其の二十一「お前さんは、お得意さまだからね……」

 明治四年一月九日、早朝。

 東京府のどことも知れぬ、夜の名残のように薄暗い路地の奥。

 建ちならぶ裏長屋に起きる気配はない。日が昇ってしばらく経つというのに、人の出入りはまるでない。井戸で水を汲む音も聞こえない。炊煙すいえんの一筋とて昇らない。巨大な棺桶が並べられているかのようだ。

 一昨日降った雪は消えうせて、その残滓たる穢らわしい泥濘も干上がったが、ために足跡という此岸の証は残らなくなって、この一画はますます寒々しくなっている。

 いま、その裏長屋の一室の引き戸を叩く男があった。

 いや、叩くどころの騒ぎはない。殴りつけている。何度も何度も。そのまま壊れても構わないというほどの勢いで。

「どうぞ、どうぞ……」

 果然、苦笑の混じった、気だるい男の声が返った。訪問者は引き戸を荒々しく開くと、反動で戻ってきた引き戸を裏拳で殴りとばしながら、

「河畑!」

 薄暗い長屋に踏み込んだ。川路利良であった。その服装は、饅頭笠に蓑――などではなく、白羽二重しろはぶたえの着物に黒紋付の羽織、すなわち弾正大大巡察の正装である。

 そんな川路を迎えるのは、着流しの河畑深左衛門だ。畳の上であぐらをかき、いつもの煙管で煙草を喫み、いつものように酒を呷っている。その両膝の上には、渡すように刀が置かれている。ただ、ちがうところもあった。鏡台と、黒柿で縁取られた長火鉢はなくなっていた。

 川路は一瞬、河畑の様子に面食らったように立ちつくしたが、すぐにまなじりを決すると、

「河畑! ……おはん、ついにやりおったな!」

 と大喝した。

 しかし、河畑はどこ吹く風で、

「はて、なんのことやら……話が見えませんな」

 とうそぶくばかりだ。

 川路はいよいよ、双眉が繋がらんばかりに眉根を寄せると、右手に持った扇子で上がり框をしたたかに打って、

「とぼけるな! おはんが斬ったんじゃろうが!」

 と叫んだ。さすがに、誰とはいわなかった。

 川路の掌中の扇子が、ゆっくりとひしゃげはじめる。

「……おはんはもう終わりじゃ。ばかもんが、暗殺を生業としながら掟を破り、依頼もなく人を斬りおって……それも、こつもあろうに……何故じゃ? おはんほどの者が、こうなるこつがわからんかったのか!」

 次第に、声に怒りや使命感とはちがう色が宿っていった。

「いやはや……川路さんには敵いませんな」

 河畑はわざとらしいほど深く長い溜め息をつくと、いった。おもてをあげると、川路の目を見て話しはじめる。

「左様、確かにおれは昨夜、人を斬った――」

「そ、そいだ! そいのこつをいっておるんじゃ!」

 前のめりになり両手を上がり框につく川路に、河畑は手のひらを翳した。

「――掟のとおり、さるお人に頼まれてね」

「……は?」

 川路の口から、間の抜けた声があがった。河畑は翳した手のひらを戻すと、頭をかきながら欠伸をした。

「……だから、人ちがいでしょう。おれは暗殺者の掟を破っちゃあ、いないんだから……それにしても、依頼もなく人を斬るとは暗殺者の風上にも置けぬ奴。きっととらまえてくだされ――」

「ば、ばかな!?」

 川路はひきつけを起こしたように大きくのけぞったが、すぐに起きあがり小法師みたいに、また前のめりになって、

「……しょ、証拠はあるのか?」

 追及というよりは、確認のような調子でいった。

「それはお前さんがよくご存知のはず……」

 そう答えると、河畑は茶碗酒を呷った。着物の襟が上下する。その拍子に、懐から四角い物が顔を覗かせた。例の帳面だ。川路は血腥さを覚えながら、数度、視線を帳面と河畑のあいだで往復させた。

