第14話 具像崇拝
「克也くん、最近なんだか元気ないね? 」
居酒屋のカウンター。ここ最近よくうちの店に来る彼女が、黒の綺麗なセミロングを豊満な胸に弛ませながら前のめりになると、カウンター内で洗い物をしている俺に話しかけてきた。
「そんなことないっすよ」
向かって右奥で注文の鶏皮を焼いているオーナーに、つい最近私語が多いと言われたばかりだったのでわざと冷たくはぐらかした。
「そうかなぁ。なんだか、お昼にランチに来てた時はもっと威勢が良かったと思うんだけどな」
「威勢が良いといえば、今日は車海老がありますよ。好きでしたよね、刺身にした後のしめの味噌汁も、どうですか? 」
私語が多いとか、もっと愛想良くしろとかいろいろ気分で言うことを変えるオーナーへの当てつけに、わざと大きな声で営業した。
こんなくだらないことばかり気にかかって、彼女が指摘するように、やっぱりどこか最近調子が出ないのは本当だった。周りが気になる割に思考はてんでバラバラで、集中力を欠いている。だがその原因を、分かっているとはいえ常連の彼女にベラベラと話そうという気分にもなれなかった。
「なんだか冷たいのねぇ、今日は一段と。もうちょっと肩の力抜いたら? 最近夜もここにずっと出てるんだって? そんなに働き詰めだと参っちゃうよ。オーナー、克也くんに生ビール一杯」
「おう、悪いねえ可愛がってもらって。じゃあ、生ビール二杯! 俺も仲間に入れてくれよ」
「もちろんそのつもりよ」
オーナーの了解を合図に、ありがとうございますとだけ言ってから、手を拭いて、すぐに冷えたジョッキへと生ビールを注いだ。オーナーの元へ一つ届け、もう一つを手に彼女の元へ寄る。
鶏皮を仕上げたオーナーも、サンダルを引きずってビールジョッキを手に歩み寄ってきた。
「姉さん、いつも一人で来てるが男は作らねぇのかい? まさかうちの克也を狙ってんじゃないでしょうね? うちの働きガシラは意外と男気溢れる奴なんで、年上の姉さんでも守ってやれる度量はあるよ! 」
「あら、そんな風に見たことはなかったけど。ふふ、ちょっと考えてみようかしら」
今日のオーナーは機嫌が良さそうだ。乾杯を済ますとジョッキの中身を一気に半分飲み干して、ニカニカと満面の笑みで、自分の持ち場に大人しく戻って行った。あんな様子なら、変なところを揚げ足取りみたいに注意されることも今夜は無さそうだなと思った。
オーナーと交わした言葉を最後に、彼女は赤ワインの入ったグラスからそのアルコールをゆっくりと口に含むと、しばらくの間沈黙していた。俺はワインボトルを手に取り、彼女が指を添えているままのグラスに注いだ。
真っ赤な口紅が映えるストレートの黒髪と、ボルドーワインの陰影がとても神秘的な雰囲気を漂わせている。鎖骨あたりの白い肌に小さく乗る十字架をモチーフとしたチョーカーネックレスがキラキラ光って、その大きく開いた胸下へと自然に視線が下がってしまう。
これにより、最近の思考はもっぱら周りの友人のようにオンナがどうとかなんていう世界から大分遠ざかっていたようだと気付かされた。客である彼女の異性関係なんてこれまで意識したこともなかったが、目の前の女性は確かにこの店に今いるオンナの中でも、一番良いオンナだと俺は思った。
「どうしたの? 急に黙り込んじゃって」
「いえ、リョーコさんこそ黙り込んでどうしたんですか」
「んん? 君のことを考えていたよ」
またいい大人が、年下の男をからかっている。そんな風に思ってリョーコさんの顔を見る。しかし、予想外にもリョーコさんは真剣な顔つきをしていた。思わずドキッとしてしまう。
「あたしって、ダメなのよね。こういうタチなの。面倒くさい女でしょ? 詮索好き〜とか、お節介〜とかって周りから言われがち。でも、性分なのよ。どうしても、気になるの」
はにかむような、それとも諦めたような、そんな感じでリョーコさんは俯き気味に小さく笑った。その目が潤んでいるのは酔いが進んでいるせいなのか。化粧なのか、頬もほんのり色づいていてる。
「優しいんですね」
