さいしょの愛をちょうだい
砂田計々
さいしょの愛をちょうだい(上)
そこに咲く白い花が、ハルジオンであると知っている。誰も彼もその名を言えないばかりか、そこに花が咲いていることすら気づいていない。目に映るものに差は無いはずなのに、大切にするものが違うから、花も木も、何も見えていないんだ。
彼女が大切にするものと同じものが僕にも見えていれば、違った昨日があったのかもしれない。
――十三歳、中学二年の春。
学年行事の写生会で、学校近くの森林公園を訪れた。同級生は公園に着くなり、蓮の群生する池や、地面に濃い影を落とす大樹や、公園を印象づける赤褐色の敷石の風景など、皆がそれぞれに散って描きたいものを描き始めた。特別描きたいものなどなく、どのグループからも要請がなかった僕はひとり、スケッチブックを片手に、公園内を居場所を探してぐるぐるしていた。誰かの隣に座る気にもなれず、人気の無い方へ、無い方へと、丘を登っていくと、絵にして見栄えがしないでもない景色があったので、これを適当に描いてしまおうと、足下の草の上に腰を下ろした。
丘の上の、周りを木々に囲まれた少しだけ開けた場所。「森林公園」で言う「森林」の部分だった。
同級生の声が遠くに小さく聞こえる。周囲を見たところ人工物は何もなかった。ただ、同じ景色を違う角度からもう一人、大野りこが描いていたことに、描き始めてから気が付いた。
同じクラスの大野りこはとりわけもの静かな女子で、いつからそこに座っていたのか、ひとりで黙々とスケッチを進めていた。目の前の風景には特段重要そうな題材は落ちていないし、それどころか、はっきり言って緑一色で、最初に目について描いた草を複製して余白を埋めれば済むように思うが、大野りこはそれでも、何でもない景色を凝視しては手を動かし、何度も何度も確認して鉛筆を走らせていた。
スピーディーに描ききることで草花の生命力を活写することに成功した僕は、予定時間を大幅に余らせてしまった。だからといって、おちおち歩き回ると孤独を思い出しそうだったので、その場に留まって、目を瞑ったり、開いたり、空を見る振りをして首を回したりしていた。すると、向こう側にいたはずの、大野りこの姿が無いことに気がついた。時間と共に徐々に色が薄くなっていき、どこが変化したのか分からないクイズみたいに、大野りこが消えていた。
「ねぇ、あれなに?」
背後から発せられた声に振り向くと、そこに大野りこがいた。驚いた僕は、勢いで立ち上がった。
「……びっくりした。あれって?」
「あれ。あの赤いの」
大野りこの人差し指の先に顔を向ける。
「あの、ハルジオンのところ」
指先の方向に視線を向けると、白い花が部分的に咲き揃っていて、たぶんそれがハルジオンで、その付近になにか赤いものが確かに落ちている。僕と大野りこはおずおずとそれに近寄って行くと、玩具のようにも見えるし、動物の残骸のようにも見えるし、欠損した動物の部位にも見えた。近づいてもまったく動かないので、僕は足で軽く蹴ってやると、それは存外、簡単に裏返った。ひっくり返った裏側を俯き加減に盗み見て、直視できずにいる大野りこは絶句している。よく見るとそれは、乾燥して個性的な形状に固まったエロ本だった。
空気が変わったのを感じ取って、なんと言って良いのか分からず「でも、良かった」と言って振り向いたら、そこには誰もいなくて、大野りこは元の位置でスケッチを再開していた。
クラスにいるとき感じた、大野りこが放っている人を寄せ付けない空気が、絵を描いている間は感じられなかった。僕は歩み寄って、大野りこが座る木陰に入り、すぐ側で腰を下ろした。
大野りこからは甘い香りが漂ってくる。気付かれないようすんすんしていると「要る?」と聞かれ、大野りこはガムを差し出した。甘い香りは、梅味のガムだった。
僕はわけてもらった梅味のガムを噛んで、スケッチの進みを眺めていた。
写生会を終えて後日、完成した絵は各クラスで出来の良い上位作品のみ、校舎一階の廊下にしばらく展示された。貼り出された大野りこの絵を見たとき、僕は、同じ場所にいて何を見ていたのだろうかと反省した。何も見ていなかったのだ。大野りこの絵は見ているだけで、写生会のあの丘で過ごした時間が身体に蘇った。あの白い花、ハルジオンも咲いていた通りの姿で精確に描かれていた。目を凝らすと、エロ本の赤いシルエットさえも、筆先で触れた程度のタッチで再現されている。選り抜きの展示作品のなかでも大野りこの絵は秀抜で、異常に世界を写し取っていた。大野りこの絵を前に、僕は、半ば当然のように、大野りこに対して恋心が芽生えていた。
「絵、見たよ」
午前の授業が終わり、昼休憩、トイレに行くついでに声を掛けたという体で、ひとり席に着いている大野りこに話しかけた。こちらを向いた大野りこは、聞こえはしたけどあなたは誰? という顔をしたので、心細くなってしまい、僕はそのまま用のないトイレに直行してしまった。個室に閉じこもり、もしかすると、あの日二人で唐突にエロ本を発見したショックが心理的にあまりにも効いていて、記憶を全て失ってしまったのかもしれない。案外、そんなことが世の中にはあるのかもしれない、と考えてから教室に戻り、席に着くまで、大野りこの席の方を一切見ることができなかった。
