其の六「依頼は取りさげじゃ」

 同日の昼下がり。例の裏長屋は、お天道様すら直視するのをはばかったかのような薄闇の中にあった。

 河畑は昼飯もとらずに戻ってきた。彼が編笠をかぶっていたのは、道中すれちがった人々にとっては勿怪もっけの幸いであったことだろう。その瞳がずっと、見えざる敵を睨んでいるかのようであったからだ。

 河畑は不意に、裏長屋の自室の脇で立ち止まった。引き戸の端に横から左手を伸ばし、開ける。一拍置いてから、河畑は開けた引き戸の正面へ歩いた。

 その向こうに立つ者あり。

「これはこれは……川路さん。いかがなされた?」

 川路利良であった。

 早朝と同じく、粗末な饅頭笠を目深にかぶり、蓑を着けているが、ちがうのは裾を尻っからげにしていることだ。足を見れば、しぶいた泥がついている。それが乾いていることからすると、彼は早朝にここを去ったあと、急いで戻ってきて、河畑の帰りを待っていたにちがいなかった。

 だが、なんのために?

「名を呼ぶんじゃなか……といいたいところじゃが、もはやそげなことはどうでもよか」

 川路は饅頭笠をぐいっとあげる。その目は黒曜石さながらの輝きを放っている。口元は、この男らしくもなく緩みきり、ともすれば端からよだれが落ちかねないほどだ。

「な、なに?」

 さすがの河畑も、川路の阿片を服したかのごとき多幸感の発露に面食らい、のけぞった。すると川路はその分、詰めよってくる。

 そして鼻先が触れあわんばかりに顔を近づけると、いった。

「依頼は取りさげじゃ」

「……は?」

 河畑は間の抜けた声をあげた。半月の目が眠たげにたわんだ。それっきり動かなくなった。

 川路はいよいよ楽しそうに、

「依頼! は! 取りさげ! じゃ!」

 今度は拍子さえつけ、それに合わせて河畑をどつきながら叫んだ!

「ば、ばかな!?」

 河畑は後ろにたたらを踏みながら呻き、半月の目を満月みたいに丸くした! かと思えば、起きあがり小法師こぼしみたいに川路に掴みかかる!

「な、何故だ!? おれこそは当代きっての暗殺者! きゃつを斬れるはほかにない!」

「そいはおはんの知るところじゃなか!」

 が、川路とて弾正台大巡察を務める者! さっと身をかわすと、河畑を上がり框へつんのめらせた!

「ば、ばかな……!」

 河畑は上がり框に両手をつき、嘔吐さえしかねない風情で身を震わせながら、再び呻いた。川路はその背に、追いうちをかけるようにいった。

「わかったら、さっさと依頼状と斬奸状を返さんか! 金は手切れ金がわりにくれてやるが!」

 河畑はびくっとした。片手を上がり框についたまま、震える逆の手で懐をまさぐると、

「こ、こんな……ばかな……ことが……!」

 呪詛を吐きながら、斬奸状の入った封筒をさしだした。くの字にひしゃげたそれは、彼の手にこもる力を物語る。

「こ、こやつ……! こいじゃ、書きなおさんけりゃならんではないか……えい、離さんか!」

 川路は封筒を握りしめる河畑の手の指を、焼き魚の骨を取りのぞくように一本一本丁寧に引きはがすと、封筒を奪いとって、

「次っ!」

 と愉悦もあらわに叫んだ。

「お、おれの……おれの、絶句集に……!」

 河畑は苦労しながら、寒さでかじかんだような手で、懐から例の帳面を抜きとった。着衣が乱れたが、気にかける様子もない。指先がうまく動かないので、手の甲で頁をめくっていき――ついに、「広沢真臣暗殺ヲ頼ム」と記された頁にたどりついた。

 が、河畑は余白を切なげに撫でるばかりで、一向に次の所作に移ろうとしない。川路はもはや――業を煮やしたというより、期するあまりに――待ちきれず、

「当代きっての暗殺者が、未練がましかぞ! それっ!」

 その頁の端をつまむと、一息に引きちぎった! が、その際、そっぽを向いて下の頁を目にせぬよう努めたところは、さすがに一依頼人として、暗殺者の仁義をわきまえているといえる。