 やがて川路は唸るように、

「……口だけならなんとでもいえる」

 といった。当然、帳面の開示をほのめかしているのだが、それが唸り声であったのは、川路自身、難事だとわかっているからだ。

「よござんす」

「左様か。やはり見せられぬか。ならば……なに?」

 川路は河畑から外しかけた視線を戻した。河畑は神妙な面持ちをしているが、例の半月みたいな垂れ目のせいもあって、本気かどうかよくわからない。

「い、いま、なんと申した?」

「よござんす、と……」

「よ、よかか?」

「見せろといったのはお前さんでしょうに」

 そうはいっていない、と抗議したい川路であったが、河畑が煙管を咥え茶碗を置いて、空いた手を懐の帳面に伸ばしたので、そんな文句は息とともに呑みこまれてしまった。

「こいつを余人に見せる日が来るとは、思いもよりませなんだが……さすがに、今度ばかりはね……」

 河畑は懐から帳面を抜くと、自分にしか見えない角度でぱらぱらとめくり――ある頁で止めた。そして、その頁の上下を両手で変な風に掴むと、くるっと翻して川路に翳した。

「……!」

 はたして、そこには「広沢真臣暗殺ヲ頼ム」の九文字と、その上から捺された手形があった。

 が、川路が言葉を失った理由は、そのふたつの事実だけではない。文字も手形も赤褐色で、錆びた鉄に似た、しかし腥い臭いを放っていた……あきらかに血文字だった!

 しかも、余白かに思われた河畑が両手で隠しているところにも、のたうち絡まりあうイトミミズのごとく、びっしりと小さな血文字が書かれているのだ!

「無論、おれの手じゃあない――」

 河畑は片手を開いて、血の手形に合わせてみせると、ぱたんと帳面を閉じて、

「……おわかりいただけましたかな?」

 といった。

 わからないわけがない。河畑ではない何者かが、何者かの血で「広沢真臣暗殺ヲ頼ム」と書き、その上から血の手形を捺したことに疑いはない。そして、その「何者か」が河畑の――いるかどうかは知らないが――縁者ではないことも確かだろう。

 川路は、河畑が誰も信頼していないことを知っている。「文書のうえだけでよいから、暗殺の依頼人になってくれ」――密告の恐れがあるのに、余人にそんな依頼をする男ではない。というか、そんな依頼をされて受ける者もいないだろうが……

 つまりこの手形の主は、真実、広沢を亡き者にしたかった人物――川路は、その人物に心当たりがある。

「……おはんに依頼したのは――」

「いうわけがない……そうでしょう」

 せんめいて、河畑の返事が川路の問いを遮った。

「そして、いわせられるわけもない……」

 実際、そのとおりであった。だからこそ、川路もたびたび河畑に暗殺を依頼してきたのだ。

「自ら探すがよろしかろう……く、く……」

 その笑いの意味するところも、川路には知れた。

 ことここに至って、河畑を辻斬りとして逮捕し、闇に葬る道は断たれた。そんなことをすれば、明治政府は暗殺者の仁義を破り、口封じのために河畑を葬ったとみなされるだろう。そうなれば、ほかの暗殺者たちが黙ってはいるまい。最悪、過去の依頼を暴露される恐れすらある。

 では、河畑を暗殺の実行犯として捕えるべきか?

 だが、依頼人も捕えられなければ片手落ちだ。その依頼人は、もう弾正台の手の届かぬところへ行っているにちがいない――あの世へと。

 それに河畑は、本人も嘯くとおり、当代きっての暗殺者といわざるをえない――皮肉にも今回、暗殺の依頼を取りさげたことであらためて思いしらされた。

 しかもこの男には、政治思想はおろか、良心さえない。だから、誰の暗殺だろうと喜んで引きうける。手段を選ばず、達成する。これほどまでに使いやすい手駒を失ってよいものか?

