其の十一「おはんには恨みはなか――」

 日が変わるまでもう四半刻もない頃、宗我兵衛は息せききって河畑の裏長屋に駆けこんだ。ずっと走っていたのか、顔中、汗と鼻水と涎にまみれていて、水拭きに使った襤褸雑巾のようだったが、紅潮はしておらず、むしろ蒼白だった。

「遅かったじゃあ、ないか……されど、左様に怯えることはない……間に合っているんだから……」

 そういう河畑は、待ちかねていたことをほのめかすためか、畳の上ではなく上がり框に座って酒を飲んでいた。

「お、おう……」

 宗我兵衛は相槌を打つのが精一杯だった。河畑の言葉の は、宗我兵衛の裏切りを知ったがためか? ――その不安もあるが、それだけが宗我兵衛をして怯えさせているわけではない。

「して、首尾は……?」

 宗我兵衛は、いつもどおり「その前に一杯ェ飲ませてくれよ」というのも忘れて、左右吉の生まれから身の上、住処、生活、果ては家族や情婦や借金の有無まで報告した。

 そして最後に、

「……まぁ、全部無駄になっちまったがよ」

 と締めくくった。

「なに?」

 はじめて、河畑の声から間延びが消えた。宗我兵衛は、ゆとりのある袖で顔をぬぐってからいった。

「くたばっちまったからよ、左右吉の奴ぁ」

 宗我兵衛は、もう一度袖で顔をぬぐった。今度は、体液をぬぐうためではない。顔色の変化を隠すためだ――左右吉殺しの一部始終を思いだしてしまったことによる変化を。

 そう、彼は左右吉殺しに立ちあっている。

 当然、宗我兵衛は殺人の場にいあわせたことなど何度もあるし、自ら殺した回数となると数えきれない。だが左右吉殺しは、その宗我兵衛をしてなお、心胆寒からしめる殺人であった。袖で暗くなった視界が、夜の染みこんだ、あの棺桶みたいな左右吉の裏長屋に見えてくる――

 一刻前、宗我兵衛は明村を左右吉の裏長屋に案内した。明村はその巨体に見合わず、すばやかった。引き戸を開け、身を屈めて鴨居をくぐると、

「……あん? なんだ、あんたら……」

 居間で胡座をかいたまま、酒と涙でどろりと濁った目を向けた左右吉へのしのし迫り、

「おはんには恨みはなか――ただ、感謝だけがある!」

 といいながら、上がり框に右足を乗せた。

 次の瞬間、左右吉の上半身が消えた。ほぼ同時に、壁になにかがぶつかる音がした。宗我兵衛はなにがなにやらわからぬまま、音のしたほうを見た。すると、そちらから明村のほうへと飛んでくるものがある――左右吉の上半身、すなわち頭、右肩と右腕、左肩、胸、そして腹の一部だった。明村は梁に触れんばかりに振りかざした剣を振りおろし、頭上へ飛んできたそれを両断した。

 明村の残心を合図に、血と肉の花火があがった。

 宗我兵衛は、ようやくなにが起こったのか理解した。まず、明村の「抜き」が左右吉の体を斜めに走って、その上半身を 巻藁まきわらみたいに斬りとばした。斬りとばされた上半身は、壁にぶつかり跳ねかえった。明村は今度は、跳ねかえってきた上半身と、いまだ胡座をかいたままだった下半身をもろともに斬りおろしたのだ。だからいま、四方に四つの肉塊が転がっているのだ……

 宗我兵衛は畏れいった。「抜き」がまったく見えなかったからだ。例の気合なくして――流石の明村も、時と場所ゆえ、気を遣ったと見える――この手並み。半次郎といわず、この明村でも河畑を斬れるのではないか、とすら思った。

「うふう……」

 やがて明村は、分厚く濃く粘度の高い煙みたいな吐息を漏らすと、偲ぶように呟いた。

「御用盗を思いだすの……」

 宗我兵衛の地獄耳は、その単語を聞き逃しはしない。

 宗我兵衛は御用盗に詳しい! 御用盗とは、大政奉還のあと、西郷隆盛の指図により江戸市中で行われた、強盗、辻斬り、放火などのことである。その目的は、江戸幕府の挑発にあった。大政奉還により倒幕の大義名分が失われたのなら、幕府を挑発し、幕府のほうから戦端を開かせればよいという発想であった。

 やがて、幕府は御用盗の黒幕が薩摩藩であることを突きとめ、江戸薩摩藩邸を焼き討ちにし、討薩のため出兵した――それが戊辰戦争に、つまり幕府の滅亡に繋がったのだから、ことは西郷隆盛の思惑どおりに進んだといえるのかもしれない。

