其の十七「これが最後だ、寸暇を惜しめよ!」
宗我兵衛は明村と別れ、その足で河畑の長屋へ向かった。河畑に報告するためだ――「
丑四つ時を回る頃――いまでいう午前三時頃に長屋に着いたとき、宗我兵衛が汗だくになっていたのは、蚤めいて屋根から屋根へと飛びわたってきたためばかりではない。探し人ふたりが続けて死を遂げたことを、河畑に不審がられやしないか――その不安によるところが大きい。
「……あん?」
宗我兵衛は不審の声をあげた。河畑の長屋に、火が灯っていないのだ。確かに常人は寝ている時間だが、半次郎たちと広沢の命を巡って競走している河畑が、自分を待たずに寝るものだろうか――宗我兵衛はこんなことを思いながら、引き戸に手をかけた。
引き戸は、なんの抵抗もなく開いた。中には誰もいない。
「野郎、どこに行きやがった?」
「ここだ」
独白に応じる声は、彼の背後からした。その声が発されたときにはすでに、宗我兵衛は畳の上につんのめるように身を投げだし、回転して受け身を取り、振りかえっている。その先――戸口に、家主が立っていた。
「かっ、河畑! お、驚かすない」
「それはこちらの台詞――物盗りかと思ったぞ。おっと、お前さんは実際物盗りでもあるか……く、く……」
河畑は笑いながら畳にあがると、舶来のマッチで、これまた舶来の洋燈に火を入れた。柿色の月みたいな光がぼうっと生まれて、ふたりの男を赤く照らす。しかし、河畑の頬の赤みが光のためばかりでないのは、辺りに漂う猛烈な酒気からあきらかだった。まぶたも下がっていて、ただでさえ細い目が糸のようになっている。
宗我兵衛は、先日と同じく、何故か畳の上ではなく上がり框に腰かける河畑を目で追いながらいった。
「お、遅かったじゃねぇか。どこで呑んだくれてやがった」
「それもこちらの台詞――とうに日は変わっておるぞ」
「おっと待ちねぇ、先の依頼は、いつまでにこなせたぁいわれてねぇぜ」
「これはしたり……じゃあ、もしかして、まだこなせちゃいねえのかい」
「まさかだろう」
「そうこなくてはな」
宗我兵衛は土間におり、河畑の前に回ってから――当然、いざというときに逃げやすいからだ――首尾を話しはじめ、
「――まァ、くたばっちまったがな、風待の奴ァ」
と締めくくった。
「なに? またか?」
それまで眠たげにしていた河畑であったが、この報告には目をかっと見開いた。
「お、おう。……仲間割れのすえ、相討ちになったとかでよ」
宗我兵衛は鼻白みながら頷いたが、すぐに首を振って、
「まったく、物騒な世の中になったもんだよなぁ。なにが御一新でぇ」
といった。
左右吉殺し、風待殺しの共犯であるうえに、そもそも世の中を物騒にする側の人間であるのに、こうもいけしゃあしゃあといってのけるのは、天性の恥知らずといわざるをえない。
河畑は特に相槌も打たず、しばらく宗我兵衛を見すえてから、
「……お前さんが殺ったんじゃあないだろうな?」
と小首を傾げた。
「ばっ……」
宗我兵衛の声は裏返った。
「馬鹿いってんじゃねぇや、俺になんの得がある!?」
「強盗はお前さんのお家芸じゃないかい」
「そ、そりゃぁそうだが……」
もっともな指摘だ。
しかし、ここで宗我兵衛に天啓がくだった。
「ええい、俺じゃねぇったら、俺じゃねぇんだ! そんなに俺を信用できねぇってんなら、俺らの仲もこれまでよ、あとはひとりでなんとかしな! あばよっ」
疑われたことを口実に、河畑と手を切る! そうすれば、当然半次郎たちとの手も切れよう。あとはまとまった金が手に入り次第、京にでも逃げればいい――その金の当てもある。
宗我兵衛は身を翻すや、顔の半分を口にしながら長屋から逃げだそうとした。
その左腕を掴むものがある。
宗我兵衛はぎょっとしながら、そちらを見た。河畑の右手が、宗我兵衛の左腕を掴んでいた。
しかし、妙な掴み方だった。普通、人は去る者を引きとめるとき、相手の肩に上から手を置いたり、その腕なり手なりを順手で握ったりするものだが、このとき、河畑は逆手で宗我兵衛の左腕を掴んでいるのだった。
宗我兵衛が訝っているあいだに、河畑は、
「悪かった、悪かった……冗談だ。おれはお前さんを信用しているって……お前さんが、ひとりで士族連中を相手取るわけがない」
と、いまにも笑いだしそうな震えた声で、変な言い訳をした。そして、
「それに、お前さんにはいま、強盗なんかよりずっと割のいい仕事がある……そうだろう?」
と続けると、逆の手で宗我兵衛の左手になにかを押しつけた。宗我兵衛には、手に触れた瞬間からそれがなにかわかっている――小判だ! それも一枚や二枚ではない、束になっている!
