第3話 嫉妬

「こんにちは。立花先生、久しぶりです」


 真理恵は開けっ放しだった校長室の扉を三回ノックした。


「おお、早かったじゃないか。本当に久しぶりだなぁ。鏡くんに、環くん。元気だったかぁ」

「お久しぶりです。先生も、お変わりなかったですか」


 私も真理恵に続いて軽く礼をしてかつての担任を見た。自分の背が伸びたことも影響しているのだろう。昔は実際よりももっと体が大きく見えていたようだ。校長机から立った先生は、今はひげと頭髪にも白髪が混ざり、心なしか筋肉質だった肩回りも柔らかく見え、真理恵の言ったように、強そうな熊というよりは、愛嬌のある豚のような印象が沸いた。


「お前たちももう高校生かぁ。俺も年を取ったなあ。今でも仲良く悪さしてるんじゃないのか?」

「見ての通りの優等生ですよ、先生」


 先生が扉まで出迎えて、真理恵の肩に力を込めて手を置いた。それに応えるように真理恵は威張った様子で胸を張る。


「違う高校へ進学したのか。そうかぁ、受験も終えて戦士の休息ってところだな。成長したなぁ」


 私と真理恵の制服姿を見比べて先生は深くうなずいた。

「まあ、立ち話もなんだから、座りなさい。君たちにはコーヒーよりもお茶が良いかな?」

「立花先生だけに、ね」

 真理恵がクスリと笑って応接用のソファに深く腰掛けた。


「すみません、いただきます」


 私の返事を聞き入れて笑むと、先生はお茶を汲みに職員室の方へと出て行った。大きくて柔らかそうな応接用のソファは当時と変わらないのか、古き良きアンティークさを醸し出していた。小学生の頃は校長室へ入ることなど滅多になかったので、思いのほか少しだけわくわくした。


「なんだか年季入ってるねぇ、古臭い感じの匂いだわ」

「そうかもね。学校自体が結構、きてるかんじするよ」


 校門を潜りいざ校舎を見ると、当時はなかった耐震改修の鉄骨が外壁に造られていた。平成が終わるころにはこれでもかという程に災害が続いたので、古い建築物や庁舎や役所、学校などは軒並みこのような姿を見せることとなった。文部科学省からの公立学校施設の耐震化の推進のおふれによって、児童生徒の生命身体の安全をまもるべく、我が母校もこのような姿になってしまったのである。災害時避難場所という役目を持つ学校という場所は、何があっても壊れないというイメージがあったのだけれど、このような施しを目の当たりにすると途端に頼りない印象を抱いてしまう。外壁の鉄骨もそうだが、校長室内の古い本や家具の匂いにも、なんだか時代に取り残されているような物寂しさを随所に孕んでいた。

 真理恵は手持無沙汰でもうスマホを触りだす。

 私は慣れない雰囲気に辺りを見渡すばかりだった。


 飾り棚には、児童が摘んできたのか、ガラスの小さな花瓶に野花が生けられている。本棚の一部に、何だかわからない木彫りのオブジェも飾られていた。壁には、先生が撮影したと思われる、ヤクヨウサルビア(コモンセージ)、イヌビワ、アンズ、ツクシイバラなどの写真が花の名前と一緒に額に入れて飾ってあった。


 小学生の頃に一度、立花先生が柔道の段持ちという話を小耳に挟んだことがあったので、自然を愛する男というより、熱血武闘派なのだとばかり思っていた。年を重ねていく中で、持て余した体力を生かすために趣味を登山にでもしたのだろうか。


