其の十六「薩摩のイモを味わったこつがないようじゃな」
草木は丑三つ刻に感謝しなければなるまい。月は叢雲を責めてはなるまい。これより起こる刃傷沙汰を見聞きせずに済むのだから。
「ここか」
「へぇ」
東京府内、某所。幕府が斃れ、江戸に詰めていた武士が国元に帰って久しく、いまや
「鼠どもには、似合いの住まいじゃな」
大きな影――明村が半開きの門と、その向こうの荒れはてた庭を見ながら嘲笑った。
「おおせのとおりで……俺も、似たような屋敷の軒を借りたことがありまさぁ」
小さな影――宗我兵衛が揉み手をしながら頷いた。
この荒廃した武家屋敷こそは、いまは亡き左右吉が、死の前日に昼酒を酌み交わした士族――河畑が宗我兵衛に、探すよう命じた――と、その一味の潜伏場所であった。
宗我兵衛は昼のうちに、麹町富士見町界隈の居酒屋をはしごして左右吉らが昼酒を飲んだ店を見いだすと、いあわせた客に一杯奢って店主と客に聞きこみをし、士族の名――
それで、風待が新政府に不満を持っていることや、左右吉から広沢邸の間取りやら広沢の生活習慣やらを聞き出していたことを知ると、今度は悪餓鬼どもに小銭を撒いて、付近すべての武家屋敷を探らせた。この頃の武家屋敷の多くは打ちすてられたままで、盗人などの脛に傷を持つ者たちの格好の隠れ場所となっていたからだ。
宗我兵衛は、風待を脛に傷を持っている――あるいは、これから負う者と踏んだのだ。すなわち、風待もまた、広沢真臣の暗殺を図る者であると。だからこそ、河畑も風待を探せといったのだろう。河畑は風待を
果然、悪餓鬼のひとりから、風待が四、五人の仲間とともに、目の前の武家屋敷に潜んでいるとの報せがもたらされたのだった。
当然、宗我兵衛は河畑ではなく、明村に教えた。そして明村は広沢邸に向かい、半次郎を待った――左右吉のように、風待たちを斬る許しを得るために。半次郎はこれを許した。
そういうわけで、いま、宗我兵衛は明村とともに武家屋敷の門前に立っているのだった。
それにしても、と宗我兵衛は首を捻った。
――なんでこいつら、風待に任せておかねぇ?
半次郎が河畑から広沢暗殺の依頼を横取りした理由は、朧げながらわからないでもない。明治政府と河畑との縁を切りたいとか、身内でできることを、恥を晒してまで余人に依頼する必要はないとか、そんなところだろう。
しかし、風待たちが彼らの勝手で広沢を暗殺してくれるのなら、それに越したことはないのではあるまいか? 半次郎はただ、風待たちに「河畑深左衛門という男がおはんらを訪ねてくるじゃろうが、耳を貸すな」と伝えればいいだけだ。ただそれだけで、風待が河畑に広沢暗殺を依頼する目はなくなるし、半次郎は自らの手を汚すことなく広沢を暗殺できる……宗我兵衛好みの漁夫の利だ。
しかるに、半次郎は粛々と明村に風待たちを斬るよう命じた。してみると、半次郎が自ら広沢を暗殺することに意味があるのだろうか……
「……なんじゃ?」
「へぇっ? い、いえ、なんでもごぜぇませんぜ、なんでも……」
いつのまにか、宗我兵衛は明村を見上げていたらしい。明村は不審げに宗我兵衛を見おろしていたが、
「まあ、よか……おはんはここで待っちょれ」
というと、半開きの門を押し開け、敷地内に入っていった。宗我兵衛は少し待ち、明村の背が夜に溶けてから門を潜った。火事場泥棒のためであることはいうまでもないが、狙いはほかにもある。狂犬たる明村のいいつけを破るのは危険だが、恐れてばかりもいられない。宗我兵衛も必死だ。
庭では、伸び放題の雑草が
そのとき。
「何奴!」
奥座敷のほうから、男の怒号が聞こえた。宗我兵衛は心得たように、壁伝いにそちらへ向かうと、こっそり覗いた。
奥座敷では、明村が三人の士族風の男たちと向かいあっていた。何人かは留守らしい。相手の三人はすでに抜刀している。職業柄、夜目の利く宗我兵衛には、三人のうちのひとりが風待だとわかった。その風待が問う。
「政府の
「さて……こいから死ぬおはんらには、どうでもよかこつじゃ」
明村の抜刀しながらの返答は、いかさまぞっとするはずのものだったが、風待はどこ吹く風で、
「なんだ、政府の密偵ではなく、薩摩のイモか」
と嘲笑った。残るふたりの士族も笑った。しかし宗我兵衛には、三人の目は笑っていないように見えた。彼の夜目が今夜もよく利いていたことは、すぐにわかった。風待が唐突に口元を引き締めて、叫んだからだ。
「長人だけではなく、薩人も斬りたいと思っておったところだ。幕府を陥れ、天下国家を我が物にせんとする奸賊どもめが! 広沢に比ぶるべくもない小物と見えるが、ひとまずきさまで我慢しよう!」
そのときすでに、明村は一刀を振りかざして突進している。巨体に見合わぬすばやい踏みこみに対し、風待ともうひとりの士族は左右に飛びのいたが、残るひとりは正面から迎えうつ構えをとった。
「きえーっ!」
明村が振りおろした刃を、士族は確かに自らの刀で受けた。しかし、止めることは叶わなかった。明村の刀は翳された刀をへし折って、そのまま士族の顔面に深くめり込んだのだ。士族の両目が出目金みたいに飛びだす!
