さいしょの愛をちょうだい(下)

「それは、あれ。長い蝋燭一本が短いの十本分として考えて」

 姉は、今夜の誕生パーティー用に部屋を飾り付けながら、僕にケーキの用意を指示した。

 母へのプレゼントは、結局、姉が選んだ美容液になった。以前欲しがっていたことを姉が思い出してそれに決まった。だから、僕があの店に出向く必要はまったくなかったということだ。

 父が帰ってきたのを合図に、ケーキに立てた蝋燭に火を灯す。暗がりになった部屋で姉が歌い始めて、パーティーは始まった。

 誕生パーティーと言っても、主役の母が料理を作っているし、片付けも大体母がする。姉主催ではあるが、実行委員として母の活躍が不可欠だった。

 家族四人の誕生日は今のところ毎年欠かさずお祝いしている。姉以外の誕生日は姉が主催し、姉の誕生日には姉以外が盛大に催す。それが池田家のルールだ。

 僕が小さい頃には、母はケーキを焼いていた。

 最近は市販のものを買ってくるのが定番になったけど、母が焼いたケーキの味は今でも覚えている。

 ケーキを切り分け、全員が席に着いたところで、姉がプレゼントを母に手渡した。

「あ、これか」

 開封した母から、感情をどこかに置き去りにした声が漏れて、僕と姉は、まあこの程度の反応か、と思った。

「ありがとう。嬉しい」

 スイッチを入れ直して、母は白々しく感謝し直した。


 大野の家に行くことにしたのは、決心したからだ。

 森林公園で会ったあと、大野は学校に来なくなった。クラスメイトが不登校になっても、誰一人として驚かず、当然のこととして受け止められていた。

 大野の家は、小学校の近くにある。小学生時代を知る人間に訊けば、すぐに分かった。そのとき一緒に分かったことだが、大野の両親は離婚し、母親についた大野は現在、母と二人で暮らしているらしい。

 遠くから見ても、どの家がそうかすぐに分かった。

 木造平屋の一戸建。庭の雑草が石塀を越えて隣の敷地にまで垂れ下がり、門からのアプローチには不要になったのであろう冷蔵庫やブラウン管テレビなどの大型家電が雨ざらしに放置されている。学校周辺の平静な景観を台無しに損ね、治安の悪さを醸し出していた。呼び鈴は壊れていて蜘蛛が這っていたので、戸を叩く。ほどなく戸が開き、顔を出した大野は一瞬驚いた顔を見せたが、すぐにいつもの印象に戻った。

 大野の個人部屋はなく、居間に通された。 

 会わない一ヶ月ほどの期間で、以前までの会話の感覚が鈍ってしまう。大野は振る舞いこそ変わらないが、少し頬がこけて見える。ちゃぶ台を挟んで座り、お互いが相手の言葉を待っている時間がしばらく流れた。

 最初、正座していた僕も疲れてきて、途中足を崩した。足を前に放り出し、手を後ろに付くと、手のひらに何かを押さえた感触があって咄嗟に手を引き、振り返った。見ると、畳の上に米粒が散乱していて、さらに、部屋の角には山盛りになっていた。手のひらに付着した米粒を払い落として、これはどうしたのかと大野の方を見る。

「ごめん、今朝ちょっとあって」

 大野は笑って言った。いつも、そんなときこそ、笑っていたのかもしれない。家庭が複雑そうなことは、大野を噂する同級生の話を聞いても、容易に想像ができた。

 一体、今朝何があったのか。踏み込んで大野に訊くことができなかった。

 再び、会話は途切れ、ふと、壁際にアコースティックギターが置いてあるのが目に入る。

「弾けるの?」

 大野はギターを手に取って抱えるように構えると、親指で太い弦から順にゆっくり弾いてみせた。ギターの生の音を、生まれて初めて聴いたと思う。音量が想像を越えて大きい。

「まだコード覚えてるところ」

「コードって?」

「これ」

 大野はコード早見表と書かれた紙を机から取ってきて見せてくれた。弦の押さえ方を表した図が、百種類くらい並んでいて「これほんとに覚えられるの?」と聞くと「全部は覚えないけど。簡単なのだけ」と大野は言い、いくつかコードを押さえて弾いた。

 適当に弾き終えたあとは、僕にギターを押しつけた。学校で習う楽器以外触ったことのない僕は、恐る恐る親指で一番手前の太い弦を弾いてみる。弦はびりびり振動して、音が鳴り止むまで手の中でギターが生きてるみたいに感じた。

