第27話 境界線
「蒼司がダメだって思うならさ。やっぱりいけないんだと思う。二人の先に未来はないんだよ」
ぼたんはそれだけ言い残して帰っていった。
ダメ……か。そういえば名取も前にそう言っていたけど、やっぱりアイツも分かってたんだろうな。
ぼんやりと天井を見つめてため息をつく。
チラリと視線を時計に向けると、もう午後七時を過ぎていた。
今階下では母親と蒼乃が協力して晩御飯を作っている。
多分もうすぐ蒼乃が呼びに来るだろう。
その時俺はどんな態度を取って、なんて言えばいいのか、蒼乃への気持ちを自覚してしまった今となっては全く分からなかった。
母親や蒼乃に対して
出来る限り蒼乃の事を避けて過ごそうとしていたが……とうとうその時がやってきてしまった。
蒼乃との約束。必ずやらなければ不幸が訪れてしまうというミッションの攻略。
その内容は、三分間額をくっつけるだけだ。
とてもとても簡単だが、俺の理性が保てるかにかかっている。
多分蒼乃は……むしろその先を望んでいるだろうが。
「兄……入るね」
控えめな声と共にドアが開いていく。
ドアの隙間から蒼乃の顔が覗き、それに続く様にしてピンク色の寝巻きに包まれた細い体躯が、猫のようにするりと俺の部屋へと入り込んだ。
「ドアは開けといてくれ」
「……やだ」
俺の希望は無視され、蒼乃の手でドアが閉じられる。
ガチャリと上がった音は、世界との断絶を告げる鐘の音の様だった。
「お母さん、明日早いんだって。もう寝ちゃったよ」
時計を見れば10時を指している。異常なまでに早い時間に、作為的な何かを感じずにはいられない。
蒼乃が色々家事を手伝って母親のやることを無くし、就寝にでも追いやったのだろう。
「なんでそんな事言うんだよ」
「……別に」
蒼乃は薄く微笑むと、机で宿題を片付けている俺の方には来ず、ベッドの上にちょこんと座る。
前は寝巻き姿ですら俺に見せるのを恥ずかしがっていたのに、今は胸元のボタンをいくつか外してすらいた。
俺の視線に気づいたのか、蒼乃は恥ずかしそうに俯いて居心地悪げに体をゆすり、靴下も履いていない素足をもじもじと重ね合わせる。
恥ずかしいのに、それでもそうしているのは――きっと、誘っているつもりなのだろう。
「兄、しよ」
その言い方は止めろという言葉が喉元までこみ上げてくる。
何をするのか、何を期待しているのか。俺が言ってしまえばそれこそ認める様なものだからだ。
「ミッションは……なんだったっけ」
「…………」
わざとらしく呟いてスマホを操作し画面を呼び出す。
分かり切っていた課題と共に、3:00の文字が表示される。
「三分間額をくっつける、か。タイマーかけるぞ」
「……いいよ、そんなの」
「俺は宿題を終わらせないといけないんだ。手早く済ませたい」
ゲームの方のタイマーは、終了しても音が鳴らない。きちんと終わった事を明確に告げるタイマーでなければ、そのままだらだらと引き伸ばされる可能性があった。
俺はタイマーを3分10秒にセットして蒼乃に見せる。
「念のための十秒だ。これで確実にクリアできる」
だから……そうやって不満そうな顔をするなよ。
決定的な言葉は聞いていないけれど、蒼乃がどうしたいのかは一目瞭然だった。
俺は椅子から立ち上がると、蒼乃の隣に……俺のベッドに腰を下ろす。
俺と蒼乃の隙間は10センチ無い。それでも心理的な壁として開けておきたかったのに――。
「んしょ」
わざとらしい声を上げながら、蒼乃が座り直してその距離をゼロにしてしまう。
必要以上に寄せて来る体は風呂上がりで温まっており、湿った髪の毛はいつも以上に艶やかで、部屋の明かりを眩しいくらいに反射している。
