第9話 Salvia salvatrix

 天音には書き置きだけを残して来た。


 日没はまだのはずが、辺りを覆う雑木林のせいでもう数メートル先は目を凝らさないと目視できない程に薄闇に囲まれていた。まだ明るいうちに木に登り、枝にくくりつけておいた縄が風にもなびかず宙にぶら下がっている。降りるときに木のささくれで手を擦りむいた傷がヒリヒリした。


 痛みは生物が生き伸びるための正常な反応。だけど僕にはもう必要のない機能なのに、こんな時にも律儀に働いているなんて勿体無いな、なんて事を考えて自嘲した。そんな事より最期さいごのエネルギーは自分のためにだけに捧げたい。思考だけはいつだって自由だ。


 ――天音が僕を認識できなくなったのは、恐らく病巣の悪化による乖離が原因なのだろう。

 これは彼女が生きていくための正常な防衛機能であり、それが必要な運びだとも理解している。天音がこれほどまでに心を壊してしまったのは紛れもなく僕のせいだ。すぐ隣で彼女の葛藤を目の当たりにすることはやはり大変にこたえた。いくら頭では理解していても、理性と感情という思考は常に相互作用で機能しているのだから。切っても切れない関係性が故に、それは僕の心を苛ませた。僕もいっそのことその防衛機能で気狂いにでもなれればどれほど楽だっただろうかと、今更ながら悔やまれる。だけれども、どうしても僕の理性が勝るのか、昔から全く僕の脳は、僕を甘やかすことは最後までしてくれなかった。


 死とは肉体を構成する六十兆個の細胞が分解する事だ。細胞の中にある核の中には、染色体があり、その中にはDNAと呼ばれる分子が入っている。

 分子は複数の原子からできてる。

 原子は原子核と電子からできている。

 原子核は陽子と中性子からできてる。

 陽子と中性子は3つのクォークからできてる。

 生は有限だ。古くなった細胞はDNAに基づいて生成された後に新しく入れ替わるが、それらは完全ではなく、人はこれを老化と呼ぶ。


 その有限である生を終えたとき、そこに有る“モノ”は一体何か?


 近年の研究により原子核と分子の間は真空であることが分かった。十兆分の一センチという微粒の世界で量子論の観点から人間の肉体という“モノ”を見たとき、人は無の空間という隙間だらけ、まるでおがくず人形のようだった。


 暖かい日差しが心地よい、春の幼い日の記憶が甦る。

 庭先に咲くその花を“祖母だったヒト”はイエスの十字架に例えて説教を始めた。すると“かつて”の叔父や従兄弟達は恍惚とした目でその花を見つめた。花は雄しべと雌しべで繁殖する。愛し合うことは神が我々に与えてくれた恩恵である、と。そしてヒトは命ある限りそれを体現し、神との個人的な交わり、および祈りを通して、神との個人的な関係を育まなければならないと。


 イエスはユダヤ教を始め、母マリア、兄弟、十二人の弟子、更には最後の三弟子にも裏切られた。最終的には誰も彼を守る者が居なくなり、最期はユダヤ教に訴えられ、世を惑わす罪人として十字架上で公開処刑された。

 だが決して“祖母だったそのヒト”はイエスのそうした最後を皆に語り聞かせる事はしなかった。


 イエスはただ一度、この世の終わりに自身を生け贄として、罪を取り除くために降臨したとされ、そして信者らはそんなイエスが再び御使みつかいのかしらの叫び声と、神のラッパの響きのうちに、招集の大声をあげて天から下って来るのを待ち望んでいる。地上での生涯を終えた人が蘇り、更には地上に生かされている人達が、蘇った死人たちと共に一瞬にして雲の中に引き上げられることを期待して。永遠に、主イエスと共に過ごす日を信じて、この聖書に啓示されている“携挙けいきょ”を待ち望んでいる。


 彼らの言う、被造物に過ぎない我々と、創造者である神の肉体と何が違うというのか。


 マリアの処女懐胎しょじょかいたいも、傍目八目おかめはちもくともなればマリアが単細胞生物や多細胞生物ではなく、その構成する主な物質が水と有機化合物である歴とした有性生殖する生命体だと理解できるはずなのに。