「お、おのれ!」
しかし、左右に飛びのいた風待ともうひとりの士族もさるものである。驚愕するまもなく、明村へ左右から斬りかかったのだ。これには宗我兵衛も息を呑んだ。明村の刀はいまだ死体の顔面に埋まったままだったからだ。
しかし。
「ふん!」
明村は左手で死体の襟を掴むと、左に引っぱった。同時に、右腕一本で刀を右に引き払った。
「うっ!」
「ぎゃっ!?」
さすれば、死体は左方へ投げとばされて、そちらから突進してきた風待にぶち当たり、彼の足を止めた。刀は死体の顔半分をバターみたいに
「ば……ばかな!?」
ものの数瞬で、残るは風待ひとりとなった。
「どうやらおはんら、薩摩のイモを――芋侍を味わったこつがないようじゃな。とくと味わえっ」
いうや、明村は再び、刀を天に向かって突きあげ、腰を低く落とした。
風待はといえば、ようやく死体をどけて立ちあがると――明村に背を向け、隣室へと逃げだした!
「待てっ」
明村がわめきながら追う! 普通、待てといわれて待つ者はいないが、このとき、風待は待った。観念したのか、隣室との敷居をまたいだところで振りかえり、明村を迎えうたんとしたのである。
いや、観念したわけではない! 宗我兵衛は風待の狙いに気付き、声をあげた。
「待ちねぇ、旦那!」
しかし、明村は風待とちがって、待てといわれて待つ者ではなかった。
「きえーっ!」
猿叫をあげながら踏みこむと、風待目がけ、何千、何万回と繰りかえしたであろうことが容易に推察される、あの大上段からの斬りおろしを放った――その切っ先の向かう途中に、鴨居があることも知らずに!
「かかったな――!」
それが風待の最期の台詞となった。
彼は、明村の刀の切っ先が鴨居に食いこんでいる隙にその腹を掻っさばくつもりだった。しかし、あにはからんや、明村の刀は鴨居を豆腐のように通りぬけて、風待の額を割ったのである――一方、風待の刀は明村の脇腹の一寸手前で止まっていた。そして死にかけの虫の足めいて二、三度震えると、主の手を離れてぽとりと落ちた。遅れて、主たる風待の体もどうと斃れた。
宗我兵衛は開いた口が塞がらなかった。なんという剣だろう。はやさと重さだけではない。なんとなれば、夜目を利かせてなお、斬られたはずの鴨居に傷がないように見えるからだ。まさかくっついているわけはないだろうが、打ちこみの鋭さを物語ってあまりある……
宗我兵衛ははっとした。恐れていたのか見惚れていたのか、自分でもよくわからないが、とにかくぼーっとしている場合ではない。やらなければならないことがある……
「ふう――」
一方、明村はあきらかに恍惚とした息を吐き、感無量というように目を閉じた。そのまま、刀の切っ先から夜露のごとく
「なにを――」
「いやぁ、さすがでござんすね、旦那」
明村は宗我兵衛を糾明しようとしたが、唐突な賞賛で出鼻を挫かれた。宗我兵衛は続ける。
「俺も仕事柄、河畑ぁもちろん、中村の旦那ぁいうに及ばず、色んな剣客を見てきやしたがね。いやはや、これほどまでに恐れいったなぁ、旦那の剣がはじめてでさぁ。三人ものお侍ぇを、あっという
「……外で待っちょれと――」
「おっと、お待ちくだせぇ! 今度は待ってくだせぇよ、へへ……お待ちになって、こいつをご覧になっておくんなまし」
「……なんじゃ」
二度にわたり水をさされた明村であったが、もとより剣に自負のある男だ、褒められていい気がしないわけがない。しかも、河畑は当然としても、半次郎まで引きあいに出されたとあってはなおさらである。明村は、仕方のない奴だ、と思いながら宗我兵衛のほうに近づいて、その手元を覗きこんだ。
「この畳をようっくご
宗我兵衛はそういうや、慣れた手つきで畳を剥がした。するとどうだ、あらわになった板床に穴が開いているのみならず、その下に曰くありげな壺が鎮座ましましているではないか。
「……って次第でさぁ」
「こいはなんじゃ?」
「百聞は一見にしかず!」
宗我兵衛は壺を引っぱりだすと、蓋を外した。中には、太政官札や民部省札や金銀銭貨が乱雑に詰めこまれていた。明治四年という混迷の時代の象徴のようであったが、当然、宗我兵衛にそのような感傷はない。
明村が呆気にとられている横で、宗我兵衛は壺を逆さまにして、中の金銭を畳の上にばらまきはじめた。
「こいは……」
「風待の奴らがとんずらすっときのために貯めていた金でがしょう」
