其の十三「江戸の花が一輪、とくと御覧じろ」
河畑は口笛を吹きながら、ぶらぶらと麹町富士見町の表通りを歩く。町人――この頃にはすでに、平民とあらためられていたが――に扮した薩摩藩士、時正がそれを追う。明村が左右吉の始末を命じられた一方、時正は引きつづき河畑の監視を命じられたのであった。
時正の目は、片時も河畑から離れない。彼の視界の端を「すし」「二八」「天麩羅」の文字がすぎてゆく。江戸の
やがて、時正はいらいらしてきた。
――桐野どんは、真面目にすぎる。河畑深左衛門がどしこのもんじゃっちゅうんじゃ? 明村の「抜き」に恐れをなしてまろびかける不手際といい、仲間に裏切られる不徳といい、舌先三寸で日陰を渡ってきた
彼は昨日東京府に入ってから、働きづめであった。川路利良と密談をかわし、広沢真臣邸に下見に行き、ようやく一息をつけるかと思った矢先に、この河畑だ。この男と遭ってしまったがために、時正と明村は、河畑と宗我兵衛の尾行という残業を命じられることになった。本当なら、昨夜は柳橋か新橋で芸者に奥ゆかしい芸を披露してもらうはずだったのに、実際は夜道で小汚い爺の小賢しい芸に疲労させられる始末だ。
今日だって、夜を徹して河畑の裏長屋を見張っていたというのに、河畑が動きだしたのは昼になってからだ。眠いし、腹も減っている。明村は左右吉を斬って
ああ、河畑が昨日のように、居酒屋で昼酒を呷ってくれればいいのに! そうすれば、自分も隠密を口実に一杯引っかけることができる……
そう思っていた矢先だった。
――きゃ、きゃつ!
河畑が屋台で穴子の天麩羅を買ったのは。串に刺された、しなる穴子の天麩羅は、金の衣をまとった女体のようにすら見えた。河畑はそれを噛みちぎった。ここまで衣擦れみたいな咀嚼音が聞こえてくるかのようだった。衣が剥がれて見える白身は、女の肌を思わせる。河畑の唇をてからせる油分は、時正に穴子の天麩羅の艶めかしさを伝えた。
――お、おのれ!
我が飢えを知らず、なんたる所業! 時正は立腹したが、空腹感が増すばかりだった。
見回せば、己の近くにも天麩羅の屋台はある。食べてしまおうか? だが、時正は江戸の作法に疎い。もし作法を誤れば、田舎者やらお上りさんやらの
そんなことを考えながら、いつしか時正は物欲しげに屋台を眺めていたが、
「冷やかしなら帰えってくんな」
主人に
「しまった!」
しかし、河畑はあっけなく見つかった。彼は昨日と同じ居酒屋の縄のれんをくぐるところだった。
時正は心中
東京府では昼酒が流行っているのかしら? と思って往来を見回したが、どうやら流行っているのはこの居酒屋だけで、ほかの店では閑古鳥が鳴いている。
「なんでこんなに混んでいるんでえ?」
時正は
「お前さん、知らねえで来たのかい。運がいいのか、悪いのか……昨日の昼に来なすったお侍えさまが、明日――つまり今日だが――の昼に来たみんなに、一杯え奢ってやるっていいなすったからよ」
「なにっ? そ、その侍えの名前えは?」
「知るもんか、俺も噂を聞いて来たんだからよ」
いや、名を聞くまでもない! 河畑深左衛門に決まっている! きゃつめ、なにをしようというのか? そう思ったときにはすでに、時正は小兵らしく人垣の隙間を縫って縄のれんをくぐり、隙間がなければ小兵らしからぬ力で押しのけて、居酒屋に入っていた。
中は酒池肉林としかいえぬありさまだった。男、酒、肴、男、酒、肴、男、酒、肴……座敷はもちろん、上がり框はおろか土間にも溢れている。しかも酒の量といったら、ひとり一杯どころの話ではない。並んだ徳利は雨後の筍のようだ。
時正は河畑の姿を探す――この黒山の人だかりにあって、意外にもすぐに見つかった。というのも、彼は黒山の頂きに座していたからだ。座敷の真ん中、高座がわりといわんばかりに積みかさねられた座布団の上に。
「お前さんら、何故先頃、皇室の御紋が
河畑は
時正は季節外れの蝉時雨の中にあって、河畑の一言一句を聞きのがしはするまいと、町人たちをかきわけて河畑に近づいてゆく。かかる居酒屋で町人相手に、妙に敷居の高い話をはじめたものだ、と思いながら。
河畑は喧騒の間隙を縫って話をつづける。
「あれにはな、薩摩藩士の志が込められておるのだ」
時正は上がり框でつまずき、前の町人にぶつかった。人が多くて上がり框が見えなかったこともあるが、それ以上に、河畑の口から「志」などという高尚な単語が出たのでぎょっとしたことが大きかった。たった一度の邂逅でも、河畑が「志」やら「大義」やら「正義」を嘲る不逞の輩であることは十分すぎるほどわかったからだ。
その河畑が、いうにこと欠いて「薩摩藩士の志」だと?
