其の三「まじにこの御仁を?」
広沢真臣!
彼は長州藩士で、当時、同じく参議を務めていた薩摩の
広沢は幕末の長州藩においては、尊皇攘夷を推しすすめんとする正義派でも、幕府に恭順せんとする俗論派でもない、中間派であった。
しかし正義派が藩の実権を掌握すると藩政に参画するようになり、慶応三年には大久保らとともに、さる公卿より
その活躍は留まるところを知らず、御一新後は参与、海陸軍務掛、東征大総督府参謀などを歴任している。もっとも、東征大総督府参謀――戊辰戦争における新政府軍司令官の参謀は四日で辞任して西郷隆盛らに引き継ぎ、自らは内国事務局の判事となっているが。
広沢の人物については、その日記や、広沢と直接会ったことのある村田峯次郎が大正十年に記した『参議廣澤真臣鄕略傅』に詳しい。
日記には、明治二年十二月九月十八日に長州藩あらため山口藩へ「愚論」をさしこした、と書かれている。その五条からなる「愚論」の第二条には、「天下の大勢に着目し、いよいよ以って真の郡県を大目的とし、努めて封建の旧習を脱却し、百事有名無実に渉らぬよう、常に心がけるべきこと」とある。
他方、村田峯次郎は『参議廣澤真臣鄕略傅』に、「君は穏やかで上品で、常に笑顔で人に接した。私は幼少のみぎり、しばしば君と同席する機会があったが、どんなに苦しいと思われる場合でも、君はみだりに顔色を変えることはなかったし、決して怒ったり悲しんだりと、落ち着きなく軽はずみに騒ぐようなことはなく、少しも人に対して分けへだてをせず、大人にも子供にも親しみやすい徳風があって、古の
また、「
川路が死神への注文書に記したのは、まさしくこの大物の名であった。
「まじにこの御仁を?」
河畑は帳面を手に取り、光に透かしたりして、ためつすがめつする。
「左様」
対する川路は、じっと河畑の半月型の目を見ている。
「ははあ」
と河畑が声を漏らしたのに、川路が、
「臆したか?」
と問えば、河畑はちらりと鏡台を見てから、川路に微笑みかけ、いった。
「まさかでござりましょう……『まじにこの御仁を』――斬られるのか!」
そこで、河畑は両手で帳面を閉じた。すなわち帳面を挟んで合掌し、川路を拝むよう前のめりになり、上目遣いで彼を見ながら、
「……と感極まっておったまで。よもや参議を斬る機を得ようとは……なにをのたまってお隠れになるんでござりましょうな? く、く……あいや、無論謹んでお受けいたす」
と笑いつつも、最後はきりりと真面目腐って答え、帳面を懐にしまった。
「それならそうと、さっさといえ」
川路はにべもなく、いささかの不快感すらあらわにして吐き捨てると、犬に餌でもやるような荒っぽさで、畳の上に太政官札の札束を放った。
「確かに」
といいながらも、河畑は分厚い札束の枚数を確かめようともしない。それを見て川路は、猫に小判という
そして川路は、懐から一通の書状を取りだすと、そっと畳の上に置き、ついと静かに河畑のほうへ押しやった。
「……そいから、これは斬奸状じゃ」
「ほう! 拝見して、文をあらためればようござりますか? 川路さんもお目が高い、おれは斬奸状にかけちゃあ、ちょっとしたもので……なにせ、何通も見てきたから……」
河畑がもどかしげに封を切ろうとするので、川路は慌てて手を伸ばす。
「ば、ばかっ! 見てよかはずがなかろうが! こつが済んだら、死体のそばに置いていけっちゅうこつじゃ!」
が、河畑はさっと封書を上にやり、川路の手から逃れた。川路は封書を目で追った。封はまだ切られていなかった。川路が安堵のあまり、伸ばした手を力なく畳につけば、
「それならそうと、さっさというがよろしかろう」
と河畑は半月の目を三日月にして嘲笑った。あからさまな意趣返しである。
「お、おはんっちゅう奴は……!」
川路は激昂しかけたが、堪えた。かくのごとき
「いい顔にござるな。作りかけの鉄火巻のような……」
「……なんじゃ、それは」
「一本芯を通さんとする気概が感じられるという意味で」
「……」
