第8話 発作的興奮状態
今日は携帯料金の滞納で、ついに唯一の通信手段を断たれてしまった。
完全に孤立状態だ。相変わらず誠司も帰ってこない。携帯電話の契約会社は、支払いが滞っても着信や受信のみ受けられる体制の電話会社なので、何か連絡が入ればわかるようになっているはずなのだけれど。その後真理恵からも、誠司からも何の連絡もないままだった。
どうしてこんなことになってしまったのか。ここ数日、何とか学校へ通うのに精一杯で、入浴や食事もだんだんと億劫になっており、部屋も荒れ放題の有様だ。
こんな状態じゃ誠司だって帰ってきたくはないだろう。私はこのまま、誰とも関わることなく人知れず廃人のようになってしまうのだろうか。
何とかしなければ。何とかしなければ。
そんな言葉ばかりがループして、現実的な対応は何一つ取れていない。
誰か助けてほしい。誠司に会いたい。
誠司に会いたい。
何やってんだよ。しっかりしてくれ。こんな状態で俺が戻ったらまたどうせ全部俺が後始末しなくちゃいけならなくなるんだろ?父さんが死んだ時みたいに、天音はいつも逃げてばかりじゃないか。俺だって、いい加減解放されたかったんだよ。わかるだろ?
そうだよね。ごめんね、ごめんね。何とか頑張るから。私、何とかして見せるから。
誰もいない我が家へ帰宅する。ここのところ、起きて、学校へ行き、帰宅して、寝て、起きての繰り返しで、今日が一体何月の何日なのかもよく分かっていない。
一体どれくらいの間一人で過ごしているのか。
テレビが見られないと世間の動きも掴めない。誠司は誘拐されて、殺されてしまったのかも知れない。だから連絡をくれないんだ。
ついつい目に涙が浮かぶ。どうして私がこんな目に合わないといけないの?
神様なんかいるわけない。
神様なんか、絶対にいないに決まっている。
滲む視界の右端に、こたつの上に今朝はなかったものを発見した。何か書かれている、メモ紙のようだ。
全身に脈を打つ緊張が、私の頭を痺れさせた。
誠司だ! 誠司が帰ってきたんだ!
藁にもすがる思いで手に取って見る。
ごめん 遠くへ行ってきます 誠司
これは。これは。
どう意味なのか。
走り書きで、確かに誠司と書いてあるが、そうか。携帯電話が止められているから、誠司の方からも私に連絡ができなかったということなのか。私は何でそんなことにも気がつかなかったんだろう。
遠くへ行くって、どういうこと? まさか、まさか。どういうことなの?
動悸と吐き気に見舞われる。メモを持つ手が激しく震える。
遠くっていったいどこなの?なぜ教えてくれないの? 私を置いて、どこへ行こうというの?
指に力が入って紙がたわんだ。ツルツルした硬い紙だ。見覚えのあるそれの、紙を、裏返した。
立花先生の名刺だった。
立花先生、そっか、いつでも頼っていいとあの時言ってくれた。今しかない、もう、頼れるのは先生しかいない。気づけば私は財布と名刺を手に外へ飛び出していた。
爆発する。このままじゃあ私、爆発して粉々になる。
ここ数日十分な栄養が足りていない体がぎしぎしと軋み、今にもバラバラになりそうな四肢を気力だけでなんとか繫ぎ止める。あの時四人でいった神社の通りに公衆電話があった。そこなら駅よりも早く先生へ電話することができると考えた。
鳥居のある林を通過して、すぐ側の公衆電話へ飛びついた。
硬貨を入れて、番号を押す。違う。番号を押して、硬貨を入れる。違う!
受話器を手に、硬貨を入れて、番号を押す。慣れない扱いに、ダイヤルを押し間違ったりして何度目かでやっと呼び出し音が受話器から聞こえた。
早く、早く、誰でもいいから私を助けて……!
――はい。
聞き覚えのある声がやっと鼓膜に届いた瞬間だった。
「立花先生、私、環天音です。先生、私、突然ごめんなさい。あの、私……」
これは本当の私なんです。ターニングポイントなんです。薬漬けの人殺しと、安全だからって、アパートはいつも神の言葉とひとりぼっちなんですよ。何が誰で、誰が私です。はい、学校は警察だらけで私はどうすればいいのか全然止められているんです。ごめんなさい。ごめんなさい。先生、ああ……先生!