時正はぶつかった町人を押しのけ、その前の町人も押しのけて、さらに河畑に近づく。時正が即席の高座まであと一畳というところまで至ったとき、河畑が手酌しながらいった。
「ゆくゆくは皇室を犯したいという志がな。薩摩藩じゃあ、男色が盛んだろう? さればこそ、皇室の御紋を菊『門』に定めたというわけよ」
河畑は、自分の尻を叩いてしめた。
居酒屋につどった町人たちは、鳥の群れが一斉に飛びたつように爆笑した。笑っていないのはひとりだけだった。
「やぜらしか!」
当然、時正である! その大音声は波飛沫のごとく広がって、一転、居酒屋は水を打ったように静まりかえった。町人たちの誰ひとりとして、言葉の意味をわかってはいなかったが、それでも黙らずにはいられなかった。その声が尋常ならざる怒りを孕んでいたからには。
いやひとりだけ、黙ってはいられなかった者がある。
「これはしたり……薩人がおられたか。ええと――『やかましい』、という意味であったかな? 『やぜらしい』とは……」
河畑であった。たちまち町人たちがざわめきはじめる。
――しもた!
時正は己が迂闊を悔やんだ! 間者が自らその出身を明かすとは、なんたる愚挙か! 河畑が自分の正体に気がついていないようであるのは助かったが、いくら寝不足と空腹で悶々としていたところに、ばかばかしさ極まる侮辱を加えられたとはいえ、間者の身で激昂するとは……時正はしばし、自分を
だから時正は、居酒屋の雰囲気が変じたことにすぐには気がつけなかった。
「……?」
妙に静かだ、と思って時正が見回すと、いつのまにか彼は町人たちに包囲されていた。しかも、どの目も据わっている。それが酒のためではないと知れたのは、誰も彼もが、
「こいつ、薩人か」
「おまけに、成りあがりでもねえときた」
「お忍びかもしれねえぞ」
「知ったこっちゃねえ」
「よくも抜け抜けとここに来れたもんだ」
「戊辰の恨み……」
「いやさ、御用盗の恨み……」
と恨み節を唱えたからだ。
時正は愕然としていた。よもや明治四年になってなお、薩人が幕末に買った恨みが売れのこっていようとは! 「酒が沈むと言葉が浮かぶ」とはこのことか!?
時正は河畑を仰ぎみた。河畑は手酌しながら、
「遠路はるばる、ようこそおいでなすった。江戸の花が一輪、とくと
と笑った。その言葉を合図に、
「やっちまえ!」
江戸っ子たちは時正に躍りかかった! 喧嘩である!
しかし、時正もさる者!
殴りかかってきた江戸っ子の腕を取り、投げとばして反対側から襲いくる江戸っ子たちにぶつけると、しゃがんで別の江戸っ子の手をかわし、その足を払う! 宙に浮いたその江戸っ子の足を掴むと、振りまわして群がる江戸っ子たちを薙ぎたおしたすえに、河畑の座す座布団の塔に放りなげた! 江戸っ子がぶつかって、積みあげられた座布団は失敗しただるま落としみたいに崩れさった!
