さいしょの愛をちょうだい(中)

 その日は、学校が終わった足で隣の駅前まで自転車で向かった。

 今月末に誕生日を迎える母へのプレゼントを姉と合同で買うため、呼び出された大型雑貨店で落ち合う予定にしている。姉の通う高校からここまでは、結構な距離があるので、僕の方が早く着いてしまった。予算は決まっていたので、先に店内を下見してしまおうと思った。

 ここには初めて来た。八階まであって、小物雑貨や家具まで幅広く揃えてあり、近隣では最大級の売り場面積を有している。入口のフロアガイドを見ないといくらでも迷ってしまう。

 予算は話し合いの結果、合わせて五千円程度に収める計画だった。それを踏まえると、フロアは自ずと絞られる。二階美容品、四階インテリア雑貨、七階文房具の三つのフロアに目を付けてエレベーターに乗る。二階の美容品は姉に任せるとして、僕は文房具売り場から見ていこう、と7を押した。七階に着くまで、何度か途中のフロアで止まり、五階でドアが開いたとき、そこに大野がいた。

 エレベーターは十人ほど乗せていた。大野はその奥に僕が乗っているとは知らず、ドアのすぐ内側で階層表示を見上げている。大野と待ち合わせていた訳でもないし、今日、ここに来ることも言っていない。偶然に、同じ時間同じ場所に揃ってしまった。そして、大野もまた制服姿のまま来ていた。七階でドアが開いて、大野をはじめ大半の客がこのフロアで降りた。

 学校以外で大野と会ったことはまだない。

 話しかけたいという気持ちと、母親の誕生日プレゼントを買いに来ているなんてバレたくないという気持ちがあって、一定の距離を保って様子を窺うことにする。

 大野が何を買うのかは興味があった。大野が興味を示すものに興味がある。共有するものは多い方がいい。話の種になるものがあれば、それだけ大野の笑顔が引き出せるわけだから。大野に関する発見はつまり、新しい武器を手に入れることだった。 

 文房具売り場で、陳列棚をうまく目隠しにしながら刑事のように見張っていると、少し心が痛んだ。

 大野はペンが整然と刺さった棚の前で物色している。一本のシャーペンを手に取った。シャーペンの頭をカチカチとノックして感触を確かめている。何本目かのシャーペンを手に取ったあと、気に入ったものがあったのか、試し書き用のメモパッドで書き心地を確認している。満足し、それに決定して、手に持ったまま場所を移動した。僕は、バレないように距離を十分に保って、大野の死角に回り込む。

 什器の端に吊り下げられた引っかけラックに、風変わりな付箋を見つけて大野は立ち止まった。

 ハート型であったり、動物を象った付箋がどのように使われるのか僕にはわからないが、しゃがみ込んで、手当たり次第手に取り、眺めては戻し、どれにしようかと熱心に厳選している。大野がああいう可愛らしいものに興味があるなんて意外だった。

 思ってみれば、大野に対して興味を持ち始めてまだ半年も経っていないのだ。知らないことの方が多いのは当たり前のことで、勝手なイメージで大野を判断して、知った気になって、自惚れていたのかもしれない。大野のことは知れば知るほど、もっと知りたいという気持ちが大きくなっていった。

 大野は、最終的に選び抜いた一つを手に取ると、レジの方向を確認した。

 レジカウンターでは二人の店員がそれぞれ担当のレジスターの前で、途切れない客を甲斐甲斐しく捌いている。大野に視線を戻すと、肩にかけた通学カバンの口を広げて中を探っている。そして、またレジの方を確認していた。その挙動が気懸かりだった。大野は右手に持っていた付箋を迷いない手つきでカバンの中に入れてしまうと、またしゃがみ込んで商品を眺めていた。

 音を立て胸が脈打つのを感じた。

 手に持っていた付箋をカバンに放り込んだのは明らかだった。目で見たことに頭の理解が追いついておらず、棚の陰に隠れて、その処理が済むまで動けなかった。

 少し落ち着き、もう一度、大野の姿を確認しようと探す。付箋の前からは移動していて、通路の向こうに行ってしまっていた。いつの間にか手にあったシャーペンもどこかに消えていることに気が付いて、脈拍が一層早くなる。

 レジとは逆の方向に歩く大野は、僕よりもずっと落ち着いているように見えて、乗ってきたエレベーターの前で下りボタンを押した。階層表示をぼんやり眺めている。

 僕は、どうするべきがわからなくて、大野の背中を見つめながら、立っていることしかできなかった。

「ちょっと、何してるの?」

 声がして振り向くとすぐそこに姉がいた。

「どうした?」

 姉が訝しげに訊いて、エレベーターの方向をチラリと見る。僕も慌てて視線をエレベーターに戻すけど、そこに大野の姿はもうなかった。姉は要領を得ない顔をしていた。

「何階みた?」

「……え?」

「プレゼント。え、体調悪い?」

「大丈夫。まだどこも見れてない」

「そっか。じゃあ二階見てくるから」

「うん。ここで見てる」

「はいはーい」

 ポケットのスマホを確認すると、姉からの履歴が連続で残っていた。

 まだ動悸の痕跡が胸に痛く残っている。ほんの十数分の間に、違う世界に来てしまった気がした。

 僕はまともに棚を見ることができず、さっきまで大野がいた辺りをぐるぐる歩き回った。なにか、大野の気配のようなものが証拠として残っている気がして、気が気でなかった。あれは、本当に大野だったのだろうか、と誤魔化そうとしても、僕が大野を見間違うはずがない。あれは間違いなく、制服を着たいつもの大野だった。

