第19話 コール(呼び声)

 室内には先ほどから楽しそうな笑い声が何度もあがっている。いや、笑い声を通り越して呼吸困難になり、しゃっくりの様なひきつけを起こしている声もあった。

 その原因となっているのは目の前のテレビ画面に映しだされている俺が借りて来た映画なのだが……。

 俺は先ほどから見るとはなしに眺めているだけで、全く笑ってもいなかった。

「蒼司、どうしたの?」

「ん、あ、いや、別に。ちょっと考え事しててな」

 普通に笑っている方――名取が、俺の事を心配してか話しかけてくる。

 爆笑しながら身もだえしている方――ぼたんは画面にくぎ付けになっているというのに、細かい気配りのできる名取らしい行動と言えるだろう。

「何か悩み事?」

 悩み事と言えば悩み事だが、誰にも相談できるような事ではない。

 ゲームの事を知られてしまえば罰ゲームだから……ではもちろんなく、血の繋がった実の妹である蒼乃を、女の子として意識し始めてしまったからだ。

 血の繋がった近親者への恋愛感情なんて、現代日本においては基本的に忌避されることで、俺もほんの一週間前までは絶対にありえない気持ち悪い事だと考えていたというのに……。

「まあ、なんだ。考え事だよ」

「うっそだぁ。蒼司、こういう映画好きそうなのに視てないのおかしいって」

 そうなんだ。後できちんと視なおそう。

「何? 蒼司が悩んでるの?」

 俺たちが映画そっちのけで話しているため、さすがにぼたんも気付いたらしい。

 笑い過ぎてこぼれてしまった涙を拭きながら、ぼたんが会話に参加してくる。

「いや、だから悩んでねえって」

「あっ、嘘ついてる顔だ!」

「だよね」

 なんで分かんだよ……。

 心の中で俺がそうごちている間に、ぼたんはリモコンを操作して映画を一時停止してしまった。

 どうやら本格的に俺にターゲットが移ってしまった様である。

 いつもなら非常にありがたいのだが、内容が内容であるためさすがに有難迷惑といった感が強かった。

「何でもねえって」

 そう言っても、二人はキラキラした目をこちらに向けてくるだけで俺が言うのを今か今かと待ち構えている。このまま誤魔化すのは無理そうだったので、当たり障りのない感じに変更して相談することにした。

「……まあなんだ。今まで仲が悪かった奴と多少仲直りしたから、距離感が取り辛いってだけだよ。悩みってほどでもねえって」

「それだけ?」

「それだけだ」

 ぼたんの、なぁんだぁとでもいわんばかりに拍子抜けした顔へ手を差し出し、リモコンを要求する。とにかく早く切り上げてしまいたかった。

「それにしてはずいぶん深刻そうだったけどなぁ」

「そりゃ悩みは悩みだが、時間が解決する悩みだからな。いずれ元に戻るさ」

 軽く肩を竦めた後、ぼたんに再生を促す。

 再び始まった映画に俺は意識を移し――。

「駄目だよ」

 ぼたんに聞こえないように配慮された声が、耳元でこっそり囁かれる。

 俺は思わずそれをした名取の方を振り向いた。

「仲良くなりすぎちゃいけない相手も居るからね」

 名取はまったく感情のこもらない瞳で俺を見据えると、更に続ける。

 今さっきの言葉だけで蒼乃との事を見抜いたというのだろうか。確かに俺と壊滅的に仲が悪かった奴なんて蒼乃しか居ない。よく一緒に居る名取はその事をよく知っているはずだ。

 でもそこから何故、俺がそういう感情を抱いているという話に繋がるのか。

 名取はどこまで俺の悩みを見抜いているのだろう。

 名取の整った顔が、澄んだ湖の水底の様に透き通った瞳が、俺の混沌とした心の中を暴き立ててしまうのではないか、少し怖かった。

「……そう、だな」

 ただ、名取の言う事がもし蒼乃の事だったとしても、名取の言葉は間違いなく正しい。

 俺は蒼乃に対して、そういう意味での好きという感情を持ってはいけない存在だ。

 だって俺は蒼乃の兄なんだ。血の繋がった兄妹なんだ。そんな俺がこんな気持ちを抱いたところでどうしようもない。よしんば受け入れられたとしてどうする? 絶対に、不幸にしかならないし明るい未来なんて存在しない。