 川路は、いわゆる現場の判断をくだしかね、心ここにあらずといったていで立ち尽くしていた。

「……まあ、よいではござりませんか」

 すると、聞きずてならない台詞が彼の心をここにあらしめた。

「……なにもよかないわ」

 川路は河畑を睨みつける。が、そんなことで怯む河畑ではない。煙管をふかし、吐いた白煙で丸印を作りながら、

「斬奸状は残したのでしょう? ならば、誰が斬ったかなど『どうでも』よいではござりませんか……」

 と、さもどうでもよさそうにいった。

「……」

「……」

 煙管から立ちのぼる紫煙が、ふたりのあいだを通りすぎた。

「……えっ? ……もしかして、残していない?」

「……」

 川路が黙っていると、河畑は俄然興をそそられたように身を乗りだした。さらに川路のほうへいざりながら、

「斬奸状を残すだけの簡単なお役目を、果たしていない!?」

 と声をはりあげた。

「よせ」

 川路は、それだけいうのがやっとだった。河畑から目をそらし、引き戸のほうを見る。

 しかし、その態度はかえって火に油を注ぐことになった。河畑は猛火のごとく笑いだした!

「わはははは! 餓鬼の遣いか!? 何故だ!? いやみなまでいうな、わからぬでもない! わからぬでもないが――大義が、聞いて呆れる! わはははは!」

「よさんか!」

「いいじゃあないか! 嫌なことなんざ、することはない。我慢なんざ、することはないんだよ……好いたことをやりきるためでもなけりゃあな! おれだって、色々と我慢しているんだぜ?

 惜しむらくは、お前さんは大義だかなんだかを、お前さんが思っているより好いていなかったということか! まったく、誇り高い男だよ……

 いや、それにつけても、真に惜しむべきはあの御仁よな! いったいなんのために死んだのやら! まさに無駄死に……! いや、おれは十分、楽しませてもらったがね……わはははは! わはははふぁっ!?」

「よせっちゅうに!」

 今度は川路が身を乗りだして、手で河畑の口を塞いだ。それでもなお、河畑は痙攣するように体を揺らし、涙まで滲ませながら笑いつづけていた。

 そのさまを眺めながら、川路は物思いに沈んだ。

 無駄死にしたのは広沢だけではない。左右吉も、風待も、名も知らぬ四人の士族も、練造とやらも――そして、同郷の士である時正と明村も。

 彼らはなんのために死んだのか。しかも左右吉と練造は、弾正台大巡察たる川路や、その手勢の邏卒たちが守るべき東京府民である。彼らは何故死ぬことになったのか……ことの発端は……何故、その死は無駄に終わったのか――

 川路の耳孔じこうで、河畑の嘲笑が木霊する。

「――しかし、見方を変えれば、悪いことばかりでもござりませんな」

 やがて、河畑が真面目腐っていった。川路は取りあわない。河畑は首を振ってから、続きを口にした。

「おかげで、これからも政争は続く。暗殺も増えるというものにござろうし……」

「……どうした?」

 川路が沈思黙考をやめて促したのは、河畑が途中で、くすくすと忍び笑いをしはじめたからだ。それに不吉な予感を禁じえなかったからだ。はたして、予感は当たった。

「斬奸状も残さなかったくらいでござる。いわんや、落とし物などするはずものうござろう」

「……」

「あの夜。誰が。あそこに。いたかなど――誰にも、わかりますまいて……手がかりがないんだから……」

「……」

 川路は低い天井を目一杯仰いだ。そのまま深く息を吸い、長く吐いた。肩越しに引き戸のほうに一瞥をくれてから、河畑に視線を戻す。河畑はいつもと同じように、にやにやしている。

 やがて、川路は低い声でいった。

「……ないごて、ここまでする。いや、した?」

「油揚げが――」

「油揚げはもうよか!」

 諧謔は激昂で遮られた。河畑はにやついたまま、いかにも驚いたというふうにのけぞってみせたが、だんだん、その表情筋が張りつめてきた。決して逸らされることのない川路の目に、その不動明王像を彷彿とさせる顔容に、なんらかの魔力を見いだしたかのように。

