殺し屋のインタビュウ
不二本キヨナリ
其の一「さ、ここで絶句」
「人間ってやつは、どう生きたかじゃあ、ない――どう死んだかだ。生きているうちはなんだっていえるし、やれる――騙せる。誰でも、てめえでさえも――だが、死ぬときはそうはいかない。死ぬときは誰でも、本性が出るものだ……辞世の句のことかって? ちがうちがう! ありゃあ死出の旅支度、一張羅よ。そんなものじゃあ、ない。おれが聞きたいのは――」
明治二年一月五日。
昼下がりの京都は暗雲が立ち込めていて、
なんぞ知らん、このとき畏れ多くも、御所を囲む方形の
魔は三人いた。三人とも覆面頭巾をかぶり、黒紋付の羽織を着け、帯刀している。丁字路の角に身を隠して、別行動をとっている仲間たちの合図を――横井小楠暗殺決行の合図を待っている。
横井小楠といえば、幕末においては肥後藩にて私塾「小楠堂」を開き、「書物で学ぶのみならず、実践を伴ってこそ真の学問である」旨を説いた人物である。のちに越前藩に招かれれば、殖産と貿易の推進に手腕を振るって言行一致の功を挙げ、新政府が樹立すると、朝廷の召命で上洛して国事に励み、明治元年四月には参与に任ぜられるに至った。時に六十一歳であった。後年、いわゆる「維新の十傑」に数えられた傑物である――
さて、先ほど三人の魔が角に身を隠しているといったが、いまはひとりだけ隠れていない者があった。角からにゅっと顔を出し、丁字路のほうへ進んでくる駕籠を眺めている。
残るふたりは驚いて、
「おい……ええと……中井!」
「えい……中井! なにをしておる、隠れぬか!」
と何故か、どう呼んだものか悩む素振りをしてからささやいたが、「中井」と呼ばれた男は一向に顔を引っこめない。仕方がないので、結局ふたりがかりで「中井」を物陰に引きずりこむことになった。
すると「中井」は、
「ああ……そういえば、いまのおれは『中井』だったな」
と悪びれることなく
「なにをしていたかといえば――お供を見ていたのよ。駕籠の脇にいるのは、松村金三郎――その後ろにいるのが、上野友次郎――ふたりとも、越前の生まれだ。さらに後ろのふたりは、横井門下の横山助之進と下津鹿之助――さてもさても、たった四人とは不用心なこと……まあ、
「中井」は手の甲で築地塀を叩きながら笑った。残るふたりは妙な顔を見合わせた。
実際この男は、彼ら勤王と攘夷に燃える十津川郷士の同志、
彼ら総勢六人の十津川郷士はこの日、横井暗殺のため、朝四つに丁字路沿いの仕出し屋で落ちあう約束だった。しかるに、中井はあらわれなかった。
が、決行間際になり二手にわかれてからまもなく、覆面頭巾をかぶったこの男がふたりの前にあらわれたのである――腹痛で臥せっている中井の代役を名乗って。
当然、彼らはこの男を疑った。元与力・同心からなる
しかし、それならいまだに自分たちが捕らわれていないのはおかしいし、いま、辺りに捕亡方が伏せている気配もない。
なにより――
「そんな顔をしなさんな……おれはまこと、中井さんに依頼されて来たのだよ。前金だって受け取った……それに、ほら」
中井の代役を名乗る男――いわば偽中井は、覆面の上からでもそうとわかるほど、困ったように顔を歪めながらふたりにいうと、懐から一冊の納経帳――いまでいう朱印帳――みたいな帳面を取りだし、開いて見せた。
ふたりが開かれた一葉を見るのは、これが二度目である――一度目は、この男があらわれたときだ。それでも、ふたりは息を呑まずにはいられなかった。「横井小楠暗殺ヲ頼ム」なる一文と、その上から押された
ふたりは再び顔を見合わせて、「なにより、この書状だ」と通じあった。その字も拇印も、見まちがえようもなく中井のものであったからだ。
中井ほどの者が、かかる書状を無理矢理書かされたうえ、親指をとられて拇印まで押させられたわけがない。してみると、なりゆきはよくわからないが、この偽中井が中井の意を受けて来たことを信じないわけにはゆかなかった。
「ご承知くださったようで……あらっ」
