふふ♪。ご想像にお任せします。

    それから、ご質問の「港町」は、鉄道メインのバックパッカーだったので、中々難しいですが、強いて言えば、エーゲ海クルーズで出発したアテネ、同じく黒海クルーズで出発したイスタンブール。そして、案外、私が良いなと思ったのがアメリカのボストン。自分はカナダに近い国境近くの町に交換留学(これは学部の時。日本の大学から)していたので、海が回りになく、ボストンに遊びに行き、海を見て、フィッシャーマンズワーフで美味しい海の幸を食べたから港町気分でした。

    では、今日のお題は、バックパッカーをしていて、一番気を付けたことは何ですか?注意したこと、気にかけたこと、何でも良いです。

    拙作にも応援を有難うございます。とても嬉しいです♫。

    作者からの返信

    こんばんは。カクヨム交流、素敵な言葉ですね!
    もはや作家同士というよりバックパッカー同士の交流という感じですが、とても嬉しく思っています。

    それにしても森山さんは本当に海外経験が豊富なんですね!バックパッカーとしてだけでなく、英米両国に留学経験までお持ちとは!素敵です。
     私も短期間ですがオーストラリアに留学しておりました。Episode3はそこでのストーリーとその後バスでオーストラリアを周遊した時のお話です。でも、やはり英米に行かれていたと聞くと、やっぱり格が違うなと思います。正しい英語を学ばれたのだなって(笑)。大学では英米学科ですか?。私は作中の通り中国語学科でしたが、中華圏への留学はしていません。

     港町へのご回答ありがとうございます。アテネもイスタンブールも行ったことはありませんが、ボストンには一度あります。いいですね、私もボストンは好きです。日本でもそうですが、港町に流れるゆったりとした時間が好きです。
     バックパッカー時代に気を付けていたことですね!。これも切り口によって異なりますが、出発前のことでいえば、極限まで荷物を減らすことを意識していました。これは作中にもあるように、ベルリンで襲撃(!!)されて以来、頼るべきは情報やアイテムではなく、逃げ足だと悟ったからです。地球の歩き方も必要なページだけ縮小印刷して持っていきました。
     旅行中に気を付けていたことはあまりないかもです。しいて言えば、夜で歩かない、ぐらいかと。食べ物は水と油さえ気を付けていればそれほど。僕は移動型だったので、とにかく列車やバスに長距離揺られることがあったので、体調不良は怖かったですね。でも案外と「海外にいる」というだけで緊張感が持続できたのか、それほど体調不良はなかったです。
     それよりも強盗やスリという、日本ではあまりお目にかからないタイプの犯罪者のほうが怖かったかも。持っていくカバンには、切られても中身が出ないように、薄いプラスチック版を入れていました(笑)。まあ、これは長距離移動中、日記を書くためのテーブルとして機能していましたが。とにかく肩掛けカバン一つでいく。それも驚くほどライトに。ここにはすごくこだわっていました。(スミマセン、質問の趣旨からはずれてしまって)。

     そんな中マレーシアでのバイク事故はちょっと厄介でした。記載通りのことが実際起こりました。骨折に至らなかったのでよかったですが、危うく落命するところでした💦

     そうですね、ではまた別の角度から質問させてください。「旅先に持っていった本の中で印象的だったものは?」。あるいは、出発前後で読んで納得したものは?。旅行記の類でなくても構いません。きっと本はお好きだと思いましたので(笑)。

     いつも応援ありがとうございます!

  • 1999年7月18日への応援コメント

    遠距離恋愛は、90年代は本当に大変でしたよね。今みたいに、簡単につながるビデオ通話もないし、国際電話は異常に高く、唯一頼みの手紙もメールと違い日数が掛かりましたね。

    マレーシアは日本人の友人が住んでいて、地元の人しか知らない穴場に案内してくれたので、ラッキーでした。中でも、クアラルンプールから少し離れた場所の川で小舟に乗ってホタルを見たのは忘れられません。木が蛍の群れで、“光の木”となって輝いていたのです。

    さて、今回のご質問、「良かった街は?」ですが、あり過ぎて選べず、実は困っております(笑)。
    でも、何とか選ぶとすれば、ブルージュ(3回も訪れたほど)、ヘルシンキ(森と湖)、そしてケンブリッジ(イギリス留学中に、自分の大学の町から何度も行って滞在)かしら。都会のベストは、フィレンツェ、パリというアートの街。アテネも圧巻。

    そして、やっぱり選びたいのが、ザルツブルグ、アッシジ、ニースでしょうか?あ〜、本当にどの街もそれぞれ魅力があって!

