其の十八「お初お目にかかる……練造でござい」

 一月八日の日が暮れてゆく。東の空が暗くなるにつれ、西の空は血の広がるように赤くなってゆく。東より来たる大小ふたつの影は、暗闇の尖兵のようだ。夕陽に照らされるその顔は、返り血を浴びたがごとし……

 太陽が沈み、夜が地を覆いかくした頃、大小ふたつの影――明村と宗我兵衛は、神田鍋町に入った。

 宗我兵衛が先をゆき、明村を案内する。今夜の殺人現場へと。

「これが最後かと思うと、感慨深ぇもんがありやすねぇ」

 無論、宗我兵衛にそんな感慨はない。ただ、表情こそ見えないものの、後ろを歩く明村がしばしば、吐息とも忍び笑いともつかない音を漏らすのが不気味だったので、話しかけただけだ。話していれば、けだものじみた音を出すこともあるまいと思ってのことだ。

「最後ではなか」

「へ、へぇ……さ、さいですかい」

 しかし、宗我兵衛の期待は外れた。最後ではない……広沢が最後ということだろうか? それとも、もしかして――自分? 宗我兵衛は総毛だった。

「あっ……こ、ここ。ここでやんす、明村の旦那。ささ、どうぞ、お楽しみを……」

 宗我兵衛は長屋の一画で立ちどまると、いつにも増した卑屈さで、遊郭の見世番さながらに明村を呼びこみ、自分は脇にのいた。

 明村は大股で引き戸の前に向かい、左手をかける。心張り棒がかけられていないことを確認すると、一気に引きあけた。

 まばたきのに、明村の右手は刀の柄にあった。その腰は、すでに落とされている。

 しかるに、刀はいつまで経っても抜かれなかった。

 宗我兵衛は訝しんだ。そもそも、いつもの明村ならこんなところで構えたりしないはずだ。ずかずかと中に踏みこんでいって、その勢いのまま「抜き」の技で相手を斬ってしまうはずだ。引き戸を開けた先に、練造が立っているのだろうか? だが、それなら何故まだ斬らない?

 宗我兵衛は好奇心に負け明村の後ろに回ると、股ぐらのあいだから、明かりひとつとてない暗い長屋の中を見た。

 そして、文字どおりひっくり返った。

「なっ、ななななっ、なっ……!?」

 そこにいるはずのないものを見たからだ。宗我兵衛は尻餅をついたまま、それを指さして、鯉みたいに口をぱくぱくさせた。

 それはいった。

「お初お目にかかる……練造でござい」

 宗我兵衛は魂消たまぎるような悲鳴をあげた。

「ばかな!? な、なんで手前がここにいやがる!?」

「それはこちらの台詞……」

 明村の股ぐらの向こう――闇のなか、練造の長屋の上がり框に腰かけているのは、河畑深左衛門その人であった!

「……どうやら、おはんの手引きではないようじゃな」

 宗我兵衛の反応から、明村が彼らしからぬ冷静で的確な判断を見せた。

「じゃが、どうでもよか。むしろ、好都合じゃ」

 そして彼らしい物言いをすると、すり足で戸口をくぐった。

「ほう……好都合とは?」

 応じるように、河畑がゆらりと立ちあがる。落とし差しにされた刀が代わりに首をかしげる。

「最初から、おはんを斬ればよかったっちゅうこつじゃ」

 明村が近づく。

「おはんでは斬れぬ」

 河畑が真面目腐った調子でいった。明村は唐突な薩摩弁に虚をかれた。

「――と、半次郎にいわれなかったか? く、く……お前さんは、指では済まさないぜ」

 明村は、河畑とはじめて会った日に、実際に半次郎からそういわれたことを思いだした。だから、半次郎にいい返したようにいい返した。

「ばかめ。おいの一の太刀を怖がって飛びのき、あまつさえ転びかけたのを忘れたか」

 そして、さらに間合いを詰めた。「抜き」の間合いまであと一歩。いまや明村の体は、引きしぼられた弓めいた一触即発の極みにある。

「そんなこともあったな……だが、あれから三日経つ。『士別れて三日なれば刮目して相待あいたいすべし』という名台詞を知らぬと見える」

 一方、河畑はいまだに刀の柄に手をかけてすらいない。

「ほざくがいい――」

「そういえば――」

 明村がしかけようとしたとき、河畑が思いだしたような声をあげた。明村は機を逸する。彼が仕切りなおしているあいだに、河畑は闇の奥より、失笑を垂れながしながら続きをいった。