そして、もはや左様な問答をしている暇もなかった。偽中井が満足げに頷き、帳面を懐にしまったのと時を同じくして、横井の駕籠がついに丁字路に入ってきたからだ。
丁字路の近くで銃声が弾けた。それこそは、決行の合図であった。
四人の護衛が突然の銃声に浮足立つ中、駕籠の右へ偽中井ら三人が、左へ別働隊の三人―やはり覆面頭巾をかぶった十津川郷士たち――が刀を抜きつれながら殺到し、偽中井と別働隊のひとりの
駕籠の中から、音があがった――牛の角突きめいて切っ先同士が噛みあう、鋭い不協和音が。偽中井と上田の刀が、横井ではなく互いを突いた音に相違なかった。
「たっ、たわけめ、なにをしておるか!」
上田が刀を引っこぬきながらわめいたとき、駕籠の中から偽中井のほうにまろびでた者がある。
「ご無事でなにより……」
偽中井はうっそりと呟くと、ようやく刀を引きぬいた。駕籠かきたちが、思いだしたように悲鳴をあげて逃げだした。
この頃にはもう、辺りは乱戦の極みにあった。十津川郷士五人に対し、横井の護衛は四人と数の上での不利はあったが、どうやら選り抜きの精鋭と見えて、互角に戦っていた。だからどちらも横井と偽中井のもとへゆけず、そのまわりで物騒なかごめかごめに興じる羽目に陥っていた。
踊る白刃の輪の中心で、横井は立ちあがりながら偽中井に問う。
「いかなる
横井は駕籠の中で見ていた。文字どおり目と鼻の先に、偽中井の刀が、あきらかに横井を殺傷するためではなく、上田の刀を弾くために突きいれられたのを。だから、偽中井の真意をはかりかねて――刺客に紛れこんでいる間者、すなわち味方の可能性に一縷の望みを賭けて、問うたのだった。
しかし、答えは無慈悲にして不可解だった。
「なに――お前さんを、おれの手で斬りたい……じゃあなかった、斬らなきゃならないんでね」
答えながら、偽中井は刀を担ぐように、峰を右肩に乗せた。横井は、偽中井がなかなか駕籠から刀を抜かなかったのは、自分を偽中居の側に出させるためだったのだと気付きながら、さらに問うた。
「何故、わしを……」
「斬奸状を見なされ……ああ、お前さんは見られないんだったな」
横井の問いに、偽中井は本気とも冗談ともつかない調子で呟くと、
「お前さんが、日本に
と他人事のようにいった。
「ば、ばかなことを! 逆だ! わしはむしろ、天主教――
「仏教とのあいだに乱が生じる……そうだろう?」
偽中井は、横井の抗弁を引きとっていった。二の句を告げぬ横井を前に、偽中井は竦めた肩を峰で叩きながら続ける。
「しかり、お前さんのいうとおり、ばかなことだ」
首さえ振りながら、いった。
「だが、そのばかなことでお前さんは殺される……どんな気分だ? こやつらにも真の学問を教えてやるべきだったな? 書物どころか噂を真に受けて、かわいそうによ……く、く……」
「き、きさま……そこまで承知しながら、何故……」
横井は絶句した。では、この男はどうして自分を殺そうとしているのだ? ――そう思わずにはいられなかった。
そのとき、偽中井の背後で血風が唸りをあげた。護衛のひとり――松村金三郎が、切りむすんでいた十津川郷士を怯ませるや転身し、主人を救うべく偽中井の背に斬りかかったのだ。
しかし偽中井は、右肩に担ぐようにしていた刀を、今度は見えざる鞘に納刀するかのように背に這わせ、松村の打ちこみを受けとめた。
奇妙な鍔迫りあいがはじまったが、松村は押しきれない。なんとなれば、偽中居の左手が後ろに回って、刀の峰に添えられているからだ。横井は偽中居の肩越しに、
松村が再度打ちこむべく刀を振りあげる。
だが偽中井はさらにすばやかった。
右足で大きく前に踏みこむと同時、背に這わせた刀を逆手に持ちかえると見るや、松村に背を向けたまま彼を突いたのだ。
光る蛇めいた刺突が松村の右腕を貫く。松村はのけぞり、後ろにたたらを踏んで――再び乱戦の渦中に押しもどされた。
この数合を目の当たりにした横井は、もはや声もあげられなかった。
なんたる奇妙な剣法か! 毒蛇のごとくしなやかで鋭く、かつ変幻自在に曲がりくねって、いかなる型にもはめられそうにない。かかる男が幕末を越え明治を迎えてなお、野に在ろうとは!