    長くなりましたが、私からの質問は「インパクトが強かった国は?」です。私はジャマイカでした。

    では最後に、早速、拙作にお寄り頂き、応援まで頂き、とても、とても嬉しいです。感激しております♫。ただ、くれぐれもご無理せず、シーズン1 からでも、あるいは、前回お話した旅が出て来るシーズン2からお寄り頂いても大丈夫ですので。ゆっくりご覧頂ければ、嬉しい限りです。この場をお借りして、お礼をお伝えさせて頂きますね。有難うございます!!



    作者からの返信

    すごい!ケンブリッジに留学されていたんですね!優秀な方だぁ~!

     「よかった街」について丁寧にお返事いただきありがとうございました。たくさんの街が登場しましたね。僕自身は東京生まれで、自然や史跡もいいのですが、やはり町を流れる人間を見ているのが好きなんです。日本も海外もそうなのですが、有名な観光地がある街などは、当然街を上げてそれで食べているので、どうもハリボテ感がしてしまい、「まぁすごかったけど」というむなしい感想だけが残ってしまうんです。街というものは、ザ・生活がギチギチに詰め込まれている場所です。だから共感しやすいし、差が見つけやすい。僕はそんな感じで、バックパッカー時代もせっせと観光地にはいかず、朝からカフェで人間ウォッチをしているような変人でした💦。
     あげていただいたいくつかの街はこの後のEpisodeでも登場しますが、あまりちゃんと景色を描いてなかったなぁと反省💦。ザルツブルグやケンブリッジ、ブルージュもそうですが、ヨーロッパには歴史的景観を第一に考えている街がたくさんありますよね。日本にも都市計画法の中に景観法というものがあり、一帯としての風靡を保護するやり方がありますが、京都とヨーロッパを比べると、やはりヨーロッパのほうが徹底されているんだな、と感じますね。ザルツブルグには行ってみたかったです。ウィーンよりもいい、とよく聞きました。

     ご質問ありがとうございます。「インパクトが強かった国」ですか。う~ん、どの角度で切り込むかにもよりますが、やはりロシアと中国かな、と。作中にもあるように、私は大学で中国語を専攻していました。また大学を卒業してすぐに2年間仕事でモスクワに住んでいました。別に共産主義者でもなく、たまたまそういうキャリアになってしまったのですが、やはり社会主義国家というのは、よその国では見れない”極端さ”があり、いい悪いは別にして、それは十分エキゾチックでしたね。日本では考えられないほど幅の広い道路(有事には爆撃機の発着ができるように、ということみたい)だったり、全部同じ高さのビルが並んでいたり、とか。他の国の街はどこか既視感がありますが、北京やモスクワのインパクトはちょっと特別だと思います。

     ジャマイカ!すごーい。そんなところまで行かれたのですね!!行こうとは計画していたのでそれなりに調べました。モンテゴベイですか?キングストンはアレなので、どの本もあまりお勧めはしてませんでしたが、どうでしたか??ぜひ聞きたいです!。どんな感じなんだろう?。イメージ通り、ドラム缶を真っ二つに割ったバーベキューで、レゲエを聞きながらジャークチキンを焼いているのかな?。カリブ海ですから海は特別でしょうね!!

     ではその流れで新たな質問。「一番良かった港町はどこですか?」。港町っていいですよね。

     さて、マレーシア。スミマセン、それほど旅情を描いてなくて。蛍の樹の話はすごく印象的でした。両岸で光り輝く樹をみながら、ゆっくりとボートが過ぎていく絵が浮かびました。東南アジアはやはりこうしたアクティビティが充実していますよね。山あり海あり。シンガ、マレー、タイと並べた時、「シンガは高すぎるし、マレーはイスラムなので刺激が少ない、ああやっぱりタイだ」という評価は昔からありますが、マレーシアはまた行ってみたいです。マラッカは行くべきだと色々な人から言われています。密林ジャングル探検も楽しそう!
     そうですね、あの頃の国際恋愛はたいへんでした💦。(もしかして森山さんも経験者?)。でもそのあり得ないほどの遠回りにつよい毒性があるんですね。それに気付かずどんどんドツボにハマっていました。若い頃の懐かしい思い出です。
     
     いつもご丁寧な感想(いや、もはや交流というレベル!)をいただき、森山さんとの出会いに本当に感謝しております!。もしかしたら、どこか旅先ですれ違っているかもしれませんね!今後ともよろしくお願いいたします。

  • 1999年7月17日への応援コメント

    シンガポールはまだ行っていないので、アスカジョー様の話でイメージがわきました。次は知っているマレーシアなので、これもまた、楽しみです!