「いまひとりには、残念なことをしたな」

 一瞬、明村には言葉の意味するところがわからなかった。

 だが、次の瞬間にはいまひとりが時正をさすことに思いあたり、その次の瞬間には河畑がほのめかした事実を察し、同時、激昂とも猿叫ともつかない雄叫びをあげながら踏みこみ、一の太刀――音に聞こえし薬丸自顕流やくまるじげんりゅうの、音しか聞こえぬ神速の技、「抜き」を放った!

 が、河畑はそれよりすばやかった。彼は明村が抜刀するよりはやく、ばっと後ろに飛びずさっていた。明村のしかけどきを見抜いた――もとい、操ったのだ。あのときと同じように。

 しかし、あのときとはちがうことがあった。ここは往来ではなく、狭い長屋だった。ゆえに河畑は、後ろにたたらを踏んだとき――上がり框でつまずいて、その上に尻餅をついたのだ!

「河畑深左衛門、なんのこつあらん!」

 明村は凱歌をあげると、「抜き」の残心から流れるような所作で刀を振りかぶる!

「きえーっ!」

 そして柄尻が彼の額をよぎり、髷の上にまで達すると同時、半月を描くように振りおろさんとした!

 そのときだった。

 明村は、頭上にある切っ先に手応えを感じた。

 鴨居ではない。長屋に鴨居があるはずがない。では、梁か? たとえそうだろうと、鴨居と同じくあってなきがごとくに斬るまでだ。

 しかし、明村の刀は一瞬止まった。その手応えが、鴨居でも梁でもなく、彼がこよなく愛する手応えだったからには。

 明村は刀を止めた一瞬のうちに、黒目だけを蠢かし、頭上を見た。

 埃っぽい闇の向こう、長屋の天井に、黒い影があった――へそが見えた。天井から宙吊りにされた、全裸の男――時正があった。いや、その目は虚ろだ。死体なのだ! いま、明村の刀の切っ先は、時正の鍛えあげられながらも血の気を失ってギリシア彫刻のごとくなった腹に埋まっているのだ!

「――ええいっ!」

 が、明村は構わず刀を進めた! 時正の腹が裂け、はらわたが鮭の筋子みたいにこぼれ落ちた。その赤黒い滝の中、明村は刀を振りおろした。

 このかんは、いまでいう一秒に満たない。

 しかし、その一瞬が勝負を分けた。

 明村の刀が上がり框を割ったとき、そこに尻餅をついていたはずの河畑は明村の左側にいた。そこで、居合術の残心をとっていた。

「これが本当の、肝胆相照らすというやつだな。死してなお、仲睦まじいことよ……」

 明村の足下の血溜まりが、湯気をあげていた。いまもなお雨漏りみたいに垂れている、時正の臓腑があたたかいはずがない。垂れたばかりの糞尿にも見えるそれこそは、明村の血と腸だった。時正の臓腑と相照らそうとでもいわんばかりに、真一文字に切り裂かれた明村の腹から吐瀉物のごとく吐き出されつづける、臓腑だった!

 宗我兵衛は一部始終を見ていた。そして、ここ数日の河畑の奇行の意味を理解した。河畑は上がり框に座った状態から――「居」た状態から抜刀し、立ちあがりざま踏みこんで、明村の腹をかっさばいたのだった。河畑が長屋で上がり框に座っていたのは、この奇妙な居合術――いわば、洋式の居合術のための鍛錬だったのだ。昨晩、宗我兵衛の肩を掴んだときの妙な掴み方は、抜刀を模したものだったのだ!

