第7話 不信

 あれから一週間。結局カレーはほとんど二日がかりで自分で食べて、一食分だけ冷凍に包んで置いておくことにした。それもそろそろ処分しないとまずいかもしれない。

 誠司は一体どこに行ってしまったのだろう。スマホに電話しても出てくれず、一応返事は帰ってくるもののどこかよそよそしく、要領を得ない返答ばかりが返ってくるのだ。まるで以前の誠司とは別人のようである。克也と関わったことで悪い影響を受けてしまったのか、昨晩もほとんど無断外泊同然だった。


 駅からの帰り、背後から差す夕日が作るセピア色の住宅街を私は一人で歩いていた。

 今日は真理恵がうちに来ると言っていた。それも数日ぶりに。話したいことが沢山ある。


 西日が落とす長い影が一つ、後ろの方から私の足元に伸びてきた。真理恵かな、違う。そんな訳はない。スマホのメッセージには十八時を過ぎると書いてあった。だとしたら誠司? いやそれも違う。だってこの足音はずっと私の後をついてきている足音だ。それは学校を出てすぐから付いてきていた。初めは気のせいだと思っていたが、ここ数日ずっと私を尾行している何者かだとすぐに察知した。


 何者かが何らかの目的で私の行動を監視しているのだろうか。もしかして、例の誘拐犯がこの辺りにもその手を伸ばしているのか。否、そんなはずはない。例の連続誘拐犯は先週逮捕されたばかりじゃないか。ひょっとすると、組織的な誘拐はまだ行われていて、私がそのターゲットとして目星をつけられてしまったのか……。


 角を曲がって一気に走った。

 何者かの足音もその足を早めた。

 私は怖くなって、後ろも振り返らず急いでアパートの階段を駆け上がり部屋に入ると、すぐに鍵とチェーンをかけた。

 心臓が全身に血をドバドバ運んでいるのがわかる。アドレナリン全開という感じだった。急な血流の負荷に耐えられず頭痛が増す。最近特に頭痛が重たい。色々なストレスが蓄積されているからか、それとも他が原因の何か……。


 最近は日も長くなったとはいえ、この辺りは街灯も少なく周りを高い建物で囲まれているために十八時を回れば一気に暗くなる。今更真理恵が一人でうちに来ることが急に心配になってきた。いつも平気で夜中に帰って行ってはいたけど、今思うとすごく危ないことのように思えてくる。今度からそういう行動は控えたほうがいいと釘を刺しておいたほうが良いかもしれない。


 真理恵に今起こったことをメッセージで伝えておいた。念のため、駅まで迎えに行こうかとも聞いてみる。送信してすぐ既読になって、真理恵の入力中を知らせるアイコンが浮かんだ。数秒で返事が届いた。「迎えはいらないよ、予定より早く着きそうだから」とのことだ。


 一秒でも早く、誰でもいいからそばにいてもらいたかった。今もすぐ玄関の外にさっきの人物がいるかもしれないし……と考えてから、妄想するのはやめにした。


 そんなことよりももっと現実的に物事を捉えなければならない。誠司のことも、うちには保護者という大人がいない。このまま無責任に無断外泊や深夜徘徊を繰り返していては将来的にもよくないと思うし、誰かが注意してあげなければ道は正せない。葬式以来会っていない遠い親戚のおばさんはもともと頼りにしていない。警察に捜索願を出す? いや、まず学校に連絡してきちんと登校しているかどうかの確認の方が先だろう。それに、警察ってあまりあてにならない。


 ………………。

 どれぐらいの時間考えていたのだろうか。

 ドアベルの音で我に帰った私は、手に握っていたスマホに真理恵からの連絡が三件入っている事に気がつく。


「天音? いないの? 」


 玄関の外からドア越しに真理恵の声が聞こえる。私はすぐにドアの施錠を解き、真理恵を招き入れた。玄関に注ぐ暮色が二人を包む。


「ごめん、トイレに行ってて」


 戸を閉めて、鍵をかける音が空しく部屋に響いた。


「もう。人の事呼んでおいて留守なのかと思ったよ」


 真理恵の口調は言うほど怒ってはいないようだ。どちらかというとその目は伏せ目がちで、どこか元気が感じられないようにも見える。真理恵がいつものようにこたつに座ろうと、スクールバックを肩から下ろそうとした時に、その右手に包帯が巻いてあるのが目に留まった。