偽中井は刀を順手に持ちなおし、脇にだらりと下げながら横井に向きなおると、唐突にいった。
「さ、ここで絶句」
もとより横井は絶句している。そもそもなにを考えているのかわからない偽中井から、さらに謎めいた催促をされて、図らずもまた絶句した横井であったが、
「余った字は冥土の土産に、足りない字は墓石に――いざいざ!」
と偽中井が熱っぽくいいつのるのを聞いて、ようやく理解した。絶句――辞世の句の中でもあらかじめ詠んだものではない、
瞬間、横井の脳裏をよぎったのは、意外なことに郷里に残した家族でも、己の半生でも、理不尽きわまる暗殺でもなく、目の前の男のことであった。
真の学問のなんたるかを知り、この横井小楠の思想を知り、こたびの暗殺の動機を見当違いのものと知りながら、なんのためにか魔剣を以って暗殺に
横井は乾いた唇を震わせながらいった。
「あな惜しや……学ありながら……道外れ」
怒りのために震えているのだった。
これを聞いた偽中井もまた、震えた。
「――あっぱれ! 末期に及んで説教とは……塾でも開いて余生を送るべきであったな!」
その震えが治まるか治まらぬかのうちに、ぶら下げられていた刀が蛇みたいに伸びあがってうねり、横井の脇腹を噛んだ。堪らず倒れた横井のもとに、護衛を倒した十津川郷士が駆けつけて、その首を斬った。
横井の首が、薄闇にしるく赤い螺旋を描きながら転がる。斬った十津川郷士当人も、その仲間も護衛たちも、つかのま棒立ちになった。
動いているのは、偽中井ただひとりだけだった。偽中井は、左手の指先で刀身についた横井の血をすくいとると、しばし刀身を見つめてから、血ぶりをくれて納刀した。それから懐より例の帳面を取りだすと、開き、なにやら血文字を書きはじめた。
余人が凍りついたきっかけは無論、横井が死んだことであったが、なかなか溶けださなかったのは、偽中井の行動がいかさま常軌を逸していたからにほかならない。その光景は、天地を影に挟まれた幽々たる現にあって、横井に取り憑いていた死神が一仕事を終えて帳簿をつけているかのようであった。
偽中井が血文字を書きおえ、帳面を閉じ、懐に戻し、丸太町通を西に駆けはじめるに至って、余人は悪夢から覚めたようにはっとして、各々とるべき行動を思いだした。
横井の首を斬った十津川郷士が、首級を拾って偽中井のあとを追う。残る四人の十津川郷士が彼を追う。無事な護衛たちが
逃走劇のはじまりであった。
やがて、偽中井は路地に入った。これに応じて、十津川郷士五人もまた、ばらばらと適当な路地に入っていった。京都の碁盤の目みたいな街路を地の利とし、逃げおおせようという肚だ。
偽中井の真後ろを走っていた十津川郷士、柳田直蔵――偽中井とともに、築地塀の陰に隠れていた男のひとり――は、いまも偽中井の真後ろを走っていた。偽中井が突然、丸太町通から路地に入ったので、つい追いかけてしまってからというもの、わかれる機会を見いだせず、ずるずると追いすがっているのだった。このあいだ、絶えずどこからか追っ手の怒号が聞こえていたが、不思議と偽中井の行く先に追っ手の姿はなかった。
するうち、柳田はこれを
――何者かは知らぬが、こやつとおれば、よしんば追いつかれても返り討ちにできよう。
そう思えば、偽中井とわかれる手はない。もしかしたら、素性も突きとめられるかもしれぬ……