 聖書はマリアについてあまり多くのことを記していない。生い立ちや、性格に関する情報はさらに少なく、容姿に至っては全く触れられていない。

 イエスが馬小屋で生まれた理由は正にそこにある。


 ローマ初代皇帝オクタヴィアヌスとほぼ同じ時代の事である。ユダヤ人が住んでいたパレスチナ地方は、イエスが幼いときにローマの属州になっている。今はイスラエルという国だが、当時マリアが生きたローマの植民地だったユダヤで、もし仮にマリアが律法を犯して姦淫かんいんをすれば、紛れもなく石打の刑を受けていたことは想像にかたくない。

 だからイエスの義父であるヨセフは、マリアを守るために偽装結婚をし、逃亡を余儀なくされた。産気づいたマリアと共に辿り着いたのはベツレヘムの馬小屋。家畜小屋はいつだって糞尿だらけで臭いし汚いものだろう。そんな中、不潔きわまりない飼馬桶かいばおけ産湯うぶゆとして、逃亡者である両親からは産衣うぶぎすら与えられることはなかったであろうイエス。

 これが処女懐胎の真実であり、ベツレヘムでの出産は栄光などではなく、悲劇の始まりだという考えに僕は今、至る。

 そのイエスを栄光の座につけ崇拝するキリスト教徒は、彼が人類の罪をあがなうために十字架につけられ死ぬために生まれたと盲信していて、処刑道具となった十字架を崇めていることになる。


 イザヤ書四十四章九節には『偶像を造る者は皆むなしく、彼らの喜ぶところのものは、なんの役にも立たない。その信者は見ることもなく、また知ることもない。ゆえに彼らは 恥を受ける。偶像を造る者はみな、むなしい。だれが、いったい、何の役にも立たない神を造り、偶像をたのだろうか。見よ、その仲間は皆恥を受ける。その細工人らは人間にすぎない。彼らが皆集まって立つとき、恐れて 共に恥じる。』とある。

 偶像は人間が造り出した神の代用品。人間は神によって造られた被造物である。その我々人間が神を造ることは出来ないとしているのだ。人間は人形を造ることが出来ても、人形は人間を造ることはできないとして。


 可視化された歴史上の架空説のある人物を“神”というものの上に、崇拝の対象として置いておいて、そういった宗教を造り上げてしまっている。この矛盾を差し置いて、聖書が“偶像礼拝”を許さないとしているのは、どうにも理解ができない自分がいた。


 信者の望むような“携挙”は絶対に訪れない。肉体の死を持って、肉体が散った後に、再び元と同じ肉体を構成する法則は、この世には存在しないのだから…………。


 彼が肉体の死の瞬間まで公然に示した“モノ”とはなんだ?


 物心ついてから幼稚園の年長クラスまで、僕達は父と母と、天音と僕と、数人の叔父叔母家族で同じ屋根の下で暮らす大家族だった。祖父母も含めると二十人弱はいたように記憶している。 住んでいたのは市街地から少し離れた田舎の一軒家。農家でもないのに広い土地が家の裏にあって、実際に畑ではいろいろな作物を育てていた。トラクター用と思われる車庫もあったが、そこは改装されていて専ら祖母の説教を聞く講堂だったり、家族間で何かあった時の集会場だったりと、車庫という用途は果たしていなかった。


 天音と僕は幼稚園に通っていたが、年上の従兄弟たちは殆ど学校へ通っていないような暮らしぶりで、当時天音と僕は家族の中でもどこか特別な扱いがあり、親戚との暮らしの中でも一目置かれた存在なのではないかと幼いながらに薄々感づいてはいたのだ。


 そんな幼少期、親戚の子供達の中で権力を握っていたのは、従兄弟の中の一番年長者であり、子供らの統率係を担っていた“リョーコ姉”だった。彼女は様々なシーンで年少者の世話役でもあり、手本であり、指導係だった。

 僕達は他の家の子と遊ぶことは殆どなく、 リョーコ姉の指示に従い、畑仕事や家の掃除に忙しかった。子供らの中では年功序列意識が強く、リョーコ姉の事が怖いとさえ感じていた。リョーコ姉の機嫌が悪く、虫の居所が悪いと箒で叩かれたり、農具をしまう狭い蔵に一人閉じ込められて泣いている子もいた。

 幸い僕や天音にはそれほど害がなかったように思えたのは、僕たちは幼稚園に通っていたために日常的にあまり接点がなかったからかもしれない。大人の中で一番えらいのは祖母で、子供達の中で一番えらいのはリョーコ姉、という意識のもと、なんの疑いもなくそんな生活をずっと送っていた。