明村が他に言葉が見つからないというように、同じ質問を繰り返そうとすると、宗我兵衛が機先を制していう。
「とんずら?」
「そりゃ、広沢を殺ったら逃げずにゃぁおれますめぇ」
明村が子供みたいに復唱すると、宗我兵衛が猫撫で声でいった。彼なりに、嘲りの響きをおさえようと努力した結果だ。明村は宗我兵衛の努力に気がついた風もなく、三体の死体を順に見ながら、
「……そういえば、こやつらも広沢を斬ろうとしておったんじゃったか」
と思いだしたようにいうと、
「分を
と嘲笑ってから、思いだしたように剣に血振りをくれて、納刀した。
「そりゃ、どういう意味でござんす?」
宗我兵衛が畳の上に散乱した金銭を仕分けながら聞くと、不意に明村は真顔になって、
「おはんが広沢を斬っても、甲斐はなかろ?」
といった。
「……へぇ! おっしゃるとおりでござんすねぇ! なるほど、思いもよりやせんでした……いや、さすがだ」
宗我兵衛は目をひん剥くと、手を叩きながら頷いた。もちろん、なにがどう甲斐がないのかなど、わかっていない。ただ、明村を褒める口実がありさえすればよかったのだ。宗我兵衛はさっき、剣術を褒めたときの明村の言動を憶えている。
「そうじゃろう、そうじゃろう。おはんはよくわかっちょるな」
案の定、明村は笑顔になった。だが一転、その笑顔を曇らせると唸った。
「それにひきかえ河畑某は……きゃつのおかげで、要らぬ手間が増えおったわ」
あれだけ楽しそうに人を斬っておいてなにを――と宗我兵衛は思ったが、口に出しはしない。代わりに、全然別のことをいった。
「柳橋にも行く暇もねぇようで……せめてもの役得だ。こいつをお納めくだせぇ、旦那」
そして、ふたつの山に仕分けた金銭のうち、大きい山のほうをしずしずと、この小男らしからぬ奥ゆかしさをもって明村にさしだした。明村はちょっと面食らったが、すぐに首を振っていう。
「……寝言をいうんじゃなか。こいは桐野どんに――」
「まぁまぁ、そういわず……この金ぁ、風待の奴らが広沢を斬ったあと、とんずらするときのために用立てたものだってなぁ、さっきいったとおりでごぜぇますがね。実際のところ、広沢を斬るのはきっと旦那でがしょう? なら、旦那が継ぐのが道理でござんすよ」
「……」
「中村の旦那にゃぁ中村の旦那の仕事があるんでしょうがね、この糞寒い中、危ねぇ橋を渡って人を斬ってんなぁ、誰あろう明村の旦那にほかならねぇ。だってぇのに、褒美のひとつもねぇどころか、広沢のお屋敷じゃぁ寒風吹きすさぶ外で待たされる始末……あんまりじゃねぇですかい? 俺ぁもう、旦那が不憫で不憫で……」
「……」
「だから、ね? こんくれぇ、もらったって罰ぁ当たりませんや。『手間』賃ってやつでござんすよ。今夜は、こいつで一杯ぇやってくだせぇ……糞真面目な中村の旦那のことだ、金だって要る分しかくれやしねぇんでしょう」
「……」
明村は――しばし逡巡したのち、
「――このこと、余人に漏らしてはならんぞ」
と呻くと、金銭の山を鷲掴みにし、誰が見ているわけでもないのに辺りを見回しながら、懐に入れた。
「そりゃぁ、もう」
宗我兵衛はにんまりと笑った。
彼は明村の手並みを目のあたりにすること二度に及ぶに至って、いざというときのため――河畑や半次郎に命を狙われたときのために、明村の弱味を握り、味方にしておくことにしたのだ。明村の剣の腕なら、河畑に抗することもできようと踏んでのことだ。まさか明村が半次郎に剣を向けるとは考えられないが、自分を始末するように命じられたとき、見逃させることくらいはできよう。
当然、そのときには明村を脅さなければならない。そうなったら、明村は口封じのため宗我兵衛を斬ろうとするにちがいないが、「俺が死んだら、横領は半次郎の知るところになる。
宗我兵衛はこんなことを企んで、明村に横領の談合をもちかけたわけだが、呆れはてたことに、それすら次の一手への布石だった。
宗我兵衛は自分の取り分を懐に入れながら、うっそりといったものだ。
「しかし、旦那。広沢の屋敷にゃぁ、きっと、唸るような金があるんでしょうねぇ……さっきふたりで分けた金を合わせてもまるで足りねぇくれぇ、あるんだろうなぁ。旦那が広沢を斬る夜に泥棒に入ぇった奴ぁ、果報者だ!」
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