 木彫りのオブジェの横にある、本の背表紙を目で追っていくと、先生の趣味が一様に見て取れた。


 校長室の四季、子供の学力を伸ばす習慣、生徒に送る言葉の花束……。

 この部屋には、先生の教師としての思いがたくさん詰まっているのだろう。


 総合教育技術と書かれたシリーズの奥にある個所に、意外なものが目に映った。


「先生ってワイン好きなんだね」

「え?どうして」

「あそこみてよ」


 フランスワイン地図と書かれた本に並んで、昔流行したワインにまつわる漫画と、新ワイン学と書かれた本が置かれていた。それを見た真理恵が、あっと声を出した。


「そうかぁ、お土産でも持ってくればよかったね」

「お土産って、まさかワイン?」

「そうそう、あ。でも未成年は買えないから、それに合うようなおつまみとかね。そうすれば今度ご飯でも奢ってくれたりなんかして……」


 戸口の敷居が軋む音と同時に、先生がお盆を手に戻ってきた。


「何を企んでいるのか知らんが、お酒を嗜んだこともない君たちに私好みのワインを選別できるとは思わんがね。気持ちだけ受け取っておくよ」


 にこやかな表情でお盆からお茶を差し出してくれた先生は、私たちと向き合う形でソファに腰かけた。


 しばしの間、真理恵はとても懐かしそうに昔話を先生と談笑した。不思議なことに、それらのエピソードには私も含まれていたはずなのだが、私にはほとんどの話題に乗れるほどの記憶が残っていなかった。中には私が中心となったようなおかしな事件も二人の笑いを誘ったが、どうにも思い出せずに、私はただへらへらと笑顔でいる事しかできずにいた。


 先生と真理恵って、こんなに仲良く喋れるほど仲が良かったかな……?


 疎外感にも似た居心地の悪さに、誠司もここにいてくれたらよかったのに、と思う。

 初めは三人で母校へ行こうと計画していたものの、誠司の中間テストはとうに終わっており、実際はこうしてテスト期間中である真理恵と私だけが母校へやってきた。

 彼も今頃はまだ授業中だろう。


 先生の背後にある校長机の上に、新聞が開かれたままであるのが目についた。急な来客で雑に閉じたために盛り上がったままで、文面の見出しがここからでもはっきりと読み取れた。


 “臨時教員を逮捕〈元教え子にわいせつの疑い〉去年も逮捕、再び教壇に”


 ふいに、真理恵のスマホに着信が入った。画面には真理恵の兄、克也の文字が伺えた。


「あ、先生ごめん。出てもいいかな?」

「ああ、構わないよ」


 席を立つのかと思いきや、ソファに座ったまま電話に出る真理恵。先生は遠慮したのか、窓際へ避けるように離席した。


 真理恵の兄、克也は今日私たちが母校の先生に会いに行くことを知っている。真理恵が言うには、克也のバイト先が学校から近くであることと、ちょうどバイトが終わる時間帯とが重なるということで、帰りに私たちを拾って車で送ってくれることになっていたのだ。

 真理恵の家は比較的母校に近かったが、私の家は電車を乗り継がなければ帰宅することが出来ない。それを真理恵の好意で兄に送迎を頼んでくれたのだった。


 胸の内がざわつく。

 私は真理恵の兄が苦手だった。


 初めて真理恵の兄と会った時、脱色した髪に不健康そうな痩せた体系と、それに合わないサイズの大きな服装で、ずり落ちたジーンズから下着が見えそうなファッションに、直感が受け付けないと判断したのだ。


 初対面で真理恵は兄に私を転入生だと紹介したが、馴れ馴れしくも無粋なことをいろいろと聞いてくるので、私は途端に閉口してしまったのを覚えている。


 決定的だったのは、中学へ入学したころに一度、真理恵の自宅へ遊びに行ったとき、偶然克也と顔を合わせた時の事である。

 克也はこのときに、私の担任――現在いま目の前にいる恩師のことを、淫行の噂があるというように吹聴ふいちょうしてきたのである。


 遡れば、噂の火種は私がまだ転入してくる前の、母校となる櫻田小学校での出来事だった。当時私がまだ幼稚園に通っている頃に起きた事件だ。

 櫻田小学校での教師による淫行が表沙汰になった。

 一時期の報道でそれは瞬く間に広がり、通っていた幼稚園が近郊にあったことから、周りの大人たちが大変な騒ぎになっていたことも、幼かった私でさえおぼろに記憶していた。そして事件が明るみになった櫻田小学校に広がる波紋を防ぐべく、立て直すために奮闘したのが同小学校に赴任していた、事件の第一発見者でもある立花先生ということらしかったのだが……。


 私の前で不敵な笑みを浮かべて克也はそれを否定し、実は立花先生が事件を起こした張本人であり、問題を起こしたとされる教員の方が本当の第一発見者だとのたまったのだ。


 小学校を卒業するまでの間にそのような噂は聞いたことがなかったし、その頃はむしろ立花先生は生徒にも人気で、校内の教員の中でも支持を得ている方に見えた。それらは学校行事がある毎に垣間見得たものだった。