 生活が一変したのはリョーコ姉が中学へ進学した頃だった。僕の記憶には今でも鮮明に彼女が中学校の制服姿で仁王立ちし、年下の子供たちに自慢して見せびらかしている様が思い浮かばれる。だが、その制服に再びリョーコ姉の袖が通った姿を見ることは二度となかった。

 中学の新しいリョーコ姉の担任はいかにも新米といった雰囲気の、教育熱心な若い男の教員だった。事あるごとに学校に来ないリョーコ姉を心配して、家にあしげく通うような人物で、その訪問は次第に頻度を増し、最後の方は毎日家に顔を出すほどの熱心ぶりだった。

 しかしこれを祖母は嫌がって、すぐに家族全員が集会場である倉庫へ集められることとなる。

祖母が絶対的立場だった、両親含む叔父や叔母達は結託して、どうにかしてリョーコ姉の担任を家から遠ざけようと計画した。

 事態を把握できない子供らには、聖書からコリントの信徒への手紙十五章三十三節を用いて、。「 悪い交わりは、良いならわしをそこなう」と説教し、また「朱に交われば赤くなる」として、教員を断絶した。


 主に普段家にいた叔母達と不登校児だった子供が共謀して、エアガンや爆竹で威嚇したりするなどその行為は段々エスカレートし、更には叔母の指示に従った従兄弟の一人が、ある時ロケット花火を教員に向けて放った。

 すると教員は悲鳴をあげて、よろめきながらそのまま走って逃げ帰っていった。家の中から偶然その様子を見ていた僕と天音は、ただただその異様な光景に恐怖を感じた。つまずきながら必死の形相で丸腰になって退散する大人を、皆大口を開けて笑っていたからだ。幸いにも教員に花火が直撃しなかったから良かったものの、もし当たっていたら大変なことになっていたということは、子供ながらに理解していた。


 なぜ彼らは平気で笑って人を傷つけることができるのか? 自分の信念を貫き通すためには、他人に危害を加えることも彼らにとっては手段の一つだとでもいうのか。僕は不思議でならなかった。そんな感情を水面下に抱えていても、幼かった僕は次第にどうすることもできない無力感に打ち負かされそうな思いで日々を過ごすことになる。むしろ年の近い従兄弟達は平気な素振りで、非日常な光景を楽しんでいるようにも見えた。家庭内における日常の暴力行為を見ても、自身に対する理不尽な仕打ちにも、歯向かう者は誰一人としておらず、僕もそれに倣って表面上その色に染まったふりをし続けなければならないと思い込んでいたのだ。どこかおかしい、確信めいた思いも、僕の理性は必死に「僕の心が他の子供らのようには強くないだけ」だと宥めるばかりだったのだ。


 僕と天音が特別視されているように感じていた理由の一つに、家の中でのとある“儀式”があった。それは同時に幼い僕にこの家族が“どこかおかしい”と思わせる一つの要因でもあった。


 定期的に行われる集会では旧約聖書の「雅歌」を用いた説教が主で、英訳では「Song of Song」「Song of Solomon」となる。歌の中の歌、もしくは最高の歌、そしてソロモンの歌、という意味だ。これを厳密に分ければ、ユダヤ教では「諸書」のうちに入る。最高の歌と呼ばれる所以は、創造神によって造られた男女の愛の豊かさと、素晴らしさが何の恥じらいも無く声高らかに歌われているからだという。

 そして集会では、日常的にその“愛”を体現するのが主な目的だった。

 祖父母、両親、叔父、叔母、従兄弟達でさえ裸になり、車庫を改装した講堂で、入り乱れてまぐわうのだ。

 まず、集会所に香を焚く。これは焚き火をした時のような煙たさに青臭いツンとした匂いがして、それに混ざるなんとも言えない甘ったるい香りを醸していた。それから皆で葡萄酒のようなものを杯で交わし、儀式と神聖視された喜びの体現はおもむろに始まる。

