第22話 わんわんな俺はご主人様な妹にもて遊ばれる

「兄、もう一回。もう一回だけ!」

 楽しそうな蒼乃が手にチョコレート菓子を持って満面の笑みを浮かべる。ここまで屈託のない笑みを見たのはこういう関係になってから何度目だろうかと思わず記憶を掘り返してしまいそうになるほどいい笑顔だった。

 この顔に騙くらかされて蒼乃に惚れてしまった男子は数知れず居るのだが、それも分かろうというものだ。

「駄目だって。これじゃあミッションはクリアできないってはっきり分かってるだろ?」

「そう言わずに後一回だけでいいから……あ、チョコ溶けちゃった」

 蒼乃は自らの体温で溶けたチョコを口に放り込むと、チョコの付いた自らの指を、赤い舌先でペロリと舐める。

 なんてことはない普通の行動だが、蒼乃の舌がうごめくさまに、少し蠱惑的なものを感じてしまう。

 俺は思わずかぶりを振って変な考えを頭から追い出すと、もう一度蒼乃と正対した。

「ミッションは、一応あーんするってのだからな? ただ食わせればいいってわけじゃないんだぞ」

 きっと、間違いなく、このミッションを考え付いたやつはもっとスイートで甘々な行動である恋人同士の食べさせっこを想像した事だろう。

 それが普通だ。

 まさか恥ずかしがった蒼乃が、チョコレートを数メートル離れた場所から投げて俺に食べさせるなんて事は絶対に想定してなかっただろう。

 当たり前だがそれを成功させてもミッションはクリアにならなかった。

 だが、蒼乃はその遊びがいたく気に入ってしまった様で、何度となく俺に芸をするように迫って来たのだ。

「分かってるけどちょっとぐらい遊んでもいいでしょ」

「そうは言うけどな。遊ばれるのは俺なんだぞ?」

「違うの。私が遊んであげてるの」

 俺は犬かよ。

 ぼたんだったら喜んで相手になって、もっときわどい所に投げてとか言って自分から遊びそうではあるが、俺はあそこまで好奇心旺盛ではない。

 数度ならば興が乗れば付き合う事があるかもしれないが……。

 蒼乃はまるで子どもに戻ってしまったかのように、はしゃいでいた。

 ――ふと、脳裏を何かが掠める。昔、こうして蒼乃がはしゃいでいて……その後何かがあった様な記憶が……。

「ほら兄、投げるよ」

 おぼろげながら形になろうとしていた何かが、割り込んで来た蒼乃の声で一気に崩れてしまう。

 もっともさほど重要な記憶という訳でもないので、全く気にならないが。

「ったく、しょうがないな。一回だけだぞ」

「え~」

 そうそう何度もしてたまるか。俺は遊ぶのは好きだが遊ばれるのは嫌いなんだ。

「それっ」

 蒼乃の掛け声と共に、投じられたチョコレートが居間を縦断してくる。

 やや左側に逸れたチョコレートを追って、俺は体を傾け……パクっとかぶりついた。

「あはっ、犬みたい」

 手を叩いて喜んでる所悪いんですけどね。遊ばれた俺はそんなに嬉しくないんだが。

「ったく。ほら、ミッションを早く終わらせるぞ」

「む~~……あっ」

 俺の言葉に対して頬を膨らませて抗議していた蒼乃が、ふと何かを思いついたようで、俺の方へと歩み寄って来る。

 そのまま俺に手を差し出して、

「お手」

 なんて言ってきやがった。

 完全に犬扱いである。

「おい」

「やってくれたら食べさせてあげる」

「食べさせてって思いっきりミッションクリアできるような食べさせ方するつもりねえだろ」

 ふふふって哂って誤魔化すんじゃねえ。バレバレなんだよ。

 こうなったらこっちが攻めるか。

 俺は蒼乃の手の上に俺の手を乗せる……と思わせておいて、そのまま握手の形で握り込む。

 これで逃げる事は出来ないはずだ。

「あっ、ちょっ」

 ふふふ、気付いたところでもう遅いぞ。

 俺は心の中でほくそ笑みながら蒼乃を引きずってチョコレート菓子の置いてある食卓に近づいていく。

「このまま無理やり口に押し込んでやるからな、覚悟しろ」

「それこそミッションクリアできないでしょ!」

「大丈夫だ。あ~んって言えばきっとクリアできる」

「それでいいなら私が投げても一緒でしょ」

 ええい、暴れるな。手間をかけさせるんじゃない。

 男に力で勝てるはずないだろう。