下校時間。昇降口でシューズを履き替えようと踵をはずして、思いとどまり、上履きを履き直した。
もう一度、大野りこの絵を見ておきたくなったのだ。
写生会から一ヶ月近くが経とうとするのに、絵を見ると、まだ、昨日のように思い出すことができる。
大野りこはあの時、スケッチをしながら、僕のことを見ていただろうか。絵の中に、僕の姿を探すがどこにも見当たらない。これほど有りのままを精確に描いた絵の中に、見つからない、ということが何を意味しているかは明確に思えた。この絵に描かれなかったものは、その日、そこに存在しなかったのだ。そう思い至ると、大野りこが見た世界に存在することのできたエロ本を意味する赤色の印にすら嫉妬した。
思い立ってスマホを取り出し、周囲を警戒しながら、大野りこの絵を写真に収める。撮れた写真の出来に納得して、浮ついた気分のまま振り返ると、大野りこがすぐそこでこちらを見ていて、目が合った。周囲に注意は払ったはずなのに、どのあたりから見ていたのか。
大野りこは近づいてきて、何か非難されることを覚悟していると、小さく呟いた。
「そっちの絵はどこ?」
「……え」
「一緒に描いたじゃん。どこにいったの?」
「ここは、上手いのしか展示されてないから」
「そっか」
皮肉で言ったのかどうか、大野りこの顔からは読み取れなかったが、写真に撮ったことを責められると思った僕は、内心、胸を撫で下ろした。そして、大野りこは僕のことを覚えていた。
「一緒に描いたの、覚えてたんだ」
「覚えてるよ。クラスメイトだし」
「大野って、絵上手いんだな」
「ありがとう」
大野は、僕が絵を褒めたことに思いのほか喜んで、どうしても笑顔が溢れてしまうといった感じで、薄笑いを浮かべた。
何気ない会話や表情であっても、普段、大野がそんな一面を見せることはそうないので、話す言葉や表情、細く響く声がどれも貴重で、一つ残らず見逃すまいと構えてしまう。
この頃から、退屈でしかなかった学校は、大野とどれだけ話せるかに挑戦する価値のある場所となった。
大野と積極的に話す同級生は、僕くらいなものだった。
小学生時代の大野を知るものは、中学校に少なからずいる。僕が知らない、中学に入るまでの大野が話題に上がることはそうなかったけど、同級生がひとたび大野の噂をするとき、決まって嬉々として話した。僕の耳に入ってきたのは、大野の家が貧乏とか。弁当が変だったとか。家に遊びに行ったとき幽霊がいただとか。どれだけ大野が異様な人物であったかを滔々と話し、でもそれは昔の話だから今はわからないといった感じで、全く発言に責任を持たなかった。耳にするたび、良い気分はしなかった。
弁当が変、と噂の大野が食べる昼飯をのぞき見ると、購買のパンだった。何が変なものかと、僕も購買で買ったパンを食べながら、大野に話しかけるタイミングと話題に頭を捻っていた。
大野と話すとき、話題には特に気を遣った。
話題が大野の興味にそぐわないと即、沈黙となり、不穏な宇宙空間のような暗黒が二人の間に生まれて、ひとりでいる時ですら味わったことのなかった本当の孤独を感じた。映画やテレビ、漫画、SNS、ファッション、その他、およそ同世代で共感できそうな話題はほぼアウトで、「いまゴキブリが出たらどうする?」とか「一億円あったら何に使う?」とかの《もしもシリーズ》か、「ここだけの話、牛乳のカルシウムって吸収しにくいらしいよ」とか「最初に言って欲しかったんだけど、脂肪を燃焼させるには二十分以上の運動が必要らしい」とかの《豆知識シリーズ》が、概ね有効だった。話題がフィットしたときは快感で、大野の笑顔はそういう苦労を吹き飛ばすほど可愛かった。
「教室の窓って必ず黒板の左側にあるって知ってた?」
大野の黒目が、黒板と窓を行き来する。そして、俯いた。これまで経験したことのある教室の風景を思い出して、頭の中で検証しているのかもしれない。ややあって、言った。
「たしかに」
「手の影で文字が隠れないようにしてるんだって」
「でも、わたし左利きなんだけど」大野は苦笑した。
「ぼくも」
左利きの共通点には、ちょっと前に気が付いていて、気付いたときは嬉しかった。
大野にも、僕との接点、あるいは他の誰かとの接点の有無について考え、一喜一憂するようなことがあるのだろうか。
「母親に直せって言われたんだけど、簡単に直せないだろ。自分も、途中で矯正したらしいんだけど」
「お母さん、そんなこと言ってくるの?」
「うん。大野のとこは言われない?」
「言われたことない」
「そっか」
「……」
突然の空白にも容赦なく、暗黒はひたひたと足下から立ちこめて、早急に次の話題を必要とした。
「猫派? 犬派?」
咄嗟に思いついた話題だったけど、悪くないと思う。
「どっちも」
「どっちも派?」
「ちがう。どっちでもないよ。だって、猫は猫。犬は犬だし」
あまり、広がらない話題だった。
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