    いつも、コメントに、丁寧に温かな返信を頂き、こちらこそ、嬉しく思っています。バックパッカー時代は、本当に私の青春♫だったので、その話を今頃、こうして色々交流出来るのはとても楽しいです。最近のバックパッカー事情も教えて頂き、有難うございました!そうです、私達は「地球の歩き方」世代♫。地球の迷い方なんて、別名もありましたが(笑)。こちらこそ、これからも宜しくお願いします!

    ちなみに前回の質問の美味しい国はやはりベルギー。そして台湾。台湾では現地の友達が連れて行ってくれたレストランだったので、また格別でした。逆に、ダメだったのは、やはりアメリカとイギリスです。ただ、どちらの国もチャイナタウンでは美味しいものが食べれましたし、アメリカではメキシカン料理は良かったです!また、イギリスでは偶然泊まった小さなホテルの食事が一度だけ嘘のように美味しかった(笑)のを覚えています。だから、旅は面白いですよね!

    旅といえば、拙作「妃家の首飾り」が、シーズン2は異国編で、主人公達が旅に出ます。その中で、実際に私が体験した面白エピソードを脚色しておりますので、良かったら、また一度、お時間の許す時に、お気軽にお寄り下さいね。と言いましても、まだ本編シーズン1 が始まったばかりで、シーズン2はまだ随分、先ですが(笑)!


    作者からの返信

    いつもコメントいただきありがとうございます!
    『深夜特急』の沢木耕太郎氏も「近頃の若者は海外に出たがらない」と雑誌インタビューで嘆いていましたが、私たち(と括って失礼ないか心配💦)にとっての青春時代をこうして語り合えることを非常に嬉しく思います!作品を見つけていただき本当にありがとうございます。

    さて、私が行った20年前、いや沢木耕太郎氏の時代から、「シンガポールは東南アジアでもお高く留まっていて」と歓迎されていませんでしたが、今は10人に一人はミリオネアと言われる国になってしまいました。なるほど安宿街はありますが、それでもマレーシア、タイに比べたら、「さっさとここを出よう」という額です。そんなシンガポールでの思い出にお付き合いいただきありがとうございます。ディランは実在で、今でもたまにメールのやり取りをしています。

    やはりベルギーの味は格別でしたか!。それに引き換え英米は相変わらず評判悪いですね(笑)。ヨーロッパではオランダも「ケチ臭い料理」と笑われますね。私はエスニックが大好きなので、やっぱりタイ!。今でもジャスミンライスが炊き上がる香りをかぐと、目じりが下がります。逆は…モンゴルかと💦Episode4でその辺りは語りますが、とにかく何でも塩味。ミルクティー(ステイツァイという飲み物)にも塩!。モンゴルの正月料理にチャンスンマハという料理があり、材料は肉(羊)、塩、水。海水程度の塩水で、斧でぶった切った羊肉を茹でる。以上っ!内陸の為、もともと塩は貴重品だったため、これでもかというほど塩を使うということはもてなしを表すのだとか。そりゃ死因早死にします。

    いつもご丁寧にお返事いただきありがとうございます!。森山さんもご質問等ございましたらご遠慮なく!では今回は「行った中で、一番良かった街は何処ですか?」。遺跡や観光名所ではなく、あえて街です。あればまた教えてください!

    作品のご紹介ありがとうございます!早速拝読させていただきます。森山さんの旅に対する考え方とかがうかがい知れるかもしれないと楽しみにしています!いつもありがとうございます!おやすみなさい!

  • ~Prologue~2019年1月20日への応援コメント

    今流行りのボッチキャンプですね。憧れますが女性は少し安全面で気を使います。男性諸君がちょっと羨ましく思える点です。

    バックパッカー時代も、そういう意味では神経を使いました。とにかく危ない目にだけは会わないようにと!