 俺は手を伸ばしてチョコレート菓子を取ると、蒼乃の方を振り向いて……。

「あっ、こら待てっ」

 蒼乃は形勢不利と判断したらしく、俺と繋いでいた手に手刀を叩きつけて無理やり断ち切ると、そのまま走って逃走を図る。

 とはいえ狭い室内だ。さほど……。

 目の前で扉がバタンッと勢いよく閉まり、危うく顔面を強打しそうになった俺は急停止しながら大きくのけぞった。

「いきなり扉を閉めるなっ。危ないじゃないかっ」

 もちろん俺の文句を聞く相手はすでに居ない。

 蒼乃はどたどたと足音を立てて階段を上っていた。

「このっ」

 俺も急いで扉を開けると一段飛ばしで階段を駆け上がり――惜しくも蒼乃は自分の部屋に逃げ込んだ後だった。

 しかし俺たちの部屋に鍵などついていない。

「入るぞっ」

 一応断りを入れた後、ドアノブを捻る。

「変態っ! 妹の部屋に無理やり入らないでよっ!」

 ドアの向こう側から圧力がかかる。間違いなくドアを体で押しとどめているに違いない。

 俺はドアに肩を押し当て、

「妹だから問題ないっ!」

 強引な理論を振りかざして無理やりこじ開ける。

 記憶もないほど昔に入った以降、見る事すらなかった蒼乃の部屋は、持ち主が女の子にしてはずいぶんと無機質なものだった。

 壁にはポスターの一枚も貼っておらず、二つある本棚には小説がびっしりと並んでいる。パッと見た限りでは漫画よりも小説の方が多いのではないだろうか。

 そんな部屋の真ん中で、蒼乃はうぐぐっとでも言いたそうな顔をして左右を見回している。

 もちろん出来る事は何もないわけだが。

「ふっふっふっ、よくもまあコケにしてくれたな。さあ、優しいお兄様が蒼乃にあーんしてやろう」

 若干溶け始めているチョコを親指と人差し指でつまんだまま蒼乃へとにじり寄る。

「待って。先に私が食べさせてあげるから後にしない?」

「しない」

 じりじりと俺と蒼乃の距離が近づき、蒼乃はだんだんと追い詰められていく。

 この状況で逃げようとするのなら、窓から……は無理だろうから――。

「くっ」

「逃がさねえっ」

 俺の横をすり抜けるしかねえよなぁ。行かせるわけないけどな!

 苦し紛れに俺の横を走り抜けようとした蒼乃だったが、そんな一か八かにすらなっていない賭けが通るわけもなく、俺は造作もなく蒼乃を捕まえると、そのままベッドに向かって放り投げる。

「いたっ……ちょっと!」

「ほら、大人しくチョコを食べるんだ」

 蒼乃の抗議なんか知った事ではないとばかりに、右手でつまんだチョコを蒼乃の口元に近づけていく。

 蒼乃は蒼乃で必死になって抵抗を見せ、両手で俺の手を掴んで逆に俺に食べさせようと軌道を捻じ曲げて来る。

にいが……食べれば……いい、でしょ」

「そう言わずに……ほらっ、あ~ん」

 こうなったら意地と意地の張り合いの様なものだ。もみくちゃになりながら互いにチョコレート菓子を押し付け合う。

 いや、それをチョコレート菓子と呼んでいいのだろうか。既に互いの体温でコーティングに使われているチョコレートは溶けきっており、中のアーモンドだけになってしまっている。

 溶けたチョコレートは俺や蒼乃の手や顔についてぐっちゃぐちゃになってしまっていた。

「いらな……いっ」

「好き嫌いは良くないぞぉ」

「関係ないでしょっ!」

「いいから遠慮するなって」

「してるのは――兄の方っ、でしょっ」

 そんな風にして押し合いへし合いしていたら……。

「何やってるの、アンタ達っ」

 呆れたと言わんばかりにため息混じりの声が背後から飛んでくる。

 聞きなれたその声に、俺も蒼乃も硬直して争いを止めざるを得なかった。

 というか俺は、傍から見ると血の繋がった妹をベッドの上で押し倒して無理やりイタズラしようとしている様に見えなくもない。

 絵面からすれば……俺の人生終わった?

「か、母さんこれはな?」

「ち、違うのお母さんこれはね?」

 二人してその場を飛び離れると、チョコまみれの顔で互いに言い訳を始める。

 その後十分以上の説得というか言い訳を積み重ね、何とか納得してもらったのだった。

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