「こ、こいつぁ……」
宗我兵衛はようやく振りかえり、肩越しに河畑を見た。
「ことがなった暁には、もっと出す」
河畑は笑顔で頷くや、一転、
「朝、林に潜んで広沢の屋敷の門前を盗みみている男がある……」
「そ、そいつぁ一体ぇ?」
河畑の目と手もとの小判とを見比べながら宗我兵衛が問うと、河畑は片腹痛さに耐えかねるといったふうに、声を笑わせた。
「どこの馬の骨かは知らぬが……どうやら、かねに惚れておると見える。興をそそられるだろう?」
宗我兵衛は何度も頷いた。他人の恋路の邪魔が好きな男なのだ。河畑もまた、満足げに頷いた。そして、命じた。
「そやつのねぐらを突き止めろ。これが最後だ、寸暇を惜しめよ!」
宗我兵衛は河畑と別れ、その足で広沢邸に向かった。日はまだ顔すら覗かせていない。したがって、探し人が広沢邸の門前にいるはずもないが、余人ならいざ知らず、宗我兵衛にとってはなんの問題もない。
宗我兵衛は門前を見通せる林に分けいると、すぐさま獣道ならぬ人の道――人間が日々踏みしめた結果、ぺしゃんこになった雑草が連なっているのを見いだした。ともすれば見失いそうな雑草の連なりを辿っていくと、表通りに出た。探し人はここから林に入り、広沢邸の門前まで行っているにちがいなかった。
宗我兵衛はしばし、先ほど河畑から受け取った小判を数えて時間を潰す。
やがて、地平に禿頭みたいな太陽が昇りはじめる頃になると、朝の早い町人たちが、表通りにちらほらと姿をあらわす。
宗我兵衛は彼らに聞きこみをはじめた。結果が
数刻後!
「――名は練造。生まれも育ちも、いまの住まいも神田鍋町……」
宗我兵衛は寸暇を惜しんで河畑の探し人の素性を特定し――寸暇を惜しまず、半次郎たちの逗留する宿に寄り道をして、彼らにことの次第を報告していた。宿の一室で、火鉢を囲んでの談合であったが、宗我兵衛はまるであたたかさを感じられなかった。
「神田鍋町?」
半次郎が繰りかえした。
「ご存知にごわすか?」
「知らぬ」
明村の問いにそう答えながら、しかし半次郎は宙に目を注ぎ、なにかを思いだそうとしている。やがて、顎をさすりながら呟いた。
「知らぬが……聞きおぼえがある。広沢の妾の生まれも、神田鍋町ではなかか?」
「あっ!」
間髪入れず、宗我兵衛が膝を叩いた。
「そういやぁ、河畑めがいってやした。あいつぁ、かねに惚れてやがるって……なるほど練造の野郎、惚れた女を忘れられず、覗き見に通ってるにちがいありやせんぜ! なんとまあ、情けねぇ奴! 男なら力づくで手篭めに――」
「そいよ」
「へっ?」
宗我兵衛は、ただ練造を罵りたくて悪態をついただけだが――彼はいつも、誰でもいいから罵倒したいと思っている男なのだ――思いがけず半次郎が同意を示したので、たじろいだ。半次郎は構わずに続けた。
「河畑は、『広沢が死ねば、妾は自由の身になる』とでもほざいて、練造とやらに広沢暗殺を依頼させるつもりだろう。きゃつの考えそうなこつじゃ……」
が、そこまで言って、からくり人形みたいに止まった。宗我兵衛と明村は顔を見合わせた。ふたりが半次郎に視線を戻したとき、半次郎は黒目だけを左右に泳がせながら、呟いた。
「……妙じゃな」
「なにがでごわす?」
明村が不思議そうに問う。一方宗我兵衛には、いわれてみれば思いあたる節があったので、口に出してみた。
「……順番ですかい?」
果たして、半次郎は頷いた。
「うむ。……最初の左右吉は、濡れ衣かどうかは知らぬが、確かに役目を追われた。きゃつに広沢への恨みがなかったとはいえまい。じゃっどん、広沢はきゃつに少なくない金をくれてやったという。その恩があるのに、広沢を斬ろうと思おうか?