けれど、河畑も揶揄一辺倒というわけではなく、しばしばこういうよくわからない賛辞を口にするものだから、川路は毒気を抜かれて戸惑わざるをえない。悪い気はしないが、暗殺者に褒められる弾正台大巡察というのも変な感じがする。
「……場所は御仁の自邸。日時は追って沙汰する」
ともかく、川路は葛藤やら困惑やらを捨て置いて、みすぼらしい蓑の襟を正し、饅頭笠を深く傾け立ちあがると、河畑に背を向けて歩きだした。
「毎度あり……」
が、その背に煽るような声を投げられて、さすがの川路も、
「やぜらしか!」
と振りむきざま大喝せざるをえなかった。そして、引き戸を荒々しく開け大股で外へ出ると、頬を張らんばかりの勢いで閉めた。
河畑は遠ざかる足音を聞きながら、いつまでもにやにやしていた。やがて足音が聞こえなくなると、徳利を引きよせて、そのまま飲んだ。
同日、ようやく日が天地を照らすほどに昇り、東京府が目を覚ましはじめる頃。
河畑深左衛門は編笠をかぶり刀を
坂の左右はひそやかな林で、地面には木漏れ日で光と影の千鳥格子が描かれている。立ちどまり、振りさけみれば、富士の山――その頂きには、薄墨のような雲がかかっている。河畑は口の端を吊りあげた。
彼は再び坂をのぼりはじめる。やがて右手の林の向こうに、東京招魂社――のちの靖国神社――の仮本殿が見えてくる。戊辰戦争での新政府軍の戦没者だけではなく、坂本龍馬、中岡慎太郎、大村益次郎なども維新殉難者として祀られているという。
河畑は笑った。
「祀られた甲斐があったというものよな……死してなお、おれの剣を間近で見られるんだから」
誰にともなく呟く……
河畑が坂をのぼってゆくと、やがて瓦葺きの切妻屋根が見えてきた。いかめしく聳えるそれはしかし、さらにのぼり、傾斜がほとんど平坦になる頃になってようやく、屋敷ではなく長屋門の屋根であることが知れた。門も、連なる塀も高く、敷地内はおろか屋敷の屋根すら窺いしれない。
「参議でも大尽……」
河畑はうっそりと呟いた。
この屋敷こそ、広沢真臣の邸宅であった。元は旗本屋敷で、その広さたるや敷地の総面積は千二十二坪、屋敷の建坪は三百二十五坪、さらにふたつの土倉を抱えている――いまでいえば、郊外の小学校の校庭に、その三分の一強を占める日本家屋が建っていて、隅に体育倉庫がふたつあるようなものだ。要するに豪邸である。
河畑は早速、未来の暗殺現場の下見に来たのだった。
門前には人力俥が一台停まっていて、俥夫が煙草を喫んでいる。俥夫は河畑に気がつくと、胡乱な目を向けた。
すると河畑は、
「いや、富士見坂とは名ばかりよの。こうも急では不死身どころか、かえって寿命が縮まるわ」
とわざとらしく呟き、いかにも坂をのぼってきて疲れた風をよそおって道端の岩に腰かけた。しかし、そのときすでに俥夫は河畑を気にするどころではなくなったらしく、慌てて煙管を筒に入れている。
というのも、門が開きはじめ、数人の庸人たちが出てきたからだ。河畑は腰にさげた煙草入れから煙管を取りだしながら、門を見やった。
庸人たちは門の左右に分かれ、お辞儀で花道を作る。その奥からあらわれたるは、直垂を着た
広沢真臣その人であった。
広沢は待たせていた俥のほうへ行こうとして、ふと視線を路傍へ向けた。河畑のほうに。当の河畑はひょっとこみたいな顔をして、ゆっくり長々と煙草を喫み、煙を吐きだして、その白煙が宙に昇って日にかかるのを見上げている。
ややあって、広沢は俥へ向かった。河畑は横目で広沢の背を追おうとしたが、できなかった。
「おオっ……!」
広沢という名の大樹の陰に隠れていたものが目に入ったからだ。
それは若い女であった。灰色の着物は一見無地に見えるが、その実、小紋であろう。裾につけられた花柄は、姫に仕える侍女のような引きたて役になっている。その着物に柔らかく包まれてなお、胸と尻は大きくなめらかな曲線を主張していた。
対して紅のさされた唇は、熟れた果肉みたいにふっくらとしながらも一文字に結ばれているし、目にもどこか油断のならない鋭さがあって、全体にしまりのよい印象を与えている。
美獣とでも形容すべき
河畑は女の輪郭という輪郭をなぞるように眺めながら、
「ははあ、あれが噂の……あやかりたいものよ」
