第13話 自由意志
医療法人聖徳会ビハーラ病院は、街の喧騒から隔たれるように四方をすずかけの木で囲うようにして、ひっそりと佇んでいる。背丈より高いレンガ調の塀には精神病院の閉塞的なイメージを少しでも風通しを良く見せるためにと、最近になってからは門柱の間に樹脂製の目隠しフェンスを入れるようリノベーションし、圧迫感を軽減させる効果を発揮させていた。
天音がビハーラ病院に強制入院となってから、私は何回この門をくぐっただろうか。
湿度の高い風が木を凪ぎ、葉の隙間から注ぐ日は、もう正午の位置よりやや西に寄っている。ここ最近の日中の暑さが、もうすぐそこまで来ている
広大な敷地にある一画の駐車場へと向かう鏡真理恵は、歩道に等間隔で植えられている樹々の陰に視線を落としたまま、隣を歩く立花雄大に話しかけた。
「先生、天音はきっとよくなるよね? 」
立花は自分の胸程の位置にある、横に居る真理恵のつむじを見た。
「君はよく頑張ったよ。環君を僕に早くに会わせてくれたからこそ、こうして早期に対処できたんだから」
真理恵は何も言わないまま、右手首にある一筋のケロイドと化した古傷を撫でている。
「……あのまま誰も手を差し伸べていなかったら、事態はもっと深刻化していただろう。彼女も誠司君や、君のその手のように……」
歩みはそのままに、立花が真理恵の肩に手をいつものように、励ますように、しっかりと置いた。
「あの日、克也に会わせたのがいけなかったんだ。天音が克也の事を良く思っていなかったこと知らないわけじゃなかったのに。先生だって知ってるよね? 昔からそうだったんだよ? 天音は小学生の頃から都合の悪いこととか、嫌なことを全部別の世界に分けちゃうの。克也を双子だって言って、変な風に嫌な記憶を別の人の仕業みたいに話すんだもん。私に双子の兄なんかいないのに、良いイメージと悪いイメージが極端っていうか」
「そうだね。彼女の辛い過去がそうさせてしまっていたのかもしれない。そうでもしないと、耐えられない思いだったのだろうね。私も何か力になれれば良かったのだろうけど。潜在意識は簡単には気づけないものだし、意思を持って変えることも難しい。すまなかったね。僕が男であることが
「先生は悪くないよ。だってこうしてお見舞いにも来て、ソーシャルワーカーとかカウンセラーの人とも連絡とって、先生だって忙しいのにさ。悪いのは全部、病気だよ。そのせいで克也も、男ってだけで天音の潜在意識ってやつに良くない影響を与えたっていうんでしょ。とにかく先生は、天音にとっても信頼できるお父さんみたいな人だってきっと思ってくれてるよ。学校に行こうって話をした時も、嬉しそうだったもん」
「ありがとうね、君の優しさには救われる思いだよ」
真理恵は困ったような笑みを少しだけ覗かせて、また物思いに
「両親がいない気持ちって、すごく不安で寂しいものだよね? 私、分からなくなることがあるの。家族って面倒で嫌になることの方が多いかもしれないけど、それでもやっぱり助けてあげたいって思っちゃうし、そう思うことで何だか自分も楽になれる気がするから。そんな存在でも、やっぱり血が繋がってるっていうだけで必要に感じてしまうものなのかな」
「そうかもしれないよ。でも血の繋がりだけじゃないさ。環君は君の事も家族のように思っていたと、そういう風に僕には見えたよ。彼女なりに不完全な自己を認識していたからこそ、克也君の存在をも君への親しみを込めて、双子だというように思い込んでいたのかもしれない」
「……うん。だといいな。……先生あのね、私、実は結構酷いこと言われたりもしたの。こんな風に言うのって告げ口みたいで嫌なんだけどさ。天音は誠司が凄く大事だったみたいで、私が誠司のこと話したり仲良くすることに敏感でね。そのせいでまた天音のストレスになっちゃいけないって私も気を付けてはいたけど、最後の方は何やってもダメで。病気のせいでお金の管理もできなくなっちゃってた。でもそれさえもいつのまにか私のせいになってた。……だから、怖いの。誠司が死んじゃったことも、全部私のせいにされそうな気がして。本当は天音に良くなってほしいけど、顔を合わせて昔みたいになれるか怖くて怖くてたまらない」
話にはまだ続きがありそうだったが、立花の自家用車が停まっている一画まで来て真理恵は口を閉じる。湿気を帯びた風が彼女の髪を乱した。それを抑えている彼女の目に、薄っすら涙が浮かんでいることにも、この時立花はしっかり気が付いていた。
「全て元通りにとはいかんだろうが、出来る限りのことをしていこう。僕と、鏡君で」
「……はい」
二人は車に乗り込んだ。立花はカーナビを操作して、履歴にある真理恵の自宅を選択しようとした。しかしその手を助手席の真理恵がおもむろに握って阻止する。
「天音は私と先生の関係も疑ってるようだった。実際にニュースで流れてるような淫行を例にして、私に詰め寄ってきた」
「……鏡君」
思慮深いまなざしを真理恵に向ける立花は、その手を振り払うことはしなかった。
「ねえ先生、病気のせいだと思う?」
「それは」
立花が言い終える前に真理恵は
「ねえ、先生私怖い。私全て言うとおりにしたでしょ? 大麻入りのチョコレートだって怖かったけど天音に食べるようにお土産にしたりして、何とか口にするように頑張った。だけどこんなことになるなら私、もっと違う方法で――」
「鏡君! 」
立花の大きな声で真理恵は体が跳ねた。
「君の行いはきちんと評価されているよ。すべては神のお導きだ。いいかね、今は全て悪いように歯車が噛み合ってしまったように感じるかもしれない。だけどそうじゃないよ。そんな風に、自分を責めてはいけないよ」
真理恵はついにボロボロと涙を流し始めた。立花は動かない真理恵の手をその大きな手で優しく包み込んだ。真理恵は
「先生、穢れを落としたいです。禊が必要です。このままでは私ダメになりそうです。今夜の会合まで耐えられそうにありません」
「……鏡君。サタンに負けてはいけないよ。僕に協力できることなら、こうして、いつでも頼りなさい」
立花はカーナビを真理恵の自宅から自身の自宅へと変更した。
「では、シートベルトをしなさい。車を出すよ」
「……わかりました」
車が病院の駐車場を抜けるころには真理恵はすっかり泣き止んで、明るい声でこう言った。
「早く天音も一緒に苦難を乗り越えられるようになればいいと思います。みんなと一緒に神の恩恵を、愛の体現を、魂の救済のために尽くせればいいなって思います」
これに応えるように立花が言う。
「精神が落ち着いたら協会の集まりに来てもらえるようにしようね。それがいつになるかはわからないけど、きっと彼女の心の支えになるだろうから。彼女は、いや、彼女たちはもはや完全なるシンボルと化した。今や、神そのものなのだからね」
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