こんなことを思いながら走っていると、前を走る偽中井が、角を曲がるや急に速度を落とし、黒紋付羽織を脱ぎはじめた。柳田は、走っているうちに暑くなってきたのか? ――と勘ぐったが、どうやらちがうらしい。というのも、偽中井は羽織を裏返すと、また着はじめたからだ。
柳田は目をまろくした。偽中井が走りながら着替えてのけたのもさることながら、彼の羽織が、一見して裏返しとわからないばかりか、さっきまでと色さえちがって見えたからだ――実際、ちがった。いまや偽中井の羽織は、空の翳りのような灰色であった。
このあいだに、柳田は彼に追いつくことができた。そこで、並走しながらこの謎めいた男に、
「やったな! 一時はどうなることかと思ったが、おぬしも決死の志士であったのだなあ。横井め、いまごろ幽冥で
と話しかけたが、だんだん尻すぼみになっていった。突然、偽中井が覆面頭巾を外したからでもあるが、それ以上に、偽中井の素顔にあっと息を呑んだからであった。いや、その目に光る涙に。
「惜しい人を亡くした……」
偽中井は誰にともなくいい、こう続けた。
「奴は本物だった……おれもあんな風に死にたいものだ」
柳田は一瞬、誰のことをいっているのかわからなかった。仲間たちはみんな無事であったからだ。一呼吸を置いて、横井のことをいっているのだと知って、
「お、おぬしが斬ったのであろうが」
と辛うじていった。
「しようがない――斬らなきゃあ、わからないからね。絶句を聞かなけりゃあ……」
独り言のようでもある。
柳田はあらためて、偽中井の顔を仔細に見た。時に柳田は二十四歳だったが、彼より若いようにも老いているようにも見える。
――この男の目は、泣くときも笑っているにちがいない。
柳田がそう思ったとき、その両目がぐるっと彼に向いた。
「お前さんはどんなものだろう?」
その声が聞こえたときにはすでに、柳田は地を転がっていた。すぐに、熱い痛みが胸から体中に燃えひろがった。転んだ痛みではない――斬られた痛みだ! 偽中井が抜きざま柳田に斬りつけたのだ! しかも深い!
「な、なにを……なにをする!? おぬし、中井に頼まれたと……」
柳田が傷口を押さえた手の赤と、いつのまに抜かれたとも知れない偽中井の刀を伝う赤を交互に見ながらわめけば、偽中井は頬に散った返り血を指先ですくいながら、例の目で嘲笑った。
「依頼は終わった! いまは通りすがりの一士族として、国賊を成敗するまで――」
「ば、ばかな!」
「これはお前さんにとっても悪い話じゃあない――幽冥へ
そう叫ぶと、偽中井は一歩踏みこんだ。柳田は後ずさるようにいざった。いざりながら、偽中井を見上げた。涙でふやけた目で。
「たっ、助けてくれ。て、手当てを……」
「わはははは!」
偽中井は笑ったかと思えば、一転、真ん中に集中した福笑いみたいに顔を引きしめていった。
「するわけがない……追っ手に助けを求めるかい? できるわけがなかろうな……つい、仲間を売っちまうかもしれない……」
偽中井は柳田の命乞いを聞きいれない。さりとてとどめを刺さんとする気配もないのに柳田が
「もう、自刃したら? 決死の志士なんだから!」
柳田は死の淵にあって理解した。目の前の得体の知れない男の一端を理解した。
「――さ、ここで絶句」
この男は横井を殺したのと同じ理由で、いま自分を殺そうとしているのだと――信念もへったくれもない、この男はただ、人の今際の際の一言を聞きたいがために人を殺すのだと!
