第6話 不穏
アパートの錆びついた階段を上がる。
切れかけた蛍光灯が濡れた通路に二人の影を点滅させた。
数日前の大雨が天空でまだ燻っていたのか、今頃になってまた足元のコンクリートにポツポツと染みを作り始めていた。
誠司は無言で鉄製の重い玄関扉の鍵を開け、まるで私が隣にいないかのように一人だけで中に入った。
無言の圧力が、私の体に重くのしかかる。低気圧のせいか、頭痛も相まって肩が重苦しい。私も無言で誠司の後に文字通り肩を落として続く。
「何であんなことしたんだよ」
誠司が通学バックをリビングの隅に放るように落として言った。その言葉には、怒りと恐れが混在しているように感じた。二人の間に居心地の悪い空気が流れる。
「だいたいどうして克也先輩に送ってもらうようなことになったんだよ。天音から頼んだのか? あのファミレスも、神社も……。克也先輩と仲良くなりたいなら、俺を巻き込むのはやめてくれないかな」
そんなつもりはなかった。私の方こそ、誠司を危険な目に合わせてしまいそうになったことで心を痛めていたのだ。棘のある言い方に、胸が痛む。
「そう言うわけじゃない。私は、車に乗るならビールの酔いを覚ました方が良いと思って……」
「だったら何で鳥居に真理恵だけ残して克也と二人だけで消えたんだよ。そこで何があったか知らないけど、いくら管理されてないような神社だったって、器物破損には変わりないだろ。冗談じゃなくて、あんな犯罪行為、本当にこれじゃあ共犯だよ」
「……ごめんね」
ただ謝ることしか出来なかった。今となっては何故、あのような行動をとってしまったのかもよくわからなくなっていた。
「克也と何してたの? 」
誠司が詰め寄る。
「別に……。ただ、克也がスマホを落としたって言うから、一緒に探してただけ」
「本当にそれだけかよ」
鋭い視線は欺瞞に満ちている。
視線が合った途端に頭痛が強まったのがわかった。
本当は克也と二人きりになりたかったんだろ?
酒の力を借りて、誘惑しようとしたんだろ?
嫌いなふりして、本当は好きなんだ。俺みたいなひ弱な男より、ああいう血の気の多い粗野な男が。
「違うのよ、違うの。お願いわかって」
誠司の瞳孔が開く。がらんどうの瞳が一層に開く。
「私にもわからないの! ごめんなさい、どうして、気がついたら顔が目の前にあって、それから口に歯がぶつかって。前髪がアルコールの風と、触ったから……それで、誠司が。あの、あの……」
体と思考が、随分と遠くに感じられる時間だった。
私の弁解が通じたのか、誠司はそれ以上私に質問を投げかけることはしなかった。そしてその夜から、誠司が私と入浴することは必然的に、二度とこなかった。
***
ソロモンの雅歌。
誠司の愛読書、ヴィクトール・E・フランクルの『夜と霧』の中の一説に旧約聖書の言葉が載っている。
「われを汝の心におきて印のごとくせよ
・・・・其は愛は強くして死のごとくなればなり」 (雅歌 第八章第六節)
これは、父が自死した時に机の下に落ちていたメモに走り書きされていたものと同じ一文である。ユダヤ人の心理学者が収容所生活で体験したことを、精神を観察して書きあげた本だ。
六十一ページ第二段階、《収容所生活》には、
『人は、この世にもはやなにも残されていなくても、心の奥底で愛する人の面影に思いをこらせば、ほんのいっときにせよ至福の境地になれるということを、わたしは理解したのだ』
とあり、百三十二ページ《生きる意味を問う》には、
『わたしたちにとって生きる意味とは、死を又含む全体としての生きることの意味であって、「生きること」の意味だけに限定されない、苦しむことと死ぬことの意味にも裏づけされた、総体的な生きることの意味だった。この意味を求めてわたしたちはもがいていた』
と書いてある。
良く考えないと意味がつかめない文だけに、警察もこれを遺書と認め、事件性がないと認証明するには苦労したのではないかと思う。
実際に私でさえ、これのどこが遺書なのか分かりかねるのだが、他に父が残したメッセージがなかったので仕方がないのだろう。誠司はもともと本が好きで、この『夜と霧』という本も父がなくなる前から読んでいたものだ。その中の一文が、遺書に引用されていることを誠司はどのように考えているのだろうか。もともと親子なので趣味や嗜好が似ているだけなのか、私にはない感性だったのでそれも分からなかった。
神社での一件から、誠司とはすれ違いの生活が続いていた。私が帰宅しても一向に帰って来ず、二十二時を回っても帰って来ないこともあった。夕食をいらないという日もあったが、誠司に外で何をしているのか聞いてはいけないような気がして私も深く詮索はしないようにしていた。
今日もすっかり日が沈み、時刻は十八時を回ったところだ。
リビングのこたつから腰を上げ、カーテンを閉めて部屋の明かりとテレビを付けた。いつもの夕方のニュースが流れている。報道カメラが爽やかなバックメロディに合わせて街の駅の様子を流している。帰路につくサラリーマンや学生たちの姿。高校生カップルが初々しくも手を繋いで歩く姿も見えた。その光景に、誠司の影が重なる。
そういえば、最近は前のように頻繁に真理恵も家に上がらなくなった気がする。SNSでのやり取りは特に変わった様子もなかったが、もしかすると彼氏でもできたのかもしれないな、と考えていた。
遺影に手向けた造花に埃が積もりつつある。
その横の、すっかり手をつけられなくなった、誠司が最近まで読んでいた本の山に手を伸ばした。
古事記、神話、聖書に経典……。
読み終えた本には何か思うところがあるのか、沢山の付箋が貼られていて、読破したのかまだ目を通していないものなのかは私が見ても一目瞭然だった。付箋の色も様々で、色分けされているのは何か意味があるのだろうか。どうやら最近は世界の様々な神話についての本を読み漁っていたようだった。もしかすると、だからあんなにも神社での行いを責めていたのかもしれない。
大小様々な本に、多種多様な付箋。
アマノウズメ、道元に仏陀、パウロ、ソロモン王にアダムとイヴ……。
何がそんなに彼を掻き立てているのだろうか。最近は、それ以上に熱中する何かを見つけた?