吸い込まれそうな雰囲気から逃れたくなって、俺は視線を逸らして次のオーダーの支度へ取り掛かる。
本当は誰でも良いから藁にもすがりたいような気持ちでいた。昔から強がってばかりで、中身が空っぽの俺は、今、長年抱いていた密かな希望を打ち砕かれてしまっていて、もう何にも意味を見出せなくなってしまっていたからだ。
背後にある酒のボトルが並んだ棚へ向き直った時、リョーコさんが独り言のように呟いた。
「ここだけの話。あたし、いいもの持ってるよ」
俺は一瞬自分の耳を疑った。その台詞は、あることを俺に連想させた。そして同時に、リョーコさんはそういう人なんだ、と少しがっかりする。
「あの、俺そういうのしないんですよ」
俺の育った環境は確かに良くはない。そうすると、自然と周りはそういう伝手が出来て、犯罪行為が板につき始める。もちろん俺もそうなるだろうと、なんとなく未来を予想していた時期だってあった。だけど、どうにも良心がふつふつと湧き出ては、いつもそんな機会を逃れてきていたのだった。酒もタバコも小さな時から身近にあって慣れている。だからと言って強いわけでもなかったが、それは今も変わらない。だから、いつしか本能がそうした体の害になりそうな物を避けているきらいがあるのかもしれない。
「やっぱりね。そんな感じする。君って可愛い。あたしにはない純粋さがとても魅力的」
口説かれているのか? これまでこんなリョーコさんは見たことがなかった。やはり、夜のバイトは昼間とは違った人間の一面が見えるものなのだな。
「海外ではね、本格的に医療目的で薬としても扱われているのよ。ガンの治療なんかにも使われていて、民間療法でも食べれば健康に関して様々な恩恵が得られることも分かっているの。だけど、日本ではあまり良いイメージはないものね。仕方ないわ。だけど、そういう人に流されない意思は、やっぱり凄くかっこいい」
酔いの差が開いてますます会話が噛み合わなくなる前に、俺はビールを喉に流し込むことにする。やっぱり今日はどこか変だ。
「少しあたしの話をしてもいいかしら。あたし、今は医療関係と、それに関わるような自己啓発分野にも仕事として関わってるの。これだけ聞くととても頭が良さそうに聞こえるかもしれないけど、実はあたしね。最終学歴は中卒なのよ」
「え? そうなんですか?! 」
その見目からはとてもじゃないけど想像出来ない話だと思った。着ているものも、その身のこなしも、とても品が良く育ちが良さそうに感じられていたからだ。全くと言ってもいいほど俺とは違う人種に見えていた。
「ええ、偏見が怖いからあまり言わないんだけどね。ふふ、克也くんにならなんでも話せそう」
それは俺を格下に見ているからか?という言葉は言わないでおいた。
「そんなに警戒しないで。ただのおばさんが酔っ払ってるって思って、聞いててくれたら嬉しいんだけど」
「……おばさんだなんて思ってませんよ。リョーコさんは、初めて見た時から綺麗な人だなって思ってました」
「あら、嬉しい! だけど、煽ててもお酒くらいしか奢ってあげられないわ」
リョーコさんはワインを口に運ぶ。ペースが少し上がっている気がした。
綺麗という言葉は、リップサービスじゃなくて本心から出てきた言葉だった。しかしここでも少し、喉に仕えていた魚の骨のような胸の痛みがぶり返す。
リョーコさんが優しい性分なら、調子が良いのが俺の性分だった。また、羽目を外し過ぎて余計な事まで口にしてしまう。これは厄介なもので、意識して治そうにもなかなか難しい。もうこの年になって今更自分は変えられないと、諦めてはいるのだが。
「中卒って言ってもね、ほとんど学校へは行っていなかった。まあ、事情はさておき不登校みたいなものよ。それはもう思春期は悲惨なものだった。人に話せないくらいの、本当に酷い状態だった。だけどね、ある人に出会ってから、また自分が進むべき道が見えてきたっていうのかな? そのおかげで今はとても前向きに仕事もできていて、幸せを感じられる毎日よ」
「それは良かったです。……苦労しているからこその魅力っていうのも、俺、分かります」
これも本心。だけど俺はどうだ?