「ううふっ……!」

 しかし、川路がそっぽを向いていなかったとしても、いまの河畑が気付けたかは大いに疑わしかった。河畑は土間に膝をつき、上がり框に突っぷして、帳面の綴じ目に残った傷跡――川路が依頼状を引きちぎったとき、帳面のほうに残った僅かな紙――をなぞっている。するうち、その僅かな紙をちまちまと、丁寧にちぎりはじめた。無言で。

「……」

 いままで依頼のたびに河畑に嘲弄されてきた川路にとって、こたびの取りさげは最初で最後の意趣返しを兼ねていたが、それでもここまで落ちこまれると後味が悪い。河畑が負け犬の遠吠えよろしく、減らず口を叩くと思っていたから尚更だ。

「と、とにかく、確かに依頼は取りさげたぞ。もう会うこともあるまい。こいを機に足を洗い、手切れ金を元手にして、真っ当に生きるがよか」

 川路は口早にそういうと、足早に立ち去った。

 あとには河畑だけが残された。

 土間に正座して、上がり框に帳面を置き、蚤か虱でもつまむように、綴じ目に残った頁の断片を取りのぞいては、辺りに散らかしつづける。余人が見れば狂人にしか見えない。

 放っておけば日が暮れるまでつづけていそうだったが、幸か不幸か、彼を放っておかない者があった。

 引き戸が荒々しく開けられて、がたぴしと悲鳴をあげたかと思えば、

「……なにをしていやがんでぇ? 手前てめえ……」

 劣らず軋むしゃがれ声がした。

 河畑は――意外にも、ゆっくりと振り向いた。その先に、片足で器用に引き戸を閉める、老いたる小男がいた。古ぼけた頭巾で頭を、薄汚い合羽で全身をすっぽり包んでいて、禍々しいこけしのようだ。見え隠れする肌という肌は、骨筋ばっていて皺だらけで黒ずんでおり、炭を彷彿とさせる。

宗我兵衛そかべえか……そろそろ、来ると思った……」

 宗我兵衛と呼ばれた老人は、河畑のぼんやりした返事を特に気に留めた風もなく、土間を横ぎり、草鞋をぽいぽいと脱ぎちらかすと、ずかずかと畳にあがり、ちら、と太政官札の束を見てから、徳利を掴み、そのまま中身を飲んだ。ぽん、と音を立てて徳利から口を離すと、白く濁った舌先で、徳利と口を繋ぐ黄ばんだ唾液の糸を断ち、返す舌でひびわれた唇を潤してからいった。

「ってこたぁ、やっぱりさっきのは川路か……依頼かえ?」

 この宗我兵衛なる老人は、河畑の生業を知っているらしい。宗我兵衛は、梅干しをよく見て、出てきた唾をおかずに米を食べたという古の長者みたいに、太政官札の束を肴に酒を飲んでいたが、河畑が返事をしないので、

「おい! 依頼なんだろうがい。いつもみてぇに、俺にも一丁かませてくれよ……酒でも飲みながら話を聞こうかい」

 と徳利をさしだしながらいった。この宗我兵衛なる老人は、河畑の生業を知っているのみならず、なんらかの形で関わりさえしているらしい。

「依頼は取りさげられた」

 河畑は無感情にいった。

「はぁっ? やっぱりらねぇってのかえ?」

 宗我兵衛は素っ頓狂な声をあげた。

「ちがう」

 河畑は断言した。川路が、河畑の握りつぶした斬奸状を見て「書きなおさんけりゃならん」といったからだ。斬奸状はまだ必要なのだ――広沢真臣暗殺の企ては、潰えたわけではないのだ。

 ならば、何故?

「はぁっ?」

 当然、宗我兵衛もなにがなんだかわからず、またもや素っ頓狂な声をあげた。が、今度は二の句を継げなかった。

 河畑がいきなり、両の拳を上がり框に叩きつけたからだ。雷鳴にも似た音が轟き、長屋震撼して埃舞い、帳面はもちろん、畳の上の太政官札までもが躍りあがった。

 いま、河畑の目は怒りに燃えていた。

「きゃつだ! きゃつが、横どりしおったのだ! おのれ芋侍め、甘藷かんしょよろしく川路の差配に干渉しおったな!」

 中村半次郎のことをいっているのだ。確かに半次郎は、もはや河畑の出る幕はないと嘯いた――あれは事実無根ではなかった!