「大野の笑ってる顔見てると、つらいんだ」

 僕はやっと言葉にした。

 大野は僕の言葉をスピーカーから流れてくるBGMでも聞いているかのように聞き流していた。

「これまでみたいに、もう、大野と会話できないと思う」

 僕は聞いていると信じて、構わず続ける。

「もう二人では、会えないと思う」

「大丈夫。だって別に、私たち付き合ってないから」

「そうなんだけど」

 ばつが悪くて沈黙になるかと思ったら、突然、廊下の奥でカンカンカンカンと何かを叩き付けるような金属音が鳴り響く。

「あ、お母さんが呼んでる」

 大野はすっと立ち上がると「ごめん、帰ってもらっていい? なにも出さずにごめんね」とだけ言って、音がした奥の方に慌ただしく消えて行った。取り残された僕は立ち上がって、廊下のずっと奥の方に目を凝らした。「遅い遅い遅い」という怒声と、磨りガラスの向こうに陰が動いたので、あっ、と噂に聞いた幽霊の存在に思い当たった。僕は急いで玄関を飛び出し、振り返らずに走って逃げた。

 大野とは、それ以来会っていない。


 三階建ての三階の一室に、小さな楽器屋があった。

 ギターを始めたいと店員に伝えて、最初に手渡されたギターは大野の家で触ったものと向きが逆だった。「ギターにも右利き用左利き用があるんです」と教えられて、陳列されたギターを見回すと、店内のギターはほとんど右利き用だった。右でも左でも、どうせ初めは弾けないんだから、安く手に入る方で良いやと、右利き用を購入することにした。

 買ったばかりのギターケースを担いでいるだけでまったく弾けやしないのに、行き交う人間と自分は住む世界が違ってるという錯覚に陥って、ちょっと気持ちが良かった。大野にも一歩、近付けた気になっていた。高校生になり、会わなくなって数年が経っても、未だに僕は拘泥している。


 大野は絵が上手かった。大野の絵を見ると今でも昨日のように思い出す。


 近隣住民は事件の翌朝から大野を犯人扱いした。

 大野の母、大野悦子が自宅で変死体として発見されたのだ。娘の大野が失踪していることで、警察は大野の行方を追っている。周辺地域はこの事件で騒がしくなり、住民は口々に大野の過去を知ったように語った。

「事件、やばくない?」「お前、大野の居場所しらないの?」「いつかやると思ったよ」「母親ってあの幽霊でしょ?」「弁当のこと恨んでたんじゃない?」

 大野を知る同級生は、大野が母親をやったと決めつけて、好き勝手を言っている。

「小学校のときの弁当、ほとんどバナナだったし」「おいおいバナナは弁当に入らないって」「いや入るでしょ。それのみは地獄ですが」「てか、あのバナナ、絶対腐ってたよ」

 大野は変な奴だって、最初から分かってたなら、誰だって助けられたんじゃないか。変だと思うことは全部、大野にとっても変だったはずで、嫌で、苦しくて、逃げたかったけど、いつからか、生きていくためにはそれを受け入れることしかできなかった。僕たちは大野からのサインを見逃し続けていた。


 事件の後は、家に帰っても気分は晴れるはずもなく、苛立ちの行き先は自分自身に向いた。今となっては、練習する価値がわからないアコギが、部屋の片隅で黙って胡座をかいて居座ることにも腹が立った。手に取って弦を弾いても、禄にチューニングがあってない。「お前のせいだ」と外れた音にも言われているようで、言い訳するように乱暴に当たると、ビイイーンと弛んだ弦が汚い音でしつこく伸びて、耳に虚しく残った。何度も何度も当たり散らして、びりびりと小刻みに振動する弦が造る残像を眺めていると、大野が押さえる簡単なコードの響きが無性に懐かしくて、聴きたくってしょうがなかった。


 未だに想いを棄てきれないのは、それはたぶん、大野があの白い花の名前を知っていたからとか、そういう、他人からすれば取るに足らない理由で、ただそんなことだけが、大野を欲目に庇える担保だった。大野のことを信じたくて、どれだけ人道に外れて、隠されるべき一面が表層に現れても、大野はそんな奴じゃなかった、と僕が証言する日がいつかくるんだと思ってしまう。最初に芽生えた気持ちとは掛け離れてしまってることは分かっている。だからもう、これは恋じゃないし、愛でもなくて、意地みたいなもんだから。そこに咲く白い花が、ハルジオンであると知っている僕が、僕でなければ、大野は取り戻せないと思っている。










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さいしょの愛をちょうだい 砂田計々 @sndakk

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