「き、きっさね奴め……よ、よ、よくも、おいほどの者を……」

 明村が上がり框から刀を抜きながら呻く。その動作ひとつひとつへの対価のように、彼の腹からは血潮が吐き出された。

「ずるい、という意味だったか? 誇りに思ってはどうだ? おれほどの者に『きっさね』手を使わせたんだから……まあ、誰にでも使うんだが……く、く……」

 河畑は間合いを切り、暗闘は終わりとばかりに、明村の背後――月明かりのさす、戸口のほうに回りながら笑った。明村は振り返る。

「と、時正どんにも……」

「きゃつには残念なことをした――つい、飲ませすぎてしまってな。まさか、そのまま死ぬとはよ。薩人は酒に強いと聞いていたのに、騙されたわ」

 騙した側でありながら、ぬけぬけと、しかも心底悔しそうにいう河畑であったが、事実、その両頬は青白い月の光を跳ね返していた。

 河畑は、泣いているのだった。

「きゃつの絶句を、聞きのがしてしまったんだよ……」

 悲しげにいってから、しばし。

「……よしたがいい」

 と、不意に河畑が凄みのある声を出したのは、明村が刀を持ちあげはじめたからだ。

「傷が開くぞ。苦しみが増すばかり――お前さんには、残念なことをしたくない」

 実際、明村が刀を振りかぶろうとすればするほど、彼の腹の傷は裂けた口みたいに広がって、唾の代わりに血を飛ばして嘲笑う。しかし、時正の血と臓物に満面を赤黒く染めた明村の目は、まだ死んではいなかった。最期の勝負を挑もうというのだ。

 シャンデリアめいて吊るされ、その装飾みたいに腸をぶら下げる時正の死体の下で、ふたりの剣客は再び向かい合う。

「同じ手は――二度は、食わぬ……尋常の死合いなら――」

「負けぬと?」

 河畑はせせら笑った。

「だが、今宵お前さんはおれに負け、死んでゆく。なにゆえか待ちぶせされてなお、好都合と大言を吐きながら、尋常の死合いに持ちこめず、ご自慢の自顕流も存分に振るえぬままに、舐めくさっていたおれに負け、死んでゆく……あまつさえ、同志の死体まで斬らされて――」

 そして刀を正眼に構えると、

「――いま、どんな気分だ?」

 小首を傾げながらいった。

「――さ、ここで絶句」

 返されたのは一句ではなく、一刀だった。猿叫とも断末魔ともつかぬ気合いとともに振りおろされた一刀は、しかし、なにものも両断することはなかった。河畑がまたも、嘲笑うように飛びずさったからだ。両者の位置は入れかわっていたから、河畑は上がり框につまずくことなく、月の照らす路上に着地した。蹈鞴も踏まなかった。歌舞伎もかくやの流麗さであった。

 明村は前のめりになりかけたが、刀を杖にして踏みとどまった。そして河畑をめあげると、いった。

「じ……地獄にて……流祖に師事し……待ちうけん……!」

 地震の揺れの治まりゆくような声であった。その鳴動が途絶えたとき、明村はがくりと頭を垂れた。その巨体が動くことは、もうなかった。

 明村の最期の言葉は、ほとんど恨み節である。五・七・五であるのも、ただの偶然かもしれない。

「……いとをかし!」

 けれど、河畑は唸った。

「死のふちにあって、大義も忠義も友誼さえもなく、ただ剣技だけがある……こやつの生きざまが偲ばれるわ。それは、死しても変わらぬらしい。ここまで虚仮こけにされてなお、自顕流でおれに勝とうとはよ……地獄に落ちるわけにはゆかなくなったな」

 その声にはただならぬ感嘆の色があった……

 それからまた、しばし。

「……さて」

 河畑は余韻を堪能したか、仕切りなおすように声を出すと、隣を見おろした。尻餅をついたままの宗我兵衛を。

「なんで、おれがここにいるか――だったか? 時と金を惜しまなきゃあ、おれにも人探しはできるということだ……丸二日、かかったがね。お前さんのように、半日とはゆかなかった……さすがだ、宗我兵衛……」