 ペンの什器の前で、試し書き用のメモパッドが目に付いた。確か、大野はここに、手にしたシャーペンで何かを書いた。メモパッドの一番上に書かれた文字を目にして、僕の心臓がまたぐんと収縮する。僕は無心でちぎり取って、紙くずをポケットに突っ込んだ。

 二階に降り「やっぱり、体調悪い」と姉に伝えて、僕は店を出た。

 大野が出てから時間は経ってしまったけど、まだ近くにいるかもしれない。周辺に大野の姿を探して回った。

 日の暮れた駅前はあちこちで好き勝手な照明が点滅し、学生と仕事終わりのサラリーマンが各自の目的に沿って行き交っていた。商店街のアーケードに入り、定食屋、靴屋、下着屋、居酒屋、パチンコ屋、マクドナルドを通り過ぎたところの、ゲームセンターの前に大野はいた。クレーンゲームの景品を眺めて、ただ突っ立っていた。

 追いかけて、大野を見つけ出して、いざ目の前にして、僕はいったい何を言おうとしたのだろうか。

「あ、池田」

 不意に振り向いた大野がこちらに気付き、名前を呼ばれても、僕は言葉が出なかった。なぜそんなにいつもと変わらないのだろうかと、大野の顔を見つめて、僕は顔の筋肉がうまく使えず表情が定まらなかった。

「どうした? 体調悪い?」

「大丈夫」

「そっか」

 会話が途切れても、大野は全く気まずさを感じていないようで、横顔は微笑んでさえ見える。いつもなら、沈黙に立ちこめるこの重苦しい空気を怖れたけど、今は僕も納得して受け入れることができた。

 そして珍しく、口火を切ったのは大野だった。

「ねえ、見てこれ。もう落ちそうだよ。絶対取れるよ」

 大野はクレーンゲームの特大なぬいぐるみを指さしながら言った。

「チャンスだよ」

「こういうのは、落ちそうに見えて落ちないんだよ」

「え? でも、右の奥突っつけば落ちそうじゃない?」

「ぬいぐるみの下。滑り止めが敷いてある。それにアームの掴む力も弱いんだ。一回じゃ取れないようになってる」

「ほんとだ」

 大野はぬいぐるみを覗き込んで滑り止めを確認すると、心底残念そうな顔をして言った。

「まあ、こんな大きいの取っても、置いとくところないしね」

 笑ってみせる大野の笑顔に翳りが見えた。今まで見ていた笑顔と何も変わらないはずなのに。素直に好きと言えた頃には見えなかったものが奥に潜んでいた。

「うん。大きすぎるよ。家にあったらすごい邪魔」

 本当に話したいことは他にあるのに、口を突いて出るのは馬鹿馬鹿しいことばかりで、核心に触れないようにすればするほど、僕にも表情が戻ってきた。

「ガチャガチャにしなよ。これなら邪魔にならないし」

 店の脇にずらっと並んだガチャガチャの列を見つけて言ってみた。大野もまんざらでもない表情で一つ一つ順に見ていく。

「うーん。お金ないからいいや」

 お金ないんだ。じゃあ、文房具売り場で何してたの?

 僕は、僕の内側に浮かんでしまう台詞を、浮かんだ端から一つ一つ潰して消した。

「じゃあ、どれがいい?」

「え、いいよいいよ。悪いよ」

 でも欲しいんでしょ? 潰す。

「遠慮しないで」

「……うーん」

 欲しいものはいつも盗るの? 潰す。

「どれ?」

「じゃあ、これ」

 大野が指さしたのは、ミニチュアの盆栽だった。

「ほんとにこれでいいの?」

「これがいい」

 僕は財布を取り出して百円玉を三枚投入し、大野がハンドルを回した。

 カプセルが中でぶつかり合ってガサガサと音を立ててうごめく。ハンドルが一周半して、音と共にカプセルが一つ転げ出た。大野は、現れたカプセルを二つに割って、当たった盆栽に目を輝かせると、大事そうにカバンにしまった。しまう瞬間、開いたカバンの口から中が不意に見えて、何か覗いて見えるんじゃないかと目を凝らしたけど、明確な何かは見つけられなかった。

「ありがとう。ぜったい大事にする」

 僕の目をじっとしおらしく見つめて大野は礼を言った。

 なんとか、姉より早く帰宅することができて僕は自室に逃げ込んだ。

 着替えたあと、ズボンのポケットに手を突っ込むと、手に触れるものがあった。くしゃくしゃになった紙を手元で広げると、そこにはやはり、不器用な丸っこい字で「池田」と書いてあった。