「ごめんごめん。電話、克兄だったんだけど。今仕事終わったって連絡だったよ」


 いつの間にやら通話を終えた真理恵が私に言う。


「ああ、そうなんだ」


 こんなときに嫌なことを思い出してしまった。

 これから会うことは避けられない人のことを鬱々と考えていても仕方がない。

 私の生返事を察し、訝しむ真理恵の顔。

 ああ、何か話題を……。


「克兄とは、鏡くんの兄のことかな?」

「そうですよ。近所で働いてるから、迎えにきてくれることになってるんです」


 窓際にある校長机の新聞を、綺麗に畳み終えた先生がこちらに向き直り口を開いた。


「そうか、兄弟が助け合うことはとてもいいことだね。しかし彼がそんな妹思いな青年に育つなんて、当時は想像もつかなかったがね」

 先生はこちらの反応など気にもせず、がははとひとり自嘲気味に笑った。

「まあ、あの頃はお互い子供だったんですよ。今はすっかり邪気も抜けて、普通に社会人やってるみたいですよ」

 言い終えた真理恵の「フリーターだけどね」と言う補足は、先生の耳には届かなかったようだ。


「指導に苦労した生徒のそういった話はことさら、教師冥利きょうしみょうりにつきるねえ。一所懸命に土を耕し、そこに手厚く愛の手を差し伸べ、太陽のように暖かく見守る。自然に任せて、健やかに育むように、と促してやる。そうするといつの日にかたわわな実を……」

「それってもしかしてぶどうの話じゃないよね? 先生はたわわの実を摘み取って、お酒にして飲んじゃう方でしょう」


 熱くなりそうな先生の語り口を、真理恵が茶化して水を差す。


「はは、なるほどそうだな。しかし、私は大切に育てた葡萄を駄目にしてしまわないためにも、ワインの品質管理にも同じことが言えると考えているよ」

「え? その話まだ続きあるの? 」


 真理恵は予期せぬ話の展開に鼻白はなじろんだ。


「私はね、ワインに人生を見ているんだよ。品種が同じでも畑が違えばそのワインの価値や味も変わってくる。育てた人、造った人、販売した人、飲んだ人。その工程に人と同じように人生が見えてくるとは思わんかね。そういった意味では、米を使った日本酒も私は好きだが、ワインは世界で愛される酒でありながら、他に類を見ないほどの多様性を生み出すんだ」


 先生の饒舌な口調に一層の熱がこもり始める。真理恵は途端に、誠司のうんちくを聞く時のしらけた顔付きになった。


「仮にワインを人生とするならば、畑は家庭で、ワイナリーが学校、酒屋が社会とするとしよう。畑が荒れていたら、希少な種さえ芽を出さないね。教育に従事する私の役目としては、大切に育った葡萄を預かり、深みのある良い人生を歩めるように社会へ送り出すという使命がある。しかしその過程で、菌に侵されてしまう危険だってある。教師は学校の外で起こったことはなかなか把握しにくいからね……。そういった中で、細菌に汚染されたワインはどうなると思う? 」


「ああ……どうでしょう? 」


 真理恵はいつものように、聞いているようで、聞いていない。すぐに私へ救いを求める眼差しを向けてきた。


「……コルクに潜んだ細菌が原因で、ブショネになってしまうと言うことですよね。ブショネはコルクが原因なので、人が初めて口をつけてみないとわからない。味は、飲んだことがないのでわからないけど、カビ臭いって聞きました」

「その通り! 環くん、よく知っていたね」


 興奮から、先生の目が見開いた。


 幸いにも、誠司のうんちくのお陰で、酒を飲んだことのない私でもワインの事は少しだけ知識があった。一方、真理恵はまるで宇宙人を見るかのように私を見ている。


「コルクの他にもワイナリー設備自体が汚染されている場合もあるがね。そういったことも想定して、やはり私は校長という立場を志そうと決めた」


 かつての櫻田小学校での淫行事件のことが頭をよぎった。

 やはり、立花先生に限って、初めから真理恵の兄、克也が言うような事実は無いのだと思えた。


「例え高額なワインであっても、デイリーワインであっても、五%の確率でブショネは発生し、またブショネであれば偉大なワイナリーの最高級ワインであっても、欠陥ワインとして判断されてしまうのだよ」


「手塩にかけて大切に教育した生徒だって、どこかで何かの毒牙にやられていたら、社会に出てからどんな評価を受けることになるかまでは、先生にもわからない……ってことでしょうか」


 先生は私の言葉に深く頷いた。


「そう。ただ、自分が思っていた以上に大成して、高評価を得る場合だってある。だから私は、君のような美しく聡明な生徒の未来を守りたい。きっと大変なことも沢山あるだろうけど、かつての担任として、いつでも、いつまでも、応援しているよ」