 聖書では、“杯”という語は、交わり、怒り、救いなどを象徴的にあらわすために用いられている。それに倣った儀式形態だったのかもしれない。

 儀式ではスワッピングも当たり前に行われていた。神は結婚以外における深い関係“姦淫”を重大な罪の一つに定めている。

 しかし祖母は率先してその行いを推奨した。信仰心を持った我々のそういった行いは、神にとっても喜ばしい事だとして。

 旧約聖書レビ記の二十章十節以降には、不倫、そして親族間の姦淫を死刑に値する重度の罪とはっきり示しているにもかかわらず、だ。


 リョーコ姉はそんな儀式においても大人と子供の中堅役を担い、しばしば年少者に手ほどきを伝授する役目を果たしていた。彼女が中学へ進学してからは、リョーコ姉の実の父親との行為をまるで授業のように子供らにレクチャーして見せることもあった。また、リョーコ姉の母は、別の叔母が産んだ二歳にも満たない子どもに自慰行為を教えたりして、リョーコ姉を育んだ完璧な育児としてその手解きを他の母親達にも教え広めているようだった。


 僕と天音はそんな中、家族内での乱交にはやっぱり何故だか参加させられることは無かった。いつも全容を見届けるだけの立場におり、それは大変不快なものだったが、自分たちだけがまるで蚊帳の外だったのだ。今でもあのぼんやりとした光景はまるで夢の中の出来事だったかのように思えて仕方がない。否、夢だと思いたかったのかも知れないが……。


 しかし、そんなただの傍観者で済まされる日々は突如終わることになる。

 僕と天音が五歳の誕生日を迎えた日、祖母の口から突然、僕達の両親は偉大な存在であるという話を聞かされた。それがどういうことなのかよく分からなかったが、つまり僕達はその次に偉大な存在なのだということを伝えたかったらしい。この時に、ああ、だから周りの子達とはどうにも違う扱いだったのかということにも納得した。続いて祖母からは、神より授かったこの神聖な教えを次世代へ繋ぐためには、神の子として僕達を立派な聖人となるよう育てなければならないとも語った。永遠の魂を得るため、また十三歳の成人式までにその教育を施していくとも宣告された。成人の儀式により、完全に大人と同様と扱われると共に、“メシヤ”となるのだと。


 それからはまるで皇族のような崇高な存在だと家族の中で認知されるようになった。でもそれが仇となり、家庭内では英才教育の名目で性行為の対象年齢を下げようという動きが一部から上がってくる事態に繋がった。幼児や子供らにも性行為を強要するようになってしまったのだ。

 三歳の子供が一歳や二歳の女児たちと愛撫をしたり、老若男女問わず性行為を繰り広げることもあった。完全に常軌を逸していた。

 僕達への教育は例の日を境に、毎夜自宅の和室に並べられた布団の上で祖父母と川の字になって眠るように指示され、祖父母相手に、手淫や口淫をさせられた。また当時はこの行為が、神の子に与えられた幸せな家族の形であると刷り込まれていて、例によって十三歳までに、愛を体現する術を習得し、完遂し、伝授する側へとならなければならないという運命をも信じ込まされていた。


 思春期に全てを理解できるようになると、その記憶は大変な心の楔となって僕を苦しめた。大量の鉛が胃の中で沈み、吐き出されることなく癒着しているような、逃げられない苦痛を長きにわたって知らず知らずのうちに植え付けられていたのだ。


 これらの行為の前には必ず、『聖油』と呼ばれる液体を小瓶からスポイトで舌に垂らされて口径摂取させられていた。これがアルコールのように非常に苦く、子供ながらに不信感が沸いて僕はしばしば拒否をした。その苦行を両親にそれとなく漏らすと、両親はただ「祈りなさい」と言うだけだった。その聖油は、体に入ると一度普通の感覚ではいられなくなり、酷く研ぎ澄まされた神経を、無感覚の中泳がされているような不安定さをもたらし、僕にはそれがすごく恐ろしかったのだ。

 旧約聖書の中に登場する聖油の配合は、モーセによる出エジプト記の第三十章で明らかにされている。


『あなたはまた最も良い香料を取りなさい。すなわち液体の没薬五百シケル、香ばしい肉桂をその半ば、すなわち二百五十シケル、におい菖蒲二百五十シケル、桂枝五百シケルを聖所のシケルで取り、またオリブの油一ヒンを取りなさい。あなたはこれを聖なる注ぎ油、すなわち香油を造るわざにしたがい、まぜ合わせて、におい油を造らなければならない。これは聖なる注ぎ油である』


 この“におい菖蒲”と訳された原語はもとは“kaneh-bosem”というヘブライ語だ。kaneh-bosem(カナボソム)の発音が“カンナビス”に近似していることにより、麻薬が儀式に用いられていたのではないかともかつてより言われてはいるが、諸説あるので定かではない。