苦労してないから報われないとでもいうのか。
だめだ、どうしてもネガティブ思考に陥ってしまう。自分の非力さにうんざりする現実にはもう向き合いたくない気持ちだった。
「あたしたち、きっと同じなのね。だから、君のことすごく知りたいのかも」
同じ? 俺はリョーコさんのような奇麗な外見でもないし、稼ぎだって良くない。性格だって凡人以下の出来具合。
「……そんなことないですよ」
奥の座席から客の呼ぶ声がする。俺は大きく返事をしてカウンターから離れた。客の注文を聞いている間も頭にはリョーコさんの言葉が離れなかった。
俺たちが同じ? どこが同じなんだ。彼女、きっと酔いすぎてるんだ。
じゃなければあんなこと言う必要がどこにある?
オーダーを取って、奥の厨房に入る。心に暗い影が渦巻く。少し冷静になりたい。
厨房にオーダーを通して、裏戸から外へ出た。休憩用に設けられた灰皿の横にしゃがんで煙草に火を付けた。
確かに、リョーコさんの言うように最近の俺は働き詰めなのかもしれない。
親の抱えた借金を返すために、家族のため妹のため高校へも行かずにずっとこうして働いてきたのだ。それももう少しで返済の目処がつきそうな所までがんばってきた。
これまでの人生は、それなりに楽しいこともあったと思う。でも、ただ馬鹿やって目先のことだけに飛びついてのらりくらりで暮らしていた訳でもない。
何のために生きているのかわからない人生の中でも、今まで俺の心にはいつもずっと気にかかっていることがあった。
それは妹の真理恵が連れてきた友人の環天音だ。俺は彼女を一目見た時からその鋭い視線に吸い込まれるように惹かれた。
出会った頃の年齢からすればそれはおよそ恋とは程遠い感情だったかもしれない。その頃の俺はガキだったし、彼女だっていた。それに別れてもすぐに貞操観念のない馬鹿な女が自然と周りに集まってきたので、女には事欠かなかった。だから余計に、環天音のような眼をした女はそれまでに抱いたことのない感情を俺に抱かせた。
真理恵から環天音が過去に酷い虐待で心を病んでいるという話を聞かされたことも良くなかったのだと思う。俺は馬鹿なくせに善人ぶってしまう節がある。おそらく俺の好意は他人にはなかなか思うように伝わらないことの方が多かったが、それでも俺はやっぱり彼女を放っておくことが出来なかった。
中学に入ったあたりから、真理恵が夜遅くまで出歩くことが増えて、どこから手に入れたか分からないような金を持っていることが頻繁にあった。あいにく俺の周りの馬鹿な女どもと同じような言い訳、行動パターンからすぐに援助交際に手を出していることは分かった。それを咎めようにもほとんど意味はなく、手の施しようがないと半ば諦めもした。だけど環天音に対してはそうは思えなかった。あの目、すべてを穿って見るような鋭い視線。繊細なガラス玉みたいなその瞳を、その子を、守ってあげたい気持ちに駆られたのだ。
だからこそ中学生になった環天音が家に訪れ、そこに偶然居合わせた俺は、警告のつもりで身近にある危険を知らせたいという思いだけで櫻田小学校での淫行事件の真相を話した。
あの、立花雄大という教員は、俺が櫻田小学校に在籍中に何度も女生徒を狙ってセクハラ染みた行為を働いていた。しかしそれらを把握しているのは日常的に目撃していたクラスメイトのみ。そして俺もその中の一人でもあった。
だがあいつは他の阿呆な教員らをまんまと洗脳して、全然関係のない新任教師に罪をかぶせて正義のヒーロー気取りだった。幸いにも事件発覚後は行動を慎むようになって、少なくとも俺が在校中にあいつが悪さをすることを見かけることはなくなった。それなのに、高校生になったというのにもかかわらず真理恵がわざわざアイツに会いに行くと言うではないか。それも環天音を連れて。俺は嫌な予感しかしなかったし、みすみす彼女を危険な人間に近づけたくない思いで、真理恵に頼まれたこともあり仕方なく車を出すことにしたのだ。
久方ぶりに会った環天音は益々目を奪う程の美しさで俺の前に現れた。もうそれは凡人とは思えない、神々しさを感じるほどの衝撃を受けた。
あの日、あの時真理恵が俺と環天音を再会させたことで全てがおかしなことになってしまった。どうにも自分の行いを悔やんでも悔やみきれないまま、今もこうして気を揉んでいる。
