樹々の間に林檎があるように。
央鈴
第1話 離人感
父が死んだ。
父子家庭だった兄と私は、ほとんど他人に近い親戚の世話になって、白昼夢のような感覚の中、あっという間に葬儀を終えた。それ専門の職員の人たちの導きで受験と引越しをした。父と暮らした家は手放し、新しい我が家は駅から五分という、通学にはもってこいの築三◯年2DKのアパートだ。
双子の兄との二人暮らしは悠々自適で、私はとても暮らしやすく感じていた。
六畳余りのリビングは兄の部屋と兼用で、その壁には父の遺品の書籍が積み重ねられている。真ん中に置かれたこたつは食卓テーブルでもあり、勉強机でもあり、兄の寝床でもあった。キッチンに面した壁には簡易ラックを設けて、兄が手製の仏壇をこしらえた。父の写真と、気分で変えられる水の入っていない花瓶に挿した、造花を生けただけのものである。
西日が読書の邪魔になったのであろう。兄の誠司が鬱陶しそうに腰を上げて、カーテンを閉めた。私はカーテンの隙間からもれる縦にのびた主紺色の光に視線を移す。光に差されても、写真の中の父は無表情のままだ。
可哀想にねぇ、神様はきっと見ていてくださるからね――。
ふと、葬儀の時に知らない大人に言われた言葉を思い出す。
「神様なんて本気で信じてる人いるのかな」
自分の意識とは関係なく、つい口からこぼれた。
「なんだよ、まだ本を捨てろって言いたいのか? 」
誠司が読んでいたのは見るからに怪しげな宗教の本で、これは父の残した遺品の一冊である。誠司は襖を開けた先にあるソファベットに横になっていた私を不満そうに見て言った。
「ごめんごめん、そういうんじゃないから」
私の発言を嫌味と捉えたらしい誠司は、物言いたげな顔のままに、また本を読み始めた。
誠司は父が残した書籍を、遺品整理の時に片っ端から箱に詰め全て新居にまで持ってきてしまったのだ。部屋のスペースを半分殺してしまいかねない程の量の本をずっとそのままにはしておけないので、読み終えたものは捨てること、洋書や劣化のひどいものなどは私がてこ入れして断捨離させた経緯がある。
兄とはいえ双子なので、生活上の権力としては女である私のほうが断然上なのだと思う。女の方が精神年齢は高いというし、もちろん、自分自身それを
「
「なに? 」
誠司が顔を上げずに私を呼ぶ。
「真理恵は何時に来るって? 」
「さぁ、暗くなる前には来るとは言ってたけどね」
「アバウトな奴だな。今日は早めに風呂に入りたかったのに。もうすぐ日も暮れるってのに何時になるかも連絡してこないの? フリーダムにもほどがあるだろ」
「まあまあ、南国の血を引いてるから仕方ないのよ。あったかいところの人はのんびりだって言うでしょ? それに、私は寝る前にお風呂に入りたいな」
「おい、夜更かしして夜中に風呂に叩き起こすのは勘弁してくれよな。連日連夜そんなだと俺の身が持ちませんので」
「うーん、それはどうかな? 」
インターホンが鳴る。噂をすれば、という奴だ。こちらが出向く前に、玄関の開く音が聞こえて、同時に馴染みのあるハイトーンな声が続いた。
「ういーす。
真理恵は久しぶりに実家へ帰省した娘のような自然さでこたつを囲み、豚まんの包みを早速開いた。独特で濃厚な肉汁の匂いが部屋に充満する。真理恵は昔から豚まんが大好物で、それを口いっぱいに頬張るその表情も、さながら豚まんの如くまんまるとして愛嬌があると私は思っている。
幼馴染の真理恵とは小学生の頃からよくおやつとして二人で買い食いしては、そのボリュームがゆえに、結局夕食を残して親に怒られてしまうということを繰り返していた。今ではボリューミーな肉まんも、夕食も、すっかり完食出来るほどに大きく、豊満に成長した真理恵。あの小柄で軽快だった少女が、今では懐かしい思い出である。しかし、十五歳になった今も変わらぬあどけない顔は、私のささやかな母性をくすぐるものがあった。