 実際に僕達の口に垂らされたチンキに大麻が含まれていたどうかは今では確かめる方法がない。大麻と言えば、集会で炊かれていたあの甘ったるくて刺激臭のする曇った匂いの香も、もしかしたら家族をトランス状態にするために仕込まれた大麻だったのかもしれない。

 未就学児である僕達や他の幼児にまで性的虐待じみた教育が日常的に横行し始めた頃、天音が僕に漏らした言葉がある。


「おじさんと二人でお風呂に入るのがいやだ。誠司も一緒に入ってほしい」


 その一言で、浴室で何が起こっているのかを察した僕は、僕なりに自然な形で天音と行動を共にするように心がけた。これは大人達の目には、僕らの関係が愛を体現するに相応しい心の成長を遂げているように捉えられたようで、非常にうまく家族に受け入れられた。


 もともと僕や天音に他の子供達のように淫らに触れたり暴力行為を働くことが禁止されていることは大人たちの中では暗黙の了解だったのもあり、天音に悪戯している所を僕に見られるのが不味いと考えたであろう叔父は、僕が天音と一緒に入浴することで次第につきまとうことをしなくなっていった。


 だがそれが原因で、いや、それのお陰とでも言うべきか、ついにはその生活に幕を閉じるきっかけとなる出来事がこの身に降りかかる。

 仲睦まじく教え通りに愛を育んでいると大人たちに評価されていた僕と天音に、祖母がいよいよ男女交接するよう命じたのだ。それもとても誇らしいことであるというように。

 祖母の言葉に僕は愕然とした。まるで死刑宣告のようだった。僕は叔父とリョーコ姉のようにはなりたくなかった。叔父を汚らしいと思っていたからだ。しかもそれを天音になんて、とてもじゃないけど無理だと思った。拒否権がないことは分かっていた。嫌がればこの異常な家族の中で僕が築いてきた偽りの信頼が全て徒労に終わってしまう。


 だけど僕はやっぱり無力だった。この時に、天音は全てを理解した上で、僕にしか聞こえない声で「大丈夫だよ」と言った。黒くて大きい聡明な瞳の中に僕が映っていた。瞳の中の自分がちっぽけでなんの価値もない虫けら以下に見えた。


 結局、僕は逃げた。天音の優しさに逃げた。大丈夫、大丈夫、そう言い聞かせた。


 何にも壊れはしない。

 怖いことなど起こらない。

 僕は、僕達は大丈夫、大丈夫…………。


 翌週の登園日に、天音が幼稚園の先生に全てを打ち明けたということを知った。もっともその事実を把握したのは、僕と天音が性行を命じられたその日から数日後の翌週、ある日知らない大人達が家にやって来た後。住む場所が変わり、他の家族とバラバラに引き離されて暮らすようになった随分後になっての事だ。


 家の中で日常的にあった「精油」に関する不可解な現象も天音は暴露していたようで、そのせいか僕達はしばらく病院での入院生活を余儀なくされた。

 生活が著しく変わってしまった混乱の中での記憶は今も曖昧で、ただ思い起こせるのは、遠く離れた地で父と僕と天音の三人で暮らしを始めた事と、そこから小学校へ通うことになったということぐらいだ。

 また、小学校の高学年位にもなると「あれは全部夢だったのかな」とも思える位になり、天音も父も何も語らなかったし、表面上はごく一般的な父子家庭に見えていたと思われる。

 だから、僕も普段の生活の中で臭い物に蓋をする感覚で、何も語らなかっただけのことだ。

 そして去年、父が自死したことで、曲りなりの僕の自己保身術はいよいよそう長くは持たなってしまった。

 拍車をかけたのは、この時に現れた遠い親戚のおばさんの存在だった。彼女の言葉が、より僕の脆弱な自己を脅かした。


「あなた、体に悪いところはないの? 」


 葬儀を終えて、おばさんはどこか他人行儀で僕に聞いた。とても心労をねぎらう気持ちから発せられる言葉には聞こえず、僕はその意図を探ろうとおばさんを見返した。


「いやね、ないならいいのよ。なにせ、これからただの一人の親もいない中で生活していかなくちゃならないんだから。どこか悪いところでもあったらこの先どうにもいかないでしょう? 」