 だから俺は……。

「その通りだ」

 この感情をただの気の迷いだと、勘違いなんだと切り捨てる事に決めた。

 蒼乃がどう考えて居ようと関係ない。俺が俺をしっかりと保ち、兄のままで居ればいいだけの話。

 そうすれば少なくとも蒼乃は不幸になどならないし、俺の想いも風化して消えていくだろう。

 …………たぶん、きっと。

「すまん名取、トイレ借りていいか?」

 顔でも洗えば多少は頭も冷えるだろう。勝手知ったるなんとやらで、洗面所も使わせてもらおう。

「いいよ」

「あ、ついでにジュースのお代わりお願い~」

 ぼたんが差し出してくるコップを受け取りながら、俺は苦笑を漏らす。

「お前な、他人の家の冷蔵庫を漁れっつーのか。ここは名取んだぞ」

 俺も洗面所を勝手に使おうとしてたけどな。

「あはは、今更だけけどね~。蒼司もぼたんちゃんみたいに遠慮しないでいいよ」

 そう言いつつ名取も俺に空のコップを差し出してくるあたり、俺をパシらせる気満々の様だった。

「あいよ。氷とかめんどくさい事はしないからな」

 二人からコップを受け取り、ついでに自分のコップも拾って階下へと向かう。

 諸々の用事を終わらせてから名取の部屋へあがろうとしたら――。折よくポケットに入れていたスマホが震え始めた。

 メールだろうと思ったのだが、コールは三回四回と続く。

「誰だよったく」

 仕方が無いのでジュースの入ったコップを階段に置き、スマホを取り出すと……。

「蒼乃かよ……」

 画面には妹の文字が浮かび上がっていた。

 このまま無視するべきか一瞬悩んだが、帰って罵倒されるのも嫌だったので、電話に出る。

「なんだ? なんかあったか?」

『…………』

 返って来たのは沈黙だった。

 かすかに息遣いが聞こえる以上、電話の前に居ないという事でもないだろう。

「おい、蒼乃? 無言電話とかしてもお前のスマホからかかってるって分かってるからな?」

『イタズラじゃないしっ』

 いつも通りの怒鳴り声が聞こえ、思わず笑いが漏れる。

 これが蒼乃だよなぁ。こういう怒鳴られたりするのがいつもの俺らの関係で、正しい在り方なはずだよな。

「今名取ん家だから要件あるなら早くしてくれ」

『…………』

 再びの沈黙に、一瞬なんだよと思った瞬間――。

『蒼司』

 不意打ち気味に名前を呼ばれ、俺の心臓が跳ね上がった。

『これで今日のミッションクリアでしょ。面と向かっては言いにくいから、電話しただけ。はい、おしまい』

 一方的にまくし立てられた後、こちらの言葉も待たずに切られてしまう。

 ツーツーという電子音が、たった一言で散々引っ掻き回された俺の心を嘲笑うかのように虚しく響く。

 決心したばかりだというのに、その決心は木っ端みじんに吹き飛ばされてしまった。

「くそっ、どうすりゃいいんだよ」

 目の前に蒼乃の顔がちらついて離れない。

 きっと蒼乃は顔を真っ赤にしながら俺の名前を呼んだんだろうなとか、今はどんな顔しているんだろうとか頭の中が蒼乃の事でいっぱいになってしまう。

「俺は……俺は蒼乃の兄……なんだぞ……」

 もう繋がっていないと分かっているのに、俺は俺の行動を止められない。

 王様の耳はロバの耳と言ったのは空井戸にだったか。言いたくても言えない言葉を何かに向かってぶつけたくなる気持ちが今になってよくよく理解できる。俺は、相手のいない通話口に向かって、自分の気持ちをぶちまけたのだった。

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