「またそんな脂ギッシュなもん食べて、夕飯も残さず食うんだろ? いい加減ダイエットするってんなら有言実行しなさいよ」
豚まんの油分たっぷりの肉汁が本を汚すのを懸念してか、さすがの誠司も本を閉じた。
「はぁ、別にいいじゃん。人生一度きり好きなもの食べて生きていたいのよ、私は。文句があるなら食べなくてよろしい、私が召し上がるから」
「いや、これ以上君が脂肪を蓄えることによって起こる様々な弊害の方が恐ろしいので、僕が責任を持って召し上がるよ」
「なによ、読書オタクのくせに。本の読みすぎで言葉のチョイスがオタクすぎ! 食べたいなら素直にいただきますって言いなさいよ」
物凄い勢いで豚まんを食べ終えた真理恵が、次の獲物へ手を伸ばそうとしたところで誠司が半ば制するような形で豚まんの包みを手に取った。私も慣れ親しんだ香りに食欲が湧いてきたので、二人の輪に入ることにした。
「おごってもらってばっかでごめんね。でも、いいのに。いつもこんなお土産ばっかりじゃ、いくらバイトしてるったってお金が持たないんじゃない? 」
真理恵とは小学生からの付き合いだったが、中学を経て、高校が別々になってもこうして変わらず新居に遊びに来てくれるほどの仲だった。お互い天秤座のO型で、左利きでもあり、一時は身長も体重も同じことだってあった。よく二人が並んで笑っていると、まるで双子のようだと言われもした。ただ、受験に差し掛かった頃そのストレスからなのか、真理恵は一気に体重が増えて、食の細い私とは対照的な体型になってしまったのだけれど。
彼女の方は、それを気にするでもなく
「そんなこと気にしてんの? 別に恩着せてるつもりないから、全然普通に食べちゃってよ。みんなで食べた方が美味しいじゃん」
「そうだけどさ。うん、ありがとう」
二週間ほど前のことだった。
真理恵の口からお金を貸して欲しいと言われたのは、この時が初めてだった。
小・中学生が持ち得る小遣い程度では、せいぜいジュースを奢ってあげたり、お菓子代を出し合ったりという類の感覚で、友人との金銭の貸し借りという概念が、私にはあまりなかった。
だがこの時の真理恵はどうにも神妙な面持ちで、私は、その雰囲気がどうにも居心地悪く感じたものだった。
――いくら貸して欲しいのか?
本題に触れる前に、私は二人の友情に傷が付くのを恐れて、それ以上話を続けるのをやめるように
真理恵の家庭のことは見知っている。真理恵には、父親の違う双子の兄がおり、そのうちの一人は昔から家庭を巻き込むほどの不良で、何度も警察の世話になったり、金銭がらみで家庭内を無茶苦茶にしてしまう
恐らくは、それが原因で生活が
なまじ片親であること、転校の経験があること、決して裕福ではないところも境遇が似ていたので、余計に心苦しかったのも事実である。
それでも私は、それ以上に大切な何かを壊してしまうような気がして、真理恵の言葉を受け入れられなかった。
そんなことがあっても、真理恵は何も言わずにこうして遊びに来ては、変わらずにいてくれる。私にはそれが大変嬉しくもあり、同時に罪悪感を湧かせる要因にもなった。
「ねえ、誠司、あんたんとこの学校は中間テストもう終わったんでしょ? 」
「え? うん」
「私のとこは来週からなんだけどさぁ、この範囲なんだけどみてくれる? 」
真理恵が学校指定のサブバックから、ぶら下がった大量のキーホルダーをガチャガチャいわせて、雑にプリントを出した。卓上に差し出された紙には表題に《展開》と《因数分解》の文字が見えた。最後の一口を頬張った誠司は、
「なんだよ、やっぱり中学の復習じゃん。こんなの楽勝だって」