 おばさんは自身を祖父の親戚と言っていたが、初見から最後までとても僕の父の死を悲しむほどの間柄だったとは思えなかった。あからさまに、僕や天音を厄介者のように扱う発言が随所に見られていたからだ。


「まあ、私ができることは限られているけど。逆に言うと私にだって不安はあるのよ。何もこれから高校受験だって言う時に自殺なんてねぇ……」


 おばさんは終始他人行儀だったが、この時ばかりは多少は発言の自粛の必要性に気がついたらしい。


「……やあね、そんな目で睨まないでよ。ただ、近くにいないからいろいろとしっかりしてもらわないと私だって困るってことぐらいわかるでしょう。一緒に暮らすことはできないけど、悪く思わないでね。とりあえず、これ、何かと必要な書類だろうから受け取っておいて。分からないことがあったら電話ぐらいなら私も出られるから。本当に必要な用事なら、それも仕方ないわよ」


 大判の封筒に入った書類を出してみる。封筒は糊付けも何もされていないままだった。戸籍謄本と書いてある紙になんとなく目を通す。これまで役所の書類などは手にしたことが無かったので、どこをどう見れば良いのかも分からなかった。あるのは僕と天音の名前と、父の名前と……。


「あの、知らない人の名前が載ってるんですけど、誰ですか、この筆頭者ってところの」


 咄嗟に出た言葉は、僕の本当に聞きたいことでは無かったように思う。ただ、おばさんとの間の沈黙が気まずかっただけの、なんの意味も持たない質問のはずだった。


「筆頭者っていうのは、戸籍上でいうところの父親みたいなものよ」

「でも、これは父の戸籍謄本じゃないんですか?父の名前の欄の下に僕達の名前がありますけど。それにこれって……」


 環周(タマキアマネ)という名の筆頭者に続いて、亜紀子(アキコ)という女性と婚姻した日付が記載されている。続いて出生という文字の横には父の名の栄(サカエ)と続柄長男の文字。続く長女の名前は千歳(チトセ)。問題なのはその下の、養子縁組という文字だ。その横に、しっかりと“環誠司”とあり、同じように“環天音”とあるのだ。しかも続柄は、養子に養女。これはどういうことなのか。


「そうね。戸籍上では、あなたは実の父親の弟ということになっているわね。それはあなたのお祖父さんがそうしたかったからなだけで、だけど別に今心配しなくていいじゃない?戸籍は結婚すれば自分だけの戸籍が作られるようになってるんだから。そんなに難しく考えなくったっていいのよ、今は。ねえわかる? 」


 おばさんの言葉にはどこか棘があった。僕はひょっとして自分はバカなのかと思うも、もしかして、おばさんは僕に何かの恨みがあってわざと悩ませるためにこの紙を見せたのかと考えあぐねた。


「僕の父さんと母さんは結婚してなかったんですか? 」

「だから、あなたの言う結婚って、どう言う意味なのかしらね。あなたの年でそれの本当の意味をわかって聞いているの? 」


 質問を質問で返されても困る。僕は段々と苛々していた。


「じゃあ、どうして僕の父さんは僕達と暮らしていたんですか? 祖父が養父で、祖母が養母ってなんですか? タマキアマネなんて爺さん僕は知らない! 」

「ちょっと大きな声出さないでよ、もう面倒な子ねぇ。この先きっと私以外に誰もあなた達兄妹にたどり着ける身内がもうきっといなくなるだろうから、親切心からこうして来てやってるんだからね。私に当たらないで頂戴。こっちだってどれだけ今まで不便な思いをしてきたか知らないくせに」


 おばさんは、父さんがとんでもない犯罪者である言わんとばかりに煙たがっている。


「遺産相続について動くつもりだったなら無駄なことだから、この際言わしてもらうけど。あなたのお祖父さんはとっくに死んでて、遺産はとっくに然るべき人達に相続されているから余計な手続きは今後必要ないの。おそらくはあなたや妹さんの名義の口座に、その分け前があるかどうか一度確認してみたほうがいいわよ。まあもう高校生でしょ、お金の管理くらいは出来るものね。額も額だから、養ってもらう必要もないはずよ」