「まだ決心がつかないのかい。決死の志士が聞いて呆れる……これはしたり、『けっし』がかかった……横井を見習ったらどうだ? しようがない、手伝ってやろう――」
後ずさるばかりの柳田に、偽中井は溜息をつくと、ついた分を取りもどすかのように大きく息を吸いこんで、叫んだ。
「みなの衆! 下手人ここにござるぞ! 逃されな!」
追っ手に居場所を知らせたのだ! どこからか、追っ手たちが応じる声が聞こえてくる。柳田は追っ手の足音までも聞こえるような気がしたし、伏した地が揺れているような気さえした。
柳田は最期の決断を迫られて、
「ひっ……ひいっ!」
……逃げた。身を翻し、のろのろずるずると、一度として振り返らずに逃げ―角を曲がって、偽中井の視界から消えた。
「わはははは! わろし! 血が、百万の言葉よりお前さんの絶句を詠んでいるぜ……お前さんのようには死にたくないものだ……」
偽中井は哄笑した。柳田が地に長々と遺した、赤いなめくじの這ったあとみたいな血痕を見おろして。
追っ手がやってきたのは、そのすぐあとのことだった。
「先の叫び声はおぬしか!?」
「やっ……これは!?」
「見ろ、血のあとが続いておるぞ!」
「追え!」
駆けつけた数人の若党と門弟は、偽中井に気付くがはやいか刃傷沙汰の痕跡を見いだして、ひとりを残して早々に血痕を追った。
残ったひとりの若党は、納刀する偽中井をまじまじと見て――複雑な面持ちでいった。
「おぬしが下手人を斬ったのか。……かたじけない」
若党は、偽中井もまた当の下手人のひとりであることに気付けなかった。無理からぬことだ。彼が護衛たちから聞いた下手人の特徴は、覆面頭巾と返り血を染め抜いたような黒紋付羽織であったが、偽中居はもはや覆面頭巾をかぶってはいなかったし、羽織も黒ではなく灰だ。返り血こそ浴びてはいるが、路上の血だまりを見ればいまここで浴びたものとしか思われなかった。なにより、下手人たちが逃走中に仲間割れをして、一方がもう一方を斬ったうえに、自ら追っ手を呼びよせたなどという真実は若党の想像を絶している。
「いや、咄嗟のこととはいえ、つまらぬものを斬ってしまいました。無事であればよいのですが……しからば、これにて」
偽中井は嘯くと、踵を返した。その背に、若党が慌てて声をかける。
「あいや、待たれよ。名はなんと申す?」
偽中井は足を止めた。肩越しに振りかえると、名乗った。
「
そして、さっさと歩きだした。若党はなおも呼びとめようとしたが、ちょうどそのとき、
「いたぞ!」
「こやつ、自刃しておる!」
「いや、まだ息がある――仕損じたか! こ、この不心得者め!」
「医者を呼べ!」
という叫び声が聞こえたので、それどころではなくなり、御所へ駆けもどった。
偽中居――河畑深左衛門はひとり、暮れなずむ空の下、闇の降りつもりはじめた路地を曲がる。
一週間後、柳田は手当ての甲斐もなく、なにも語らぬまま死んだ――といえば聞こえはよいが、ついに意識を取りもどすことがなかったので、なにも語れなかっただけだ。ただでさえ深手を負っていたところに自刃したのがいけなかったかとささやかれたが、彼を診た医者は、胸の傷だけでも死んでいただろうといった。
その後、三人の下手人が立てつづけに逮捕され、五人目も翌年七月に逮捕されたが、最後のひとり――中井刀禰尾の行方は
逮捕された者たちは、誰ひとりとして偽中井のことを口にしなかった。中井が腹痛のためによこした代役が、彼らをさしおいて横井小楠を斬ったが、さてそれがどこの誰かはわからない――などという話は、彼らにとって恥以外の何物でもなかったのだ。
このようにして、偽中井――兇手河畑深左衛門は、闇から闇へと渡りあるいているのだった。しかり、横井小楠暗殺にはじまったことではない。幕末以来、ずっと渡りあるいているのだ。西に倒幕派あれば幕府に雇われてこれを殺し、東に佐幕派あれば薩長に雇われてこれを殺した――なんのためにか、絶句を
そして明治四年、東京府においても……
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