「えっ。まじ? もぉう。受験終わって、やっとこんな意味わかんない暗号から解放させられたと思ってたのにさぁ。ちょっと、悪いけどここのとこ、ちょっと、やって見せてよ」
「だから、こういうのは決まってて……」
無意識にシャーペンを手に誠司は解説を始めた。
誠司は小学生のころから成績は優秀な方だったので、得意不得意の差が極端な真理恵は、こうして昔から誠司を家庭教師のように見立てて、指導を
真理恵の言うように昔から読書オタクだったことが必然的に誠司の脳を活性化させているのかもしれない。家にたくさん本があると大学の進学率が二◯%上がるとか、二十五冊以上の本がある家庭の子供は、それがない家庭の子供より二年ほど教育レベルが上がると言われたりもするようだ。もっとも我が家の場合は二十五冊どころか、ちょっとした図書室くらの量はあるのだけれど。
「ふんふん、そういうことね。じゃあ、こっちの問題は? 」
二人のやり取りを見ていると、まったくどうしようもないな、と思う。
私はいつのときからか、真理恵が誠司を頼れる家庭教師ではなく、便利な“宿題代行屋”として利用しているということに気が付いた。もちろん最初のころはそうでなかったのかもしれない。誠司も今では素直に
誠司が高校へ進学しても、新しく友人が出来たような話を家庭内で口にすることはなかった。中学のころからオタクで根暗な雰囲気が、級友との壁を作ってしまっていたのだと思う。過去にはいじめまがいな扱いを受けていたことも私は見てきた。派手で
誠司は、クラス内におけるヒエラルキーの上位、もしくは中心的な存在の真理恵に
それでも誠司とは険悪にならずこうして一緒にいるのだから、真理恵がどういう基準で人を嫌ったりするのかを、私はいまだに良く分かっていない。
誠司は妹である私から見てもなかなかの美形だと思う。そして、正反対の特徴を持つ異性が理由なく打ち解けている。そういった感情は、思春期ともなれば、もしかすると恋というものなのかな、とも考えた。
半時も経たないうちに二人はあっという間に全ての回答を記入し終えていた。
いつの間にかカーテンから差し込む日が、向かいのマンションに遮られていて、室内はすっかり薄暗くなってしまっていた。
「ありがとう誠司! これで提出期限に間に合うよ。助かったぁ」
「おい、これ学校の課題だったのか?ほとんど俺が説いただけじゃないか。高校は義務教育じゃないんだから、そんなんじゃ二年生に進級できないぞ」
「いいのいいの、私は充分助かったから。それに新一年生の字なんか、誰がやったのかなんて調べてわかるほど見てないでしょ」
確かに真理恵は左利きとはいえ、とても整った奇麗な字を書く。そのくせ、普段はわざとデフォルメした可愛らしい丸文字で、級友らとのたわいもない雑談や情報交換を手紙で交わしていた。そんな真理恵の文字を見抜けるのは、付き合いの長い私や誠司だけかもしれないな、と思った。
「わかってないな。真理恵は左利きだろ? 右利きか左利きかを判断する要素は、実はいろいろあるんだよ」
誠司が家庭教師もどきの延長で、真理恵に教えを説き始めた。
「字を教える教師はほとんど右利きだろ? 書き順や筆運びも、そもそも右利き使用に造られたといっても過言じゃない。そこで左利きは字を教わる時に、無理に紙を回転させたり、逆手書きになる。また、専門家は“皮肉な筆運び”と呼ぶんだけど、左利きの十人に一人はペンを紙から不意に離すことで一筆が“カット”される書き方をするんだ。だから左利きはたいてい左が鮮明で、右利きはその逆になる。あと、手に移ったインクとか鉛筆の汚れでわかったりもするよね」
真理恵は終始興味なさげにふんふん相槌をうちながら、
「昔クソ親父に右利きに矯正されかけてたから今はほぼ両利きみたいなものだし。いざとなれば言い逃れできるし。何なら、習字習ってたから右で書くのはむしろ全然得意だし」