「それじゃあ、しよう」
長い側頭部の髪を垂らしながら、斜め下から俺を見上げて来る蒼乃は、思わず唾を飲み込んでしまうほど官能的で艶めかしかった。
「……あ、ああ」
俺はスマホを膝に置くと、蒼乃の長い髪の毛を邪魔にならない様整えてやる。まずは左。それが終われば右。最後は額にかかる前髪を左右に分けて額を露出させる。
蒼乃は目を細めて気持ちよさそうに俺が触れる感触を楽しんでいる様だった。
俺は一旦視線を逸らすと、膝に置いていたスマホを右手で掴んでもう一度アラームを確認する。
3分10秒と間違いなく表示されていた。
「じゃあ……額を合わせるぞ」
一瞬『する』と言いそうになってしまい、慌てて具体的な言葉で言い直してから、俺は自らの前髪を掻き上げ、蒼乃の額とくっつけた。
そのまま右手親指で画面をタップし、横目でスマホを確認する。
数字は間違いなく進んでおり、三分後にはきちんとミッションの達成を告げるだろう。
俺は視線を正面に戻して、少しだけ安心する。蒼乃の顔は近くにあり過ぎてまともに見る事も出来なかったし、それ以外もほとんど見る事は出来ない。
ただ、視覚以外は直に伝わって来てしまい……先ほど一瞬だけ安心した事を後悔した。
「兄」
いたずらっぽく蒼乃が笑い、ふぅっと俺に向けて息を吐きかけて来る。
蒼乃の香りに染められた吐息が顔の前で広がっていく。
大気の中に麻薬でも混じっているのかと思うほど甘い吐息が俺の中に侵入して肺腑の底から犯していき、信じられないほどの快楽が俺の体から沸き起こる。
快感は俺の鼓動を加速させ、思考を麻痺させていき、全身が蕩けて行ってしまいそうだった。
ヤバいと思っても体は既に言う事を聞かない。
一旦息を吐き出した後、俺は再び胸いっぱいに吸い込み、また吐き出す。
それを蒼乃が吸い込んで……吐く。それを俺が……。
交互に繰り返される吐息の応酬。俺たちの息は、まるでこれからの未来を暗示するかのように、混ざり、絡み合い、ひとつになっていた。
ふと視線をスマホに向ける。その数字は――。
「後、20秒?」
もう三分近くもの時間が経っていたのかと驚き、思わず口に出して呟いてしまった。
「えっ」
蒼乃も驚いたように声を漏らすと、
「あっ……ごめんね」
失敗しちゃった、と言う蒼乃の顔は少しだけ微笑んでいる。
わざとなのか、本当に失敗したのかは分からない。
俺も、問い詰めるつもりは欠片も無かった。
もう一回しなければならない。
……もう一回、出来る。もう一度、あの快楽を味わう事ができる。
そう思ったら、むしろ何度でもやり直したくなって来るほどであった。
――ダメだ。
脳裏に警告が走る。ぼたんと、名取の声が暴走しかけた俺の心を引き留めてくれた。
そうだ、俺は流されちゃいけないんだ。蒼乃と、血の繋がった妹とそういう関係になってはいけない。
過熱していく一方であった俺の脳は、その言葉で少しだけ冷たくなる。もっとも、焼けた鉄に水を一滴かけた程度でほとんど意味はないが、それでも先ほどよりはましだ。
俺は横を向いて――蒼乃の息が届かない、新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込んで吐き出す。
何の興奮も快楽もない無味乾燥な大気を、ゆっくりと吐き出し、俺は覚悟を決める。
「次で終わらせるぞ」
そう宣言すると、スマホのタイマーをリセットし、3分30秒にセットし直すとそのままタップしてスタートさせる。
それをベッドの頭の方へと放り投げると、艶然と笑う蒼乃に向き合い、もう一度額を押し付けた。
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