――落ち着いて。今どこにいる? 誰か近くにいるかい?
はい。はいそうですね。ここは神聖な場所です。でも私には無意味です。だってどうすることもできないし、誠司の声。誰かが何時もいますけど、それもどうしてなのか真っ暗なのでわかりません!
「これからそちらの自宅へ向かうから、待っていなさい。わかるね? 先生が来るまで、しっかり耐えるんだよ」
………………。
………………。
疲労感が私を支配して、体が一ミリも動かない。
先生は自宅へ来てくれるといっていた。何とかしてアパートへは戻らないと。
電話ボックス内がとても静かなので、目を閉じていると本当に世界にひとりぼっちになってしまったかのような終末感に凍えた。
だけど、この感覚は何だろう。
誠司の声が聞こえた気がして、ハッとして我に帰る。
電話ボックスが沢山の黒い影に取り囲まれている!
見えないけど見えている。この感じは何だろう? 目だ。いつも私を追っていた沢山の目だ。
本当にどうしようもないやつだ。
全てお前の犯した過ちの結果だ。
今更どうにかなると思っているのか。
嫌なことから逃げてばかりだからそうなるんだ。
「やめて! 」
私は黒い影を張り飛ばす勢いで電話ボックスの扉を開け放った。淀めく影が怯んだうちに最後の力を振り絞るように私は走った。
――何としてでもアパートまで辿り着ければ!
あの影は私がかつて殺してしまった者たちの怨念なのか。蹴り倒した地蔵の呪いなのか。
真理恵の嫉妬か、誠司の軽蔑か、母さんの無念か、父さんの嘆きか。
アパートの扉を閉める。急いで鍵とチェーンをかけた。
息切れが激しく呼吸とともに内臓が口から吐き出されそうだった。でもそんなことは起きない。私は握りしめた名刺を手に、冷静になろうと誠司の残したメモをもう一度見た。
優柔不断なところはあるけれど、優しくて、いつも私の味方でいてくれた誠司。なぜこんな書き置きなんか残したんだろう。メモ、このメモ……。
あることに気がついて息がつまる。
あのフレーズが蘇る。
「専門家は“皮肉な筆運び”と呼ぶんだけど、左利きの十人に一人はペンを紙から不意に離すことにより一筆が“カット”される書き方をするんだ」
「親父に右利きに矯正されかけてたから今はほぼ両利き」
「そのため左利きはたいてい左が鮮明で、右利きはその逆になる」
「習字も習ってたから右で書くのはむしろ全然得意だし」
これは、真理恵が書いた字?
急いで書いたような、一筆がカットされたような筆運び。
誠司は右利きで、真理恵は右手を怪我していると言っていた。
右手の大げさな包帯は、私を欺くための偽装?
自身への泥棒疑惑を、この失踪のどさくさに紛れて隠蔽しようとした?
誠司になりすましてメモを残し、失踪に便乗して誠司に濡れ衣を着せようとした……。
………………。
だとすると、立花先生に電話をしてしまったのは間違いだったかもしれない。立花先生と真理恵は私の知らないところで通じている。あの日、学校で見た二人の距離感は絶対にそう確信が持てるものだ。
真理恵は先生がワインを趣味にしている事も、まるで知っていたかのような話ぶりだった。そもそも何故真理恵は突然私と先生を会わせようと考えたのかも謎だったし、それによって何のメリットがあったのだろうか。あの時、先生は新聞を閉じて、私を異様に褒めた。真理恵は面白くないといった顔をして、その後先生に何か個人的な要件を耳打ちしていた。
では何を?
浮気するつもりなら、酒を酌み交わすような関係である事を周りにバラすと暗に脅した?それとも金銭的な要求か。先生は裏で真理恵と組み、私を売春周旋にかけるための手筈を擦り合わせしていた? 権威ある聖職者の裏の顔?