と、頬杖をつきながらスマホをいじくっている。まさに馬の耳に念仏。
「もし課題を誰かにやらせてるなんてのがばれた日には、それなりの罰があると思うぜ? それが重なればもしかしたら退学とか……」
「そんな大げさな! 誠司は心配しすぎるんだよ。でもまあ、その時は学校辞めて働くからいいよ。
「働くって、またそんな……」
克兄とは、真理恵の双子の兄の内の一人である。大学生の年だったと思うが、進学していなかった気がする。私は真理恵の兄とは何度か会ったことがある。しかし会うたびにどこか生理的に会わない気がして、決して仲良くなることはなかった。もう一人の双子の兄は、気さくで優しく面倒見が良さそうなところが真理恵と似ているなと感じられる人なのだけれど……。
これも、真理恵が人を嫌うのと、同じような理屈だろうか。
話題を変えたくて、部屋の明かりをつけて、同時にテレビの電源を入れた。すぐに夕方のニュースを伝えるアナウンサーの声が聞こえてきた。
『葛飾区の女子高生が行方不明になっている事件です。女子高生は文京区にキャンパスがある薬科大学付属高校に通っていましたが、その足取りは今も分かっておりません。捜査関係者によりますと、女子高生は去年十一月二十日、学校の授業に出席した後、高校から帰る途中、連絡が取れなくなりました。その後、栃木県に住む両親が、娘と連絡が取れなくなったと亀有警察署に相談に訪れ、捜索が始まりました。防犯カメラの映像などから女子高生は授業に出席したその日のうちにJR綾瀬駅から電車に乗り、千葉県を経由して茨城県神栖市に行ったことが分かっています。また茨城県内のコンビニの防犯カメラで、女子高生が一人で行動する姿が確認されています』
報道局から現場付近にいるレポーターにカメラが切り替わる。
「女子高生は神栖市内で目撃されたのを最後に、足取りが途絶えたということです」
三十代くらいの男性が言った。
『タクシーの運転手からは捜査員から女性の写真を見せられ、行方を知らないかと尋ねられたという人もいたと言います』
局のアナウンサーの後に、タクシードライバーに取材している映像に切り替わった。モザイク処理された中年タクシードライバーへの取材の様子が流される。
「また行方不明? 最近多くない? 」
スマホを触りながら、真理恵が他人事のように言う。
「最近っていうか、いつの時代も多かれ少なかれあるでしょ。ただ、メディアがお茶の間の視聴率を稼ぐために謎めいた事件だって大げさに報道してるだけだよ。逆に言うと、他に伝える事件がないくらい世の中が平和だってことさ」
誠司は悟ったように言葉を返した。
『女子高生の携帯電話は見つかっておらず、警視庁は事件に巻き込まれた可能性が高いとして、女子高生と接点のある人物を対象に、慎重に調査を進めています』
「誘拐かな? ネットとかではさ、すごい可愛かったらしいじゃんこの子。でもさ、この子の家、凄く厳しかったらしくてさ、それでもって本当の親じゃなくて実は……」
どうにも無神経な言葉に、私はつい冷たい視線を向けると、意図を察したのか、途端に口をつぐむ真理恵。両親を亡くした
報道局のコメンテーター役の元刑事が、画面の端で前のめりに構える。
『自動車によって拉致された可能性が高いですね。コンビニも立ち寄って以降、そこからの目撃情報もない。店を出てすぐ何者かに拉致監禁されたのが自然ということです。身代金の要求もないということですからね』
『では、知人の可能性は? 』
番組の司会者が尋ねた。
『現状では、偶発的な通り魔的な犯行と言えますね』
私は思わずため息が出た。