 宗我兵衛は震えた。当然、寒さのためでも歓喜のためでもない。目の前の男の深謀遠慮のふちを覗きこんだ気がしたからだ。

「お前さんを信用していた……」

 河畑はそういいながら、宗我兵衛に向きなおる。その顔色も声色も、いつもとなんら変わらない。双眸もまた、いつもどおりの笑う半月の形だ。

 ちがうのは、刀。宗我兵衛は、河畑のさげた刀の切っ先から目を離せない。そこからは、血が滴っている。河畑はまだ、血振りをくれてはいないのだ――その意味を?

「……ち、ちげぇんだよ、河畑! 確かに俺ぁ手前の信にそむいたがな、それもこれも、すべては手前のためを思ってこそだ! このヤマがうまくいってみろ、手前はきゃつらだけじゃねぇ、きっと明治政府を敵に回すことになる! いくら手前でも、そうなったら生きてはゆかれめぇ……そう思った俺は、手前に手を引かせようと、泣く泣くきゃつらに――」

「信用という字はな」

 河畑は宗我兵衛の言い訳を無視して、いった。

「用――働き、使い道を信じると書く。その意味では、おれは人斬り半次郎さえも『信用』している――きゃつらがおれやお前さんを尾けまわすことなど、はなからわかっていた。……そして、お前さんはきっと、おれを裏切ってくれると『信用』していたよ。きゃつらに襲われようとも、その油断ならぬ手妻で切りぬけ、のみならずきゃつらに取りいってくれると『信用』していた――だから、どうでもよい奴から探させたのだ。ここを探す時を稼ぐために……」

「……」

「だから、なにもちがわない――大義であったな、宗我兵衛」

 宗我兵衛は息を呑んでから、

「……だ、だろ!?」

 と前のめりになっていったが、

「……といいたいところだが」

 といわれて硬直した。

「まだ、お前さんの仕事は終わっちゃあいない……いま再び、『信用』が試されるときが来たのだ」

 河畑は姿勢を変えないまま続けた。

「お前さん、きゃつらがいつ広沢を暗殺するか、知っているだろう。日だけじゃあ、ない……刻限も知っているな?」

「……」

「当然、半次郎がお前さんなんぞに教えるわけがない。だが、知っているはずだ……お前さんは、火事場泥棒が好きだから……そうだろう?」

 刀の切っ先から血が滴り落ちる音の間隔が、だんだん長くなってゆく。まもなく絶えるであろうその音が、宗我兵衛を急かす。

 宗我兵衛は知っていた。半次郎たちが広沢を暗殺したあと、広沢邸に忍びこんで金品を根こそぎ奪うべく、明村から聞きだしたのだ――彼に、分け前という名の鼻薬を嗅がせて。

 だから宗我兵衛は――首を振り、こういった。

「……そ、そいつぁ……別料金だ」

 河畑が刀を振りあげる。宗我兵衛は目を閉じ――ず、河畑が刀に血振りをくれ、納刀するさまを見届けた。

 河畑は逆の手を懐にさしいれると、

「『信用』できる……まさしく、糞爺の仕事だ」

 笑いながら抜き、その掌中の太政官札の束を放った。宗我兵衛は受けとめそこねて、何度かお手玉をしてから札束を掴んだ。枚数を数え、長い……長い溜息をついた。それから、声を潜めていった。

「――今夜、広沢はやつの屋敷で宴を開く。そいつが終わったあと、広沢が寝入る頃を見計らって斬るってぇ話だ。大体ぇ、子の三刻くれぇだろう……」

「好都合だ。大儀であったな、宗我兵衛……く、く……」

 河畑は冗談のように宗我兵衛を労うと、踵を返して長屋の戸口をくぐった。

 いや、くぐろうとして足を止め、宗我兵衛を振り返った。宗我兵衛は札束を落としそうになる。その慌てようを見た河畑は、失笑しながらいった。

「斬られると思ったか?」

「……」

 宗我兵衛は黙っている。沈黙をもって肯定の意を伝えようとしているわけではない。なんといえば正解なのかわからなかったし、そもそもなにもいえなかっただけだ。彼の喉は、心の臓がそこまで迫りあがってきたかのように上下するばかりで、声を出す役目をうっちゃっていた。