 このとき、宗我兵衛はいざって河畑から離れていた。河畑のものすごい剣幕におされたか? そうではない。宗我兵衛は口を倒した瓢箪みたいに歪め、すきっ歯を見せてにたにた笑っていた。

「ならよ、そのどこぞの馬の骨より先に、斬っちまえばいいじゃねぇか。依頼なんざなくともよ」

 あまつさえ、河畑をそそのかしはじめた。この宗我兵衛なる老人は、他人の不幸を肴にできるらしい。

「お前さん、わかっていっているだろう……糞爺め……」

 河畑は両の拳を震わせたまま、宗我兵衛をめあげ、凄みのある声でいった。

「左様な真似をすれば、絶句蒐めは終わりだ。おれが日のもとを歩いておれるのは、おれの手並みもさることながら、暗殺者の仁義のために依頼人の名を秘しておるからだ……依頼人が仁義を破り、おれを裏切らぬかぎりな。それゆえにみな、おれに手を出さずにおる。

 だが依頼もなく自ら人を斬ったが最後、弾正台はこれ幸いとおれを辻斬りとして捕え、闇に葬ろう……さもなくば、もとより暗殺者などに身をやつさず、辻斬りとして生きておるわ! きゃつはそれを知っておる……おれを煽り、辻斬りに走らせんとしたに相違ない。なんたる小賢しさ! その手は食わぬ……」

 河畑はしばらく「その手は食わぬ」と呟きつづけていたが、いきなりのけぞり、両手で頭を押さえて、

「だが、斬りたい!」

 と吠えた。宗我兵衛は大笑いしながら、畳を縦横無尽に転がっている。他人の不幸を肴にできる男なのだ。

 やがて宗我兵衛は片腹を押さえ、涙まで浮かべながら立ちあがり、いった。

「つ、つまり、仕事はねぇんだな? ったく、とんだ無駄足……」

「仕事はある」

 裸足で土間におり、舌打ちしながら裏返った草鞋を爪先でひっくりかえしていた宗我兵衛は、河畑を二度見した。河畑の表情は手に覆われて見えない。宗我兵衛は河畑から目を逸らし、草鞋を履きながら唾を吐いた。

「辻斬りにくみするなぁ、御免――」

「辻斬りじゃあ、ない……」

「なにぃ?」

 いま一度河畑を見れば、目が合った。河畑の目はいっぱいに開かれ、炯々けいけいたる光を迸らせていて、獲物を探す猛禽を思わせた。宗我兵衛は思わず、吐こうとした唾を呑みこんだ。

 河畑は地獄の底から漏れいずる瘴気もかくやという、低く擦りきれた声でいった。

「依頼人がおらぬなら、探すまで」

「あぁ?」

 河畑は童子みたいに膝から畳にあがり、手を伸ばして太政官札の束を鷲掴みにすると、

「かの御仁の死をねがう者を探しだし、焚きつけ、おれに依頼させるのだ! さらば、川路も文句はいえまい……芋侍どもめ、きっと出し抜いてくれるぞ……宗我兵衛!」

 振りむきざま、宗我兵衛に投げつけた。宗我兵衛は驚きながらも、老人らしからぬ手さばきで掴みとった。河畑は投擲の残心のまま、続けた。

「左右吉なる者を探せ……日が変わるまでに。ところは麹町富士見町……信じておるぞ」

 宗我兵衛は太政官札の束の枚数を、指を舐め舐め、一枚一枚数えてから懐に入れ、

「横井小楠を思いだすねぇ……」

 と頷いた。彼こそは、さる横井小楠暗殺事件の前夜、河畑の依頼で中井刀禰尾の膳に腹下しを盛り、河畑が中井に暗殺代行を依頼「させる」きっかけを作った男であり、河畑に要人の身辺の情報をもたらす男でもあった。

「横井小楠? おれは中井に一服盛れといっただけだぜ」

 河畑は薄く笑いながらいった。

 かくして、賽は振られたのである。

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