其の十二「ところで、おれは油揚げが大好きでね」

 翌一月七日、午の正刻。ところは麹町富士見町。

 野次馬たちが固唾かたずを呑んで見守る中、裏長屋の一室から燦々たる太陽のもとへと、惨憺たる態様の死体が運びだされた。もちろん衆目に触れるような運び方はしていないのだが、それでも誰もが固唾のみならず息まで呑んだのは、死体が四本の臓腑桶で運ばれたからだった。

 運び手は邏卒たちで、揃って青い顔をしている。指図しているのは弾正台大巡察の川路利良で、これまた青い顔をしていた。彼らは朝から、左右吉殺しの捜査をしているのだ――形ばかりの捜査を。

 当然、形ばかりだと知っているのは川路のみである。彼は深夜に中村半次郎こと桐野利秋から、左右吉なる者を斬ったよしを告げられるとともに、後事を押しつけられたのだった。

 川路は仰天した。まさか、半次郎たちが市井の人を手にかけるとは思ってもみなかったのだ。半次郎は殺害理由について、河畑に依頼「させられる」恐れがあったといっていたが、殺されまでするいわれはないのではあるまいか――川路がそう思い諫言しても、半次郎は、

「大事の前の小事じゃ」

 と耳を貸さなかった。

 それで仕方なく現場の裏長屋に来てみれば、一面臓腑桶をくつがえしたような、というか臓腑桶の中そのものめいたありさまである。

 川路はいま、裏長屋の戸口から運ばれてゆく死体を見送りながら、あらためて慄然としていた。

 ――こいでよかったのか?

 同時に、左右吉とやらへの申しわけなさがつのった。先輩たる半次郎にいわれるがまま、河畑への広沢暗殺の依頼を取り下げ、半次郎に一任した川路であったが、そのために左右吉は死ぬことになった。当然、河畑に任せておけば左右吉が死ぬことはなかっただろう。河畑は「仕事」で余人を殺めたことはない――少なくとも、川路が知るかぎりは。

「やあ……川路さん」

 そんなことを考えていると、不意に名を呼ばれた。見れば、いつのまにか当の河畑が立っていた。

 偶然ではあるまい。そう思いながらも、川路は平静をよそおって詰問するようにいう。

「河畑……おはん、こげなところでなにをしちょるか」

「ご挨拶だね……暇になったから、散歩をしているのさ……暇になったから。暇になったからね……」

 河畑は三度繰り返した。

「……なら、散歩を続けるがよか。ゆけっ」

 川路はあてつけがましさに耐えかねて、そっぽを向きながら蝿でも払うような仕草をした。しかし、その程度で怯む河畑ではない。現場を覗こうと背伸びをし、手で庇を作りながら、

「ところで、なにかあったのかい……この血の臭い……さては殺しが?」

 と野次馬根性を丸出しにする。わかってはいたが、いって聞かぬのなら実力行使しかない。川路は河畑を突き飛ばすと、

「おはんには関わりなかこつじゃ! 暇ならば、仕事を探さんか!」

 と叱咤した。それから、半次郎が「河畑に依頼させられる恐れがあった」から左右吉を斬ったことを思いだし、

「……真っ当の仕事をな」

 と付け加えた。

 すると河畑は、眉を八の字にして笑いながら、

「探してはいるが……こちとら、やっとうの仕事しかできないものでね……く、く……」

 といった。不穏である。しかし、これは序の口だった。河畑の口は、続いてこう動いたのである。

「それに、関わりがないわけじゃあ、ない……左右吉には、目をつけていたからね……」

 川路は言葉を失った。半次郎から伝えきいていたとはいえ、いざ本人からいわれるとそら恐ろしいものがある。この男は、本気で参議たる広沢の暗殺を何者かに依頼させようというのか? できると思っているのか? 狂気の沙汰だ。一体、なにがこの男を衝きうごかしているのか……「大事の前の小事」がまた起こるのか?

 川路は足掻くようにいった。

「……頼むから、しばらく大人しくしちょれ。金ならあるじゃろ――」

「これが大人しくしていられるか」

 ひねもす飄然ひょうぜんとした河畑らしからぬ、のっぴきならない声色であった。川路はのけぞらざるをえない。

「ところで、おれは油揚げが大好きでね……酒によく合う……」

 唐突な告白であった。

「油揚げってのは、一枚一枚、味がちがうんだ。見た目は同じでもね……だから、おれは一枚一枚、味わって食べる。まさしく、一期一会さ……食べたら、なくなっちまうんだから……」

 その話しぶりが、だんだん好物を語っているとは思えぬ凄みを帯びてくる。いまや川路にも、油揚げの示唆するところがわかってきた。それを見て取ったか、河畑は、

「……その一枚をとんびにさらわれて、どうして黙っていられよう?」

 と結び、踵を返した。

「……ま、待てっ、河畑!」

 川路は追いかけようとして、やめた。追いついたところで、なにができよう――そうした諦念からでもあったが、それ以上に、雑踏にまぎれてゆく河畑を尾行する存在に気がついたからだ。それは半次郎の部下のひとり、時正であった。

 川路は名状しがたい胸騒ぎを覚えながら、無事を祈った――時正だけではなく、この東京府の無事を。

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