 河畑もまた、しばらく黙っていたが、やがて首を振りながら、しみじみと呟いた。

「食べるまでもない油揚げも、あるんだよなあ……」

「……あ、油揚げ?」

 聞きまちがいかと繰り返す宗我兵衛をよそに、今度こそ、河畑は長屋に入っていった。

 宗我兵衛はひとまず解放された形だが、僅かに逡巡したあと、河畑についていった。もう半次郎のもとへは戻れないし、外は寒いからだ。

 河畑は入ってすぐのところにある明村の死体にも、梁から吊るされたままの時正の死体にも目をくれず、水瓶の前までゆくと、

「もう大丈夫だ……」

 あまりにもわざとらしい、幼子をあやすような声を出した。すると水瓶の中から、恐る恐るといったていで若い男があらわれた。恐怖のためもあってか、青魚の腹みたいな顔をしたこの男こそ、本物の練造であった。

「見るがいい」

 河畑は、顎をしゃくって明村の壮絶な死体を示しながら話しはじめた。

「おれのいったとおりになっただろう? きゃつこそはふたり目の刺客……」

 練造の目は死体に釘付けになっている。開いた口は塞がらず、いまにも顎が外れそうだ。河畑の声が聞こえているのかどうかも怪しい。

 が、河畑が水瓶を蹴って揺らすと、練造の目の焦点も上下左右に揺れたすえに、河畑に定まった。河畑はその目を覗きこみ、囁く……

「これで、信じる気になったかい? あの広沢真臣が、お前さんを始末しようとしているって話をよ……」

「で……でも、なんで……」

「そりゃ、お前さんに妬いているのさ……愛妾の幼馴染によ。もしかしたら、かねが情事のとき、あえぎながら、お前さんの名を呼んじまったのかもしれない……妬けるね?」

「お、おかねが……?」

「三人目の刺客が放たれるのも、そう遠い日じゃあ、ない……いいのかい?」

「な、なにが?」

「やられっぱなしでいいのかい?」

「で、でも、俺にはどうすることも――」

「おれが手を貸してやる――おれが、お前さんの代わりに広沢を斬ってやる……」

 闇に息を呑む音が響いた。……ややあってから、練造は訝しげに呟いた。

「……なんで? なんであんた、そこまでしてくれるんだ?」

「……」

「そもそも、なんで俺の家を知っていたんだ?」

「……」

「……?」

 奇妙な沈黙が長屋を支配した。やがて河畑は肩を竦め、首を振った。

「……鈍い奴だ。かねに、お前さんを守ってくれと頼まれたからに決まっているだろう?」

「!?」

「おれはかねから、この爺を介して刺客のことを知らされていた……だから、ひとり目の刺客はお前のもとに辿り着く前に、おれに斃されたのだ」

「お、おかね……!」

「……守られっぱなしでいいのかい? 本当に守られるべきは、お前さんじゃあなく、かねのほうじゃあないのかい……売女めいて金で買われて、可哀想によ……広沢の魔の手から、かねを救ってやりたくはないか? 物陰から女々しく見守っているだけでよいのか? このままでは、草葉の陰から見守ることになるぞ……なあ、『練造さん』よ! かつてお前さんをそう呼んでいた女を! 取り戻したくはないのか!?」

「……!」

「取り戻したいのなら――」

 河畑は右手を左の懐に、左手を右の懐に交差させるようにさしいれた。両手が抜かれたとき、右手には筆が、左手には一冊の帳面があった。

 そのかたわらで、宗我兵衛は必死に笑いを堪えていた。

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