と唸った。
河畑は要人の身辺に詳しい! 彼女こそは広沢の愛妾、福井かねであった。河畑はさる筋より、彼女が神田鍋町の荒物屋で生まれ育ったことを聞いている。いかにも気の強そうな、きりりとした目鼻立ちはその半生に由来するものか。
「未亡人にしてくれた暁には、慰めてやりたいね……体で」
河畑が広沢そっちのけでかねを観賞していた、そのときだった。
「旦那さま!」
往来から、襤褸をまとったひとりの男が風に流された塵みたいにまろびでるや、広沢の行く手で土下座したのである。河畑は広沢の顔色をうかがった。広沢は眉をぴくりと動かしただけだった。
男は土にまみれた面をあげるといいつのった。
「旦那さま! なにとぞ、なにとぞ、いま一度お耳をお貸しくだされ! 濡れ衣にござります! この
どうやら、広沢邸にはすでに難事があるらしい。
門前の道に人通りがないわけではない。突如として破られた朝の静けさに、果然、河畑のみならず、通行人の誰も彼もが広沢邸の門前に
人目を気にする余裕もないのか、それでもなお男は必死に訴えつづけるが、広沢は黙ったままだ。そのかわり、家令とおぼしき老人が門前からすっ飛んできて、
「しゃッ、きさま左右吉! 本来弾正台に突きだされてもおかしゅうないところ、殿さまより慈悲深くも
と叫ぶや、左右吉なる男を俵みたいに横に転がした。
しかし左右吉も必死と見えて、地に爪を立てて踏みとどまると、剥がれかけた爪も顧みず、今度はかねを見上げて、
「奥さま! 奥さまからもなにとぞ、お口添えを! 奥さまは私の献身をご存知のはず! なにとぞ……!」
と熱っぽく、どこか妙な言い回しで哀願した。
だが、かねは物憂げに、
「そんなものは忘れたねぇ。それに、あたしの知っている左右吉はあんたみたいな野暮天じゃあなかったよ……」
といったかと思えば、きっと猫みたいな目で左右吉を睨みつけ、
「そも、天下の往来で殿さまに恥をかかせて、なにが献身だい。そんなあんたのいうことなんか、誰も信じやしないよ。さっさと失せな!」
と啖呵を切った。左右吉は目も鼻の穴も口も、開けられるものはすべて開けて、ただ愕然としている。
このあいだ、広沢は一言も発さず、さりとて怒りや呆れのあまり声も出ないという様子も見せず、ただ
「達者で暮らせ」
とだけ呟き、俥に乗りこんだ。老人はなおも罵りたりないようであったが、主人がこういっては引きさがるよりほかなかったらしい。門前に戻り、主人の乗った俥が坂をくだってゆくのを見送ると、傭人たちに閉門を指図して、自分は奥に入っていった。
河畑もまた俥を見送ると、往来に視線を戻した。
まず彼の目に入ったのは、左右吉を助けおこす、編笠をかぶった男であった。帯刀しているから、士族と見える。
「災難であったな。俺も濡れ衣の辛さは痛いほどわかる……俺でよければ、話を聞かせてはくれまいか?」
左右吉はすでに満面を涙と鼻水に濡らしていたが、この言葉でさらに
この頃には、河畑の視線は別のものに移っている。左右吉らを見たとき、視界の端にちらついた奇妙な影――路傍の木立の一本に隠れ潜み、どこか一点をじっと見すえている、ひとりの若者に。
一体いつからそこにいたのか……河畑が来る前、いや、俥が来る前からにちがいない。余人に気付かれぬよう、木立の中を音もなく歩くのは至難の業だからだ。
若者の目はのぼせあがっている。河畑はすぐその熱源に気付いた。火山めいて隆起した股間である。
「頭隠して摩羅隠さず……」
呟きながら彼の視線を追うと、閉じゆく門の隙間の向こう、ちょうど見返り美人図に似た構図のかねが見えた。
桃尻の曲線が閉じゆく門の直線に断ちきられ、ついには見えなくなる頃――門が閉じきった頃、河畑が木立に目を戻すと、若者はすでにいなくなっていた。往来を見れば、士族の男と左右吉もいなくなっていた。
「剣呑、剣呑……」
自分が一番剣呑なくせに、他人事みたいにいう。
まもなく河畑も立ちあがり、歩きはじめた。
風が吹き、雲が流れ、日が翳る。
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