――
いい加減空想ごっこは止めにしたらどうなんだ。
もう七つの子供じゃないんだからさ。
土砂降りの雨だが土は堅いっていうことわざがあるのよ。
いつの時代も多かれ少なかれあるでしょ。
それだけ世の中が平和だってことさ。
なんだよ、まだ本を捨てろって言いたいのか?
そういう自分はどうなんだよ。
私は、私は、私は。
自室に乱雑に積み上げられた段ボールを一つ開けた。盗聴器発見機。もう一つ開ける。電磁波シールド防護布。もう一つ開ける。電波妨害機。
ああ、頭が痛いよ。ドアベルが鳴った。またなの。いい加減にしてほしい。そうか、立花先生が来たんだ。覗き穴を覗く。え、宅配員だ。なんなの、いったい。
違う! 克也だ! 帽子でうまく顔を隠しているつもりなのかもしれないけどね。
Tom junk, but tom noh fool.なぜここに? 宅配員に扮して、私を誘拐しに来たんだ。
どういうことなの?
「いるんだろ? 開けてくれよ、話があるんだ」
ドアベルが繰り返し鳴らされる。正気の沙汰じゃない。逃げないと、私も誠司のように、誘拐された少女たちのようになってしまう。スマホに着信が入る。やめてこんな時に限って誰なの? 音で気づかれるじゃない!
それは克也からの着信だった。
だめだ、お終いだ。私はまだこんなところで捕まっている場合じゃないのに。
靴も履かずにベランダへ出た。手すりに足をかけ、またぎ、
きっと克也はまだ私が部屋にいると思い込んでいるはずだ。私は路駐してあった宅配車両の陰から一気に駅の方に駆けた。大丈夫、このままいけば立花先生に遭遇するはず。いやまって、先生はどうして私の家の場所が分かるっていうの? 立花先生も真理恵のように克也とグルなのかもしれないんだ!
どうする。どうすれば。
気が付けば私は駅の多目的トイレで
また着信。恐る恐る画面を見る。立花先生からだった。家に私が居ないことに気が付いて電話をくれたのか。冷静に、冷静に、もし仮に先生が真理恵とグルでも私が今ここに隠れていることまでは分からないはず。真実を突き止めないと。誠司を救い出さないと。
「環くんかい? 今、どこにいるんだい? 」
その声はとても優しく聞こえた。
「私のことはいいんです。先生、一つだけ教えてもらえませんか」
「大丈夫なのか? どうしたんだい? 」
口の中に酸っぱい物がこみ上げる。怖い、真実を知るのが怖い。先生の優しさが、怖い。ここの場所は酷く匂う。まるで二日酔いの吐しゃ物。それと、煙草の葉が燻ぶったような、どこかで嗅いだことのあるようなむせ返りそうな濁った空気。
視界が歪んだ。暗転しそうになる意識を飲み込む。堪えて、堪えて、涙が目の端に滲む。
「先生………………私、誰かが私の分身に入り込んだ気がするの」
トイレのドアノブに誰かが手をかけて開けようとしている。その音に慌てて通話を切った。
すりガラス越しに、人影が去っていったのが分かった。そうか、このスマホだって盗聴されているんだ。GPS機能で居場所だって簡単に特定される。不味いことになった。
ドンドン。扉を叩かれる。
「そこにいるのは分かっているよ。出てきなさい」
誰? 誰? あなたは誰?
「天音いるんだろ」
誠司がそこにいるの?
「ずっと出てこないつもりなら、本当はこんなことしたくないんだけどな……」
頭の中に騒音が響く。痛い。痛い。ハンマーで殴られたかのような頭痛だ。こんな頭痛今までにだってない。これは、電磁波攻撃で直接私の脳内に入りこもうとしているんだ。そんなこと、絶対にさせないんだから………………。
何かが割れる音。金属同士が擦れて、ひしゃげる音。バールを持った制服姿の見知らぬ男が私の顔を覗き込んでいる。知らない大人たちが遠巻きに私を見ている。いつの間にかこんなにも包囲されていたなんて………………。
次に瞬いた瞬間、世界は反転していて、羽虫のたかる蛍光灯が正面に見えた。同時に私の足は宙に投げ出された。かと思うと、土嚢のようにトイレのタイルに落ちた。
これが、私が完全に闇に屈した瞬間である。
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