 今日は僕が誘った。場所はどこでも良かった。

 日曜日、昼頃。天気はどんよりとしていたけど、予報によると晴れてくるはず。僕は自転車で公園に来た。大野は歩いてやってきた。咳き込みながら、マスク姿で現れて風邪気味だと言った。こんなことなら、携帯番号を教えておけば良かった。

 大野はスマホの類いを持っていない。自宅の番号も知らないので連絡の手段がなく、今回の約束も学校のある金曜日に取り付けた。

 森林公園のベンチに大野と二人。できるだけ、大野の側にいて、何でもいいから話をしたり、大野がする話を聞いたりしたいと思った。大野にとってもそれが良いと思った。

 森林公園には野良猫が多く暮らしている。

 足下に寄ってきて、頭をベンチにこすりつけたり、地面でゴロゴロ転がったりして、餌を寄こせと言っている。猫たちはよく肥えていて、普段から来園者に可愛がられていることがよくわかった。

「何か持ってくればよかったな」

 僕は猫を撫でながら言った。

「何かって?」

「猫が食べられる何か」

「そういうのって、あげちゃダメなんじゃない?」

「でも、太ってるし。みんなあげてるよ」

「ガムならあるよ」

「だめだよ。ちょっと近くのコンビニで買ってくる」

 僕はベンチにリュックを降ろし、中から財布だけ取り出すと「ちょっと待ってて」と大野をおいて、コンビニに向かった。

 公園の入口まで行くと、道を挟んで向かいにコンビニの青い看板が見えた。信号待ちをしている間、雲間から日が照ってきて、濃く湿ったアスファルトを乾かし始める。公園の木立から大量の蝉が鳴き始め、往来の騒音と混ざる。餌のついでに飲み物も買って帰ることにした。

 コンビニの自動ドアは惜しげも無く冷気を吐き出した。

 最初にペット用品の棚で猫用の餌を見ていたけど、結局は、プレーンのサラダチキンにした。もし、猫が食べてくれなかったとき、自分でも食べられるものが良いと思った。それと、二本のお茶を冷蔵庫から忘れずに抜き取ってレジに向かう。

 公園に戻り、ベンチに待たせた大野を遠くから見つけて、思わず足を止めた。

 大野の足下には猫が一匹寄っていて、その猫を、どこかの家の幼児が身を屈めながら構っている。大野、猫、幼児の中で、どうしてか大野だけが異物として見えてしまい、近づくことを躊躇った。猫に触るでもなく、子供に話しかけるでもなく、大野は上の方からそれらをただ見つめていた。

 大野が熱っぽくまた咳き込む。

 二、三度咳き込んだ大野は腰を浮かすと、幼児を頭上から覗き込んだ。そのままの体勢でしばらく動かないので何をしているのかと見ていると、大野はマスクを顎の方にずらし、真下にある小さな頭のてっぺんに唾を吐きかけた。吐きかけられた幼児はそんなこととは知らず、変わらず猫を撫でつけている。先に、猫の側が周囲の異変を察知したのか、狼狽えながら駆け去ってしまい、幼児もそれに続いて行ってしまった。去って行く猫と幼児を見つめる大野は、その先に僕の姿を見つけて、屈託なく笑った。

「遅い。もう猫どっかに行ったよ」

「うん」

「ざんねんだったね」

「うん」

「どうかした?」

「別に。こんなこともあろうかとサラダチキンにしたから、大丈夫。コンビニ行ったら、冷房めっちゃ効いてた。あ、お茶もあるよ」

「やるね」

 いつもと変わらない大野に比べ、僕の方が動揺してしまい、焦って多弁になってしまう。僕からお茶を受け取って、一口飲んだ大野の横顔は、ずっと遠くに感じられて実感がない。二人の間に立ちこめる闇の深さを感じているのは、僕だけなんだとわかった。

「あのさ」僕は言葉を探した。看過できないもの、向き合うべきものに直面してなお、逡巡した。

 遠くに家族連れが見えて、すっかり晴れた午後の公園には、静謐な時間だけが流れていた。

「あのさ、野良猫の耳が三角にカットされてるのって、さくら耳って言って、不妊手術済みの印なんだって」

「へー」

「この公園の野良猫は、さくらねこばっかだな。あ、だから、餌あげても大丈夫だよ。て言っても、もうサラダチキン食べちゃってるけどね」

 僕はうまく笑えず、大野も笑っていなかった。

「私も、大人になったらここで暮らしていこうかな。人間からサラダチキンもらってさ」

 大野が冗談を言ったのか何なのか、ぼそぼそとしたサラダチキンが喉でつかえて、飲み込むことに精一杯な僕には判断がつかなかった。

 二人別れて公園を後にしながら一人立ち止まり、この日避けて通った正道には二度と戻れないのかもしれない、という恐怖が残った。


 翌朝。夢を見た。

 公園で、猫がそこここに寝ている。でも、改めて近くで見ると、寝ていると思った猫は倒れていたのであって、点々とする猫の死骸を辿っていくと、その先で、大野が猫にガムをやっていた。一緒にやろうと言われて、大野が開くカバンを覗くと、ガムが大量に放り込まれている。これ、どうしたの? と訊いても、大野はただ笑うだけだった。

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