「次!」
時正は手を払いながら叫んだ。その声はいまや、やる気に満ちている。彼には咄嗟に閃いたことがあったからだ。
「や、野郎!」
江戸っ子たちは仕切りなおしを余儀なくされた。包囲の輪は、さいぜんより広くなっていた。時正の手並みに怖気づいたのだ。
やがて誰からともなく、霧みたいに埃のただよう座布団の山――高座の成れの果てだ。裾野には無数の酒器が転がっている――のほうを見はじめた。その向こうで酒を呷る、河畑のほうを。
時正もまたそちらを見て、
「江戸の花は咲くも早けりゃ散るも早いと見えるが、遅咲きの花もありもすか? あるならお見せ願いたか」
といった。あからさまな挑発であったが、しかし河畑は、
「よござんす」
と乗った。
これこそ時正の閃きであった。薩人とばれた以上、もはや尾行は叶うまい。ならば、その要を断つべし――喧嘩の弾みということで河畑を殴り殺してしまえば、すべての片がつく! あとのことは弾正台の川路利良に任せればよい。いかな桐野利秋、もとい人斬り半次郎こと中村半次郎の贔屓の剣客といえど、まさか居酒屋で刀を抜きはするまい。閉所での格闘なら、自分に分がある――
「おはんの花は赤かろうな」
時正が河畑へと一歩踏みだせば、彼らのあいだの人垣が割れた。が、一方の河畑は、時正へと一歩踏みだすどころか、足で二枚の座布団を蹴り、うち一枚に胡座をかいた。
「? なんの真似――」
「勘違いしてもらっちゃあ、困る――お前さんも、皆の衆も」
河畑は時正の不審の声を
「確かにおれは火事と喧嘩は江戸の花といったが、『童子教』にも『郷に入っては郷に従え』という言葉がある……
「なにがいいたかか?」
「知れたこと――郷は居酒屋」
河畑は時正を見上げ、両手を広げた。その右手の五指のあいだには、四本の徳利の首が挟まっている。左手の人差し指、中指、薬指のあいだには、二個の猪口。
「飲みくらべで片をつけようや……」
時正は鼻で笑って、
「臆したか? 江戸っ子に恥なき奴!」
と罵ったが、
「おや、それはお前さんのほうであろう。音に聞こえし薩摩の酒豪は、『さけのん』だか『さけのんごろ』というと聞いたが、まさか飲みくらべを挑まれて及び腰とは……『さけのん』の『さけ』は『酒』じゃあなく『避け』であったか?」
とやり返された。
「こ、こやつ!」
時正は激昂しそうになったが、はたと思い当たった。よくよく考えれば、なにも殴り殺すことはない。要は、この忌々しい暗殺者をほんの数日、使い物にならなくすればよいのだ。それは酒によってもなせる業なのではないか? 見れば河畑ののっぺりした顔には朱がさしている。一方の時正は
「……よか」
時正は、強いて不本意そうに座布団へ腰をおろした。
「受けてたってやるが」
笑いを堪えながらいう。それは必勝のためばかりではない。東京府に来て一昼夜、ようやく酒にありつける喜びのためでもあった。
彼は酒を愛していた。酒を飲まない日はほとんどなかった。広沢邸の裏手で河畑とはじめて会ったとき、「焼き芋の匂いがいたすな」といわれ思わず己が息の臭いを嗅いだのも、道すがら飲んだ芋焼酎の残滓を疑ってのことだ。
愛ゆえに悲しんだこともあった。八年前の七月二日の夜明け前、
乗組員のひとりであった時正は、持ち前の格闘術と身軽さをもっていちはやく船から脱出し、ゆきあった藩士にことの次第を訴えたが、信じてもらえなかった――時正が酒臭ぷんぷんたるていであったからだ。彼はこの日も朝まで酒を飲んでいたのだった。結局、大勢に影響を及ぼすことこそなかったが、時正は孤立することになった。
そんなとき、
「なるほど、確かに朝まで酒を呑んでおったのはおはんの罪じゃ。じゃっどん、酔っぱらいの戯れ言と断じて取りあわなんだほうにも罪はありもす。そいやっとに、おはんばかり責められるのはおかしか。そいに、おはんほどの『さけのん』を腐らすのは勿体なかこつじゃ」
といって彼を拾ったのが中村半次郎であった。以来、彼は半次郎のもと、居酒屋での情報収集などに励んできたのである。
ともかく、彼は「さけのん」であり「さけのんごろ」――薩摩にあって、いまだかつて飲みくらべに負けたことのないほどの酒豪であった。
「そうこなくてはな」
河畑は左の眉をつりあげながら笑うと、時正の猪口に酒を注いだ。江戸っ子たちは先の乱闘のことなど忘れ、手に手に酒杯をとって、どちらが勝つか賭けたり、ふたりと同じ勢いで飲もうとしたりしていた。
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