元刑事といえども、どうしてこんな自信満々に断言できるのだろう。“元”というだけで、警察の持ちうるすべての最新の情報を知っているわけではないはずだ。それに先ほどの真理恵の言葉も気にかかる。実際に、最近耳にする未成年の行方不明者が、両親と何らかの形で引き離されていたり、不遇な環境において突如姿を消すといった内容ばかりだったからだ。
『可哀想にねぇ――』
テレビに映るベテラン女優と呼ばれる中年のおばさんの言葉がまた、私の思考を遮った。
遺影から、父の視線を感じる。
「神様なんて、本当にいるのかな」
「え? 」
真理恵が本当に聞こえなかった時の態度を私にして見せる。
テレビのニュースが、連日繰り返される核汚染と反原発に関するものに変わったのを皮切りに、誠司は口を開いた。
「天音、最近メランコリック気味じゃないか?そんなに神頼みしたい事でもあるのか?それとも俺が読んでる本が気になるだけか? 」
「いや、そんなんじゃないけど……」
「じゃあ、天音の言う神様ってのは何? 日本は
「えっと、ごめん。わかんない、難しい言い回ししないで」
誠司の口調が急に、強くなった気がしてつい声が小さくなる。そんな私を見て、誠司は優しい口調を意識するように続けた。
「神様っていうのは、その人が信仰している “もの”の事を指す意味が大きい。だから、日本人に馴染みがあるので言うなら、仏教なら釈迦、キリスト教ならイエス・キリストとかね。日本はもともと
「げえ。全然わからん」
真理恵が仰向けになって足を投げ出す。
「うーん。じゃあ私たちは日本人だから、宗教的には神道? 何で、仏様とかに手を合わせて、仏教信者みたいなこと言うのかな? 」
「さっき言った氏子っていうのは、地域の神様……氏神様が加護してくれる地域に生まれた者を指す名詞なんだ。いわゆるキリスト教で言うところの、洗礼を受けた者と同義だと思ってくれればいいかな?でも、日本に海外から仏教が伝わってきて、その時代の政治とか外国人からの影響とかで、全く違う宗教が日本人の持つ古来の考え方によって、時代を追うごとにないまぜになった。これが現代の日本人の抱く宗教観の完成形だと言われているんだよ」
「そうなんだ。じゃあ、神様も仏さまも別の人だけど、日本人からしてみれば、そんなことどうでもいいって感じ? 」
「そんなこと言うと、世界の戦争が何のためにあるのかって話に発展するからあんまり言いたくはないけど。でも、俺が思うにどの宗教も、結局は言っていることは似たり寄ったりなんだよなぁ」
誠司は定位置である自分の座椅子に、リラックスしたようにもたれた。
「ふーん。それならみんな仲良くすればいいのにね」
「それが出来ないのが宗教の厄介なところなんだよ。言いたい事の本当の意味は同じでも、教え方や説き方が、宗教によってさまざまだからね。ほら、肌を見せない規律があったり、お酒が悪とされる教えもあるくらいだから。それを間違っていると他者が否定すれば、否定されたものは自分が信仰する神が間違ったことを言っていると非難されたと感じる。するとまあ、信者は信仰によって保たれていた自身のアイデンテティさえも脅かされることになる。そうなれば躍起になって、相手をつぶしにかかる怒りにもつながるわけだ」
誠司は言い終えると、私を見て考え込むように少し黙ってから、また口を開いた。
「人は自身の中で矛盾を抱えて葛藤を覚えると、都合のいい理屈を作り出すようにできている。正しいと思い込んでいたことが後から間違っていると証拠を突き付けられた場合、人間の脳は言い訳の理屈を考え出し、何とか間違いを認めずに済むようにしようとするんだ。信じたら、そのまま信じたことに従った方が脳みそ的には楽だから。人の生は有限で、その限られた中で信じたものにお金や時間を費やした過去の自分を否定することは、かなりのストレスなんだと思うよ」
それを聞いて、なぜ誠司が今、発言を