積まれた本の一番上に置かれていた『夜と霧』に貼られていた付箋のページを開いた。
雅歌――旧約聖書の引用……。
誠司の持つ聖書にも沢山付箋が貼られている。聖書に手を伸ばして、付箋のページを丁寧に捲っていく。
雅歌。ソロモン王の作とされている。
同じカラーの付箋が貼ってある本を巡る。
旧約聖書はユダヤ教のもので、新訳っていうのはキリストが新しい約束を結びましたっていう意味があるのか。ふーん。知らなかった。
じゃあこの本は?
キリストの弟子を差し置いてその聖書のほとんどを書いたパウロはキリスト本人に会ったこともないのに、熱心に布教活動に励んでいた。キリストが夢に出てきたからって、回心してそれを信じて本まで描いちゃうんだ。パウロはユダヤ人で、もともとキリスト教徒を迫害する側の人だったのに、そんな極端なことしちゃうんだな……。へー。
今度は真新しい付箋が張られた本の山へと目を止めた。
宗教における神憑りと精神病。薬物依存と精神医学。精神疾患と行動遺伝学……。
ということは、この付箋は?
誠司が残した軌跡を辿る手を、突然の玄関のドアベルが止めた。
この時間の来客は真理恵か宅配便しかない。今日真理恵は用があって来ないと言っていたので宅配便だと予想がつく。
覗き穴には配達員が小包を持って立っている。私は鍵を開け、ドアを開けて判子を押して荷物を受け取った。
私宛の荷物だったが、身に覚えがない。どこからだろう?
伝票を気にしながらリビングに戻る。
テレビから一際大きなトップニュースを伝える通知音が轟いた。
あ、また行方不明のニュースだ。え、被害者の知人が共通の人物だった可能性?知人男性の表と裏の顔って、慈善事業に携わる権威ある立場で、某宗教の幹部でもあり以前に未成年者の売春周旋の容疑で逮捕されていたと思われるって? だから通り魔だなんておかしいと思ったんだ。警察はどうしてもっと早く気がつかなかったんだろう。絶対に、親の目が行きとどいていないような可愛そうな子に標的を絞って狙っていたに違いないのに。組織ぐるみで。確か男の子も誘拐されていたず。男児は売春では無くて、きっと臓器売買とかかな。嫌だな。誠司も年齢に見合わず幼く見られるから心配だなぁ……。
今日は遅くならずに帰ってきてくれたらいいいのに。そうだ、今夜は誠司が好きなカレーを作ろう。材料は買い置きがまだあったはず。いらないって言われたら、明日にでも食べられるし。そして神社であった事もきちんと謝ろう。それから、聖書のこともちょっと興味があるフリしていろいろ話してみようかな。きっと、誠司も普段あんなに怒ることがなかったから気まずいだけなんだよ。きっとそうだ。
私は包みを自分の部屋のベッドの足元に放って、キッチンに向かった。
あ、でもルーが無い。今から急いでコンビニまで買いに行こう。そうだ、ついでに光熱費の支払いも今月の分がまだだったから済ませちゃおうっと。
………………あれ、ここに分けておいた封筒が無い。そうか、きっと誠司が先に気がついて支払ってくれてたのかな。だってここの封筒のお金のことは誠司しか知らないし。でも私の代わりに支払っておいてくれたのならそれのお礼も言わないとな。とにかく急いで買いに出よう。
なんだか今日は、本当に誠司が早く帰ってきてくれるような気がするんだ。
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