第29話 分かってる。分かってた。
ゆっくりと、惜しむように体を離す。
俺と蒼乃の距離が開いた事で、ようやく蒼乃の顔を、涙にぬれた蒼乃の瞳を見る事が出来た。
本当に、本当に蒼乃は嬉しそうな笑顔を浮かべている。
理由は言うまでもないだろう。
俺が、俺たちが先ほど過ちを犯してしまったからだ。
「ごめん、蒼乃」
「何が?」
蒼乃はそう言いながら、人差し指で自身の赤い唇を撫でる。
これは現実なのだと感触を再確認しているのだろうか。夢見心地で居るかのように、濡れた瞳を蕩けさせていた。
俺はそんな蒼乃を見て、更なる劣情が沸き上がって来るのを感じてしまう。
あってはならない事なのに、俺は自分が止められなかった。
衝動に駆られて俺は蒼乃の肩を掴んでしまう。
この後に何をするのか自分でも理解していないというのに、体が勝手に動いてしまっていた。
「あっ……」
蒼乃が嬉しそうに吐息を漏らす。
彼女の瞳は、もっともっとと言っている。
更なる刺激を、欲望をぶつけられる事を望んでいた。
「……蒼乃……」
俺は一度目を瞑って自分の思考を整理する。
これからの事を、もし本当にこのまま認めて進んでしまった時の事や、そうではない未来を。
ぐるぐると頭の中で可能性が駆け巡り、答えが出ないままに消えていく。
……全知全能なんかじゃない、ただの人間の俺に未来なんて分かるはずがないじゃないか。
だから俺は――
「蒼乃、ごめん。さっきのは事故だ」
自分の感情よりも、現実を信用する。
やらかしてしまったというのに。
今更かもしれないけれど、後悔しかないというのにそれでも俺は、ほんの少しの理性に縋るしかなかった。
「スマホのアラームに驚いて変な風に力が入った」
俺は俺の感情に任せて、蒼乃に危険な道を進ませたくない。
だって俺は蒼乃の事が好きだから。
今更、そんな簡単な事に気付くような馬鹿だから、お前を幸せにするようなか細い道を渡り切る自信なんてない。
俺は……お前を不幸にしない選択をする。
「……ごめん」
「兄、謝らなくていいんだよ」
「蒼乃……」
蒼乃の口元から、感情の欠片が
喜び、発情、哀願……。様々な感情な混じり合い、
「兄の事が分かったから。兄の気持ちがはっきりと感じられたから」
俺は何も言っていない。
好きだなんて一言も言っていないけれど、あのキスのせいで、俺の中に在る蒼乃への気持ち全てがさらけ出されてしまっていた。
――衝動に任せてあんなことしなければよかったと、後悔しても遅いけれど。
「違う。さっきのは事故だ」
「……そうだね、事故だね」
分かってない。
蒼乃は分かっちゃいない。
そんな顔で事故だって言われても、蒼乃がそう考えて居ないのが丸わかりである。
いや、事実からすれば蒼乃の方が正しいのだが、事故にしなければならないのだ。
「蒼乃。俺はこれからお前への態度を変えたりしない。俺とお前は、ずっと……」
俺は一旦言葉を切って、蒼乃を見つめ直す。
これから口にするのは断絶の言葉だ。
きっとそれは蒼乃も分かっている。それでも俺はそれを蒼乃に突き付けなければならない。
蒼乃の唇を奪っておいて、どれだけそれが傲慢で愚かで自分勝手なのかは俺自身がよく分かっている。
それでも俺は、蒼乃に現実を見せなきゃならないんだ。
「ずっと、未来永劫、兄と妹だ」
蒼乃の表情は変わらない。変わらず笑顔のままだ。
「それは何があっても変わらない」
分かったか? と問いかける。
それは、俺に対する念押しでもあった。
「分かってるよ」
蒼乃は俺の願いを、笑顔のまま受け入れた。
変わらず、笑顔のままで。
俺は拒絶の言葉を口にしたというのに。
「本当に分かってるのか? 俺は――」
「分かってないのは兄の方だよ」
蒼乃は強い眼差しで断言すると、手を上げて自らの唇に触れる。
それからその手で……俺の唇に触れる。
「私は今まで地獄に居たの」
……それは俺のせいだ。
俺がしたことだ。俺が蒼乃を苦しめた。
「でも今は違うの。もう兄を嫌わなくてもいいの。普通に兄の傍に居られるの。それがどれだけ嬉しいか分かる? 本当に分かってる?」
――分かっていなかったのは、俺の方だっていうのか?
傍に居るだけで幸せだと、受け入れて貰えなくても幸せなんだと、蒼乃はそう言っているのか? 本当に?
「その上さっき兄から気持ちを貰ったの。私は幸せだよ。もう、最高に幸せなんだよ」
――だから。
「これ以上幸せにならなくても大丈夫だよ」
……なんだよそれ。
「兄は十分私を幸せにしてくれたんだよ」
そんな……一瞬の事じゃないか。
たった数秒触れ合って、たった数日時間を共にしただけなのに……それなのに幸せだなんて……。
「これから先、もっとたくさんの幸せを貰おうなんて最初から思ってないよ」
蒼乃はそう告げる。笑顔のままで。
笑って、笑って、笑顔のまま固まってしまった顔で。
「……嘘だろ」
なんでこんな事俺は言うんだよ。
蒼乃のお行儀の良い嘘に乗ればいいじゃないか。
そうすればみんな万々歳で終われるのに。
「うん、嘘」
蒼乃はそれをあっさりと認めてしまう。
当たり前だ。俺だって好きな人とはずっと触れ合っていたい。もっと喋りたいし、好きだと、愛していると想いを伝えたい。
キスしたい、抱き合いたい、感じていたい、繋がっていたい。
色んな事を一緒にして、色んな想いを共有して、未来に向かって二人で歩むのが、俺の、俺たちの本当にしたい事なんだから。
「でも本当。私は兄の傍でとっても幸せなの。兄の傍が、私の望む場所なの」
蒼乃の手が力を失い、ゆっくりと落ちていく。
それを俺はただ見ているだけしかできなくて……。
いくら繋ぎとめたくても、それをしてしまえば嘘が嘘でなくなってしまう。
「分かってるよ、兄……分かってるから」
蒼乃の頬を、笑顔の形で凍ってしまった頬の上を涙が伝っていく。
「ずっと私は、
俺が思う様な事なんて、蒼乃はずっと前から考えて来たのだろう。俺が数日前から悩むようになった事を、蒼乃は生涯かけて悩んで来たのだから。
俺に言われなくともよくよく分かっていたのだ。
「兄が言う事は、正しいね。正しいよ……」
落ちた蒼乃の手を、俺の膝が優しく受け止める。
それで、終わり。寂しそうに独りぼっちのその手を、俺が握り返すことはなかった。
また明日ね、と蒼乃は言い残して去っていった。
しばらく呆然としていた俺は、無意識のうちに蒼乃が座っていた位置へと手を置いて、蒼乃のぬくもりを求めていた。
そのぬくもりが、時間と共に冷めていき、消えていく。
どれだけ辛くとも、それが現実なのだ。
――だったら、時間がこの傷を癒してくれるだろうか。
「…………」
俺はスマホを手に取ると、スリープから復帰させる。
そのまま電話帳を起動して――チラリと時間を確認する。今は午後11時50分。ちょっと遅すぎるくらいに遅いが、まあ勘弁してもらおう。
目的の人物のアドレスを開いて、タップすると、スマホを耳に当てた。
十数回のコールの後、目的の人物が電話に出てくれる。
「こんな遅くにごめん、父さん。実は――」
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