    アスカジョー様からの前回の質問の答えです。「旅のテーマは?」ということでしたが、とにかく「異国の街を見たかった」ですね。そして、ただ、駆け足で見るのではなく、「ちょっと住むような感じで、街を味わいたかった」でしょうか?「その街の空や風を知り、昔からの道を歩き建物に触れ、そして郷土料理を味わう。」

    だから、気に入った場所には5日間ぐらい、よく連泊していました。今、思うと、もう少し動いても良かったかな、もっと色々訪れることが出来たのにと思いますが、あの頃は、それが当たり前のようなペースでした。ツアーでない長旅の醍醐味でしたしね。


    それは、海外に簡単に行けなくなったこの頃(コロナ禍の前の話です。コロナ禍前でもすでに海外が遠くなりつつあり。コロナが収束したら行きたい望みはまだあるのですが。)の日本国内での旅行にも通じるところがあります。北海道を約1ヶ月ユースホステル・メインで旅した時も、気に入ったところに連泊し、旅人さん達と交流していました。「旅先でのチョイ住み」は今も健在かも(笑)。

    作者からの返信

    いつもコメントありがとうございます!
    またこちらの質問にも真摯にお答えいただきとても嬉しいです。同じかつての旅人としてこのような形で交流できることを嬉しく思っています。ありがとうございます。これからも是非よろしくお願いいたします。

    さて、今回はプロローグということで現代からのお話しでした。件の美容師は実在です。筋金入りのキャンプマニアで、ぼっちではないようですが、仲間同士で奇妙なルールをしいているようで、妙な距離感を保ちながら、それぞれが孤高を楽しんでいるようです。これが今風というのかよくわかりませんが(汗)

    本作を連載しながら、「最近のバックパッカーはどんな感じなんだろう?」と興味を持っていました。たまたま職場に最近までバックパッカーをやっていたという大学生がインターシップで来ることになり、色々聞いてみました。今時は国際SIM入りのスマホを片手に、安宿サイトや口コミサイトで観光をするのが主流だとか。「言葉だって音声通訳アプリがありますし」とのこと。…なんかそれ違うな、というのが正直な感想でした。私の時代はやはり『地球の歩き方』が主流でしたし、外国に出るために一生懸命外国語を勉強したものです。もちろん今のほうが便利だし、身軽だと思いますが、無駄足やちょっとした冒険こそが旅。わたしの物語の行間を埋めているもののほとんどは、そうした道に迷ったり、意思疎通がうまくいかなくて想像で埋めたものがほとんどです。


    森山さんはどちらかというとゆっくり滞在型のバックパッカーだったのですね!。そう、私の最初のヨーロッパは読んでいただいた通り非常に駆け足であまりに欲張りな旅になってしまいました。後のEpisodeになるにしたがって少しずつ滞在型になっていきますが、どちらかというと移動型だったと思います。
    私も食べることは大好きなのですが、地元の郷土料理を楽しみのひとつにされていた森山さんにとって、「ここの料理はおいしい!」という国はどこですか?あるいは「ここはちょっと…」という国もありますか?。食って面白いですよね!。いまでも国内外問わず、旅先で地元の主婦が行くような普通のスーパーに行くのが楽しみです!

    というわけで、アジア編いよいよスタートです。すでに読み進めていただきありがとうございます。偽谷村新司やカンフー青年ディランなど個性豊かな連中がこれからも登場します。お楽しみに!いつもありがとうございます。

  • ~Epilogue~2019年4月16日への応援コメント

    ひとつの旅が終わった余韻に浸っております。アスカジョー様は、やはり話のまとめ方が素晴らしいです!私はこんな上手に自分の経験を書けそうにありません。すごいです♫。いいなあ、本当に、今となっては、あんな風にバックパッカーで旅するなんて、もう出来ないかも。唯一無二の経験だけに、こうして形に残せて、羨ましい限りです!

    次回は東南アジアなのですね。台湾とマレーシアだけしか、まだ行っておりませんが、楽しみです。その後の小莉さんとのことも♫。旅人に乾杯!

    P.S. 前回のコメントで質問頂いた、ヨーロッパ旅の途中、再会した友人は、もともと同じ大学の知り合いで、それぞれ別々に卒業旅行でウロウロしていた訳です。帰国後、卒業式で再会しましたよ(笑)。

    作者からの返信

    素敵なコメントありがとうございました!Episode1を通読していただき本当にありがとうございます。作品を楽しんでいただき、本当に光栄です!また過分なお褒めのお言葉もいただき、大変うれしく思います。

    以前にもお話ししたように、本作品は当時旅行中に書いていた旅日記を基にした小説です。いつかこれをまとめてみたいなと思いつつ、20年という超熟を経て形になったものです。「あの時こうしていれば」とか「こういう意味だったのかな」という部分も多分にありますが、それでも青春のハイライトだったと思っています。
    バックパッカーといえば、沢木耕太郎氏の『深夜特急』なのですが、実は私はどちらかというとアンチ派で、「あれよりも味わい深いものを作るぞ!」という意気込みだけで作ってきました。またネット小説という特殊な世界のユーザーも意識しつつだったので、だいぶエンタメよりの作品になりましたが、森山さんのように楽しんでいただける方に巡り合えたことを心から感謝しております!