「手、どうしたの? 」


 右手親指から手首にかけて大袈裟に包帯が巻いてある。


「これね、大袈裟でしょ? ちょっと転んじゃって」

「捻挫? 」

「うん。まあ大した事ないんだけど、そんな感じ。面倒だから、病院に行った時からそのまんま」


 そうなんだ、と相槌を打つもなんだか会話が続かない。何があったのか聞くべきか? いや、これから話したいことが話しにくくなる雰囲気はあまり作りたくない。今は同情するのはやめておこう。気を持ち直して、私はしっかりとその場に座って頭を整理した。


「なんか、最近あんまり遊びに来られなくてごめんね。家のこととか、ちょっと忙しくてさ。天音は学校、うまくいってるの? 」


 なんとも白々しい質問だった。これまで何度となく誠司が家に帰ってこない事、連絡がつきにくいことを相談していたのに。あえてそれには触れないでおこうといった具合の台詞に思えた。


「学校は普通、かな。それよりも、ちょっと真理恵に聞きたいことがあるんだよね」

「なぁに? 」


 真理恵の顔は穏やかだ。私の心中は大方、予想がついているだろうに。


「電話でもよかったんだけど、話が長くなりそうだと思ったから」


 言葉を続けるのに躊躇ためらわれた。

 でももう、私の中の何かが轟音を立ててなだれ込んで溢れる寸前。


「真理恵さ、誠司と付き合っていること、もう隠さなくていいよ」

「え? 」


 真理恵が本当に聞こえなかった時の顔で私を見た。


「だから、隠さなくていいってば。真理恵と誠司が一緒にいる事、私気がついてるから。帰ってこないのも、真理恵の家に遊びに行っているからなんでしょ? 」

「………………」


 ほら、否定しないことが肯定したことと同じでしょう。


「別に攻めているわけじゃないの。ずっと三人で仲良くしていたから、急に恋愛に発展しちゃったのが気不味いってことも分かってる。だけど、一つだけ言わせて。私はね、本当に誠司が帰ってこなくて、誠司と連絡がつかなくて、真理恵とも連絡がつかなくて。たった一人の家族と、たった一人の親友を同時に失ったみたいで悲しかったんだよ。なのにどうして、二人が楽しくやっているからって、二人一緒になって同時に連絡を無視するようになるなんて、酷すぎるじゃない? 」

「天音………………」


 沈黙で充満する部屋。みるみるうちに雲が陰って、部屋がどんよりと暗くなる。


「誠司は克也ともつるんでいるんでしょう? それも、真理恵なら分かってくれると思うんだけど。誠司は勉強したくて進学する高校から真面目に選んで、きっと大学なんかも目指してたんだと思うの。それなのに、大学へも行ってない克也なんかとつるんで、その影響で、犯罪まで犯してしまうんじゃないかって不安なのよ」

「……それは、どういう意味? 」


 真理恵の表情が曇る。


「誠司が大麻に興味があったこと、真理恵は知っていたんでしょう? だから、それを餌に自分と克也と誠司を近付けて、仲を深めようとしたんでしょ? 誠司は薬物中毒になるために、一生懸命本まで読んで、薬物のことを調べていたわけじゃないのよ」

「何を言っているの天音! どうして誠司がマリファナなんかしてると思うの? 」

「どうしてって、知っているからよ。全て。誠司はただ好奇心に負けただけ。宗教とかの神がかりと、薬物のもたらす精神的作用における洗脳と、精神疾患への因果関係なんかを比較してね。そこを付け狙うなんて、卑怯だよ」


 克也が家庭を荒らしているのは、克也自身が薬物中毒に陥っていて、その資金繰りに困り生活費を巻き上げるからだ。そのせいで真理恵と克也は衝突を繰り返して、家庭が大変な状況だったことは事実だ。


「あんまり触れちゃいけない気がして、これまで話題には出さなかったけど。私達のお母さんもお父さんも信仰深い人だった。それなのに二人とも私達兄妹を残してさっさと死んじゃった。だから誠司は残された本を頼りに、宗教と、精神分析の本や心理学を独学で研究していたのよ。両親の死を受け入れようと必死にね。聞いてないの? 」

「そんなの妄想だよ! いくら兄妹きょうだいだからって、天音に何がわかるっていうの? 」

「あら、彼女になったからって自分が一番の誠司の理解者とでも言いたいのね。笑わせないで。私は真理恵よりもずっと長く誠司と一緒に生きてきたんだから。誠司が考えていることだって、言わなくても頭の中に聞こえてくるのよ。双子にはテレパシーみたいなものがあるっていうじゃない、そういうことよ」