それでも私は、逆を言えば今しかこの話題は出せないのではないかと、思い切って聞くことにする。
「私たちのお父さんとお母さんは、そのストレスに耐えられなかったのかな」
視界の端の真理恵が、スマホのスクロールする手を一瞬止めた気がした。
「……それはわからない。俺は、“死にたい奴”は勝手に死んでいくものだと思ってる。誰のせいとか、責任とか関係ない次元で、死ぬんだ」
誠司が博学だからって、ちょっと酷な質問だったかなと、今更思ってみても遅い。誠司がどんな顔でそんなことを口にしているのか見る勇気がなくて、真理恵の手の動きを追う。スマホの画面は
沈黙が流れる――。
私たちの父親は、以前住んでいた私たちの我が家で首を吊る形で死んだ。
あの日、私は夕食の買い出しを頼まれていたので、学校の帰宅途中に近所のスーパーへ寄っていた。別のクラスである帰宅部の誠司は私より先に帰路につき、その第一発見者となった。
いつもと変わらない朝、いつもと変わらない日常だった。しかし、仕事に行っているはずの父親の靴が玄関にあったのを見て、誠司は珍しい日もあるものだと、帰宅を伝えに父の書斎へ向かった。
父がいるはずの部屋が暗いので、何かを感じた誠司は明かりをつける。
首を吊った父が、目の前で静止している――。
倒れていた椅子を動かして、どうにか父を抱える。反応がなかったので、誠司は後に「ああ、死んだんだな」とこの時に確信したと言う。
卓上のはさみでなんとか縄を切り、父を床に横にした後紐をほどいて、口元と胸に耳を当てても音は聞こえない。救急車を呼んでから、言われるがまま心肺蘇生を行った。救急隊員が着いて、死亡が確認され、警察が呼ばれた。
一方で、手に買い物袋を提げた私は、自宅の前にパトカーが一台と白バイが二台止まっていることに気が付く。瞬時に何かあったのだと察した私は、空いたままになっていた玄関を目指して走った。
家に上がると警官が二人いた。暗い表情で、無言のままに父の書斎の方を指さす警官。心臓が口から出てきそうという表現が一番しっくりくる状態に当てはまると思ったのは、後にも先にもこの時だけだ。
買い物袋から中身がこぼれようが関係なしに袋を落とすと、書斎へ駆けた。警官が二、三人、奥に誠司が見えた。誠司と目が合う。
そばの床には体を布で覆われた父が寝ていた。
「誠司? どうしたの? なにがあったの? 」
泣くのを
「ごめん。天音。ごめん……」
この言葉を最後に、誠司はボロボロと足元に水滴を垂らした。
興奮と緊張の中、誠司の涙に触発されて、訳も分からずもらい泣きする私。
目を閉じた父の顔は真っ白だった。首には黒い跡がくっきりと残っていた。天井の梁に、切断されたような縄が括り付けてあるのを見た。
吊ったんだ。それで、死んだんだ。
もらい泣きが、ようやく理由を見つけて、大粒の涙となって私から溢れ出た。
室内は中学生の男女二人の号泣で埋め尽くされた。
警官は棒立ちのまま泣く誠司と、崩れ落ちてなく私を囲んで一ミリも動かない。
どれくらいの時間が過ぎただろうか。自分自身何故泣いているのか分からなくなるほど泣き終えた後、警官に別室に連れられた。誠司はそれを見て、他の警官と何やら言葉を交わす。
「お父さんは何か言っていましたか? 」
「最後にあったのは? 」
「何かおかしいところは? 」
「メールや電話のやり取りはありませんでしたか? 」
散々泣いた後で、思考もぼんやりとする中、なんとか父の記憶を呼び起こす。それでも普段と何も変わらなかったとしか、私には思えなかった。
尋問めいてくる質問に、警官の態度が気になりだす。
警官達のバタバタと動き回る音に、家を荒らされているような錯覚に陥りそうになる。
さっきまで痛ましいものを見るような目だったのに、今はもはやただの傍観者のそれで。
――私が何かしたとでも言いたいの?
