其の二「広沢真臣暗殺ヲ頼ム」

 明治四年一月六日、早朝。

 東京府のどことも知れぬ、夜明けから取り残されたように薄暗い路地の奥。建ちならぶ裏長屋は落魄らくはくの感にえない。柱という柱はささくれだっているし、格子という格子は折れたままにされている。刺々しいことこのうえなく、鰻というよりは百足むかでの寝床と呼ぶに相応しい。一昨日降った雪がまだ残っていて、土と混ざってじゅくじゅくとした汚泥となり、瘴気すら発していそうなことも殺伐に拍車をかけている。

 いま、その裏長屋の一室の引き戸を叩く男があった。

 彼の身なりといえば、かぶっている饅頭笠は全体的に薄汚れているうえに、ところどころ破れて乱れ髪みたいになっている。着けている蓑はどこもかしこもちぢれていて、蓑虫の巣のほうが上等に見えるほどだ。一見、貧しい俥夫か職人のように見える。

 しかし、注意深い者であれば、ぴんと伸びた背筋や平行に揃えられた爪先から立ちのぼる威風に気付くことだろう。

 饅頭笠の下の顔も血色がよく引きしまっていて――というより、常に引きしめていたばかりに、眉も目も鼻も口も、いつのまにか真ん中に寄ったまま戻らなくなった感があるが――心身ともに貧しさとは無縁に見える。その視線は、引き戸や格子窓の隙間を泳ぎがちであった。返事を待ちきれないといった風情だ。

「どうぞ……」

 果然、ついでに吐きだしたような、気だるい男の声が返った。饅頭笠の男は、自ら訪ねておきながら観念したように息を吐くと、引き戸をしめやかに開き、

「御免」

 敷居をまたいだ。

 長屋の中は、外とはちがった趣の退廃に満ちていた。土間に据えられたへっついと流しは、寒さのあまり役目を放棄したかのように、埃と蜘蛛の巣をひっかぶっている。水瓶は乾ききっていて、ところどころ欠けたり罅が入ったりしている。柄杓も底が抜けていて、人が暮らしているとは到底思われない。

 一方、上がりがまちの向こうの四畳半はといえば、藺草の匂いたたんばかりの新しい畳の上に、鏡台、黒柿で縁取られた長火鉢、無数の徳利が点々と置かれているのみで、こちらも別の意味で生活感がなかった。

 饅頭笠の男は、まるで焼けだされた華族の仮宿のようだと思った。奥の窓からさしこむなまくらみたいな朝の光が、鏡にぶつかりまばらに散って、宙を舞う埃を輝かせ、より一層室内を非現実めかせている。

 その中にあって、窓の桟に腰かけ、刀を両膝の上に渡し、煙草を喫み喫み茶碗酒を啜っている一個の現実――長屋の主人たる着流しの男はしかし、来客を承知しているはずなのに、顔を上げようともしない。その視線は、注がれたまま動かない――刀の上に開かれた帳面から。

 饅頭笠の男は、その無礼を咎めない。いつものことだからだ。それでも、見えざる毛虫が肌を這いはじめたかのような恐るべき不快感を禁じえないのは、帳面を読む男の顔に、新聞や浮世絵を楽しむ市井の人々、いや、絵本に夢中な子供の顔と通じるところが見いだされてしまうからであった。帳面に書かれていることは、そんな顔をして読むべきものではないはずなのに……

 饅頭笠の男が見えざる毛虫を噛みつぶしてからしばし、ようやく長屋の主人は帳面から顔を上げたが、陽炎めいて揺れる瞳は、今度はどこか遠くを眺めているようだった。

「これから斬られるってときに、斬る奴の才を惜しむ――それも命乞いじゃあ、ない。憎まれ口でもない……あの御人は心底おれの学才を惜しみ、叱っておったのだ。最期まで、先生であったのだなあ。いとをかし、とはまさにこのこと……学があってよかったよ。『学ありながら』と詠まれたがね……」

 帳面を読んでいるあいだずっと呑んでいたのか、長く大きな息を吐くついでに、聞こえよがしに呟く。それから、思いだしたというよりはいま気付いたという風に、饅頭笠の男のほうを見る。ここまでが、いつものことなのであった。