 先生の熱い眼差しが刺さるようだった。権威ある大人に真っ直ぐ見据えられると、こんなにも居心地が悪いものか。

 先生の言ってくれている言葉は、私にとっては大変ありがたいことのはずなのに、何故だかこの場にいることが途端にいたたまれなくなる。


「先生、今日はありがとうございました。私たちそろそろ行かないと。克兄が校門前で路駐してるといけないので」


 会話のタイミングを計っていたかのように真理恵が口火を切った。


「そうかい。今日は大変有意義だった。またいつでもおいで。気をつけてお帰りよ。そうだ、お土産にこれをもらって行ってくれないか」


 先生は自慢げに、そして少し恥ずかしそうに、校長という肩書きの入った名刺を私たちに差し出した。“立花たちばな雄大ゆうだい”の名と、似顔絵と、学校名の他に、《光の環》というロザリオ風にアレンジされたロゴがさりげなく入っている。ボランティアサークルか何かだろうか。公立小学校の教員でも名刺なんて持つんだな、と思った。


 私たちは校長室の戸口に立って、先生に深く礼をしてその場を後にした。

 玄関口へ向かおうと踵を返してすぐ、横で真理恵が、あ、と声を漏らした。


「ちょっとごめん、先に靴履いて待っててくれる?」


 そう言って、返事も待たずにさっさと校長室前で見送る立花先生に駆け寄った。

 振り返って見えたのは、先生へ耳打つような、真理恵の微妙な距離。

 先生も真理恵の顔へとそっと耳を近づけている。

 真理恵の表情は見えなかったが、先生の顔はとてもいいことを聞いたとは思えない陰りを見せた。


 ――真理恵と先生は、いつからあんなに距離が近くなっていたのか……?


 そう思うと、今回の真理恵の一連の行動も不可解だ。

 私の前では話せないような、特別な事情でもあるのか。

 いや、そんなことなどある訳ない。

 私は、見てはいけないものを見てしまったようなバツの悪い気持ちで玄関の外に出た。


 その間に数人の教師とすれ違い、制服のためかジロジロ見るような視線が痛かった。


 正面玄関から出て、校庭を見渡す。平日の午後、校庭には児童もいない。

 当時はもっと広大に見えていた気がする。校庭の端から端へ駆けていくのにも息が上がってしまっていたような覚えもある。

 無性に、試しに走ってみようかな、という考えに囚われたが、やっぱりやめた。

 私はこのまま玄関前に一人で立っているのも癪だったので、先に校門へ続く傾斜のある並木道を下り始めた。


 毎年、櫻田小学校では春の登校時に、この並木たちが登校児童を桜吹雪で歓迎する。今はもうすっかり散ってしまって青々とした葉桜となっていた。もう少しするとその葉に毛虫が出て、殺虫剤を撒かれた後には毛虫が大量に地面に落ちてくる。その駆除作業自体を私は見た事は無いが、とある月曜の朝に校門をくぐり、地面に踏み潰された毛虫を見ては、今年も知らぬ間に殺虫剤が撒かれたのだな、と思ったものだ。


 私は地面に落ちた毛虫を踏みたくなくて、駆除後のしばらくの間、アスファルトを神経質に注視しては、この並木坂を慎重に登ったのだった。


「天音っ。いないと思ったら、もう。こんなとこにいた」


 先生への用が済んだらしい真理恵が坂の上から呼んだ。こちらに駆けてくる真理恵は急いで後を追ってきた様子で、私の横に追いつくと軽く肩を上下させて大きく息を吐いた。


「おまたせ、ごめんね? もう克兄いるかな」

「さあ、どうかな」

「どうしたの、なんか怒ってる? 」

「え? 何が? なんでもないよ」


 真理恵は私の顔を覗き込んだ。

 対応に困る、と思った。


 そうして校門に差し掛かったあたりで、前方の路上に克也のものと思われる車が尾灯を付けて停車しているのが目に留まった。


「あ、車いたいた。克兄も先生に会いたかったかな? 先生も兄貴のこと覚えててくれたみたいだしね。それにしてもさぁ、さっきの立花先生、なんかセクハラじみてたね」

「え? 」

「ワインネタが通じたから嬉しかったのかもしんないけど。天音のことじいっと見ちゃってさ。普通生徒に面と向かって美人とか言うかな? 嫌じゃなかったの? 」


 言われてみれば、確かに不自然な気もしてくる。小学生時代、いたずらばかりの問題児だった真理恵が印象強いことまではわからなくも無い。そんな真理恵とつるむ私は転入生だったし、父子家庭だったから、先生は心配して、当時からさりげなく目をかけてくれていたのかも知れないけれど。