 さて、何故宗我兵衛が御用盗について詳しいかといえば、当然、便乗して火事場泥棒や強盗や強姦に及んでいたからだ。明村の呟きが呼び水となって、天然自然に当時の悪行が思いだされてゆくうちに、宗我兵衛は「あっ」と声をあげた。

「……なんじゃ」

 人斬りの余韻に浸っていたらしい明村が、宗我兵衛を睨む。

「い、いえ、なんでも……」

 なんでもあった。返り血を浴び、朱村とでもいうべき形相になった明村の顔を見て、宗我兵衛は思いだしたのだ。ひときわ御用盗に熱心な薩摩藩士がいたことを――その薩摩藩士が、男女を問わない強姦殺人を好んだことを――犠牲者の死体が、常に四つに分かたれていたことを!

 その薩摩藩士こそ、この明村にちがいない! 宗我兵衛から見てもあまりにやりすぎであったし、御用盗に関わった薩摩藩士はことごとく死んでいったから、この男も生きてはおるまいと思っていたが……それがまさか、人斬り半次郎に拾われていまも人を斬っていようとは!

 宗我兵衛は己の物覚えのよさを憎んだ。明村がただの犬ではなく、狂犬であることを思いだしてしまったからだ。思いださなければ、これほどまでに恐れずに済んだのに……そしてまた、その狂犬を手懐けているらしい半次郎の器を恐れた。

「帰るぞ」

 明村が踵を返す。宗我兵衛は我に返り、慌てた。

「お、お待ちくだせぇ! お召しものは是非もありやせんが、せ、せめて、お顔だけでも……」

 明村が不承不承、水瓶で顔を洗うかたわら、宗我兵衛はあらためて惨状を見渡した。まるで、居間の中央で火山が爆発したかのようなありさまだ。天井にも壁にも、放射状に血飛沫が飛んでいる。その凄惨さに比べて、死体の切り口のなんと綺麗なことか。解体途中の牛肉のようだ。御用盗の頃よりも、腕をあげたということだろうか。それにしても……

「や、やりすぎとちげぇますかい?」

 宗我兵衛の口からは、自然とそんな声が漏れでていた。すると明村は、晴れ晴れとした顔で、

「桐野どんと、おはんらのせいじゃ……」

 と謎かけみたいにいった――

「宗我兵衛」

「お、おう。なんでぇ?」

 悪夢から覚めたような心地であった。あらためて袖で顔をぬぐい、腕を下ろせば、まぶたと口の端をひくつかせる河畑の姿が目に入る。

「誰がやった?」

「知るわけねぇだろ」

 宗我兵衛は息を くように嘘を く。

「ただ、邏卒どもは強盗じゃねぇかっつってたぜ」

 これは本当だ。もっとも、強盗の犯行に見せかけるべく室内を荒らし、金品を盗んだのは宗我兵衛だが。

「左様か……」

 河畑は窓の外を見た。彼の視線の先にあるのは、ぬばたまの闇だけだ。

 宗我兵衛は、目論見のご破算を知った河畑がいまどのような表情をしているのか見たくてたまらなかったが、彼からは見えない。軽口を叩いてこちらを向かせることもできようが、痛い肚を探られたり、次なる一手を思いつかせたりしかねないから、宗我兵衛は黙っていることにした。

 彼はこれで終わりにしたかった。河畑に裏切りが露見していないうちに、京にでも逃げたかった。中村半次郎? 明治政府の保護? 信用できるわけがない……

だが、宗我兵衛の目論見もまた、ご破算に終わるのだった。

「さらば、宗我兵衛――次の仕事だ」

「へっ?」

「左右吉は一月六日、どこぞで昼酒をやっておるはずだ。それもひとりではない――士族とだ」

「……」

「そやつを探せ」

「金は……」

「すでに払った」

 礼金がいつにも増して多額であったのも道理である。河畑は、最初から複数人に目星をつけていたのだ。

「は、はなからいえよ」

 と宗我兵衛は悪態をついたが、

「左右吉で済めば、互いのためであったろう」

 といわれれば、反論の余地はない。

 宗我兵衛は断りたかった! しかし、断れば河畑に怪しまれる。それに宗我兵衛が断ったとしても、河畑は余人に依頼するか、自らその士族を探すだろう――宗我兵衛が半次郎にいったように。そうなれば、半次郎は黙ってはいまい。宗我兵衛が自ら間者の務めを買ってでながら河畑の依頼を断ったと知れば、今度こそ半次郎は宗我兵衛を生かしてはおかないだろう……

「わ、わかった」

 宗我兵衛は河畑の諦めの悪さを呪いながら頷いた。それを引きあいに出したからこそ、半次郎と交渉できたことなど忘れて。

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