    次回はシンガポールから韓国まで、アジアを一気に縦断します!。森山さんも行かれたマレーシアのはなしも出てきます。Episode1は、どちらかというと失恋中の青年という立場でしたが、Episode2からはだいぶ攻めの姿勢に成長します。またまた道中際立った1話限りの出演者や、今後のEpisode3、4にもまたがって登場する人物も現れます。
    僕は旅とは結局のところ「出会い」がすべてだと思います。歴史や景色、フードはあくまで背景に過ぎず、そこで出会った日本人バックパッカーや現地の人と交わした言葉こそが、旅の本質的な部分を構成しているのかなと思います。あの頃もそんな感じで、観光よりも宿屋にくすぶり、朝から飲んだくれてバックパッカーと色々語った時間が思い出されます。森山さんは旅行をされる中で、何かテーマのようなものはありましたか?

    これからも是非お楽しみいただけたら幸いです!いつも応援ありがとうございます。

  • 1999年3月17日への応援コメント

    バックパッカーをして旅していた時、同じようにヨーロッパを回っている知り合いと偶然会ったことがあります。同じ時期にヨーロッパに来ていることは知っていたのですが、どう回っているかなど全く知らなかったため、駅に降りて、さあ、街へ出ようとしている時に、名前を大声で呼ばれて驚きました!

    思わずお互いハグしましたね(笑)。知り合いは、すぐ次の電車で次の町へ向かうとのこと。本当に偶然のすれ違いでした。

    サキさんとこれからどう関わっていくのか、友情なのか恋愛感情が生まれるのか、気になる所です。でも、小莉さんとのことが終わり切っていない心中では・・・まだかな〜。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます。三寒四温ですね。何となく生温かったり、かと思ったら突然耳がちぎれるほど寒かったり。どうかご自愛を!。

    さてさて、旅先の再会って実際に起こるんですよね。国をまたいで移動しているにもかかわらず、ふとどこかで見かけた顔だなと見ていると、相手と目が合って「ああ!あの時の!」ということはよくあるんですよね。文字にするといかにもストーリー仕立てな感じがしますが、だからこそ日本に帰っても特別な友達でい続けてくれることが多いですね。

    森山さんもそんな偶然の再会の体験者なのですね!。その方とはそれっきりでしたか?こういう時ってテンション上がって、ハグとかできてしまいますね!

    さて、サキ再登場です。小莉との失恋に区切りをつけるために旅に出た俺ですがいよいよ最終章パリへ。二人との関係については以後のEpisodeで再登場します。サキと主人公についてはそっと見守っていただけると光栄です。ぜひ続編もお楽しみに!

  • 1999年3月12日への応援コメント

    ついにプラハですね!私はまだ行っていないので羨ましい。ヨーロッパで出会った旅人の間でダントツ人気でした。随分前の話なので、今はどうかしら?街は変わりますから。でも、やっぱりいつか行ってみたい。プラハ城にカレル橋。

    ちなみに私はベルギーのブルージュが大好きで、3度訪れているのですが、1番初めが中世の雰囲気が色濃く残っていて1番良かったです。その後は人気が出過ぎて、どんどん観光都市化してしまったようです。

    作者からの返信

    いつもコメントありがとうございます!
    ベルギー・ブルージュも人気が高いですよね。
    どうしても日本人の中ではヨーロッパ=パリというイメージは強いですが、
    本当の古き良きヨーロッパはこうした小さな町に今も息づいているんですよね。森山さんも素敵な旅をされてきたんですね!ぜひ旅行記を効かせていただきたいです!

    私は子供のころからクラシック音楽が好きだったので、中欧というと「誰それの故郷だ」という発想になってしまいます。チェコといえば、「わが祖国」で有名なスメタナや、「新世界交響曲」のドヴォルザークを思い出します。どことなくスラブ音楽って日本人になじみやすく、哀愁感ただよう旋律に親近感を感じます。
    そのようなイメージのプラハでしたが、驚くほど均整のとれた美しい街です。モルダウ川という自然と、城やそれを囲む城下町が美しい配置の中で生きていました。世界一美しい街だと思います。ぜひ機会があれば訪れてみてください!