 要するに、金の無心の牽制。こちらから援助するつもりはないということ。

 おばさんは冷たく切り上げると帰り際には、


「あとはそれ専門の人に相談するとかしてね。まあ、必要最低限のことなら私が動くのも仕方ないわよ……」


 とだけ言い、疲れ切った表情のまま愛想のかけらも見せずさっさと帰っていった。

 おばさんの“親切心”は、僕には混乱しかもたらさなかった。だけど天音が部屋で休んでいる間に僕だけが話を聞く形になったのは幸いだと思った。父が亡くなったという事実にかぶさって、本当は、父は戸籍上の父では無かったという事実。

 でも、父は紛れもなく僕の父親だ。根拠は薄いが、やっぱり顔も似ているし性格だって似ている。そして僕の記憶や僕の心がそう言っている。


 では母は? 戸籍上の母は、養母となった祖母であることはわかった。


 僕や天音は父と誰との間の子なのか?


 ……昔の迷信に、捨て子はよく育つとして、形式的に一旦捨ててすぐに拾うと丈夫に育つという言い伝えがある。他にも捨て子は世に出ると言い、捨てることによってかえってたくましく育ち、世に出るものであるということわざも。


 更に東日本には昔、神仏や神職、または卑賤視されていた者を仮の親とすることで、子供が丈夫に育つなどの“呪術的効果”を期待した仮の親子関係を結んだ“取子”と呼ばれるものもあるとか……。


 それからというもの、そんなことばかりをネットで調べては祖父や父の想いの片鱗にでも触れられればと、しばらくの間僕は妄想した。だがそれはあくまで僕の気持ちを落ち着かせるための都合のいい解釈であり、全く現実味のないものだと、僕自身いつしか気が付いてはいたのだ。


 旧約聖書の預言者の一人であるモーセも一度捨てられた経緯を持つ偉人の一人だ。エジプトでヘブライ人が増えすぎる事を懸念したファラオ(王)の政策によって、ヘブライ人家族に生まれた新生児のうちの男児をナイル川に放って殺すようにとの御触れが出た。そこでモーセの両親はそれを免れるため、モーセを三ヶ月まで隠し続けた後、入れ物に乗せて川に浮かべることにした。この際両親は、モーセが後に「神々しいまでに美しい」と評されたのと同様に、神の恩恵を受けていることを瞬時に察し、必死に生かそうとしていたのかも知れない。そうしてモーセは両親の願い通り川で水浴びをしていたファラオの娘に拾われ、エジプト人宗教の教えに従ったその娘の養子となる形になった。モーセの名も、この養母がつけてくれた名前なのだという。

 それからモーセの実の姉は、実母がモーセの乳母となるように懸命に取り計らった。

 古代の子は数年のあいだは母乳で育てられることが多かったというので、出エジプト記3章6節にあるように、実母はモーセの霊的基盤となる「アブラハムの神」「イサクの神」「ヤコブの神」についてを十分に息子に教える時間があったのだろう。

 僕にも乳母がいたのだろうか。それともモーセのように、乳母が実の母ということもあるかもしれない。では、僕が幼少の頃ずっと母だと思って接していた人物は何者だったのか?


 ……でもそれがなんだというのだ。


 僕はモーセのように海を割ったり、沢山の人の命を救う能力なんてない。自分の親や、妹だって守れなかった。


 ――今だって、自分の事さえも見放そうとしているというのに…………。


 おばさんの言葉に触発されて、僕は思い付く限りの疑問を手当たり次第に調べた。それには父の残した書籍が大変役に立った。戸籍謄本にあった人物の事も調べた。そこから戸籍を辿っていくのは大変な苦労だった。天音にはただの読書オタクで通していたものの、父との関係性を秘密にしたまま、内緒で時間を作っては役所に通うことにも気疲れした。

 天音はまだまだ不安定な気質があったし、社交的でない天音は家で一人留守番をすることも多く、またそれも気がかりだった。


 そうした中でも努力の甲斐あり、幼い頃一緒に住んでいた人達が実は親戚でもなんでもなかった事が判明する。


 僕が大家族だと思っていた人達は小規模な宗教の信者たちで、僕が祖母だと思っていた人はその教祖だったということも。


 父の残した書籍を読み漁るうちに、新約聖書にあるイエスの言葉は、ほとんど旧約聖書からきているものだと知った。元はユダヤ教だったパウロが監修したのだから、そうであっても違和感はない。そもそも旧約聖書だって、イスラエル民族がまとめた自民族の神話伝承と、エジプト、メソポタミア、カナアンなどイスラエル周辺地域の中東の神話を寄せ集めた要素ばかりだ。


 以前から口伝やラビ文学などで既に語られていたものを、旧約聖書も含めキリスト教という新しい宗教として布教していたパウロ。彼はどのような思いで神を語っていたのか。

 祖母が造り上げた宗教も、ちぐはぐでなんの説得力も持たない、自分達に都合の良いように解釈した神権秩序を振りかざす新興宗教に過ぎなかった。


 ――宗教においては、神の起源に歴史的証拠があるかどうかと、その実在を盲信するかどうかは別問題――ということなのだろうか?


