第16話 復活前主日

 こんな世界、間違っている。


 地球環境は汚染され、第二次世界大戦や、各国でのメルトダウンによる原発事故のように、核問題が後を絶たない。


 何が本当で、何が嘘なのか。

 この情報が錯交する世界に。

 何が大切で何が要らないものか。

 せいの本質は、誰も教えてくれない。


 もう自分が何を信念として生命活動を継続しているのかさえ分からない。まるで目に見えない力に洗脳されているかのように、ヒトは、盲目に。


 地球環境を汚染するだけの生物が百年近く生きること自体、烏滸おこがましいことではないのか。

 神は語らない。

 人間に疲れて、更にはそのしがらみに囚われ、自分の現状を無視し、誰かの価値観に飲み込まれ、心は空虚感を抱いている。

 神は語らない。ヒトが追い求めるべき真理を。

 ヒトが持つ理性に全てを委ねたまま、理解出来る者にのみ安寧あんねいを約束しているとでもいうように。

 だけどヒトは愛をいくら与えられようとも、いつまで経っても鈍感に、自由意志を貫き通すことでしか道を示せない存在だ。この地球上で、自分は、自分にしかなり得ないという事実。だとするならば、神仏の力にすがるための理由が、それ以外の他に何が必要だというのか。


 ねえ、神様、こんな世界間違っていると思いませんか。


 私は神様、仏様にはなれません。

 ねえ、神様、仏様、教えてください。

 この願いは罪ですか。私は赦されませんか。そうでないなら、どうかお叶え下さい。


 どうか私を見ていて下さるなら、どうか、どうか、私をお救い下さい――。


 ***


「環さん、環さん。気分はどう? 」


 病院のデイルームで天井を向いて突っ立っている、患者の環天音に声をかけるも、問いかけには全く反応はない。


「ずっと何も口にしていないようだから、お水、ちょっと飲んでみようか」


 彼女は入院時に多少の意識はあったものの、その後急激に状態が悪化。ここ二週間ずっと不穏状態で、脱力して急に倒れたり、興奮して不明瞭な言葉を口走るといった状態が続いていた。この数日は食事もほとんど摂れていない。


「はい、ゆっくり飲んでみてね」


 口に水を含ませるも、全て口の端からこぼれてしまった。すると彼女は眼球上転し、右上方を凝視して体を前後左右に揺する常同行動を見せた。昏迷状態か、自力では安全を確保できない危険な状態であると判断。隔離室に移室する必要があるだろう。


「…………あなた……」


 彼女の口がかすかに動いた。私は患者である環天音が何かを言おうとしているものと思い、慌てて耳をそばだてた。


「……あなたがみくにの、けんいを、もっておいでになるときには……わたしを、おもいだしてください」※1


 しかしそれは特に意味を成さないもののようだった。


「……女よ、そこにあなたの子がいます」


 混乱を招くと良くないので、私は無言で用意してあった車椅子へ、そっと彼女を座らせることにする。


「……そこに、あなたの母が」


 椅子からの転倒を防ぐために手足を拘束した。

 この状態ではしばらく内服は困難だろう。私はヒステリー発作を抑えるため急遽ジプレキサを彼女に筋注する。これも、多少自力で食事の摂取が可能となるまでの辛抱だ。


 デイルームの窓からはプラタナスの葉が太陽光を反射してキラキラ輝いていた。ここデイルームの室温も日当たりが良いばっかりに、あまり冷房の効果がない。脇下に汗が流れる。

 世間ではもうあと一週間を目前に控えた夏休みに向けての話題が殆どだったが、私はせいぜい実家に帰省するぐらいしか予定はないしなぁなんてことが頭に過ぎる。


 ああ、早く帰ってシャワーでも浴びたい。

 そういえば、午後に環天音の私物の補充のため“家族”が来る予定になっている。まだ若いのに天涯孤独の身だと聞いていたから初めは可哀そうな子なんだな、なんて思っていたけれど、今日までに何度も先生や友達がお見舞いに来てくれて、この子は不幸中の幸いともいうべきか、周りに恵まれている。本来ならきっと、高校生初めての夏休みを大いに満喫するはずだったのだろう。


 それでも彼女にとっては不幸ばかりが降りかかって来たという訳でもないようだった。


 彼女が統合失調症により倒れたことによって、これまでいないと思われていた母親や奇麗な親戚のお姉さんにまで連絡がついて、それからは足を運んでくれるようにもなって。

 病気が良くなって現状を理解できるようになった時、彼女はきっとさぞかし幸せな気持ちになるのでしょうね。


「環さん、あなたは幸せね」


 聞こえているのかいないのか、車椅子を押す私には彼女の表情は見えない。


「あなたの苦労を、神様はきっと見ていて下さるからね」


 長いリノリウムの廊下を進む。

 私は、世の中捨てたもんじゃないな、と自分を鼓舞する意味でも「頑張りましょうね」と彼女にそれとなく呟いた。


 それから、日の光が反射して眩しい廊下の中で、次の業務の行程を頭の中で反復し始めていた。





※1 ルカによる福音書 二十三章四十二節

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

樹々の間に林檎があるように。 央鈴 @Olin-0913

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