  • 編集済

    1999年3月5日への応援コメント

    アンネの隠れ家だった、現在の博物館。中に入ると、自ずと「自由とは何か」「生きるとは何か」、深く考えさせられました。この狭い閉じられた空間で、アンネを支えたものは“空想という羽根”。創造力は私達をどこまでも小さな窓から大空へ連れて行ってくれます。それにしても、戦争の悲劇はむごいものでした。本の表紙で見るアンネの笑顔に、もう二度と繰り返さないからと、一人でも多くの人が誓ってくれますように。

    いよいよ東ヨーロッパですね。東は、結局、まだ行けずじまい。どんな場所か、楽しみです。

    P.S. 思いつくまま、一度にたくさんコメントしてしまい申し訳ございませんでした。一つ一つに、とても丁寧にご返信頂き、恐縮しております。どうぞ、くれぐれもご無理なきように、お願いします。面白いと、すぐ感想を伝えたくなってしまいますが、以後、ゆっくりめを心がけますね。

  • 1999年3月3日への応援コメント

    ベルギーは食事が美味しい!ブリュッセルとブルージュで、そう感じました。

    関西の人は外国でも面白いです。私がイタリアで会った女の子は、関西弁(もちろん日本語で押し通す)をまくしたて、値切って買い物をしていました。私も関西のノリは好きなので、彼女のたくましさに、同じ日本人として、おおっ!となっていました。生命力の強さが海外でサバイバル出来る武器ですね。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます。
    確かにベルギーはフランス程気取ってなくて、食事が美味しかったですね!ブルージュにも行かれたんですね!実は作中ではブリュッセルとしていますが、平川氏とはブルージュにも行っています。そこで食べたムール貝のワイン蒸しは忘れられないです!

    彼は本当に幸せ者です。とにかく一貫していてパンや食べ物のこととなると、どんな犠牲も厭わない。彼とも帰国後も交流が続きました。ちなみに後年彼は、「アメリカでうどんややろうと思うてんねん!」と言って、実際に渡米しました。こねる、という共通点意外に思い当たらないのですが、今もアメリカで粉まみれになっていることだと思います。
    とにかく「これをやりたい!」というものに出会えた人間の強さを知りました。どんなアクシデントも不幸も彼を止めることはできない。すばらしい生き方だなと思います!

  • 1999年3月1日への応援コメント

    おお、まずノイシュバンシュタイン城!ディズニーランドのシンデレラ城のモデルですよね。

    今だに旅先で出会った人との交流があるとは羨ましい。私は「一期一会」がほとんどでした。その時は一人旅同士、何人かで一緒にご飯食べたりしたけれど♬。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます!
    この99年のヨーロッパ旅行を始めるにあたって、初めて『地球の歩き方』を買いました。『ヨーロッパ』という分厚いやつです。なんの知識もなかったので、パラパラとめくり、写真を見てよさそうなところをつまんでいくような旅程を組みました。そう、写真だけで行先に追加したのがノイシュバンシュタイン城と後述されるスイス・マッターホルンでした。どちらも堂々たる雄姿に感動したものです。

    さて、ここでであったジャパンドリームチームのメンバーとは帰国後も交流が続きました。その辺りの詳細についてはサイドのエピローグに記載してあります。出会う場所にもよりますが、やはり旅先で出会った日本人とはかなりの確率で帰国後も交流が続きました。やはり同じような生き様だからなのかもしれません。もしかして森山さんとも海外でお会いしていたら、その後も交流が続いたのかもしれませんね!

  • 1999年2月28日への応援コメント

    ドイツのユースホステルは比較的、綺麗ですよね。(今もかな〜?)でも、確かに駅や市の中心から遠い所も多かったです。

    ユースホステルの一括前払いのパスがあったとは知りませんでした。私は日本でユースの会員になっておき、ユースを使ったり手頃なホテルを使ったり、時には修道院が提供している宿泊施設に泊まったりしました。

    ぼったくり、怖いですね〜。一度もそういう目にあいませんでしたが、その分、それはそれは慎重に行動しておりました。警戒することに疲れるぐらい(笑)!