 まるで戸籍に乗っている事実よりも、自分の出生を信じている姿がそれこそ宗教信者じみているなと情けなくもなる。

 最終的にたどり着いた結論としては、父の両親である環周と環亜紀子は官能的要素を愛する狂ったカルト宗教の教祖であるということだ。自身を神の子であるとし、その血を清いまま存続させる目的で我が子である栄と千歳に後継者となる子供を産ませた。だがその計画は思わぬ形で破綻を迎える事となった。

 あの日、天音が幼稚園の先生に吐露とろした内容から、児童への性的虐待、肉体的虐待が明らかになる。僕が家族だと思っていたカルト教団は園からの通報により、解体された。そうして僕達家族三人は、遠く離れた地で新しい生活をスタートさせた。


 父である栄は子供を連れて生活を始める中で洗脳が解けると、両親からの愛に渇望し、また自分の行いを責めていた。宗教と心理を独学で研究する中、その範囲は脳科学や遺伝学にまで及んだ。だから絶望したのだ。今の僕と同じように、自分は確かに狂った親の子であるという現実に。どんなに取り繕ったとしても、体の細胞一つ一つに確かに受け継がれたDNAからは、絶対に逃れられないのだと。


 二度と手に入らない愛と引き換えに、永遠に解けない洗脳よりも確かな呪縛が与えられていたのだと。


 そうして、母から教わった雅歌の一節を胸の内に刻んだまま自ら命を絶った。

 また、その業は僕にも受け継がれている……。


 ――どこかで天音の声が聞こえた気がした。そんなはずはないか――でも、思考はいつだって自由だ。


 天音のことは、真理恵にも相談してある。真理恵には、素行は悪いが面倒見の良い兄もいる。神社での一件以来連絡を取る内に、現在天音が不安定であることも理解してくれた上、意外にも例の破壊行為をも真摯に謝罪された。その事もあり、今はそれほど克哉が悪い人間では無いようにも思えた。

 人を思い込みで敬遠するものではないなと思う。

 真理恵ならきっと、天音に救いの手を差し伸べてくれるはずだと信じている。


 僕にもっと包容力があればなぁ……。そうすれば、彼女の期待通りに接することが出来たかもしれないのに……。


 皮肉にも、彼女が見つけたあの神社の林が、僕の生命活動を終わらせるのに一番適した場所となるなんて思ってもみなかった。ここなら誰の目にも触れず、目的を果たせると思った。まだ西の空に日があるうちにここへ来て、綱を枝に結んだ時のように僕はもう一度同じ要領で木に登った。擦り切れた手の痛みも、今度は感じない。もう十分だった。

 日没を迎えようとしている雑木林の中は真っ暗闇で。たとえ今近くに人が現れても、僕の姿は境内からは見えない筈だ。僕は登り着いた比較的太い枝の根元に、慎重に、落ちないように気をつけて座った。結んでおいた縄を手繰り寄せ、首に通す。

 静寂が僕を飲み込んだ。

 幹に捕まる手が、震えていた。


 ――祝福します。


『すなわちあなたの神 、 主を愛してその声を聞き、主につき従わなければならない。そうすればあなたは命を得、かつ長く命 を保つことができ、主が先祖アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた地に住むことができるであろう』 申命記三十章二十節


 心拍数が急上昇する。

 今僕に必要なのは酸素じゃないはずだ。

 死ぬ勇気があるならなんだってできるんだってね。

 僕に怖いものなんかないさ。


『主はモーセに言われた、「あなたはまもなく 眠って先祖たちと一緒になるであろう。そのときこの 民はたちあがり、はいって行く地 の異なる神々を慕って姦淫を行い、わたしを 捨て、わたしが 彼らと結んだ契約を破るであろう。』  申命記三十一章十六節 


 ――約束します。


 僕は不動の幹を押し返した。

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