「ちょっと待って、ねえ落ち着いて。もう、やめてよ……」

「やめないわよ。だってずっと、思っていたことなんだから。そっちだってずっと私の話を聞いてくれなかったじゃない。ずっと無視して、はぐらかしてきたじゃない! 」


 少々興奮しすぎてしまったようだ。真理恵はすっかり俯いて、今にも泣き出してしまいそうな息遣いが聞こえてきた。それもそうだろう。私がこんなに感情をあらわにしたことは、これまでにだって一度もなかった。自分でも思っていた以上に、鬱憤うっぷんがたまってしまっていたのだろう。


 気がつくと部屋の中はすっかり闇夜に染まって、互いの顔の輪郭もぼんやりとしか把握できなくなっていた。私は自室へ行って、懐中電灯を手にこたつへ座り直した。


「………………電気、点けないの? 」


 真理恵がやっと涙まじりの声を発した。


「今、電気が止められているの」

「どうして? なんで払ってないの? 」

「そんなことまで私の口から言わせる気? 真理恵が奪ったからでしょ! うちの棚から光熱費代だった封筒の中身を、大麻のために使い込んだんでしょ! 」

「どうして? そんなわけないじゃない! いくらなんでも酷い言いがかりだよ! 」

「状況証拠があるんだから。誠司が戻ってないうちにお金がなくなったの。その間にこの家に出入りしていたのは真理恵だけなのよ。言い逃れできると思っているの? 」

「そんな………………」


 それに。


 言いかけたところで、真理恵のスマホが鳴った。画面を見る真理恵の顔が青白く照らされた。来た時よりもさらに顔色が悪くなっているように見える。仕方がない。反論する余地もないほどに、図星をつかれたのだから。


「お金のことは……もういい。私もバイト始めて、なんとかしようと行動しているところだから。その手の治療費だって、真理恵の家の状況じゃ負担でしょう」


 真理恵がパッとこちらを見上げた。目にはいっぱいの涙が溜まっている。唇が小刻みに震えて、顎に力が入っていた。


「………………今日はもう帰って。私も、色々とやることがあるから。……誠司にも、たまには帰ってくるように伝えてね」


 真理恵は生気を失った屍のようにふらっと立ち上がり、また連絡するから、とだけを言い残して帰って行った。驚いたことに、最初社交辞令で久方ぶりなのを謝られただけで、本題については一言も詫びの言葉を聞くことはできなかった。鈍感力もここまでくると、まるで人格障害のようだと思った。


 昔は双子みたいだと言われていたのに、いつからこんなに違った性質を持つようになってしまったのだろう。


 立花先生の話を思い出した。真理恵はきっと克也という細菌に、いつしか汚染されてしまっていたのだ。

 同じ環境でも、いつどこでブショネになってしまうかは確率の問題なのだ。悲しいけど、これからの付き合い方も考えていかなければならないと思う。


 真理恵が出て行って、すぐにまたドアベルが鳴った。

 胸が跳ねた。誰だろう。しまった、鍵をまだかけていなかった。


 覗き穴には宅配員の姿が。ホッとして、急いでドアを開けた。判子を押して荷物を受け取る。宛名は私“環天音“の名だ。

 最近身に覚えのない宅配便が多い。そんなことばかりで、自室のほとんどが今はダンボールで埋め尽くされつつある。考えないといけないことが多くて、部屋の整理もなかなか手につかないでいた。


 頭が痛い。

 どこからの荷物だろう。

 ――防犯本舗? 中身は、『通信機器抑止装置』とだけ書いてある。

 何のための道具なのだろう。どうしてこんなものばかり届くのか。

 もしかすると私のネットショップのアカウントが第三者に乗っ取られていて、嫌がらせをしてきているのかもしれない。これはいよいよ、黙ってやり過ごしている場合ではないのかも。誠司のこともそうだが、ストーカーの件も怖いし、ここは一度本当に警察に相談に行ってみようかな……。


 頭痛が酷い。そのせいで思考が鈍っているように感じる。

 今日は疲れた。

 私は制服も脱がずに、そのままベッドへ倒れこむように突っ伏した。

 遠くを走る救急車の音が近づいてくる。そのサイレンが頭の中に響いて、頭痛と混ざり私の頭の中を掻き乱していた。

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