    作者からの返信

    コメントありがとうございました!。
    さっそく続編をお楽しみいただきとても光栄です。

    さて、ドイツ・フランクフルト。
    20年前、たしか水道橋だったと思いますが、日本ユースホステル協会というものがありました。旅に出る前は語学も心配だったので、すべての旅程を決めたあと、それぞれの街のユースホステルを決め、すべての支払いを済ませてから旅立ちました。たしかに今から思えば旅程や予約したホテルに縛られるため、非常に非効率だったのですが、地図を頼りにホテルを探すというちょっとした冒険が楽しかったです。修道院に泊まれるというのは知りませんでした!すごいですね!

    ぼったくりに遭ったのは後にもこの時一回だけでしたが、旅に出て2日目にいきなり巻き込まれたため、当時は非常に落ち込みました。やはり中央駅付近はいまでも非常に治安が悪いと聞きます。でもこの事件のおかげで、以後の旅行は気を引き締めて頑張れました。

  • ~Prologue~2018年12月6日への応援コメント

    私も学生時代、バックパッカー(主にヨーロッパ)をしていたので、いつか、こんな放浪記が書きたくなりました。

    ちなみに、高校の時、スナフキン先輩というあだ名の人が実際にいて、彼は世界を先に見てきており(つまり留学)、私達後輩によく外国について語ってくれ、異国への扉を開く原点となってくれたことも懐かしく思い出されました。

    これから、楽しみながら、ゆっくりエピソードを読ませて頂きます。コロナ禍で旅が出来ない今、すごくセンチメンタルな気持ちになりそうです!

    作者からの返信

    はじめまして!マジシャンのアスカジョーです。
    私の作品を見つけていただきありがとうございました!
    また、一日でたくさんのコメントを頂き感激しております。
    末永く、ゆっくりとお付き合いいただければ幸いです。
    今後ともよろしくお願いいたします!

    さて、本作について少しご紹介させていただきます。
    この物語は、私が大学生の時バックパッカーとして世界をあちこち巡っていた体験をもとにした小説です。『深夜特急』と張り合うつもりはないですが、旅情あり、ルポあり、そして恋ありと、広い意味での「旅」をテーマに書き上げた作品で、昨年末に1年半にわたる連載を終えたところです。

    舞台は今から20年前であり、各章の前後に20年後の現代を描いたプロローグとエピローグを挟んでいます。昨年までカクヨムで連載を続けてきましたが、今年から”小説家になろう”でも改稿版を連載し始めており、Twitterにて情報更新を行っております。

    さてさて、スナフキン先輩!。偶然にも森山さんのそばにもスナフキンがいたのですね!私のそばのスナフキン先輩(実在)も海外放浪者で、作中にもあるようにこの人との出会いが人生を大きく揺さぶりました。
    こういう人って、でっかく見えるんですよね(笑)。今から20年前、つまり1999年ですが、ちょうど『電波少年』のヒッチハイクの旅(現、有吉)が放送されていた時期で、海外に対するぼんやりとしたあこがれを持っていましたが、その世界を体験してきた先輩の存在は格好よかったですね。

    森山さんが海外に出られたきっかけと非常に似ており、親近感を感じました!これからもよろしくお願いいたします。

  • 1999年7月18日への応援コメント

    こんにちは。
    小莉さんの話が出てくると、胸が締め付けられます。
    冒頭のマレーシアにとっては何気ない日常であろう屋台の話との対比が何とも言えません。

    それに連絡のやり取りも待ち合わせも、すれ違う可能性がいくらでもある時代。
    この現実的な先の不確かさを知っているのとそうでないのとで、今の時代の過ごし方の中で感じるものが大いに変わってきそうですね。

    そう言えば件の御曹司は蘇州の方でしたか。
    蘇州の拙政園に向かう途中、乗っていたタクシーが一般車両と微妙な低速カーチェイスで接触して、「コイツと喧嘩しなきゃだから、今日はもう以上走れねえ。ここで降りてくれ(超訳)」と放出されたことを思い出しました。
    拙政園まで、あと徒歩10分程の距離だったので助かりましたが。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます。
    近頃入社してきた20代が「学生時代にバックパッカーやってました!」というので、ランチご馳走して、色々話を聞いてみました。僕らの時代(1999年頃)といえば、『地球の歩き方』がおおよその情報源であり、あとは現地で知り合った日本人から生の声を聞くというのが普通でしたが、今はホテルの予約から現地情報までスマホという時代だと聞き、結構ガッカリしました。安宿街で、誰とも話さずスマホの画面とにらめっこなんて、ちょっと味気ない。
    本作にはヨーロッパ編も含め、色々個性的な面々が登場しますが、彼らとは実際に今でも交流が続いていたりします。これこそ旅の醍醐味だと妄信していましたが、今時は完全におひとり様で、あとはTwitterなどで会ったこともない人たちに向けて「旅してます!」アピールをするというのが主流だそうです。何とも言えない…。