「おや……ようこそ。川路利良かわじとしよしさん……」

「……名を呼ぶんじゃなか。何度いえばわかるんじゃ――河畑」

 川路利良と呼ばれた男は、親指で饅頭笠をぐいとあげると、さきほどまでの緩みきった表情はどこへやら、いまは不敵にほくそ笑む主人―河畑深左衛門を睨んだ。

 

 川路利良は薩摩藩の出身で、内務省警視庁初代大警視――いまでいう警視総監――として後世に名を残した、「日本警察の父」とも讃えられる人物である。

 征韓論政変で西郷隆盛さいごうたかもりが下野した際、薩摩藩の出身者の多くがこれに従って下野したが、川路は「私情においてはまことに忍びないが、国家行政の活動は一日として休むことは許されない。大義の前には私情を捨ててあくまで警察に献身する」旨を表明したという。

 そんな川路だが、この頃は弾正台だんじょうだいで大巡察を務めていた。弾正台はいわゆる監察機関だが、実際にはのちの警視庁の役割も兼ねていて、その捜査の手は役所のみならず、市中にも及んだ。そして実際に市中を回っていたのが、川路をはじめとする大巡察以下の者たちであった。


 つまり川路はいまでいう警察官で、さきに述べた逸話どおり真面目な男だったが、「いつものこと」とはいえ無礼が度重なれば、嫌味のひとつもいいたくなる。

「おはんはいつも、酔っちょるな。自分の仕事に」

 仕事――当然、暗殺だ。川路は河畑の生業なりわいを知っているのだ。河畑が熱心に読んでいる帳面に、暗殺対象の氏名が書かれていることも知っている。つまり河畑の自己陶酔癖を皮肉ったわけだが、通りを確認してから引き戸を閉め、さあ河畑はどんな顔をしているかと振り返ったとき、川路の目に飛びこんできたのは、紅白粉べにおしろいのかわりに憐れみと嘲りで飾られた微笑みだった。

「川路さんはなにもわかっておられませんな」

 河畑がゆっくりと、大きく首を振る。川路がしまった、と思ったときにはもう遅かった。河畑は講談めいて張り扇のかわりに手のひらで帳面を叩くと、朗々と語りはじめた。

「おれが酔っているとしたら、それはてめえの仕事にじゃあなく、彼らの絶句にでござるよ。絶句ってやつは、そいつがどう生きてきたか、なにを一番に考えていたかをふんだんに語りかけてくれるんです。そこに嘘や見栄はねえ……日記や辞世とちがってね。だから川路さん、よく知りたい人があったら、そいつを暗殺するのが一番ですぜ。そのときは、ぜひともおれに頼んでください。勉強させていただきますよって……く、く……」

 ぎょっとする川路を放って、河畑はなおもつづける。その息がはやく、荒くなってきた。舌が風車めいて回りだす。

「それにつけてもわかっておられないといわざるを得ないのは、おれは酔うために読んでおるわけではないからです。酒と同じですな。なかには酔うために飲むやつもおるそうですが、おれはちがう。おれは味わうために飲んでおるわけで、酔うのはついでなんでさあ。酒といえば、こいつはなかなかいけますぜ、どうです、一献いっこん――」

「たわけっ、誰が飲むか! そも、おはんは……」

 茶碗をかかげる河畑を反射的に怒鳴りつけ、そのまま説教をしそうになった川路だったが、会話の鞠がようやっと自分の手元にきたことに気がついて、

「……そんなことより、何故、そげなところに座っておる?」

 と、いかにも気になっていたというように、首を傾けながら尋ねた。当然、話題を変えるための方便だ。説教などしたところで馬耳東風、それならまだましというもので、川路の喉が詰まるまで、理屈と屁理屈をこねあわせた餅を食らわせてこないともかぎらない。

 それに川路は、河畑に「話をもどす」機会を与えたくなかった。河畑の話に付きあっていては日が暮れてしまうし――彼が熱く語るのを聞いていると、次第に、目の前の男がどこにでもいるお喋りな好事家こうずかのように見えてきてしまうからだ。その好物は、殺された人々の無念の言葉という悪趣味きわまるものなのに――しかも目の前の男は、その言葉を吐かせた張本人なのに。

 それにもかかわらず、のべつまくなし喋くる彼の、なんと純粋で楽しそうなことか! 河畑がこの手の話をはじめるたびに、川路は不気味な錯覚に目眩めくるめき、すぐさま話題を転じるのだった。