緊張から酒に手を付けてしまった俺は、愚かにも抑えられない気持ちを彼女にぶつけてしまう。自分の馬鹿さ加減には心底うんざりする。
それからはもう取り返しがつかなかった。彼女は俺の前でガタガタ震え出して、半狂乱となり何故だか謝罪の言葉を連呼していた。その目には俺の姿はなく、おそらくは酷いトラウマ、フラシュバックを起こしたのだろうか。俺は彼女を抱きしめることも許されず、無性に腹ただしくなって、怒りを辺りにぶつける他すべがなかった。
彼女を苦しめているその過去に、彼女を苦しめた誰かも知らないソイツが憎くて仕方なかった。
彼女も内に秘めた怒りを、そうやって何かにぶつけられれば少しは報われるのではないか、そんな思いもあった。だけど彼女はもっと別の次元で物事を捉えていて、もう俺の手ではどうにもできないほどに心が壊れているのかもしれないことを、その時になってようやく痛感した。
……俺は、やっぱり大バカ者だった。
気づけば煙草がフィルターを焦がし始めていて、焦げ臭い匂いで我に返った。俺は煙草を灰皿に投げ入れ、カウンターへ戻ることにする。
カウンターに座ったままのリョーコさんは、もうすっかりボトルのワインを飲み終えていた。先ほどの会話から、もっと踏み込んだ話に展開されるのはちょっと億劫だったが、それも仕方ない。俺は腹を決めてカウンター内に入った。
「遅かったわね、休憩? 煙草は百害あって一利なしって言うでしょ。ガンジャなら、同じ紙巻でも良いことしかないのに、不思議よね」
ガンジャ。そんな言葉を口にして大丈夫なのだろうか? 予想通り酔いは一段と増しているようだった。
「リョーコさん今日はペースが速いですね。何かあったんですか? 」
「何もないわ。……君を救いたいだけよ。なんだか、とても辛そうに見えるもの」
確かにリョーコさんは酔っている。だけどその目はどこか、環天音に通じるものが宿っているようにも今は見えた。……今夜は、リョーコさんの好意に甘えてみても罰は当たらないかもしれない。
「……すごいですね、やっぱり大人の女性は。何でもお見通しなのかな。実は俺、失恋しちゃったんですよ」
「……そう」
「その子にずっと片思いしてたんですけど、結局最初から最後までうまくいきませんでした。はは、この年で長年の恋の失恋なんて、青臭いですよね」
「……そうかな」
「苦労の多い子だったから、力になりたかったんです。でも、最後に電話をした時も、彼女は出てくれませんでした。今はもう、会うことも出来ません。きっとつらい思いをしてるだろうと思って近づいても、俺はいつまでたっても彼女の目には映っていなかったみたいですね」
「……その気持ち、あたしは分かるよ」
「ありがとうございます。でも、もういいんです。人を助けるって、大変なことなんですね」
リョーコさんはしばらく考えるようなそぶりを見せて、財布を出した。
「お会計、お願いしてもいい?」
「……はい」
やっぱり酔っていただけか。まあ、今まで誰にも話せなかった胸の内を聞いてもらえただけでも良しとしよう。
すると、リョーコさんは無言で名刺を差し出した。
領収書なんて珍しいな。と思いつつ、
「領収書の日付と人数はどうしましょう?」
と尋ねる。
「領収書のお願いじゃないわ、君にあげる」
「え?」
名刺には、“タチバナリョウコ“の名が、《光の環》というロザリオ風にアレンジされた奇麗なロゴと共に載っていた。タチバナの名前に、一瞬たじろぐ。
「君の辛さ、あたしなら救ってあげられる。いつでも連絡頂戴ね」
「あ、はぁ……。ありがたく頂きます」
「あたし、中卒だって言ったでしょ? だけど歩むべき正しい道を示してくれた人がね、人生で一番つらい時にあたしを救ってくれた。だから今度はあたしがそれを誰かに返す番。あなたにも会わせてあげられる。きっと大丈夫、後悔はさせないわ」
「……そうですか。リョーコさんがそこまで言うなんて、とってもすごい人なんでしょうね。もしかして、旦那さん? 」
「違うわよ、私は結婚してないわ。だけどその人は、あたしの母親のような人ね。そして、神様でもある。奇麗な人よ、写真見る?」
吐く息にアルコール臭を漂わせてリョーコさんはスマホをタップして画面を俺に向かって見せた。
「うちの組織のリーダーよ。名前はね、千歳さんっていうの」
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