    さて、前作に引き続き小莉が登場します。そしてこの後運命の上海へと続いていくのですが、結構これはガチの話しです。恋愛は、誰でも始められますが、むしろ終わらせ方が難しく、私ももれなく失敗した口です。「新婚旅行はシンガポールがいい」というのも事実で、まだ何となく引きずっている当時の”俺”にとって、そのシンガポールを一人で通過してしまったのは、非常に後味の悪いものでした。

    蘇州にも行かれたのですね!。私は結局彼の地には行ったことがありません。それにしても「今からケンカするから、今日は閉店ガラガラだぜ!」とは何とも爽快!(乗っていた蒼翠さんにとっては災難以外の何でもないですが…)。落語にはこういう江戸っ子がいくらも出てきますが(笑)。でも分かります。連中はその気になったら十字路のど真ん中でもドンパチを始めますからね。その図は中国各地でおなか一杯見てきました(笑)

    小莉との決着はいかに。そしてその前に新たな出会いが…。
    引き続きお楽しみいただければと思います。
    今後ともよろしくお願いいたします!

  • 1999年7月17日への応援コメント

    これほど弱すぎる酔拳では、その辺を歩いている小学生にも張り倒されるだろう。
    いつもこういったユーモラスな表現を楽しませていただいてます。

    シンガポールは乗り換えの時間を長めにとっての無泊滞在でしたが、こちらのエピソードを見て懐かしい気持ちに浸ることができました。

    空港から市街地へいくのに乗り込んだMRTで本を読んでいたら、すぐに乗り換えだったようで、親切な日本人男性(恐らく現地で働いている風)が声をかけてくれたり、夜にちっさいマーライオンとレーザーショーをみたり。

    英語の勉強にと日本で聞いていた英会話ダイアローグのCDで、話題として取り上げられていた『五つ星トイレ』を公園の片隅で発見したり。シンガポールと言えば、そう、Fine Cityですよね。

    作者からの返信

    Episode1に引き続き、お楽しみいただきありがとうございます!
    ユーモラスな表現たのしませていただいています、というコメント、
    非常に励みになりました!ちょっと人をディスる描写をしている時は、
    実は作者はかなりイキイキとしています!

    ディランは実在です。この寓話も実話でして、
    たまたまドミトリーで一緒になった背の高いカナダ人青年です。
    カンフーの修行をするんだい!と香港を目指していました。
    彼は再び香港編で登場します。ぜひお楽しみに!

    さて、シンガポール。
    沢木耕太郎氏の『深夜特急』でもそうですが、
    バックパッカーの間では非常に不評な国です。
    近くにはタイがあり、物価安やアクティビティの種類から言っても、
    バックパッカーにとってはやはりタイのほうが魅力的に映るようです。

    多くの本でもタイから南下してシンガポール入りすることを勧めてません。
    よってこの時もあえてシンガポールスタートにした記憶がありますが、
    初めての南国だったこともあり、僕にとっては楽しい思い出になりました。

    シンガポールにも立ち寄られたんですね!
    たしかに実質無泊滞在がちょうどいいかもしれませんね。
    僕の当時は世界三大ガッカリのひとつのマーライオンぐらいしかなく、
    今はルーフトップのプールやナイトサファリなどがあるようですが。

    僕はシンガポールの国政に非常に興味がありました。
    作中にもあるように、ある意味シンガポールは独裁国家です。
    意外と知られていないですが一党独裁ですし、
    政府主導の計画経済であり、国民にも何かと口やかましい国です。
    ただ国民への還元や自由度は高く、また多民族国家でありながらも、
    非常によいガバナンスが敷かれていると思います。

    で、結果その”たが”になっているものが、fineつまり徹底した罰金制度というオチなのですが、狭いところで他人とどう共存していくか、というテーマを考えるうえで、非常にユニークなモデルケースになる国だと思います。

    旅はこれからマレーシア、タイ、そして中国へと続きます。
    どうか引き続きお楽しみいただければと思います。
    本年もよろしくお願いいたします!