「お前さんは、お得意さまだからね……」

 暗殺者は居住まいをただすと、弾正台大巡察の目を真っ向から見返して呟いた。そして、いった。

「はじめはただ、おもしろかったんだよ。生きざまの虚実を詠む最期の一句――絶句がね。もちろん、いまだっておもしろい。昨晩もおもしろかった……

 ただ、ある日、ふと思ったのさ。絶句を蒐めているうちに……ことに、お前さんがたのような、お国のために生き、後世になにかを残そうって奴らの絶句を蒐めているうちに思ったのさ。

 絶句蒐めのため――道楽のためだけに生き、死して残るものとてないこのおれは、いったいどんな死にざまを晒すんだろう? いったいどんな絶句を詠むんだろう? ……とね。

 そしてひとたび、そう思ったなら――とことんやるに決まっているだろう。窮まった生きざまこそが、窮まった絶句を詠ませるんだから……わかるかい? 歌舞伎のもどりだって、それまでの悪行が窮まっているからこそ、泣けるんだ……わかるかい? わかったなら……」

 河畑は微笑み、両の手のひらを晒してみせた。

「もはや、ご案じ召されることはない……そうだろう? おれは妖でも、物の怪でもないんだから……」

 川路は鼻を鳴らした。不動明王の憑依は解けた。その反動であるかのように、いま、川路の顔からは一切の表情が消えうせていた。

「きゃつらは人のふりをするものじゃが……なるほど確かに、おはんは、ただの人じゃな……」

 その声からは一切の情念が抜けおちていた。

「おわかりいただけましたか」

 河畑はしたり顔でいった。

 川路は踵を返し、引き戸をあけ、敷居をまたぎ、

「今後とも、ご贔屓のほどを……ただ、もう二度と、依頼を取りさげてはくださいますなよ。まったく、骨を折ったものでござる……おれも、お前さんも……く、く……」

 河畑の笑んだ声を背に受けながら、振り返ることなく、ただ一言、

「……また、参る」

 とだけいうと、後ろ手に引き戸を閉めた。

 川路は隣を見た。朝の光と軒の影のはざまに、ひとりの男が佇んでいる。

 川路は男の腰の大小を見た。

 刀の鯉口は切られている。柄には、男の右手が添えられている。

 ……脇差のこしらえが、昨日までとちがう。

「……参りもそ」

 川路は抑揚のない声で促した。

 男は微動だにしない。

 ふたたび、川路が口をひらいた。

「こたびの、依頼の取りさげ。西郷先生のご指示ではごわせんな? おはんの独断でごわしょう」

 問うというよりは、確かめるような口ぶりであった。

 男は黙っている。

「……川路めは、学ばせてもらいもした」

 川路は淡々とつづけた。

「大義の前には、私情を捨てるべきでごわす。河畑にはまだ、使いみちがありもす。きゃつとの因縁は忘れて――」

「わかった」

 湧水ゆうすいのように流れていた言葉は、岩みたいに硬い一言で止まった。その一言は、川路を驚かせ、黙らせるのに十分な威力をはらんでいた。

 川路はさきほどまでの仏頂面はどこへやら、気の抜けた顔をして、裏長屋じゅうに響きわたりそうな吐息を漏らすと、

「……左様でごわすか。……では、参りもそ」

 といって、男を先導するため、その横を通りすぎようと歩きだした。

 しかるに、川路は思ったよりはやく男とすれちがった。

 男もまた、川路のほうに歩きだしていたからだ。

「おはんは大義の前に、私情を捨てるがよか」

 川路が慌てて足を止め、振りかえったとき、男は長屋の引き戸のまえでそう吐き捨てていた。

「おいは私情の前に、大義を捨てる!」

 つぎの瞬間、目眩めくるめく一条の閃光が走ったとみるや、男の姿は川路の視界から消えていた。あとには、まっぷたつになった引き戸が倒れていた。男――中村半次郎が「抜き」で引き戸を斬り捨てざま、長屋に飛び込んだのである!

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