 その他に、特別に先生と深く関わったような記憶も無く、思い当たる節はない。


「いや、嫌って言うか……確かに食い気味だったとは思うけど」

「……ふうん? なぁんだ。天音が引いてると思って、話を切り上げてあげたつもりだったんだけど。まあいっか、あれ以上話を聞く気にはなれなかったし。女子高生の初々しい制服を目の当たりにして先生も浮かれちゃったのかな」


 真理恵は悪戯に笑ってから、無造作にスマホの画面を見た。

 待ち受けは、進学した高校で新しくできた友人と思われる女子とのツーショット。真理恵に頬を寄せる子の、明るい笑顔が二人の親密さを物語っていた。


「それ、新しい友達? 」

「ん? うん、そう。同じところでバイトしようって、最近話してるんだよね。この子おじいちゃんがイギリス人らしくてさ、見て? ハーフみたいでしょ? 入学した時から可愛いな〜って思ってたら、同じクラスで席も近かったからすぐ仲良くなっちゃった。なんかお父さんが社長とかで、だけど家庭が複雑らしくてさぁ。でも話聞いてたらいろいろ共通点もあったりなんかして」


 よほど仲良くなれたことが嬉しいのか、真理恵は新しい友人のことを熱心に語った。


 確かに日本人離れした目鼻立で、肌も透き通ったように白く、垢抜けている。いかにもクラスの中心人物というか、真理恵が取り巻くグループに相応しい存在感のある人物だと思った。


「天音の写メ見せたら可愛いって言ってたよ。今度一緒に遊びたいって」


 途端に胸がざわついた。


「そっか。じゃあ、真理恵にまかせるよ」


 十代という年齢の価値観としては、他校に知り合いがいるとか、上の年代との交友があるという事実がステータスとされる傾向がある。新たに交友関係を築くきっかけとしては、流行の最先端を思わせる、洗練された見目から醸し出されるセンスや、恋愛経験が豊富であるかどうか。そういった雰囲気が相手に興味を抱くかどうかの分け目となりえるのだが。


 ――私は一人でいいし、お金も必要最低限あればいいと思っている。


 だからこそ、これまで友情や恋愛に頭を悩ませ苦しむ場を、自分から開拓していこうという気も起こらなかった。真理恵といるのは安らぐし、楽しいと感じている。それで十分満足していた。


 人間には寿命があり、その人生を「より良く生きたい」と行動を起こす事がどれほど大変かという事を私は身をもって知っている。

 真理恵を通して聞かされる話の中にもあるような、友人と取り繕って仲良くしたり、恋人に見捨てられるのではないかと不安になったり、離婚や死別で精神的に病んでしまったり、人間関係に疲労が募るなんて事も、どれも同じくらい私にとっては負担なのだ。

 日本国憲法の第二十五条の一文にある「健康で文化的な最低限度の生活」を営む権利をシンプルに全うしたいだけ。ただ平凡に、粛々と人生を終えられればそれで良い。

 そもそも、友人を作るという行為は“一人になりたくない”と言うエゴだということに、真理恵自身は気がついていないのだろうか……。


「あっ、エンジンついた」


 真理恵の声に顔を上げた。

 私たちの姿に気がついたらしい克也がアイドリングを始めたようだ。真理恵がその足を早めたので私も急いで付いていく。数メートルまで近づいたあたりで、克也の流しているオーディオからレゲエ調の洋楽が車内から漏れ出ているのが耳に届いた。

 前方ドアの窓が全開だった。


「克兄、おつかれ。結構待った? 」

「いや、今来たとこ。ほら、早く乗れ」

「はいはい、私酔いやすいから前で」


 兄が運転する車の助手席に乗り込む真理恵。一連の自然な動きから二人の間にあった昔のような険悪な雰囲気は、今はもうすっかりない事を察する。私も克也に向かって軽く会釈して、後部ドアを開けて乗り込んだ。


「今日はわざわざすみませんでした。よろしくお願いします」


 運転席側の真後ろに、無意識のうちに視線を避けるように座った。


「全然いいよ。久しぶりだよな。車平気? 具合悪くなったら窓開けていいから」


 ラスタカラーのヘンプ型芳香剤が吊り下げられたバックミラーを覗き込む克也と目が合う。スモークのかかった窓では外から分からなかったが、克也の髪は昔のような派手さがなくなり、自然なブラウンになっていた。


「天音もそんなかしこまらなくたっていいってぇ。克兄、調子乗って事故っちゃうよ」

「アホ。じゃあ、行くよ」


 そう言って克也は慎重に車を発進させた。



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