 そんな事情を知ってか知らずか、窓の桟に腰かけている河畑は、

「当世流行りの椅子に見立てておる次第で……されど、さんざんにござるな、桟だけに」

 といって肩を揺らすと、これに乗じて煙管を長火鉢に叩きつけ、灰を落とし、そのまま置いた。川路は冗句を無視すると、ことさら音を立てて上がり框に腰を下ろした。

 ……鹿威ししおどしが鳴ったあとみたいな静寂ののち、河畑が切りだした。

「……して、いかなるご用で。おれは弾正台大巡察に捕われるようなことはなにひとつしてござらんが……」

 河畑の無用にとぼけた物言いに、川路は声を荒げそうになるのを堪えながら、

「ばかなこつを――仕事の依頼に決まっちょろうが」

 といった。

 河畑の顔に喜色が宿る。彼は顔を一度、鏡台のほうにねじむけてから、

「――左様で! しからば」

 いそいそと長火鉢の引き出しから墨とすずりと筆を取りだすと、硯にちょっと酒をそそいで、これらを川路のほうへ滑らせた。それから膝の上の開いたままの帳面を手にとり、ぱらぱらぱらぱら……ぱらぱらぱらぱらとしばらくめくってからくるりと回し、川路の前にそっと置いた。開かれたぺーじは白紙である。

「どうぞ、一筆。いざいざ……」

 河畑が弾んだ声でいう。待ちきれないといった様子だ。

「……」

 川路はしめやかに墨をすった。立ちのぼる香りは清々しくはない。酒のためえている。すり終えると、開かれた帳面を引きよせた。ちら、と河畑のほうを見れば、外を眺めながら煙草を喫んでいる。川路は筆を取った。

 そのとき、川路の胸に去来したのは、暗殺の依頼への使命感でも罪悪感でもなく、暗殺対象への憎しみでも哀れみでもなかった。燃えるような好奇心であった。

 いま、目の前にぞんざいに置かれている帳面こそは、兇手河畑深左衛門の帳簿にほかならない。

 いま、目の前で開かれている頁は白紙だが、当然前の頁には人の名が書かれている――河畑が暗殺した人の名が!

 頁をさかのぼってめくってゆけば、ついに下手人がわからぬままに終わった暗殺事件の被害者の名が載っているかもしれない。歴史の闇に葬りさられた暗殺事件の真実! 果たして川路が好奇心を募らせたのは、弾正台大巡察の職責ゆえか、はたまた人のサガゆえか。

 川路は河畑を盗み見る。あらぬほうを向いて煙草を喫んでいる。川路が姓名を書ききるまで見るまいとしているのだろうか。

 いまならば――

 けれど、川路の指はいつもそこで止まってしまう。頁の端で止まってしまう。河畑の両膝の上、橋みたいに渡されている刀が目に入って……柄がこちらに向いているのは偶然だろうか? 否……

 ……川路は帳面に筆を走らせはじめた。彼は河畑に仕事を依頼するたびに、かかる誘惑との戦いに臨み、一瞬で逃げだしているのだった。

 川路は終筆の止めの残心をうっちゃると、帳面をくるりと回して河畑のほうへ押した。

「この御仁じゃ」

「御仁……?」

 振りむいた河畑は、ちょっと妙な顔をして復唱してから、蛇みたいに首を伸ばして帳面を覗きこんだ。と思いきや、ものすごくのけぞり、勢いあまって窓から外へ転落した。

「お、おい!」

 川路は自分が書いた「御仁」の名の凄まじさは自覚していたが、まさかこれほどまでの退魔のごとき効果を示すとは思いもよらない。慌てて立ちあがり窓の向こうを見てみたが、河畑の姿はなかった。そのかわり、音が彼の所在をあきらかにした。井戸から水を汲み、ぶちまける音が。

 ややあってから、窓の向こうに頭を濡らした河畑があらわれ、窓枠を乗りこえて長屋の中に戻ってきた。彼は胡座あぐらをかくと、口をあんぐり開けたままの川路にいった。

「いや、なに……酔っ払って、線が多く見えたかと思ってね……」

 実際のところ、立てた指が多く見えるかのように線が多く見えていたところで、帳面に書かれた文字は、別の文字に見えはしなかっただろう。「広沢真臣ひろさわさねおみ暗殺ヲ頼ム」――時の参議、明治政府の首班の1人を示す文字は。

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