第2話 検索中毒
「私は寝る前に体の芯からポカポカしてる状態で布団に入るのが好きなのに……」
「天音の寝る前ってのを待ってられないんだよ。こっちはあなたと違って通学に一時間半はかかるんだから」
「無理してあんな偏差値高い高校に行くからそうなるのよ」
「無理してない。勉強したいことがあるから、そこを選んだの」
誠司が浴槽の湯で顔を洗った。
浴槽では誠司が蛇口側、私は比較的広けた扉側といつも決まっている。トイレ方向を向いて体育座りになって横に並び、湯船につかる。2DKアパートの脱衣所のない三点ユニットバスでは、二人で入浴する際に決まった順序を守らないと、トイレ周りの床が水溜まりになり、後が大変なことになってしまう。長湯が好きな私が先にユニットバスに入り、体を洗って洗髪をした後、浴槽を軽く洗ってから湯を張る。ある程度溜まると、誠司が入室し二人で湯船につかる。そして誠司の洗髪のタイミングで私が浴槽から上がるというのが普段の流れであった。
「あぁ、のぼせそう。シャンプーしたいからもう上がって」
「うーん、わかった」
これはアパートに越してきてからできた新ルールで、父がまだ生きていたころは浴室も広かったし、脱衣所もあったので、小さなころから二人同時に入浴するのが当たり前だった。
誠司の気怠そうなため息に押されて、私は防水カーテンを開けた。滑らないよう慎重に床に足を付けて、準備しておいたタオルで手早く体を拭いた。誠司がしっかりカーテンを閉め終えてから、浴槽の栓を抜く音がする。湯が半分ほど減ってからシャワーをひねる誠司。私は室内の湿度が一気に高くなる前に、ユニットバスから出た。
タオルを頭に巻いて、リビングで寝間着に着替える。時計の針は深夜零時を回ろうとしていた。
受験を終えた辺りから、私はなぜだか急に眠りにつきにくくなった。父の死と受験のストレスか、その間の記憶は酷くあいまいで、なぜだかいつの間にか眠れなくなってしまった、という感覚だ。
今から布団に入ってみても、きっと二時間くらいは眠れないことに
誠司の言うところによれば、睡眠の二時間前に体温をあげておくのが質の良い睡眠を促すコツなのだという。そう語った当の本人は、布団に入ってしまえば即時眠りに落ちてしまうほどの快眠体質なので、あまり実例的な意味では説得力がないのだけれど。
静かなリビングで、誠司が風呂から上がってくるのを待つのも、早く寝ろとまた小言を言わせる原因になると思い、とりあえず頭にタオルを巻いたまま、
――小学生時代の恩師に会いに行くことになったのか。
父が死んだことは先生もきっとまだ知らないだろう。
懐かしい、幼かったころの記憶が呼び起こされる。
クラスの女子同士で生理が始まったという話題が盛り上がっていた頃、偶然入浴の話になって、親と風呂に入るのを止めたという子に混ざり、私が兄とは入るということ話したときの、みんなの畏怖の目が脳裏に浮かんだ。
当時は真理恵にもおかしいと非難されたが、父も誠司も気にしていないようだったし、今でもそんなにおかしいことなのかいまいち良く分からない。しかし、現に真理恵がいる間は入浴を避けようとする誠司の行動から見ても、やはり本当は人に知られたくないと思っているのかな、と予想する。
誠司がユニットバスから出る音が聞こえた。
本当は、私自身一人で風呂に入れるような気がしている。事実アパートに越してきてからは、一人で洗髪して、湯をためるまでの間一人で浴室にいるのだから。
それでも一人で浴室にいることが違和感でしかない。その理由がわからない。
違和感の原因は何だろう?
「なんだよ、まだ髪乾かしてなかったの?先に使うよ」
ドライヤーを手に座椅子に腰かけた誠司が、私を見て言う。そして返事も待たずに髪を乾かし始めた。
ドライヤーのファンの音で聞こえないだろうと思いつつ、声をかけてみた。
「誠司はさ、小学生より前の事って覚えてる?」
無心でタオルドライと同時進行に熱風を浴びる誠司の耳には、やはり私の声は届かなかったようだ。
誠司は母の事も、何か覚えているのだろうか。
小学校の入学式に、母がいた記憶がない。
漠然と“母はこの世にはいない”という認知しかない。
誠司がドライヤーのスイッチを切ったと同時にしんと静まり返る部屋。
髪を乾かさなかったのが悪かったのか、いつしかじんわりとした頭痛が始まっていた。
「早く髪乾かさないと風邪ひくぞ」
まるで私の頭痛を察知したかのように誠司が言う。
動かない私に、誠司はドライヤーを手渡しに来てくれた。
「あんまり夜更かししないように。検索中毒は思考の停止を招くぞ。じゃ、おやすみ」
踵を返した誠司が座椅子を倒して、リビングの明かりを消した。毛布をかぶる音が聞こえる。
私の部屋とリビングの襖は常に開けっ放しで、横になった状態であれば誠司がそこで横になっている姿がいつでも確認できた。
ドライヤーの音が睡眠の邪魔になるかな?と考えたが、すぐにいつもの寝入りばなのいびきが聞こえて、心配いらないことを悟る。
私は頭痛をごまかすために、手寧に髪に触れ、水気を乾かすことに専念した。
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