……次の風待は、確かに広沢を斬ろうとしておった。じゃっどん、明村の話を聞く限り、きゃつにはきゃつなりの信念があったようじゃ。そげなもののふが、広沢を斬るという大役をやすやすと余人に託そうか?」
最後のくだりは、自分か、あるいはここにいない誰かにいい聞かせるようでもあった。
「左右吉、風待。いずれ劣らず、河畑にとっては広沢暗殺を依頼させやすからぬ者ども……そこに来て、こたびの練造じゃ。こやつは
「練造とやらに、金子がないからではごわせんか?」
明村がもっともな意見をいったが、
「たわけ! きゃつは金で動く男ではないわ!」
半次郎は大喝してしりぞけた。その気迫たるや、座っているだけでも山のように見える明村をのけぞらせたほどだった。宗我兵衛は半次郎が河畑に抱いている感情をはかりかね、呆れるしかなかった。
しばし、気まずい沈黙が流れた。
「――いずれにせよ、捨ておけぬ」
沈黙を破ったのは、当然半次郎だ。先の疑念を払うように、手の甲で宙を薙ぐと、
「明村。おはんは日が沈み次第、練造を斬りにゆけ。川路どんにはおいがいっておく」
といった。
「承知!」
明村は半次郎に一喝されてしょぼくれていたが、これを聞くと笑顔になった。童子みたいに純粋な笑顔である。
「宗我兵衛。おはんは明村を案内せよ」
「ははーっ!」
宗我兵衛も笑顔になった。作り笑いである。明村のいうとおり、どうせ、練造は金などろくに持ってはいるまい。面白みに欠ける、惨たらしさしかない殺人の現場を目のあたりにするだけの、なんの旨味もない役目だ……
「……時に、宗我兵衛」
「へっ?」
宗我兵衛がそんなことを考えていると、不意に半次郎から声がかかった。
「な、なんでげしょう?」
「おはん、時正を知らぬか?」
そういえば、時正がいない。てっきり、半次郎の命で河畑を張っているものと思っていたが、半次郎の口振りからするとそうではないらしい。してみると、時正の身になにかあったのか? ……もしや、河畑に?
宗我兵衛は――
「あぁ、時正の旦那なら、河畑のところへ行ったときに会いやしたぜ。暗がりからいきなり声をかけてきたもんだから、驚いちめぇましたよ。時正の旦那もお人が悪うござんすねェ……そうそう、それで言伝を預かっておりやす。いや、いおういおうと思っていたんですがね、どうにも
宗我兵衛は嘘を吐いた。
時正の行方不明に、河畑が関わっていないわけがない。もし、宗我兵衛が正直に「知らない」といっていたら、半次郎は宗我兵衛に新たな命令を下しただろう。河畑を探り、時正の消息を追えという命令を……
それだけならまだいい。最悪、半次郎は宗我兵衛の関与を疑うだろう。今度は自分たちを裏切って、河畑に与しているのではないかと。
――冗談じゃねぇ。こちとら一昨日からろくに寝てねぇし、金ぁあるのに、酒も博打も女もやれてねぇんだ。こんなことなら、金がねぇほうがましだぜ!
「……左様か」
半次郎はそういうと、口の端を上げて呟いた。
「あの働き者め」
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