其の十「お控ぇなすって!」
宗我兵衛が語りおえてからしばし、街道上には、四人が吐く白い息のほか動くものはなかった。夜空では星々が
「……こいではっきりした」
やがて、半次郎が大きな声でいった。明村と時正が、無言で半次郎のほうを見る。彼らはいまだ、言葉を失っているようだ。半次郎にはそれが気にいらない。彼はさらに声を荒げた。
「やはい、きゃつには正義も信念も夢もなかっちゅうこつがな! 鬼畜じゃと? 刹那の快楽を貪るだけのきゃつなど、畜生で十分じゃ。左様な畜生に、こい以上、お国のゆくすえを左右する仕事を任せられるか!」
明村と時正は活を入れられたようにびくりとし、姿勢を正した。
そして半次郎は、思いだしたように、
「……よう話してくれた」
と宗我兵衛を
宗我兵衛は笑顔になった。もちろん、助命を期しての媚びへつらった笑顔だ――しかし、突如として半次郎は、額と眉間とまぶたに溶岩流のごとき皺を浮かびあがらせると、大喝した。
「――じゃっどん、かくも容易く仲間を売るとは、間者の風上にも置けぬ奴! 大叫喚地獄で舌を抜かれるがよか!」
「ば、ばかな!?」
明村は心得たもので、そのときにはすでに刀を振りあげている。
時正は納刀する。
半次郎は踵を返す。
明村が刀と比してなお小さく見える老人を、一刀のもと両断しようとした、そのとき!
「――お控ぇなすって!」
明村の気合が猿叫なら、こちらは鶏鳴とでもいうべき代物だった。夜のしじまを破り、その向こうから朝の喧騒を引きずりださんばかりの大音声は、明村の刀はもとより、半次郎の足を止めるには十分だった。当然、鳴いたのは宗我兵衛である。
「……」
半次郎が振り返れば、宗我兵衛は左の手のひらをさしだし、右手を後ろに回している。
「……なんの真似じゃ?」
と半次郎が問うと、宗我兵衛は姿勢を崩さず、
「早速のお控ぇ、ありがとうさんにござんす。軒下三尺三寸借りうけましてのご仁義、失礼さんにござんすが、これよりあげます言葉のあとさき、まちげぇましたらごめんなすって……」
軒下どころか、吹きさらしの道端で仁義を切りはじめたが、途中で黙った。時正と明村が顔を見合わせるに至って、老人は笑いはじめた。
「……へへへ、士族の旦那がたに仁義を切ってもしゃぁねぇやな――中村の旦那、俺を斬ったって、しようもごぜぇやせんぜ。河畑ぁ、斬るっつったら斬る。俺がくたばったって、ほかの奴を使うだけでさぁ……そいつらぁ、片っぱしから皆殺しにするんですかい? やくざどもが黙っちゃいやせんぜ……江戸のやくざはご存知ねぇでしょう」
「やめろ」
と半次郎がいったのは、宗我兵衛ではなく、明村にだ。彼は戯れ言が腹に据えかねたと見えて、いましも宗我兵衛に刀を振りおろそうとしていたが、この一声で石と化したかのように止まった。半次郎の命令は絶対らしい。
このあいだずっと、半次郎は宗我兵衛を見おろしていた。宗我兵衛もまた、半次郎を見上げていた。その目から
「なにがいいたかか?」
半次郎がいうと、宗我兵衛はナメクジみたいな舌を、干からびたミミズみたいな唇に這わせてから、粘ついた声を吐きだした。
「中村の旦那……きゃつをやりこめてぇんでげしょう? 切りてぇんでげしょう? 縁はもちろん、機あらば首も……それなら、俺を斬るよりもっといい手がごぜぇやすぜ。俺を雇っておくんなまし。きゃつの身中に潜み、虫の知らせをもたらしてみせますよって……きっとお役に立ちやすぜ。なんせ、きゃつは俺を信じている――身の上話を聞かせるほどに……」
宗我兵衛は河畑を売った口で、自らをも売りこんだ――自分を守るために! もはや、いつ河畑に命を狙われるかわからない。かくなるうえは、河畑の敵に守ってもらうよりほかはない――すなわち、明治政府に!
「ばれちまったらばれちまったで、きゃつが俺を斬ろうってぇところを弾正台の方々にとらまえてもらやぁ、片がつく……どうでげす?」
宗我兵衛は小首をかしげて、話を終えた。
半次郎は即答しなかった。ただ、呆れはてた声で問いかえした。
「……おはんには、正義っちゅうもんはなかか?」
「へっ? まだ枯れちゃぁやせんが……なんでまた?」
宗我兵衛は「せいぎ」といったら「性技」しか知らなかった。
「……もうよか」
半次郎は心中の義憤の火を消すかのように深呼吸をすると、刀の柄から右手を離した。それを見て明村はぽかんとしていたが、時正に肘で突かれるに至って、狐につままれたような顔つきのまま、ゆっくりと納刀した。
「明村。おはんはこやつと左右吉を訪ねよ。時正は引きつづき、河畑を見張れ」
「よ、よかでごわすか?」
明村は半次郎と宗我兵衛を見比べながら問うた。すると半次郎は、
「よきにはからえ」
と奇妙な言い回しをした。誰がどう聞いても、明村の問いは宗我兵衛の処遇に関するものであったのに……しかしこれを聞いた明村は、犬歯もあらわのものすごい笑みを浮かべるや、
「わかりもした! 爺、案内せよ!」
と
「お代は見てのお帰ぇりで!」
宗我兵衛は明村に急かされながらも、半次郎を何度も振りかえってわめいた。
「……途方もない奴」
時正は呟き、
「よかでごわすか? きゃつめ、こつが済んだらきっと
と半次郎にいった。
「こつが済んだら、斬る」
半次郎は平気で即答した。そして唖然とする時正をよそに、満面を溶岩流じみた皺で割り、
「あげな畜生にも劣る大罪人を飼うはずがなかろ。きゃつめ、ぬけぬけとお代は見てのお帰りとか申しておったな。三途の川の渡し賃をくれてやるわ」
と毒を吐いた。ついさっき、その畜生にも劣る大罪人に「正義っちゅうもんはなかか?」といった口で。
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