最終的に、書斎の机の下から遺書のようなメモ書きが見つかり、私への尋問は終わった。
自殺の場合、遺体は検視のため警察により運ばれていくことになる。その後になって、ようやく最も近くに住んでいた遠い親戚の人間が我が家に来て、いろいろと世話をしてくれた。
私は実の父の死に直面したのにもかかわらず、全て人任せにし、ただ泣くことしかできなかった。その間、誠司は救急隊員が来るまでの間、警察が来てからも、全て一人で対応したのだ。
とても同年代の男子――肉親の死に直面した者が――誰にでもできる事だとは思えない。
きっとこの一件は誠司の心に今もなお暗い影を落としていると思うし、今後の人格形成にも大きな影響を与える大変な心の傷になっていると想像に容易い。
なのにどうして、つい、こんなことを聞いてしまったのだろう。
“私ってどうかしているのかな”という離任感に埋もれた思考が、途端に腹ただしくなった。
「そうだ。ねえねえ、この前フェイスブックで知ったんだけどさ、うちらの小学五、六年の時の担任が、あそこの校長先生になったのって知ってた? わかるよね? 」
横になっていた真理恵が起き上がり言った。
「ああ、あの体が大きい熊みたいな男の教員だろ? 」
「それそれ。熊というより、ジブリに出てくる豚みたいだったけど」
真顔で悪態をつく真理恵は、やはり外見重視で人を判断するタイプだと思う。
「面白いからさ、今度の私の中間が終わったら三人で会いに行かない? 私たちの事絶対覚えてくれてると思うんだよね」
まさか真理恵の口から恩師へ会いに行こうという言葉が出てくるとは思ってもみなかった。どちらかというと、真理恵はその担任の事を嫌いでいるのかと思っていたからだ。
「どうしたの急に? いちいち厳しくてうざいって、真理恵は先生の事嫌いなんだと思ってた」
「そうだよ、担任のスリッパの裏にボンド塗って床に張り付けて転ばそうとしたりしてね。あと、給食の残った牛乳でチーズ作ろうって保管して、そのうち発酵で爆発して。先生がバレンタインのチョコ交換禁止っていうから、代わりに学校のもので作ろうと思いましたぁ、なんてあほな言い訳してみたり。もうとっくにバレンタインなんか終わってんのにさ」
「あぁ、あれ? ものすごく臭かった! 」
このときに学校中が
同じクラスだった私たちは真理恵のいたずらにしばしば付き合わされ、牛乳集めに加担させられたのも懐かしい思い出である。生き物係だった誠司が保管場所にしていた飼育小屋が、爆発による悪臭で大惨事になり、クラスの連帯責任で新しい飼育小屋を簡易的に作るという話になると、授業一時間が丸々つぶれた上、イレギュラーな出来事に不思議とみんな楽しんでいたような記憶もある。
「そんなことないよ、私はただおもしろそうだと思ったことをやってただけだよぉ。じゃあ、来週の金曜日、予定空けといてよね」
私たちが小学生の頃は、父の仕事の事情で何度か転校を繰り返している。そんな中で、わたしの最後の転入となった五年生の担任が今は母校の校長として活躍しているというのである。その小学校ではクラス替えは二年に一度で、担任もそのまま持ち越すというシステムになっていた。
小学校生活を送る数年間の中で、私と誠司は様々な学校、級友、教師と巡り合った。その中でも一番印象深く、一番温かみのある大人だったと、私が今でも思っている人物の事だ。それは誠司もきっと同じだろう。
今思うと、クラスの問題児は真理恵に限らず、他にも沢山いたようなイメージがある。もしかすると、例の恩師は自ら問題児童を引き受けて、温かみのある熱心な指導をその手で施すために、当時から日々邁進していたのかもしれない。そうして校長としてのキャリアが形成されたのだろうと、つい感慨深くなった。
その後、真理恵はいつものように私たちの家でごろごろ過ごすつもりでいたようだが、誠司が風呂に入りたいから帰るように促すと、また明日も来ると言って二十二時を回ったあたりでしぶしぶ帰っていった。
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